詩百篇第8巻12番


原文

Apparoistra aupres1 de Buffalorre2
L'hault3 & procere entré4 dedans Milan
L'abbé5 de Foix auec6 ceux de saint7 Morre8
Feront la forbe9 abillez10 en vilan11.

異文

(1) aupres : au pres 1568X 1590Ro
(2) Buffalorre : Buffalarre 1627Ma 1644Hu 1650Ri 1653AB 1665Ba 1720To 1840, Buffalatre 1627Di, Baffalorre 1650Mo
(3) L'hault : Le haut 1590Ro, L'hout 1665Ba 1720To
(4) entré : entre 1568X
(5) L'abbé : L'abbe 1568X, L'Abbé 1591BR 1597Br 1603Mo 1605sn 1606PR 1607PR 1610Po 1627Ma 1627Di 1644Hu 1649Xa 1650Mo 1650Ri 1653AB 1665Ba 1672Ga 1716PR 1772Ri
(6) auec : & auec 1653AB 1665Ba 1720To
(7) saint : Sainct 1603Mo 1650Mo 1672Ga 1772Ri
(8) Morre : morre 1568X 1590Ro, Morce 1603Mo 1650Mo, More 1611B 1981EB, Morte 1627Di 1720To, Maure 1672Ga
(9) forbe : forb. 1653AB 1665Ba, fourbe 1672Ga
(10) abillez 1568X 1568A 1568B 1590Ro 1772Ri : habillez T.A.Eds.
(11) vilan : vilain 1605sn 1628dR 1649Xa 1649Ca 1650Le 1653AB 1665Ba 1668 1720To 1840

校訂

 3行目 saint は固有名詞の一部であろうから、Saint となっているべき。

 4行目 forbe は fourbe となっているべきだが、当時は o と ou は交換可能であったので、誤記というわけではないだろう。
 abillez は habillez (habillés) と同じだが、これも綴りの揺れの範囲の可能性がある。

日本語訳

ブッファローラの近くに現われるだろう、
ミラノ入りした高貴にして長身の男が。
フォワの大修道院長はサン・モールの人々とともに、
農夫の身なりで、ぺてんにかけるだろう。

訳について

 3行目 「サン・モール」は後で紹介するロジェ・プレヴォの読みに従うならば、「サン・モリッツ」とすべきだが、ひとまずは直訳した。

 既存の訳についてコメントしておく。
 大乗訳について。
 1行目 「バッファロー近くにあらわれ」*1は例によって固有名詞の読み方の誤りだが、イタリアの都市ブッファローラをバッファローと混同するのはどうなのだろうか。
 2行目 「高く高く ミランにやってきて」 は前半に定冠詞が付いていることから言っても、副詞的に理解することが不適切だろう。
 4行目 「要人のような衣を着て」 は不適切。vilain が 「要人」 となる根拠が不明。ヘンリー・C・ロバーツの英訳でも villain が当てられているので、どういう判断なのか掴みかねる。

 山根訳について。
 1・2行目 「彼はブッファローラの近くに出現する/高貴の生れで背の高い者 ミラノに入る」*2は、直訳としては誤りではないが、普通は2行目に描写されている人物が1行目の主語になっていると判断される。
 ピーター・ラメジャラージャン=ポール・クレベールリチャード・シーバースらはいずれもそう読んでいる。
 3行目 「フォワの司祭 聖マルコの民を伴い」は Saint Morre を聖マルコと解するのが疑問。
 元になったエリカ・チータムの原書には、訳文にその語はないものの、確かに解説文中になら St. Mark とある。しかし、「聖マルコの民はベネディクト会士を意味する。なぜならばその会派はフランスでは聖マウルスによって設立されたからだ」 という、その解説の文脈を見る限りでは単なる誤植ではないかと思われる。

信奉者側の見解

 ジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌのような例外を除けば、全訳本の類でしか解釈されてこなかった詩篇である。

 テオフィル・ド・ガランシエール(1672年)は、「Bufaloreは意味不明な単語である。フォワはフランスの地方で、サン・モールはそこにある小さな町だ」とだけ述べていた*3

 ヘンリー・C・ロバーツ(1947年)は 「フォワとサン・モールはフランスの町である。この詩はそれらのコミュニティの聖職者たちの論争に関連する」*4とだけ述べていた。

 エリカ・チータムは、前述のように、いくつかの単語について解説したものの、全体については説明していなかった。

 セルジュ・ユタン(1978年)はナポレオンについてと解釈し、ボードワン・ボンセルジャンの補訂でもそのままだった*5

 ジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌ(1980年)は、イタリア統一戦争に参戦していたナポレオン3世が、1859年にヴィラフランカ条約によってイタリアを裏切り、オーストリアと単独講和に踏み切ったことなどと解釈した*6

同時代的な視点

 この詩については、ロジェ・プレヴォが影響力のある解釈を展開した*7
 マリニャーノの戦い (1515年。イタリア戦争に含まれる一戦で、大勝したフランスがミラノを手に入れた) に先立ち、フランス王フランソワ1世はスイス傭兵の徴募のために、オデ・ド・グライイ・ド・フォワ=ロートレックをブッファローラに派遣した。
 グラウビュンデン州出身のスイス兵たち(スイス傭兵は州ごとに派遣された)は、自分たちの俸給を積んだ馬車を攻撃し、略奪行為に及んだ。
 プレヴォは、Saint Morre をグラウビュンデン州の都市サン=モリッツ (Saint-Moritz) と読み替えている。また、グラウビュンデン州出身の傭兵を Soldats paysans (農民の兵士) と表現している。これが出自を言ったものか、扮装を言ったものかは文脈からはよく分からない。
 この解釈の場合、2行目に描かれているのはフランソワ1世ということになる。

 ピーター・ラメジャラーはこれを支持している。

 ジャン=ポール・クレベールも評価しているが、大修道院長などがオデ・ド・フォワに適合しないことも指摘している。
 プレヴォは一応、オデの兄が元・使徒座書記官などであったことには言及しているが、確かに苦しいことは否めないだろう。
 もっとも、オデ・ド・フォワの名前と、大修道院とともに発展してきたフォワの町、およびサン=モリッツとサン・モール (聖マウルス) をそれぞれ掛けた地口が土台になっていると考えれば、大修道院云々には深い意味がないのかもしれない。



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詩百篇第8巻
最終更新:2020年05月16日 01:04

*1 大乗 [1975] p.233。以下、この詩の引用は同じページから。

*2 山根 [1988] p.256。以下、この詩の引用は同じページから。

*3 Garencieres [1672]

*4 Roberts (1947)[1949] p.246

*5 Hutin [1978], Hutin (2002)[2003]

*6 Fontbrune (1980)[1982], Fontbrune [2006] p.272

*7 Prévost [1999] p.80