聖フランソワの闇の掟

 聖フランソワの闇の掟は、五島勉の『ノストラダムスの大予言スペシャル・日本編』に登場する設定。ノストラダムス予言の「プロの研究者」たちに圧力をかけ続けていた掟だというが、後述するように五島自身の過去の言動と矛盾するため、単なる創作と考えられる。



五島自身による説明の概要

 五島によれば、ノストラダムスは当初「聖フランソワ教会」に埋葬されることを希望し、実際にその通りに埋葬された。そして、没後77年目の命日に、墓の前で黒ずくめの集団が怪しげな儀式を行い、解釈してはいけない詩について呪いをかけたのだという。呪いそのものはハッタリだったが、欧米の研究者たちがそれらの詩の解釈を敬遠した結果、実際に解釈されないタブーの詩が生まれてしまったのだという*1

 そして、五島もそれを少しは信じ、恐れていたので、完結編と銘打っていた『ノストラダムスの大予言V』まであえて避けていた詩があったのだが、日本人の未来のために、新たに『大予言・日本編』を執筆し、タブーに踏み込むことにしたのだという。

検証

 五島の設定が事実だとすれば、タブーも恐れずに真摯に未来を探究する格好いい研究者ということになるのだろうが、「聖フランソワの闇の掟」などという珍妙な掟は、もちろん存在しない。

 五島は、ジャン=シャルル・ド・フォンブリュヌもそれを知っていたからわざと避けている詩があるとして、フォンブリュヌ著 Nostradamus, Historien et Prophète(1980年)の索引(予言詩一覧)ページのコピーを紹介して、こう述べていた。
  • 表の中の数字のページが、それぞれの詩を解説。だが、空欄のままの"空白の詩"を、フォンブリューヌはまったく触れも解説もしていない。*2

 確かにフォンブリュヌは、その本ではそれらの詩の解説をしていない。しかし、志水一夫が指摘していたように、フォンブリュヌはその続編(第2巻1982年)で前巻で触れていなかった多くの詩の解釈を展開しているのである*3


【画像】フォンブリュヌの『歴史家にして予言者ノストラダムス』第2巻

 また、五島は、自分が過去にその掟を恐れていた例として、第4巻29番の詩の扱い方を挙げている。
  • あなたがもし『大予言II』を読んでくださっていれば、この詩も記憶の隅に、ほんの少し残っているかもしれない。といっても、これが禁じられた詩であるのはわかっていたので、私は『II』の巻末の注に、右の訳を小さく載せただけだった。*4

 『ノストラダムスの大予言II』に小さく、というのは嘘ではない。しかし、次の『 III 』で6ページにわたって扱っているのを忘れてしまったようである。その書き出しはこんな立派なものだったのに。
  • 『諸世紀』第四巻の二九にその詩がある。『大予言II』の巻末の解説部分でも小さく採り上げ、不完全な解釈を述べておいたが、ここで、より正確に示したい。*5

 さらにまずいのは、この詩の解釈が『大予言III』のしめくくりだという事である。本気で聖フランソワの闇の掟を恐れていたというのなら、なぜこんなわかりやすい場所で詳しく述べていたことを忘れていたのだろうか。

 ちなみに、五島はさらにこんなことも述べている。
  • いまでも、この流れを受け継ぐ何らかの闇の組織が、人々に大予言を正しく理解させないように暗躍を続けているはずだ。/私が解読を重ね、正しい未来に近づくにつれ、いろんな攻撃や妨害が起こり、わざとデタラメな解釈をした本もいろいろ出まわるようになったが、これらも右の動きと、潜在意識的にはどこかでつながっているんじゃないかと思う。*6

 トンデモノストラダムス本が多く出版されているのもこの闇の掟のせいではないかというのである。
 しかし、五島は川尻徹『ノストラダムス・メシアの法』などに推薦文を寄せているので、こういうことを言える資格があるのか、はなはだ疑問である。

補足

 この舞台となった「聖フランソワ教会」について触れておこう。五島はこう述べている。
  • だが、それ〔引用者注:フランス革命で破壊されたとき〕までは、そこはカトリックの古い美しい教会、そして付属の小さな修道院。
  • 中世キリスト教の聖者・聖フランソワの名をいただいた教会で、一時は信者が中に入りきれないほどの人気があった。型どおりのお祈りのほか、悪魔祓いやペスト払いのお呪(まじな)いもよく利く、という評判だったからだ。
  • が、はじめは素朴だったこういう信仰の場が、中世ヨーロッパの退廃や迷信につれて、だんだん偏った気味悪いものになっていく。
  • ふつうのお祈りはいつか忘れられ、得体の知れない魔法使いや錬金術師が出入りし始め、中世末期、そこは南フランスの魔術と秘教の一大中心地に。*7

 さて、ノストラダムスが葬られたのは本当に「聖フランソワ教会」だったのだろうか。
 これについては、遺言書の中でノストラダムス自身が「サロンの聖フランソワ修道院の付属聖堂」(l'Eglise du Couvent de St Francoys dudt Sallon)と指定しているので、間違いとはいいきれない。
 ただし、五島は教会の名前が聖フランソワ教会だったとしているが、これは不正確である。ここでいう「聖フランソワ」は一体誰かというと、アッシジの聖フランチェスコのことなのである。そう、つまりこの場合の「聖フランソワ」は教会固有の名前ではなく、修道院の会派(フランシスコ会)を指しているに過ぎない。
 実際、セザール・ド・ノートルダムの年代記には「小さき兄弟会〔フランシスコ会の別名〕の古い寺院に」(au vieil et ancien temple des Freres Mineurs)とある*8
 また、フランス語文献には「コルドリエ派の教会」(l'Eglise des Cordeliers)としているものもある(コルドリエはフランシスコ会士を指す通称)。
 つまり正確さを重視するなら、ノストラダムスが最初に葬られた墓のあった教会は、サロン=ド=プロヴァンスのフランシスコ会修道院付属聖堂と呼ぶべきであろう。
 ちなみにこの修道院は、ノストラダムスの三男のアンドレが修道士となったときに入ったとされている*9
 また、1688年には巡礼者がこの修道院付属聖堂の普通のミサに参加し、手記を残している*10
 こうしたことから、ノストラダムスの死後もごく普通の修道院として機能していたと考えられる。魔術の中心地とやらだったとは到底考えられないし、現存していない修道院だからといって、悪し様に言いたい放題にしてよいはずはないだろう。


※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。
最終更新:2019年07月06日 23:33

*1 『大予言・日本編』pp.100-110

*2 『大予言・日本編』 p.109

*3 志水 (1991)[1997] p.150

*4 『大予言・日本編』pp.181-182

*5 『大予言III』p.219

*6 『大予言・日本編』p.220

*7 『大予言・日本編』pp.100-101

*8 César [1614] p.803.

*9 Leroy [1993] p.128

*10 Leroy [1993] p.108