TIPSの最終レベルの項目にこうありました。

・最終レベル
それが行われたとき――
仮初めの世界――『Imaginary』は失われ……
世界の掛橋――『Symbolic』を経て……
真理の世界――『Real』は姿を現す。
『第3の眼』の開眼とともに――――。


仮初めの世界とは、ゲームを通して見るあの世界
掛橋とは考察
真理の世界とは、infinity loopあってこそ成立するという真実、あの世界の真理

『第3の眼』の開眼とは、
オレ悟のエピローグの死と、
それによって生まれるloopの存在を、
ゆに、沙也香に続く、『3つ目』のloopの存在を知ること
3つの輪の真相、3つのinfinity loopの真相を知ること

 

真理の世界を知ったことによって、
これまで見えなかった本当の真相も顔を出す――

その本当の真相への扉を開くために、
サトル編のエピローグの先と、
ココロ編のラストシーンについて知る必要があります。

 


infinity loopを成立させながらも、
こころ、黛、黄泉木は救い出された。

それは、世界を騙し掠め取った。と言ってもよいでしょう。

スリが相手に気付かれないように財布を抜き取るように、
世界から、変えてはいけない歴史の中から、彼らの『生』を抜き取った。

ゆにと俺悟は、身代わりになる死体を用意し、
歴史を、過去を、世界を騙した。
だから、歴史の変わるバッドエンドでは新聞の内容が変わっても、
ココロ編のラストでは、変わることがなかった。
こころが助かっているにも関わらず、
新聞が死亡記事のままだったのは、
ゆにと俺悟が歴史をなぞることに、世界を騙すことに成功した証。

では、そこから伺い知れる彼らの未来はどうなるのか。

・・あまり明るいものではないと思われます。

なぜなら、命を救われた代償、世界を騙した対価を求められるから。

彼らが救われるために別の誰かの死体が用意され、
彼らは『死んだことになったまま』になっている。

それはつまり、
『彼らが表立って社会に戻れない』
ということ。

2012年の人間だったオレ悟やカーリーが、
彼らの死を認識していたということは、
最低でも2011年の間は、生きていることを世界に知られてはいけない。
知られればinfinity loopは止まり、歴史が変わってしまうのです。

助けられたこころが2011年に戻り大学生活を再開する。
黛が2011年に戻り弁護士業を再開する。
などということは出来ない。やってはいけない。
それは俺悟とゆにの苦労を無駄にすること。

『彼らは2011年には帰れない』

このことから、ココロ編のラストシーンの『7月20日』とは
『2012年の7月20日のこと』だと考えられます。
彼らは2012年の世界に連れ出され、そのまま半年を生きたのでしょう。

では、2012年ならこころ達はその生存を表に出せるでしょうか?

infinity loopは止まらないかもしれませんが、
今度は現実的な面で難しいと思われます。

なぜなら、身代わりの死体が存在した言い訳が出来ないから。
事故から1年以上もの間、どこで何をしていたのかも説明出来ない。

ゆえに、彼らが社会に出ることができたとしても、
名を変え、別人になりすますことになる。
あるいは、社会から隔絶した山奥や島、海外・・、
いずれにせよ墜落事故が起こるまでの生活を全て捨て、
逃亡犯のような暮らしを送らざるを得ないでしょう。


これが、命を救われた代償、世界を騙した対価です。


だから、こころはあのラストでこう言ったのです。

『私は、確かに『籠女』だったのだ……』

籠女とは、籠の中に閉じ込められた鳥のように、不自由な自分のこと。

生存を明かすことが出来ず、隠れるように生きなければならない
束縛された自身の状況のことを言ったのでしょう。


・・せっかく救われていたのに、暗い未来しかないように言ってしまいましたが、
中澤氏はこういっています。

これは登場人物は救われるけど、見ている人間は救われない物語なんです。

救われた彼らには、それぞれ支えてくれる人がいる。
こころにはゆにが、黛と沙也香には俺悟が、黄泉木にはカーリーと双子がいる。

不自由な生活を強いられることは間違いないですが、
それでも彼らはお互いを支え合い、幸せに生きていくことになるのだと思います。

 

・・これがこころ達に待ち受ける未来です。

 

この未来とエンディングリストの真相こそが
真理の世界の先にある本当の真相の扉を開く鍵――

 

私は、07.エピローグで、
オレ悟が死んでいたからエンディングリストにエピローグがある。
つまり、
ココロ編のエピローグがリストにないのはこころが死んでいないから。
と結論付けました。

それも『誤解』でした。

あのエンディングリストは通常のゲームの範疇から
かけ離れたものだったのです。

あのエンディングリストは『真理の世界のリスト』

バッドエンドは、主人公の死ではなく、infinity loopを止めてしまうこと、
グッドエンドは、主人公の生ではなく、infinity loopが止まらなかったこと、
エピローグは、infinity loopの成立点。

だから、あのエンディングリストは『順番が奇妙』だったのです。

1.ココロ編グッドエンド
19.サトル編グッドエンド
20.サトル編エピローグ

通常のゲームなら、エンディングリストの順番は、
プレイヤーが経験するであろう順のはずです。
なのに、このゲームのリストは、
グッドエンドがバッドエンドより先にある。
それはなぜか

それは、真理の世界にとって、
グッドエンドだけが唯一の正道であり当たり前のことだから。

無限に繰り返すことによって成り立つ世界にとって、繰り返すことは当たり前。

我々プレイヤーにとってバッドエンドは『よくあること』であり、
『乗り越えるもの』ですが、
繰り返す世界にとってバッドエンドは『あってはならないこと』であり、
『世界を壊す異常』なのです。

だからこのゲームには、
『特定のバッドエンドを経験しないと、グッドエンドへの道が開かない。』
というような、条件や制限が無かった。

プレイヤーがバッドエンドを乗り越え、グッドエンドを掴み取る物語ではなく、
『グッドエンドを繰り返す世界の物語』だったから。

我々プレイヤーがいなくても、あの世界はグッドエンドを繰り返していたし、
我々がいなくても、ゆにと俺悟はこころ達を救い出していた。

 

真理の世界にプレイヤーは不要な存在なのです。

 

プレイヤーはinfinity loopという歯車の間に突然現れた小石のようなもの。
選択肢という形で登場人物の思考に影響を及ぼし、世界を乱し、
本来の歯車の動きを阻害する、別次元から来た異物。
『超越的な邪魔者』だったのです。

幸い、その邪魔者には時間を遡ってやり直す超越的な力があった。
だから真理の世界が壊れることはなかった。
しかし、プレイヤーがあの世界に迷い込まなければ、
あの大量のバッドエンドはなかったのではないでしょうか?

バッドエンドは元々存在していたのではなく、
プレイヤーがあの世界を乱したことによって生み出されてしまった。

だからエンディングリストはあのような順番だったのです。

 

このように、真理の世界とはプレイヤーの常識が全く通用しない世界。

エピローグのオレ悟の死まで謎を解き、
3つのinfinity loopに気づいた上で、
先入観や常識を捨てないと
Remember11というゲームの謎は、その真の姿を見せてくれない。
そんな構造になっていたように思います。


隠し部屋にいたグラサン榎本がオレ悟に言った言葉は、
この『真理の世界の真実』の暗示だったのでしょう。

榎本「本当に重要なことは、目に映る事象ではない」
  「真実は、ふたつの目なんかでは『見る』ことはできない」
  「真理は……」
榎本は人差し指を立てると、そっと額に当てた。
  「真理は、ここで『視る』のだ」

榎本「真理は頭で考えても見えてこない」
  「常識という枠に囚われてはいけない」
  「感じたことを、素直に受け入れるんだ」

 

では、その真理の世界のエンディングリストに、
ココロ編のラストシーンがないのはなぜか?


それは
『infinity loopの外にある結末』
だったから


2012年7月のあのラストだけが、
沙也香、ゆに、悟の3つのloopの外にあった。
真理の世界の外の話だったから、
こころのラストシーンだけがリストになかったのです。


ココロ編のラストシーンで、彼女は言いました。
『私は、確かに『籠女』だったのだ……』

自由に生きることのできない、籠の中に閉じ込められた女

彼女の視点から見ればその通りでしょう。

だが、真理の世界から見れば、そうではない。

彼女は、infinity loopという籠から抜け出した鳥。

かごめ歌の籠の中の鳥は、籠から飛び立っていた。

エンディングリストにないあのラストだけが、
3つの輪で出来た籠の外、infinity loopの外にあったのです。

 

 


では――

 

 


真理の世界のリストに載らない終わりを、

冬川こころの、あのラストシーンを、

ここまで謎を解いてきた『プレイヤーの視点から見た場合』なんと名付けるか?

 

 

 

infinity loopを止めないことがグッドエンドなら、

止めずに命まで救えたが、その代償に悩まされる、

『ハッピーではない終わり』をなんと呼ぶか?

 

 

 

真の世界の理を守りながら、俺悟とゆにの願いまで叶えた、

『これ以上を望めない結末』を、なんと呼ぶのか?

 

 

 

 

 

 

トゥルーエンド

 

 

 

 


こう呼ぶ以外に、ない。

 

 

前編のエピローグに過ぎないと思えた、あのラストはエピローグではなかった。

あの不穏な雰囲気だったココロ編のラストシーンこそが、
この物語の最上の結末、トゥルーエンド。

無限に繰り返す世界には、infinity loopの中には、終わりはなかった。

infinity loopの外にある、彼女のラストシーンが終わりだったのです。

 

真理の世界にプレイヤーは必要なかった。

だが、Remember11というゲームにとって、プレイヤーは不可欠。

プレイヤーが真の終わりを見つけないと、このゲームに終わりは訪れない。

 

このゲームはプレイヤーが世界を救うゲームでも、
終わりのない不完全なゲームでもなく、
終わりのない世界の外にある、
終わりを見つけ出すゲームだったのです。

最終更新:2023年06月27日 07:26