このゲームは、トゥルーエンドを見出すゲームだった。

そのことに間違いはありません。

しかし、この非常識なゲームはそれすらも通過点。
トゥルーエンドを見出すことすら、『真の終わりではない』のです。


トゥルーエンドを見つけた先にある
前代未聞、唯一無二の
『仕掛け』
の存在に気づくこと、
気づいて初めて見えるもの。
それこそが、最後の真相

Remember11というゲームの『真の姿』

 

では、その『仕掛け』とはなにか?

 

PS2版の初回特典で、中澤氏はこうコメントしていました。


本作には、中澤がこれまで培ってきた様々なものを注ぎ込んだつもりだ。
7年間というゲーム製作過程で得たもの、27年間というまだ短い人生の中で知ったものを…。
まさに中澤にとって、ひとつのターニングポイントとなる作品だと言えよう。

皆さんは、この作品のすべてのクリアリストを埋めたとき、何を感じるだろう?
何も感じないかもしれない。あるいは何か感じるかもしれない。
願わくば、何か感じ取ってくれたとしたら、
それは中澤が訴えたかったものであるように、 と、そう祈ってやまない。
もし、ちゃんとそれらがイコールで結ばれたとしたら、中澤は嬉しくて嬉しくて堪らないのだから。

中澤が訴えたかったテーマ。 それは…。

This story is not end yet.――it is infinity loop!

 

>すべてのクリアリストを埋めたとき、何を感じるだろう?
>それは中澤が訴えたかったものであるように、 と、そう祈ってやまない。

私はこの言葉を、サトル編のグッドエンドとエピローグが
かごめ歌の『夜明けの晩』の関係性になっていることだと思っていました。

そうではなかった。

オレ悟のエピローグが、真理の世界にとって通過点だったように、
『夜明けの晩』も『かごめ歌の通過点』だった。

では、リストにない、トゥルーエンドに気づくこと?
確かにそれは『本当の意味ですべてのクリアリストを埋めたとき』です。
一度は、これだ!と思いましたが・・、これも、そうではなかった。

 

仕掛けとは、

中澤氏が訴えたかったであろうこととは、

かごめ歌の終着点とは、

このゲームの最後の真相とは、

その2つの答えの延長線上にある。

 

 

 

 

それは

『エンディングリストにない、こころのラストシーンの名を呼ぶ』

こと――

 

 

 


その

『行為そのものの意味』

に、気づくこと――

 

 

 

 


・・・お気づきでしょうか?

 

 

 

 

 

『見えないモノの名前を推測し、言い当てる』

 

 

 

 

この行為が

 

 

 


『かごめ歌の遊びと同じ』

 

 

 


だということに

 

 


サトル編のグッドエンドとエピローグが、
かごめ歌の『夜明けの晩』なら、

ココロ編のラストは、かごめ歌の
『うしろのしょーめん、だぁーれ?』

だから、冬川こころのラストシーン、トゥルーエンドも、
同じ言葉で締めくくられていた。

 

 


「うしろのしょーめん、だぁーれ?」

と、問われ、その名前を答える。

名前を答えて、初めて、終わる。

それが、かごめ歌。

それが、このゲーム。


だから、

 

だからこのゲームは終わらなかった――

 

――誰にも、その名前を呼んでもらえなかったから

 

 


このゲームの本当に重要なことは、いつも見えないところにあった。

それはきっと、かごめ歌が『目を塞いで行われる遊び』だったから

 

 

中澤氏の訴えたかったテーマとは、きっと、


『Remember11はかごめ歌のようなゲーム』ということ


それが、このゲームを読み解いた果ての最後の真相、

Remember11というゲームの真の姿

 

 

 

Remember11 -the age of infinity- は、

未完成でも、終わりのないゲームでもなかった。

 

そうだとわからない形で、トゥルーエンドまで用意されていたゲーム。

 

あることすら気づかれないであろう、そのトゥルーエンドを言い当てるゲーム。

 

見えないものを探り当てる、かごめ歌のようなゲーム。

 

それを知ることで、本当の意味で終わるゲームだったのです。

最終更新:2023年09月15日 13:01