「全ては、誤解だったのだ。」

この言葉の真の意味がご理解いただけたでしょうか?

全ては悟の誤解であり、それが誤解だと気づかず見ていたプレイヤーの誤解。

あのエピローグは、あの終わりは、
資金が無い、時間が無い等の
製作上のトラブルで発生した投げっぱなしエンドではなく、
なるべくして起こった終わり。

それをゲームを通して見ていたがために起こった誤解。

 

ゲームとして考えるなら、
あの未完成のような終わりは、
「何だアレは?どういうことだ?」
とプレイヤーを混乱させ、真実を探させるため、考察させるためだった。

『プレイヤーに謎を解かせるため』であり、
その果てにある
『トゥルーエンドの名を呼ばせるため』
そして
『かごめかごめをさせるため』だった。


きれいな終わり方をしては、誰もトゥルーエンドを見つけられない。


解答編(第3章)があっては、
プレイヤーが見えないモノの名を推測し言い当てる、という
かごめ歌の遊びにならない。


あの終わりでないと、
ココロ編とサトル編という2章構成でないと、
かごめ歌のようなゲームにはならない。


だからこのゲームは、あのような
全ての人間を困惑させる終わり方だったのです。


終わり方、ゲームのルール、エンディングリスト、
プレイヤーの常識や思い込みまで利用した全く新しいゲーム。

難解で斬新で非常識を極めたかごめ歌のようなゲーム、
それがRemember11。

未完成だと叩かれようと、どれだけ批判されようと、
ゲームを終わらせるのは、トゥルーエンドを見つけるのはプレイヤーだと、
真相を黙して語らず、プレイヤーが答えに辿り着けないのなら、
未完成のそしりを背負ったまま墓まで行く覚悟であっただろうゲーム
それがRemember11。

その真の姿も、製作者の思いも、願いも覚悟も、
謎が解けなければ全く伝わらない、常軌を逸したゲーム
それがRemember11。

 

それゆえに、誰も彼もが誤解させられてしまったゲームだったのです。

最終更新:2023年06月03日 09:46