馬謖

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馬謖 - (2020/01/30 (木) 20:54:22) の編集履歴(バックアップ)


登録日:2010/06/10 Thu 00:09:16
更新日:2024/04/26 Fri 00:12:06
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馬謖(ばしょく)

 とは、後漢末期から三国時代にかけての人物。字は「幼常」。
荊州の名門豪族である馬家の出身であり、字に「常」が付く「馬氏五常」の一人。
なお、この五人のうちの四人目(馬謖のすぐ上)の兄が「白眉」の語源である馬良である。
馬良と馬謖以外は名前すら分からないが


諸葛亮の第一回北伐の折り、兵法に固執して山頂に布陣し、北伐失敗の直接の引き金となったことから一部では、
「登山家」「Mr.生兵法」「三国版趙括」などと呼ばれているとかいないとか。


【出仕】

赤壁の戦い後のどさくさに紛れて、劉備は一度は曹操の勢力下にあった荊州南部を平定。
劉備一味はこの時期までは土地なしの傭兵部隊に過ぎず、内政や外交ができる人材の確保は急務であった。
また、荊州をまともに統治するにあたっては、実際に人民を束ね、徴税や徴兵の権限を握っている地方豪族たち*1を味方につける必要があった。

かつて荊州を統治していた劉表は、最初赴任した際に豪族たちの反抗にあって荊州に入ることすらできず
その後蔡瑁・蒯越らが「豪族間の抗争に勝つために」劉表を迎え入れたために、やっと荊州を収めることができた――といえば、この時期の豪族の強さがわかるだろうか。

その蔡瑁と蒯越はすでに魏国で出世街道を進んでいたが、劉備たちとしては荊州統治にあたって豪族の支援は欠かせない。
諸葛亮や龐統といった一部は味方に加えていたが、まだ足りないのだ。
そこで劉備が目を付けたのが、荊州の大豪族だった馬氏である。
それに諸葛亮はもともと馬氏の支援を受けていたらしく*2、馬良とは義兄弟の契りも結んでいたらしい。

劉備は徐州の陳登、荊州の蔡瑁など、これまでは大豪族にそっぽを向かれ続けていたが、今回はついに馬一族という大豪族との契約に成功。
馬良・馬謖を傘下に加えることに成功し、特に馬良は劉備にも気に入られ、重用されることになっている。


【劉備時代】

劉備が益州へと兵を進めると、馬謖もこれに随行。
無事に益州を平定すると、政府の首脳となった諸葛亮は馬謖の才気に大いに期待し、各地の県令や太守などを歴任させた。
馬謖自身もやはり自信と能力はあったようで、任地においてはよく統治することができていた


しかし馬謖が越雋郡の太守を任されていたとき、南蛮地方で反乱が多発し、それが彼の治めていた越雋郡にも飛び火した。
それで南蛮の長である高定が反乱を起こして領内を荒らしまわった。
この知らせを受けた馬謖は、防衛よりも軍議を優先
なんとか撃退に成功するも、劉備は眉をひそめたらしい。

ただ越雋郡は馬謖以前から反乱が多発し、またかなり後年になっても治まったり乱れたりを繰り返していた。
そのため、馬謖が無能だったというよりも誰であっても治められない難地であったというほうが的確*3である。

だが、このあたりで劉備は何か思うところがあったのか、夷陵の戦いで敗走し、白帝城にて諸葛亮らに後事を託すに及んで、わざわざ馬謖に言及している。
しかもそれは「馬謖は大言壮語の癖があるからあまり重用するな」というもので、諸葛亮の人物眼をけなし、その右腕というべき人物を批判するものであった。


【諸葛亮時代】

しかし、結果として諸葛亮はこの言葉を拒み、馬謖を参軍に取り立てて昼夜を問わず語り合ったとされるほどに重用。
これは、一つには荊州統治にあたっては依然として馬氏の協力は必要であり、今更切れないという事情や、
蜀漢内部における荊州グループの一員である諸葛亮にとって、馬謖は政治的にはスポンサーであり、権力的には後ろ盾でもあったという事情もある。

しかし、諸葛亮にとっては劉備への反発、という思いもあったではあろう。
劉備の遺言の場面では、劉備はわざとらしく劉禅がダメなら君が国を乗っ取れ」などと、わざわざ群臣の前で言い残している。
だが普通に考えて諸葛亮は「はいそうします」とは言えない。まして、その場には「丞相」と同じ権力を持つ「尚書令」李厳もいたのだ。
馬謖を槍玉に挙げたのも、圧倒的な権力を握ることが目に見えていた諸葛亮を警戒し、群臣の前であえてその人物眼をけなすことで、諸葛亮の権威を削る意図があった――とみることも可能だろう*4

それら全てを知っていた諸葛亮が、劉備への反発もあって馬謖を用いた--と考えても、不思議はない。
もっとも、それらを無視しても諸葛亮を中心とした体制を支えるという意味で馬謖の存在は依然大きく、彼の腹心として存在感を増していく。



劉備の死後、南蛮が度々反乱を起こすようになる。
上述したとおり、これまでも南蛮はことあるごとに反乱を繰り返しており、今回諸葛亮はいよいよ本格的な征伐を考えていた。
一つには、かつての荊州喪失や夷陵の大敗で、蜀漢は軍事体制そのものの変革を余儀なくされており、南蛮の戦力を吸収して、新たな兵源を確保する意味もあった。

馬謖はかつて南蛮の反乱を経験していたこともあり、諸葛亮は彼を招いて意見を聞いた。
そこで馬謖は「蛮族に対し、力でぶつかってもダメです。彼らの『心』を攻めれば、反乱も起きなくなるでしょう」と進言した。
これを聞いた諸葛亮は喜んで彼のプランを聞き入れ、七縱七擒の戦略で南蛮の王・猛獲を心服させ、南征に成功する。
兵力の確保にも成功しこれ以降の蜀軍では、南蛮の兵士たちがかなり活躍したらしい。

もっとも、その南蛮平定の成果をある意味で叩き潰すのが、ほかならぬ馬謖その人であろうとは、この時は知る由もなかった……


【北伐】

南方が安定して後顧の憂いがなくなり、また戦力の再編にも成功したことで、諸葛亮は劉禅にかの有名な「出師の表」を上奏。
第一次北伐を開始する。
魏国に寝返っていた孟達の再度の寝返りもあったが、これは司馬懿に鎮圧されてしまう。

一方、諸葛亮本隊も当初は快進撃を続けたが、救援として派遣された名将・曹真が立ちはばかる。
その曹真は、交通の要衝であり北伐軍の機先を制する街亭に向けて、官渡決戦以来の百戦錬磨の名将・張郃を差し向けた。
他方、諸葛亮は街亭の守備に馬謖を起用し、大軍を預けて急行させ、「城に拠って街道を堅守せよ」と厳命した。
馬謖の部隊は張郃に先んじて街亭に到着することに成功する。到着するところまでは。


街亭についた馬謖は、その土地を見渡して、諸葛亮からの指示を無視して近くの山の上に布陣してしまったのだ


実はこの時諸葛亮幕下の諸将は、馬謖ではなく、経験豊富な魏延呉懿を街亭に送るよう推薦していた。
だが、諸葛亮はここで我意を通してしまう。
それでも諸葛亮は大事な一幕ということもあって、慎重さで鳴る王平を副官につけていたが、これもまた裏目に出た。
王平は卑賤な生まれから昇進した叩き上げだったが、「益州グループ」「異民族生まれ」「文字の読み書きができなかった」などのあたりが、
「荊州グループ」「名門出のエリート」「諸葛亮肝いりの謀臣」という馬謖のプライドをやたらと刺激したらしく、
馬謖は王平の再三の諫めを拒絶し、街道を外れる上に水もない山上に布陣してしまう。
その他の部下として張休や李盛、黄襲などもいたが、彼らも馬謖を止められなかった。

馬謖としては山の上から猛攻をかけて魏軍を大破するつもりだったようだが、馬謖は一人で北伐をしていたわけではない。
攻撃は諸葛亮の本隊に任せて、あくまで街亭を防ぐことに徹していればよかったはずである。
しかも、相手は百戦錬磨の張郃であり、さらにその張郃を背後の曹真が支援する体制であった。
半端な攻撃をしていい相手ではないし、包囲されたことを考えると単純な兵数でも魏軍の方が大幅に上回っていたと考えられる。
逆に言うと、寡兵で張郃という大ゴマと配下の大軍を釘づけにしておくだけでも戦略的な意義はあったはずだった。
張郃の大軍を相手に守り切るならともかく、寡兵で撃破することなど馬謖どころか魏延でも五虎将軍でも無理な相談であろう。

確かに戦闘において、「高所からの攻撃が有利」なのは自明の理であり、兵法の基本ではある。
しかしそれはあくまで「基本」に過ぎず、布陣には他の様々な要因(天候、補給などの兵站、地形的な守り易さ攻め易さ、見通しや連絡の便の良さ…などなど)を考慮した上でやらなければならない。
馬謖のそれは、そういった様々な要因を考慮しているとは言い難いものであった。

張郃はこれらの弱点を見抜き山に登ったままの馬謖軍を包囲
馬謖の上った山には水源がふもとにしかなく、馬謖軍は猛烈な喉の渇きに襲われてしまった。
包囲されてから早期に総攻撃をかければ、「高所からの攻撃が有利」である以上、まだ多少の勝機はあったかもしれない。
だが、水源を失ったことに気づくのが遅れたか決断が鈍かったのか、馬謖の軍はほとんど戦わずに戦意を喪失
さらに時宜を見計らった張郃が総攻撃を仕掛けたことで、馬謖の部隊は壊滅。馬謖自身は戦場から脱出できたが、街亭は占領されてしまう。
事前に大ゲンカして別行動をとっていた王平だけが奮戦し、伏兵を偽装するなどして張郃の追撃を防いだものの、北伐のプランそのものが破綻してしまった事実は覆しようがなかった。

これは上記の越雋郡の太守時代において防衛よりも軍議(撃退)を優先して劉備に眉をひそめられた時と同じ状況であった。
現代の我々にとって劉備の意図は知る由もないが、皮肉にも劉備の警告は的中した形となってしまったのだ


【処刑】

結局、この街亭の敗戦によって勝機を失った蜀軍は撤退。
その直接原因を作った馬謖は、責任を取って斬首という結末になった。
この際、彼は舜が鯀を処刑しても、その子の禹を起用したように、一族を用いていただければ幸いです」と遺言し、諸葛亮も遺族を処刑することはしなかった。

諸葛亮にとっては大事な愛弟子であり、右腕であり、また義兄弟だった馬良の弟でもあったということで悲しみは大きかったし、できれば斬りたくもなかった可能性が高い。
だが、蜀は荊州出身者と益州出身者で派閥があったといわれ、諸葛亮も馬謖も荊州出身である。
そんな派閥抗争を法治国家として公平に治めることで、地盤的にも前の統治者を強制的に排除したという負い目がある中やってきた国である。
『これほどの大事に対し、法を守らず曲げて解釈してしまえば、益州派閥に荊州派閥が突き上げられて派閥抗争が激化し、最悪国が瓦解しかねない』危険性を孕んでいた、というのも考慮しなければならない。

また正史「向朗伝」によると、敗北した馬謖は逃亡を計ったらしい
仲の良かった向朗は見逃してやるものの、結局馬謖は捕まってしまった。
なお、この見逃そうとしたことが原因で向朗は罷免の憂き目にあってしまう。

ただ、馬謖が死んだのは間違いないのだが、正史においても死刑にしたという記述と獄死したという記述があったりしてその最期は意外と混乱している。
諸葛亮としては、馬謖は敗戦の責任を問うものの死刑にするつもりまではなく、処罰を受けさせてみそぎをさせたら再度登用しようと考えていたのに、
向朗伝にある通り、馬謖が逃げたために本当に死刑にするしかなくなったのではないかという説もある。

実際、李厳などは食糧輸送をきちんと行わず、しかもそれを覆い隠そうと嘘をついて蜀軍を撤退に追い込むという、
本人どころか三族皆殺しレベルの暴挙を行って、成果を上げていた北伐をつぶしたのに、庶民に落とされただけで死刑にはならなかった*5

馬謖が本当に有能であったかはともかくとして、「有能な人材をなくしてでもけじめをつけるのを優先する」か、「けじめにとらわれた結果有望な人材を失うのを惜しむべき」かは、常に難しい。
ただでさえ人材不足な蜀の場合、なおのこと人材を惜しむべきだったという後世の批判もある。
とはいえ、当時の馬謖は三十八歳。「これからの成長を待つ」には、当時の感覚としては年を取りすぎていた面もあるだろう。

戦いに参加した武将は困難な状況の中物資を無事に持ち帰った趙雲すら降格処分となった。*6
諸葛亮自身も、この敗戦の責任を取って丞相を辞任、右将軍への降格処分となっている。
ベテラン起用説を蹴って私人に近い腹心を使い、その結果が国の命運を断ちかねない大失敗では、さすがに処罰は避けられなかった。
ほかに人材がいないため、後に戦果を挙げて丞相に復帰するまでの間も丞相代行を続けてはいたのだが。

街亭の戦いに参加した部下の将校も多くが死罪や軍権剥奪などの厳罰に処されたが、馬謖を再三諫め、戦場でも僅かな兵で敵を足止めした王平だけは、特別に昇進している。
また、馬謖の参謀に陳寿の父親がいたが、上司の馬謖が街亭の敗戦で処刑という結果になったため、連座(というかおそらくは補佐よろしきを得ずという罪)で髪を切り落とす刑となった*7
髪を切るなんて軽いと思うかもしれないが、「身体髪膚、これを父母に受く」、肉体を髪の毛さえ大事にする中国人にとって、この刑はなかなか辛いものなのだ。*8
陳寿について「諸葛亮が嫌い(それで偏向した)」という疑惑があるのは、この父が受けた屈辱が原因ではないかと推察されることがある。
ただし、記述からして陳寿の諸葛亮への評価は別段低いものではなく、馬謖についても「諸葛亮の節度に背いた」とはっきり書いている。
父のために曲筆する気なら諸葛亮の指示ミスや馬謖の判断ミスと書けばよく、あえて諸葛亮の節度に反したと書く必要はないはずである。
また陳寿の父親が馬謖の参謀であるという出典は正確性に疑問が多いとされる「晋書」であることは留意しておこう。


【三国演義における馬謖】

史実の活躍とほぼ変わらないが、南蛮征伐の折、怪獣兀突骨が指揮する藤甲兵について火で焼き払う助言をしている。
また、北伐直前には司馬懿に対する流言を流していったん失脚させるという功績も上げさせている。

しかしのちの展開まで考えると、これはむしろ「馬謖を調子づかせる」「諸葛亮をして目を曇らせ、馬謖を重用させる」「謀略には長けても実践能力とは別であるというジレンマを抱かせる」という壮大なフラグであったといえる。
実際、街亭直前には「諸葛亮の腰巾着」「実戦を知らない」という陰口を叩かれ、それを本人も気にしているという、馬謖の心理状況も描かれている。
このあたりは羅漢中の手腕とみるべきだろう。

また、諸葛亮が馬謖処刑に涙する理由が変更されており、「愛した腹心を切った」から「先帝の言葉に背いて用いた結果、国家の大事を誤ったことが悔しい。己がふがいない」ということになっている。

一方、馬謖を街亭に派遣するにあたって、諸葛亮は王平のみならず高翔*9や魏延を抑えに派遣しているが、
先鋒で暴れてナンボと考えていた魏延が馬謖「ごとき」の支援に回されて不愉快になるという場面が加えられており、馬謖大敗の裏で、のちの諸葛亮と魏延の相克のフラグを立てるという、なかなか器用な展開ともなっている



【その他の馬謖】

  • コーエー三国志
史実や演技の描写の割には高能力であり、スキルが孔明とマッチする作品もあって比較的優遇気味。
とはいえ、能力値そのものは魏延や姜維といった一流どころには明らかに及ばず。
よく補佐できる二級武将といったところか?


  • コーエー英傑伝
上記とは打って変わって冷遇気味。
英傑伝(無印)では、能力こそ高いものの 就いているクラスが士気回復しかできない軍楽隊 の為、そのままだとほぼ戦力外。クラス変更アイテムがあるので、それを使い他のクラスになることでカバーすることは一応可能。

孔明伝では「主人公である諸葛亮の側近」という重要な立場にあるにも関わらず能力が落とされ、クラスも歩兵隊(物理、策略ともに微妙)にされるなど、どうあがいても戦力外になるような調整がされた。
オマケに 姜維加入後は役割を奪われ たとえ街亭で戦力差を覆して司馬懿を蹴散らしても、敗戦扱いで処刑されそうになり(コンシューマー版だと不問になるが) しかも処刑の方がメリットが大きい(孔明以外のキャラ全員のLVが5上がる。攻略本でも「馬謖は殺そう」的な台詞が出ている) …と、露骨に冷遇されている。

曹操伝では敵として登場、生意気だが迂闊な面が強調されている。
ルートしだいでは 孔明や姜維と共に劉禅を見捨てて逃亡する と言う展開になり、曹操に敗れて死亡した劉禅を姜維と共に罵倒すると言う描写がある(流石に孔明は二人を嗜めるが…)。
劉禅が不甲斐ないのは事実だとしても 「劉禅に徹底抗戦を示唆しておきながら逃げ出したお前達が言うな」 であるが。

  • 横山光輝三国志
出番少。

ウザい感じのイケメン。劉備に冷たい目で見られる。まあそれを言うと諸葛亮のほうはもっとだが……

  • 三国志大戦
Ver1
コスト2弓

武4知7
計略は士気を3消費して自分が撤退する代わりに士気が6上昇する(実質3上昇する)泣斬馬謖
計略は強力だがスペックがカス。

Ver2
コスト2弓

武4知7
計略は士気を5消費して自分が撤退する代わりに士気が8上昇する(実質3上昇する)泣斬馬謖

前verで活躍しすぎたのか計略の消費士気が変更された。

Ver3
コスト1.5槍

武5知7
計略は範囲内の敵を引き寄せる挑発。
良スペックで計略も使いやすい良カード。

軍師:転身再起(天)・山頂布陣回復奮陣(人)
3より導入された軍師システムの軍師カードとしても登場。
癖はあるが状況によっては強力な転身再起と範囲内の味方武将の兵力を徐々に回復する回復奮陣を所持してるなかなかの強カード。
特に回復奮陣は開幕に高武力武将を集めた前出しデッキや中盤以降に士気を回しながら長時間敵陣に居座るデッキが猛威を奮い、
バージョンによっては覇権を取れたほどの強さを誇った。

Ver3.59
コスト1.5弓

武4知2
計略は士気を5消費して自分が撤退する代わりに士気が8上昇する(実質3上昇する)泣斬馬謖

ただし戦闘中一回しか使う事が出来ない。
ビックコミックスピリッツとのコラボカードであり、
〇〇アフロ田中とのコラボなためアフロになっている。

  • 白井式三国志
顔が面白すぎる。

外伝にて登場。
独自に項羽ターンXに接触し、翔を裏切って独自勢力「楚」を興すという史実や演義もビックリな行動に出る。
案の定三国全てにフルボッコにされ、山頂に布陣するというお約束の行動に出た後「四面楚歌」で楚は滅びた。
こちらでは脱出しており、死にはしなかったものの以後の消息は不明。
公式が病気で有名な公式サイトの「今週の武将」コーナーにて、
劉備ガンダムに「馬謖が山頂に陣を敷き、項羽の周りから楚の歌が聞こえ始めたんだ。ヤバい臭いがプンプンしてるだろう?」と言われている。

  • 反三国志
前線でバリバリ戦うタイプではなく、荊州方面を担当する内政官僚扱い。
大活躍というほどではなかったが、善政を布いてしっかりと呉を牽制する程度の働きはしていた。



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