ホウ統(三国志)

登録日:2017/06/05 Mon 22:35:59
更新日:2024/02/14 Wed 21:03:35
所要時間:約 17 分で読めます




ホウ統(ほう-とう)(179-214)
字は士元。
荊州、襄陽の人。

※ホウは機種依存文字で、まだれ+龍。本来の表記は「龐統」。

三国志に登場する劉備の軍師。
その才能をして「鳳凰の雛」という意味の「鳳雛」と呼ばれ、諸葛亮の呼び名である「臥龍」とあわせた「臥龍鳳雛」という言葉は、後世「偉大な才能の持ち主」を示す慣用句となった。
おかげで鳳統という誤字も普及したが

【履歴書】

179年、荊州襄陽きっての名士、ホウ徳公の甥として生まれる。
高度な教育を受けられる恵まれた家庭の出身ではあるが、しかし少年時代のホウ統は一言で言うと「樸鈍」な男の子とされていた。
樸鈍という表現については若干解釈が分かれるが、要するに「ニブくてパッとしない」子だったのである。

しかし20歳手前のある時、ホウ徳公の弟分であったハオハオ水鏡先生こと司馬徽に会いに行き、彼に逸材と認められたことでようやく名が知られるようになった。
その後ホウ統は司馬徽が開いていた私塾に入門し、そこでより学問を深めていくことになる。

司馬徽は「ホウ統は鳳凰の雛だ、機会を得ればたちまち天下に羽ばたくだろう」とその才能を高く評価し、同じく「地に伏せて天に昇る機会を伺う龍」と評価した諸葛亮と並び称した。
ちなみにこの二人、さほど近いというわけではないが縁戚でもある(諸葛亮の姉は、ホウ徳公の息子の嫁)。

司馬徽の門下からは徐庶尹黙向朗など、後に魏や蜀漢で高官に昇ることになる人材が多く出たが、ホウ統が彼らと面識があったかについては不明。でもあったと思う方がロマンだよね?



【人事部採用係】

しかしこの時期(200年前後)から約10年の間、ホウ統の動きは良く分からなくなる。
この間に荊州南郡のお役所からお呼びがかかり、功曹(人事採用課のトップ)の職に抜擢されているのは確かなのだが、それがいつのことなのかがわからないのである。
南郡の支配者はこの10年の間に劉表曹操周瑜孫権)と度々変わっており、どのボスの下で官職についたのかが不明なのだ。

まあ不明なのは仕方ないから置くとして、次にホウ統の消息がはっきりとわかるのは、210年に南郡太守であった周瑜が病死し、その葬儀で周瑜の遺体と共に呉へと向かった時のこと。

既に名士として名を知られていたホウ統は呉で大いに歓待され、葬儀を終えて南郡に戻る時には陸家、顧家、全家など呉の名だたる名門の当主たちが揃って見送りに来るほどだった。

ちなみにこの時に見られるようにホウ統は呉方面の名族たちに対して非常に「顔が利く」人物であり、
近年では「ホウ統は劉備の部下ではなく、呉から送られた客将orスパイ」という説すら出てくるほど*1



【支所長】

その後孫権は魯粛の戦略に従い、荊州領の南郡を劉備に「貸与」した。
南郡にいたホウ統もまた劉備の配下となったが、劉備はホウ統を転任させて耒陽県の県令(市長)とした。
しかし県令としてのホウ統の仕事ぶりはぶっちゃけイマイチだったため、考課にシビアな劉備を怒らせるところとなってしまう。

これがホウ統の「俺ほどの人材を使おうというのに、県令か?」という抗議のサボタージュだったのか、あるいは渉外オンリーで実務経験が乏しかったために素でやらかしたのか定かではない。*2
しかし許靖のように名声だけが先行した名士にせよ、あるいは馬謖のような口先だけの奴にせよ、いずれも劉備が露骨に嫌うタイプであった。
こうしてホウ統は移籍後早々クビにされるところだったが、旧知の諸葛亮や呉の魯粛が「彼はそういう使い方をすべき人材ではありません」とフォローしてくれたため、すんでのところで免れる。

そして劉備は「じゃあどんな人材だってんだよ!」とばかりにホウ統を呼びつけるが、実際に会って話をしてみると、その驚くべき異才を認めざるを得なくなった。
こうしてホウ統は諸葛亮と並んで軍師中郎将に抜擢され、以後劉備の参謀としてその戦略に携わることになる。



【プロジェクト入蜀】

それから間もなくして、益州(蜀)牧の劉璋が劉備に対し、漢中の張魯に対する援軍を要請してきた。
しかしこの件で劉備との折衝にあたった張松法正ら一部の蜀臣は既に劉璋のことを見限っており、むしろ劉璋から益州を奪ってしまうように劉備に薦めた。

『九州春秋』によれば、劉備はこの時「俺は曹操とは違うし!そんなひどいことできねぇし!」と難色を示したが、ホウ統が「一時的に酷いことをしようが、その後の統治さえ良ければ人々は納得します」といってこれを説得し、これを容れさせたという。
これが正しければ、あるいはホウ統がいなければ「三国」志は成立し得なかったかもしれないということになる。

そして劉備は二人の軍師中郎将のうち、諸葛亮を荊州に残し、ホウ統を伴って益州に入った。
当初劉備軍は(当たり前だが)何の抵抗も受けずに益州の首都、成都から100kmと離れていない涪(フ)城まで進み、そこで劉璋の熱烈歓迎を受けることになった。

ホウ統は「丁度いい機会なので、ここで劉璋を捕まえてそのまま成都をぶんどっちゃいましょう」と進言したが、劉備は「えーでも来たばっかりでそんなことしたら益州の人たちにKYだって思われるし……」とこれを却下してしまう。

こうして千載一遇のチャンスを逃がした劉備軍は、劉璋の要請通り北の葭萌へと向かうことになってしまった。
無論だからといって張魯征伐に気合を入れるわけもなく、地元を懐柔しつつ時を待っていたが、やがて張松のミスをきっかけに陰謀が劉璋に露見してしまうという事件が起きた。
当然劉璋は激怒して張松を処刑。また劉備が駐屯する葭萌への関を全て閉ざしたが、劉備側はこれを奇貨として「助けに来てやった人に対して何だその態度は!ゆるさん!!」と難癖をつけ、ついに行動を開始する。



【落鳳坡】

この作戦開始にあたり、ホウ統と劉備は
劉備「あーどすっかなー益州とんの」
ホウ統「そんな我が君のために策を3つ用意しましたぞ!」
劉備「やるジャマイカ...それは一体?」
ホウ統「具体的にはこんな感じですぞ!」
A. 即座に精鋭を率いてこの葭萌から成都(距離は東京~新潟間ぐらい)に急行し、まだ防備が整っていない成都を一気に落とそうぜ作戦
B. 手近にいる蜀軍の2将軍をだまし討ちにしてその兵を奪い、戦力を増強して成都へ進撃しよう作戦
C. 一旦荊州に返ってから慎重にいこう作戦
ホウ統「さあ、どれになさいますか?」
劉備「う~ん、Aはちょっとギャンブル過ぎるし、Cは流石にチキンにもほどがあるし……よし、Bで!」
ということで、無難なB案を選ぶ。

そして劉備はホウ統の立てた「劉璋は配下に劉備をなんとか荊州に帰らせろと命令しているので、帰るふりをして2人を挨拶に呼び出し、ぶっ殺しましょう作戦」を実行し、白水関を守っていた楊懐高沛の2将を謀殺。
2人の配下の兵士たちを自軍の兵力に組み込み、かつその家族を人質にとって逃げられなくした。
ちょっとこの君臣ダーティすぎんよ~

こうしてホウ統を軍師として成都への進軍を開始した劉備軍は、劉璋が迎撃に送り出した呉懿張任冷苞劉璝鄧賢ら蜀のモブ名将を次々と撃破。
さらには綿竹関を守る李厳も降伏させるなど、順調に成都への進撃を続ける。
しかし成都を指呼の距離に望んだ雒(ラク)城を包囲した時、その事件は起こった。
前線で指揮を執っていたホウ統は、この戦いで矢にあたって戦死してしまったのである。享年35歳前後。

謀臣としてこれからが黄金期という年齢であり、曹操がその若死にを惜しんだという郭嘉よりさらに若い、あまりに早すぎる死であった。
劉備はその死を泣いて悲しみ、益州制圧後には関内侯の爵位を送っている。あと「でもホウ統って外道だったよね」と率直に感想を述べた張存怒りのあまりクビにしてもいる。

ホウ統のによって劉備軍の快進撃は完全にストップしてしまい、成都まで40kmという距離まで迫っていながら、成都攻略にはここからさらに1年以上を要することになってしまう。



【人物】

モブ 「なあ士元よ、君は人を評価する時、どうにも過大評価をしすぎじゃないかい?」

ホウ統 「皆が保身ばかり考えるこの乱世では、ほめ過ぎなぐらいの評価が出回った方がいいのさ。それで人材が世に出やすくなれば、それに続こうと若者も努力してくれるし、みんなが幸せになれるじゃないか」

「正史」ホウ統伝にあるこの逸話からは、基本ほめて伸ばすタイプであるホウ統先生の穏やかな人格が伝わってくる。
しかしまた同時に、「も方便」「結果さえ良ければ過程は問わない」という謀臣に相応しいドライでリアリスティックな思考を読み取ることもできるだろう。

ホウ統が劉備に仕えた期間はわずか3年程度に過ぎないが、渋る劉備を説得して益州奪取に向かわせたこと、またその戦役を軍師としてプロデュースしたことは、劉備の飛躍、そしてその後の三国鼎立に決定的な影響を及ぼした。

そしてその過程に見られるように、ホウ統は劉備に「進言を受け入れてもらえる」数少ない臣下でもあった。
劉備は基本的に超ワンマン気質であり、自分がこうと決めたら部下の意見をあまり採用しないところがある。
特に戦略・戦術面においてはこの傾向が非常に強く、黄権は肝心なところで進言を却下されため夷陵の大敗を招いたし、諸葛亮に至っては戦争に関して進言を採用された記録が1度もない。

しかしそんな中でこのホウ統、そしてその後釜的ポジションの法正は比較的意見を聞き入れてもらえたケースが多く、その意味でも非常に劉備軍にとって重要な人材だったと言える。

「三国志」を著した陳寿の評では、蜀漢の礎を築いたホウ統の功績をして「魏で言うならば荀イク、荀攸に匹敵する」と高く評価している。



【子供たち】


ホウ宏
知名度超低い跡継ぎ息子。
フ陵太守になっていたことは確認されているが、それ以外の経歴はほとんど伝わっていない。
父親同様人物評をよくしたが、時の権力者である陳祗を軽んじたため出世を妨害されたという。



【創作作品の中の凰雛】

軍師と言えば孔明以外はみんなモブ、どうでもいい黒タイツ的存在、というのが歴史的な三国志創作の基本である。

しかしそんな軍師勢の中ではホウ統は割と健闘している方であり、まあ孔明とは全く比較にならないにしても、キャラとして成立するに足る個性は持たされていることが多い。

これにはいろいろと理由があるのだが、最大の要因はおそらく
「適当に下っ端をさせられている内は大した仕事もできなかったが、才能を認められて大役を担った途端に大きな才能を発揮した」
という部分が、士大夫層(特に中~下級の)から大いに好まれていたという理由が大きいだろう。
才能と野心と自負があり、しかしそれに見合う職務や待遇を与えられていないと感じている彼らにとって、ホウ統は一種憧れの的だったのである。

上司に見る目がないことを嘆く彼らは、同じような立場から一転して大出世を遂げたホウ統の故事を好んで引用したため、今でも中国では正史のホウ統にちなむ慣用句が多く残っている。

「百里の才」……小役人程度のちっぽけな才能という意味。魯粛がホウ統をとりなして「彼は百里(程度の土地の行政に使うような)才ではありません」と言ったことから。

「驥足」……(未だ発揮できていないが)優れた才能の人、という意味。↑と同じく、魯粛が「側近として君主の側で大計を練ることで、驥足(のような俊足)を発揮することができるのです」と言ったことから。

こういった下級士大夫、あるいはそれに準じる教養人層は庶民向けの創作などに携わることも多かったため、彼らをコアなファン層として獲得していたホウ統もそれなりの扱いを受けられたのである。


『ホウ統先生・第1シリーズ』

とは言え古い時代のホウ統は、やはりスーパー軍師諸葛孔明に押されて圧倒的に影が薄かった。
後の展開から考えると、唐か少なくとも宋の時代には既にそれなりの人気を得ていたのではないか?という説も有力だが、具体的な史料は今のところ全く発見されていない。


『ホウ統先生・第2シリーズ』

元の時代は、三国志関連のみならず中国のエンタメ業界全体にとって飛躍の時代だった。
元朝は歴代王朝と異なり科挙による官僚採用システムを取らなかったため、職を失った教養人層の一部が生計の為にエンタメ分野に進出してきたのである。

それまでは殆ど「張飛関羽・孔明物語」と言っていいようなモノだった三国志創作も急速に発展をとげ、呂布趙雲黄忠と言ったそれまでのサブキャラ達も個性を放ち始めた。

そしてホウ統はその中でも一際キャラ立ちが顕著であり、当時隆盛を極めた元雑劇、白話小説などでも度々美味しい役どころをもっていっている。
この時代の三国志創作の典型例として、演義のプロトタイプと言われる小説『三国志平話』がある。
平話に登場するホウ統は

▼「×相応しい待遇を与えないと役に立たない ○相応しい待遇を与えないと有害」
当時ちゃんとした脚本や小説を書くにはそれなりの教養が必要だったが、教養人の価値観からすると脚本や小説といったフィクション作品は、「偽物の歴史」として軽蔑される底辺的存在だった。
このため平話のホウ統は「俺の周りにも魯粛や孔明みたいに見る目がある人がいれば、小説なんか書いてねーんだ!」という作者サイドの怨念がダダ漏れのキャラになっている。

具体的に言うと、県令の仕事を不満に思ったホウ統がサボタージュ……どころか「ぬるいわ!人を見る目がない奴らに思い知らせてやれホウ統!」とばかりに、荊南4郡を影で操って劉備に反乱を起こすというロックな展開になった。

▼「道術師」
これは孔明も同様だが、軍師と言っても戦略や戦術で敵を翻弄したりするわけでは全然ない。
水滸伝などでもそうだが、大衆がお話の中の軍師に求めるのはそういうこざかしいことではなく、占いを用いて将来の出来事を予言して難を避けたり、術によって風や雲や雷を操ったり、大火や洪水を起こして数万の敵兵を葬り去ったりすることなのである。それこそ太公望が完全に道士となったようにである。

このためホウ統も
  • 周瑜が(孔明の策で)死んだ時、遺言によりその首を故郷へ送り届けようとして、将星*3の動きで孔明にその死を悟られないように星を止める。
  • 県令の仕事をさぼったホウ統に対して送り込まれた張飛が、寝ているホウ統を奇襲して布団の上からバラバラに切り刻んだが、それはホウ統の変わり身の術で、中で刻まれていたのは犬だった(ひどい)。
  • 反乱を起こした時、劉備軍のかませ犬劉封を術によって葦原に閉じ込めて隠す。
  • 益州侵攻戦時に討ち死にしたが、死後に霊体となって黄忠の夢枕に立ち、術によって張られていたバリアを破って劉備軍を助ける。
など様々な神仙方術を行使する軍師()となっている。

▼「孔明のライバル」
平話のホウ統は、孔明に並び立つ同僚というよりライバル的な側面の方が重視されている。孔明に対しては「弟」と呼ぶこともあり、義兄弟的な関係でもある。
ホウ統の軍師(道術師)としての実力が孔明と同等であることは度々強調されており、実際孔明でさえ突破できなかった橋の結界を破ったのは霊体となったホウ統である。
孔明とホウ統は「臥龍と鳳雛」と並び称されてはいても、正確に言えば「悟空ベジータ」のように「ライバル(しかし能力的な上下関係は動かない)」設定であることの方が多く、ここまでホウ統の実力を強調しているのは極めて珍しい。


と言った感じの独特で、かつ存在感がある「出番は少ないけど超強キャラ」な感じになっている。ここまでホウ統の扱いが大きかったのは、後にも先にもこの時だけである。


『ホウ統先生・第3シリーズ』


明の時代には三国志創作の決定版とも言える『三国志演義』が完成したが、
  • 正史「三国志」を基礎にして再構成されたこと
  • 孔明の神格化が一層進んだこと
などで、ホウ統の描写は大きな変化を遂げている。

特に正史とのすり合わせがなされたことが非常に大きく、やりたい放題だった道術師ぶりはスッパリとカット、また物語が前にも後ろにも伸びたことで出番自体も(相対的に)少なくなってしまった。

さらに「孔明が自分に嫉妬していると思い込み、策を誤って死んでしまう」というなんか小物チックな描写も追加されてしまい、「超スゴイ人なんだけど、孔明には一歩及ばない」という上下関係が確定的となった。

しかし出番が少ない上に能力的にも孔明の劣化ときては、水鏡先生の「臥龍か鳳雛、いずれか一人を握れば天下を取れる」という評価も宙に浮いてしまう。
このため演義ではホウ統の出番を前倒しして赤壁の戦いの時に登場させ、周瑜の相談を受けて曹操の下に偽装仕官して偽りの策を授け、船同士を鎖でつながせるという役割を担わせている。

また演義の脚色の中である意味最も尾を引いたものとして、ホウ統のブサメン設定があるだろう。
しかも「激マユ豚鼻色黒」と具体的なモンタージュまでされてしまう始末。
しかし実はこの設定、採用している方がむしろ少なかったりする。


『ホウ統先生・最新シリーズ』

演義の普及後も、孔明に押されてホウ統の扱いは小さくなる一方だった。
臥龍&鳳雛という看板があったため設定的な弱体化こそ少なかったが、やはり出番が3年しかないというのはいかんともしがたかったようだ。

清代になると三国志創作のメインは講談や小説といった言葉・文字のジャンルから、ビジュアル重視の演劇に移るのだが、この分野でのホウ統は非常に影が薄く、当時の人気がうかがい知れる。

しかし現代になってエンタメ業界がさらなる多様化を遂げ、受け手の教養水準も高まってくると、再びその人気も再興してきた感がある。

最近の中国大河ドラマである「Three kingoms」のホウ統などは、登場期間こそ短いものの、その短い間につめこめるだけつめこむぞ!的な勢いで大活躍してくれるキャラになっている。


『横山三国志』

「ブサメンじゃねーじゃねーか!」とのツッコミが最初に入りそうなナイスミドルホウ統。ブサメン設定の演義が原作なのに。
しかしこのホウ統は中国の連環画をほとんどそのまま採用したものなのだが、実はその連環画でもホウ統は普通にイケメンなのである。
先にもちょっと触れたが、中国では演義成立後もホウ統のブサメン設定は採用されないことの方が多く、絵や演劇、各観光地の銅像などでも普通に名士らしいイケメンフェイスにされることが多い。
作中での活躍は…まあ、演義のまんまというべきか。


蒼天航路

イケメンじゃねーか!」とのツッコミが最初に入りそうな二枚目ホウ統。武器は袖箭(暗器の一種。袖に入るほど小さい飛び道具で、バネの力で小型の矢を発射する)。
しかし片腕がない(生来のものなのか、傷によるものなのかは定かではない)というアレンジが施されている。
儒教では、戦や刑などで体の一部を欠損すると「親からもらった体を傷つけた不孝者」ということで減点対照になる(生得的な障がいは問題ない)。
これによって「外見では評価されなかった」という正史の記述を反映させているのかもしれない。服装もラフ。
どこか達観したような性格で、主君の劉備にもタメ口、かつ直言を辞さないため、劉備からも「その慎みのねえ口はありえねえ」とすら言われているが、同時に「だがありえんゆえにおいらの軍師だ」と高く評価されている。
蒼天航路は正史を元に脚色しているため、ホウ統の出番は実質的に入蜀戦のみだが、なかなかに強い印象を残すキャラである。
しかし蒼天の孔明があまりにアレすぎるためか、彼との会話シーンは全くない。


『コーエー三國志』

「ブサメンじゃねーか!」とうなずきたくなる安心のブサ面ホウ統。丸顔で色黒、鼻が大きく髭が短いという演義の描写にのっとった顔グラである。実はこのタイプの顔になったのはVIぐらいからなんけど
しかし濃い顔ではあるが、ブサメンかと言われると微妙な感じではあるが……
性能的には全ての数値において切ないほどに劣化孔明と言わざるをえないが、単にあっちが強すぎるだけであって、こっちも十分すぎるほどに優秀な人材。
特に知力は全キャラ中最強クラスであり、知略ランキングでは殿堂入りの孔明に続き、郭嘉、司馬懿賈詡あたりと二位争いの常連である。
ただし設定上の没年が非常に若いので、各タイトルの寿命関連のシステムにもよるが、活動期間が短めなのが欠点。


『三國無双』シリーズ

「顔が見えねーじゃねーか!」とのツッコミが最初に入りそうな覆面ホウ統。無双ではキャラの衣装や髪型が毎回変わるのだが、目元以外を出したことは一度もない。
三国志平話をはじめとした民間創作を意識したのか、道術的・仙人的な側面が強く出ており、武器はシリーズ通してで、どの作品でも無双乱舞が非常に強力な傾向がある。まあ孔明がホバリングしながらビーム撃つ作品だし違和感はない。
ちなみに同作の登場武将の中では孫策(25歳没)に次ぐ若死に(35歳没で、周瑜と一緒)のはずなのだが、むしろ年齢設定は上から数えた方が早いおっさん枠となっている。



『三国志大戦』

「イケメンブサメンどっちもいるじゃねーか!」とのツッコミが最初に入りそうな取り合わせでどちらも連環の計を持っている。
イケメンが持つのは伏兵と連環の計。士気6と重いが自身前方大円内の敵の移動速度が身動ぎ出来なくなるほど大きく下がる。
呂布のような脳筋の騎馬は無力化して生殺しにすることが可能で、その強力さから混色にして士気を全部吐いてでも指鹿為馬の計と組み合わせるという用法も存在した。
混色なので士気を全て吐かないとコンボが成立しないが双方とも1コストなので、総武力はさほど落とさず組める。
一方でストッパー毒島やBECKで有名なハロルド作石氏が描いたブサメンが持つのは伏兵と連環のススメ。
士気6とやはり重いが知力も下げるため単独でコンボが可能になるのが強み。しかしコストが1.5に増えている上に足が遅い槍兵でありながら範囲が自身中心の横長長方形で単独では移動速度の低下がそこそこなのがネック。後に回転可能になって実用性は上がったが。
「3」になってからはイケメンが追加され、「3.59」で更にブサメンも追加。
イケメン軍師は鉄鎖連環と増援。鉄鎖連環はMAXなら速度がどんなに上がっていようとやはり身動ぎできなくなるため挑発して無理矢理引っ張り込むなどのコンボも可能で猛威を振るった。
ブサメンは当たり前のように伏兵を持つが、更に大軍と連環ではなく味方の天属性と人属性のコストが武力増加と反比例する号令持ち。
士気7と更に重いが範囲・効果時間共に相応に長く、更に自身も範囲に入るようになったためこちらも猛威を振るう時期があった。
共通していることは「ホウ統が2枚使えたら」とプレイヤーが思うほどに計略要員として基本的に安定して高い性能の計略を持っていることで、史実以上に蜀を支えた功臣と言えよう。逆に計略がピーキーな諸葛亮は冷や飯食ってることが多かった


『BB戦士三国伝』シリーズ

「モノアイじゃねーか!」とのツッコミが最初に入りそうなヤクト・ドーガホウ統(+グランドマスターガンダム)なぜか魏駕(魏に当たる国)の大尉で司馬懿の配下。劉備とは面識すら無い。
本来は快活で心優しい性格だったが、かつて董卓軍の攻撃を受けた際に親友の徐庶を孔明が助けられなかった無念と、孔明が真の実力を発揮しないことや彼に自信の才能が届かないことの苛立ちを孔明への憎しみに転嫁して破滅を望むようになった。
洗脳した祝融を人質にとって孟獲に反乱を起こさせ、兀突骨・木鹿大王・朶思大王・帯来洞主を配下として孔明を襲撃した。
ぶっちゃけ原典の面影がないほどに設定が変わりすぎて誰だお前状態である。徐庶と逆でも良かったのではないだろうか。



「天下太平の後には、卿らと共にまた四海の士の記事を追記:修正しましょうぞ」

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最終更新:2024年02月14日 21:03

*1 史料的な裏付けは一切なく、トンデモ説の域を出ないが。

*2 抗議のサボタージュであり、劉備の命令で張飛が怒鳴り込むと溜まった政務を半日で片づけた…というのは、残念ながら演義のみである。

*3 偉大な将軍が陣中で死ぬと、夜空に流れるという星