曹真

登録日:2017/06/24 Sat 16:35:21
更新日:2020/05/12 Tue 15:36:42
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曹真(そう-しん)(?~231)
字は子丹。
(多分)豫州、沛の人。

『三国志』に登場する人物で、曹操曹丕曹叡の3代に渡って軍の重鎮を担った大将軍。
創作関連で酷い目にあわされることにかけては全キャラ中1、2を争う人物として有名。

【謎めいた出自】

最終的に魏王朝全史でも屈指の超VIPにまで出世した割に、その出自はなぜか非常に曖昧。
正史『三国志』では、「曹操の親戚で、父の曹邵が曹操の挙兵に協力しようとして殺されてしまったため、曹操が孤児になった曹真を引き取り子供たちと共に育てた」と簡潔に書かれている。
しかし『魏略』には「秦伯南という曹操の知人の子供で、敗北した曹操を自宅に匿って賊に殺されてしまったため、曹操が孤児になった秦真を引き取り、後に曹姓を与えて一門とした」と全く別の出自が載せられている。
厄介なことにどっちの説に関しても決定的な証拠がなく*1、二つを合体させた説(曹邵=秦伯南説)、二人を合体させた説(曹邵×秦伯南説)まである始末。

まあとりあえず、「曹操の実子ではない」「実父は曹操にとって大恩がある人だった」「一族同然の扱いを受けていた」という点はいずれも共通しており、この辺は間違いのない所だろう。

曹操は引き取った曹真を自分の子供同然に扱い、曹丕や曹休(こちらも養い子)と共に寝起きさせたという。このことや後の経歴から考えても、この3人は年齢的にもかなり近かったものと考えられる。
後に魏朝の初代皇帝となった曹丕が曹真と曹休に与えた軍権は非常に大きなもので、曹丕がいかにこの二人を信頼していたのかがわかる。


【ピザめいた俊才】

やがて立派な若武者に成長した曹真は曹操にその才を認められ、曹休と共に精鋭親衛騎兵隊「虎豹騎」の隊長に任じられた
その職務に相応しく曹真は優れた武芸を修めていたことで有名で、狩の最中に後ろから虎に襲われた時、瞬時に馬上で身をひねって真後ろの虎に矢を放ち、一撃で仕留めた*2という逸話があるほど。

ちなみに三国志のファンにとって曹真と言えばデブで有名だが、彼がその体型をからかわれたのは40~50代の宴席での逸話であり、若い頃までそうだったとは限らない。
あれは単に中年太りで、バリバリに前線任務をこなしていた若い頃は、痩せて精悍なイケメンだったという可能性だってある。まあもちろん、若い頃からサモハン・キンポー系だった可能性も十分にあるが……*3

とまれ若き曹真は親衛隊の隊長として曹操の側近くに仕え、その采配を自らの目で学ぶことができた。
さらにこの頃、霊丘県に割拠していた賊の討伐の指揮を取っているが、その経験を活かして見事にこれを成し遂げている。


【煌めいた戦才】

だが217年になると、蜀に一大勢力を築いていた劉備が、西の要地である漢中に侵攻してきた。
劉備はまず張飛馬超率いる大規模な別動隊を先遣し、漢中の北東の武都方面に進出して魏軍を包囲する構えを見せる。

この別動隊に対し、曹操は曹洪率いる大規模な増援を派遣して当たらせたが、当時偏将軍(駆け出しの将軍)に任じられていた曹真もこれに従って劉備軍と戦っている。
この戦いは曹休の戦況分析が功を奏して魏軍の大勝利に終わるが、曹真も下弁で劉備軍の部隊(呉蘭隊?)を攻撃し、これを完全撃破するという戦功を上げている。

しかし肝心の漢中方面の戦況は思わしくなく、219年始めの定軍山の戦いでは総大将の夏侯淵までもが戦死。魏軍は漢中内の要地の大半を蜀に奪われてしまった。

このピンチに際し、曹操は曹真を事実上の夏侯淵の後任として抜擢。
この直前に中領軍(曹操の直属軍のトップ)に任じられたばかりだった曹真は、新たに征蜀護軍の職を与えられ、西部対蜀戦を統率する立場となった。

曹真は徐晃を従えて南下し、関に籠った高翔隊を撃破して劉備軍に一矢報いたが、曹操率いる本隊は高地に立てこもる劉備軍を攻めあぐねていた。
やがて戦線は膠着し、他の戦線にも焦眉の急を抱えていた曹操はやむなく漢中を放棄する決定を下す。
曹真は征蜀護軍として総撤退の後衛を担い、勢いに乗る劉備軍に対して無事これを完遂。その後は漢中の北の陳倉へと駐屯して蜀への抑えにあたり、その侵攻を全く許さなかった。

漢中戦では絶頂期の蜀漢に対し後れを取ることが多かった魏軍だが、そんな中でいまだ若い(推定30代)曹真が見せた活躍は際立ったものであり、曹休と共に次世代の曹魏を担う人材が育ってきていることを感じさせるものだった。

翌年に曹操が没すると、魏王国を継いだ曹丕は、曹真を鎮西将軍に任じた。これは大将軍夏侯惇、車騎将軍曹仁、衛将軍曹洪ら元勲たちに次ぐ軍部ナンバー4であり、曹丕世代の中では最上位である。

さらに都督雍涼州諸軍事の職も与えられ、正式に魏の西方面軍事部門の総責任者とされた。
魏の西端にあたる涼州は、後漢時代には放棄論さえ出てくるほどの危険地帯であり、この時期にもなると大規模な反乱や異民族の侵攻・駐留は日常茶飯事となっていた。
曹真はこの修羅の国になんとか魏の支配を確立すべく、張コウ郭淮費曜楊秋カク昭などの諸将を縦横に駆使し、またある時は自分自身でも兵を率いて、各地の反乱を次々と鎮圧していった。

そして曹真が都督を務めたそれから数年で魏の涼州支配は大きく躍進し、領域内での大規模な反乱も絶えた。
後には曹真の威名は、「曹真大将軍が来た!」というだけで降伏してしまう城が出るほどに高まり、曹叡の代になると西の大国クシャ―ン帝国(ベルセルクではない)から帰順の使者までくるという*4、中国史に残る成果もあがっている。


【騒めいた魏国】

しかし曹真は曹丕の信頼が特に厚い武官であり、また魏では「劉備の死で蜀はもはやオワコン」とみなされていたため、時には任地を離れて別の戦線に向かうこともあった。

222年に曹丕は孫呉への大侵攻を行っているが、曹真もこの時本国に呼び戻され、新たに上大将軍の号と都督中外諸軍事、即ち全軍の最高司令官の任を与えられて参戦した。
しかしこの作戦は始まる前から呉にバレっバレであり、呉側でもバッチリ準備を固めてこれを待ち構えていた。

それでも曹真は張コウ、夏侯尚などの諸将を従えて荊州方面から侵攻し、牛渚で敵を破ったりと戦果を上げたが、荊州最終防衛ラインとでもいうべき江陵城に至ったところでその足が止まってしまう。
江陵を守る戦力はわずか5000ほどに過ぎなかったが、守将の朱然は呂蒙に後継として指名された名将。曹真も増援の孫盛隊を張コウ隊に撃破させたりはしたものの、肝心の城を落とすことができなかったのである。

江陵の攻囲は半年にも及んだが、両軍ともに疫病が広まり、また曹仁と曹休が担当していた他の2戦線でも膠着状態に陥りつつあったため、曹丕はついに全軍撤退を下命。
曹真も包囲を解いて退却することになり、生涯初めての敗戦を喫することになってしまった。
この後も2度に渡って曹丕は呉を攻めたが、どちらも本格的な戦い以前のノーゲームに終わっている。

そして226年、曹丕は「3戦全敗皇帝」の不本意な実績を解除できないまま病に倒れた。
死を覚悟した曹丕は後継者として長男の曹叡を選ぶと、その補佐を司馬懿陳羣、そして兄弟同然に育ってきた曹真、曹休に託して世を去った。

曹叡が即位すると曹真は位階を大将軍に進め、名実ともに曹魏全軍の総帥となる。


【はためいた牙旗】

228年になると、劉備の没後は最早死に体と思われていた蜀漢が、諸葛亮の指揮のもとに魏への侵攻(北伐)を再開した。
当時曹真は大将軍として中央にいたが、当時長安一帯の守りを担っていたのは七光りのポンコツで知られた夏侯楙であり、事態を危ぶんだ曹叡は曹真を再び西へと派遣する命を下した。

こうして曹真は魏軍の総大将として、諸葛亮と初めて向かい合うことになった。
既に諸葛亮は長安西で3つの郡を蜀漢へと寝返らせ、同時にいまだに魏の支配が徹底していない涼州方面に軍を派遣。さらに北の街亭に向けて、馬謖率いる一隊を進行させていた。

この時、蜀側の資料では「曹真は諸葛亮の陽動にひっかかり、斜谷道を進んで趙雲との戦いで釘付けにされた」とドヤ顔で書かれているが、実際には曹真はその後方である郿(ビ)にいた。
これは斜谷道の出口にあたり、西に進めば諸葛亮の本隊がいる祁山にも、北に進めば副将張コウが向かっていた街亭への援護にもいける対応力の高い場所である。
曹真はこの郿で諸葛亮本隊への動きに備えつつ、一方では斜谷道に部隊を派遣して趙雲隊を敗走させている。同じ頃、街亭では張コウが馬謖に完勝し、南北2か所に渡って戦線を崩された蜀軍は全軍撤退せざるを得なかった。

こうして第1次北伐は曹真率いる魏の勝利に終わり、曹真は蜀に寝返っていた3郡を張コウと共に自ら征伐、再び魏へと組み込んだ。
さらにこの戦役を通して、蜀漢にまだまだ戦意と力があることを確認した曹真は、次なる蜀漢の侵攻とそのルートを予測する。
そして「次は諸葛亮は故道を使うに違いない」と断定すると、配下のカク昭に故道の出口にあたる陳倉城の強化・及び防衛を命じた。

そしてそれから半年の後、曹真の予測の正しさは証明された。諸葛亮は自ら軍を率いて故道を通り、陳倉へと向かってきたのである。
これに対する陳倉の兵力はいまだ2000人足らずに過ぎなかったが、城の強化は既に相当進行していた。
また曹真に選抜されただけあってカク昭とその配下の士気は非常に高く、万を超える蜀軍の猛攻にもひるむことなく城を守り抜いてみせた。

更に曹真は張コウや費曜らを大規模な援軍として送り出したため、諸葛亮は(蜀側の資料では「兵糧切れでやむなく」)攻撃を諦めて撤退。
追撃時に王双という将を失っていささか画竜点睛を欠いたものの、第2次北伐も曹真率いる魏の勝利に終わった。
ちなみにこの時も蜀側の資料では「曹真が陳倉で諸葛亮を防いだ」と言うことになっているが、実際には曹真自身は軍を動かしていない。総大将自身が出撃するまでもない程の完勝だったのである。

しかしこの直後、諸葛亮は再度軍を起こして辺境の武都・陰平の2郡を速攻で奪い取った。
この2郡は曹操の代から既に安全圏への移民が進んでいた僻地であり、経済・軍事的な損失はほとんどなかった(魏側の資料では触れられていないほど)が、周辺異民族に対しての威信という面では決して見逃せない失点だった。

そして曹真はこの蜀漢の度重なる侵攻に対処すべく、その最重要拠点である漢中への総反攻作戦を企図したのである。
230年、曹真は大司馬への昇進式の為に首都洛陽へ帰還していたが、この席で皇帝曹叡に向かって「複数ルートからの同時進行による漢中攻撃作戦」を提案、受け入られている。


【ゆらめいた残光】

この南征は曹真、司馬懿、張コウ、夏侯覇らがそれぞれ一軍を率いて北と東の4ルートから同時侵攻し、さらには西の涼州方面からも軍を南下させるという壮大な作戦だった。
しかしその規模の大きさに関して内政担当の録尚書事陳羣から怒涛のクレームが入ったため、最終的に計画はかなり変更させられてしまったらしい。
そして230年8月、ついに作戦は決行され、曹真自身も軍を率いて長安から漢中へとつながる子午道を進軍した。

しかし、この作戦が戦果として実を結ぶことはついになかった。
かといって、曹真、あるいは他の魏将が蜀軍に負けたというわけでは無論ない。というか勝敗以前に、そもそも戦う事すらできなかったのだ。
この年の9月、漢中を含む一帯では1月にも及ぶ異常な長雨が降り続き、各地の道を機能不全に陥れてしまったのである。
各所で道を寸断され、まともな進軍すらできなくなった各軍に対し、当初は曹真の体面を気遣っていた曹叡もついに撤退命令を下す。
曹真が苦心の末に決行した漢中侵攻作戦は、ろくに戦うこともなく雨に流され消えてしまったのだった。

まさしく不運としか言いようがないこの結末に気落ちしたのか、この撤退の最中、曹真は病に倒れてしまう。
洛陽に戻った曹真を曹叡は自ら屋敷に足を運んで見舞ったが、その甲斐もなく、翌231年4月に曹真はこの世を去った。
享年は推定40代後半~50代といったところであり、若すぎるとは言わないが、まだまだ働ける年齢だったのは間違いない。
つまりメタボが寿命を縮めたという可能性が


【人物】

魏王朝の宗室である曹家・夏侯家には将才に優れた人材が多いが、中でも曹真は実力、実績共に頭一つ抜けていたと言っていいだろう。

世紀末状態だった涼州への支配確立や異民族対策、二度に渡る蜀漢の侵略の完全撃退、クシャーン帝国からの朝貢など数々の大功を上げ、最終的に「剣履上殿・入朝不趨*5」の特権も与えられている。
しかもこれでも「司馬氏に遠慮して、功績の詳細を省いている可能性が高い」とされるほどで、実際はさらに多くの功績を上げていた可能性もある。

この多大な功績に繋がった曹真の長所は、諸葛亮に読み勝つほどの「将としての優秀さ」だけではなく、もっと高い視点から状況を見定める能力、即ち「将の将としての優秀さ」にもあるだろう。
曹操自身をはじめとして、曹家・夏侯家には「俺がやる!俺が自分でやる!」の精神で前へ前へと出たがる将がやたら多い。
こうした率先垂範は指揮官として間違った姿勢では決してないが、しかし国家レベルの軍事力の統率者としてはそれだけでは足りないのも事実。

「将の将」たる人物に求められるのは、優れた将才だけではない。優れた将才に溢れた多くの将軍たちを使いこなす能力こそが重要なのである。
例えば曹真を上司としていた頃の張コウは八面六臂の大活躍を示したが、司馬懿が上司になった途端、意見をことごとく却下されてその経験を活かせず、無謀な追撃を強要されてついには戦死する羽目に陥っている。
いにしえの韓信も言った通り、将たる資質をもつ人間は少ないが、将の将たる資質をもつ人間はさらに少ないのである。

また曹真は人格面でも優れた器量の持ち主であり、兵と共に苦労することをいとわず、恩賞の為に自腹を切ることも辞さなかったため、直属部隊の士気も非常に高かった。
第1次北伐で曹真は趙雲を配下の一隊を送っただけで打ち破っているが、この一隊の指揮者の名は伝わっていない。
つまり特に名声があるわけでもなかった一指揮官でさえ、歴戦の将である趙雲を圧倒できたのである。彼らの士気と練度がいかに高かったかがわかる。

また曹遵朱讃といった古い友人たちが亡くなり、残された家族が苦労していることを知ると、「私の領地を少し分けてあげてもいいですか?」と曹叡にお願いするなど、歴戦の名将らしからぬ穏やかな逸話も伝わっている。

しかしそんな体型以外完璧超人気味の曹真にも欠点はあった。
その最大のものは息子たちの教育に失敗したことで、これは曹真の数多い功績をかき消してしまうほどの汚点になったと言っても過言ではない。


【子供たち】


桓範をして「曹真将軍は立派な方だったのに、こいつらは家畜かなんかか!!」と言わしめた愉快な子供たち。

『曹爽』
in木のおうち並ぶもの無き超重臣となった父の死後、その跡を継いで高位を得た。
曹叡の死に臨んで、父と同じように次代皇帝曹芳の補佐を任された。
が、司馬懿に勝つための軍事実績作りで蜀攻めをしたらフルボッコにされ、逆に自らの権威を落とす結果に。
その後も司馬懿との政争にあっさり敗れて族滅(一族皆殺し)されてしまった。
彼のために曹一族の権勢までも落とし、司馬氏の簒奪への道筋も作ってしまった。
『三国志』には色々とその乱行・悪行が載せられているが、時代柄司馬氏に配慮して相当盛られている可能性が高いという点には注意がいるだろう。
とはいえ父や司馬懿と違って下積みで苦労した経験がないためか、「引退してくれたら殺さないよ?」という甘言に乗せられてあっさり投降するなど、権力者としては明らかに甘っちょろい。


『曹羲』
inレンガのおうち。兄の曹爽同様に権力をふるったが、それを維持する器量は持ち合わせていなかった。
とはいえ兄に比べると比較的真面目な人物であり、優秀な儒学者としても知られていた。また奢侈に走った一族(特に兄)を諫めるため、弟への訓戒と言う形で一族全体の綱紀粛正を図ったりしている。
しかし決断力という点では兄と同レベルであり、司馬懿のクーデター時には千載一遇のチャンスを得ながらも、甘すぎる判断を下して自ら処刑台に行く羽目になった。

『曹訓』
in藁のおうち。ダメ兄弟の中でも一頭地を抜いてダメな男。
一族の権勢をいいことにご乱行がすぎたため、兄の曹羲からスケープゴートとしてお説教を受けた。
コーエー三国志ではその能力の酷さが地味に有名(ネタキャラの劉禅と同レベル)。

他にも3人ほど息子がいたが、兄らと同じく司馬懿によって皆殺しにされている。


【創作における曹子丹】

さてそんな曹魏の誇る名将曹子丹だが、創作物においては見るも無残なポンコツ扱いがデフォルトになっている
現代日本では様々なジャンルで多様な三国志創作が産まれているが、曹真を史実に即した名将として書いているものは殆どない。
三国志創作全体の歴史という面から俯瞰しても、おそらく全体の5%にも満たないのではなかろうか。

曹真がここまで画一的なポンコツ扱いを受けてしまうのは、ちゃんとした創作上の必然性がある。

1.「孔明の敵だから」
これは「孔明を打ち負かした敵だから、腹いせに弱体化された」わけでは決してない。
なぜなら大衆にとって孔明とは疑問の余地もない無敵の存在であり、そもそも誰にも負けたことなどない、という認識なので腹いせする必要もないのである。
よって曹真はむしろ「自分の実力もわからず諸葛亮に挑み、無惨に敗北した」キャラであり、必然的に道化的な側面を持つ弱キャラになることが多い。

無論歴史的事実として孔明は曹真に負け続けだったわけだが、孔明は特殊な歴史的経緯から、士大夫からは太公望や張良にも比肩される無敵の士とみなされていた。
このため史学分野においてすら「孔明は曹真に負けてなんかない、むしろ勝ってる」という解釈が一般的だったのである。どうしてそうなる
清代の歴史学者である何シャクも、南征に失敗した曹真をして「敵を知り己を知らば百戦危うからずっていうけど、曹真は自分と相手の実力差も知らなかったの?」とボロクソに評したほど*6

2.「司馬懿の前座だから」
そしてそれよりもっと大きな原因は、後任である司馬懿の存在である。
「孔明VS司馬懿」という図式は三国志創作黎明期から続いている伝統的なライバル関係であり、この二人の戦いを強調するためには、どうしても曹真はその前座として一段下がったところに位置せざるを得ない。
また司馬懿が真打として登場する以上、その前座はコテンパンにのされてしまった方が当然展開として盛り上がる。

この孔明と司馬懿の戦いは三国志の後半を彩るメインテーマであり、また三国志最後の大イベント「孔明の死」に繋がる重要な伏線でもある。
よって三国志創作を盛り上げる上で、この二人のライバル関係はほとんど必須といってよいモチーフであり、同時に曹真がポンコツ化するのもまた必然と言える。

3.「息子が魏を滅ぼす原因作ったから」
上とやや被る面もあるのだが、後を継いだ曹爽が諸葛亮亡き蜀にフルボッコにされて威信を失い司馬懿に隙を突かれて族滅され、司馬懿が魏の実権を握ってしまったというのも曹真を貶めている原因の一つであると思われる。
ここで曹真が有能だったと記載すると司馬懿は厄介な名将がいなくなるや、後を継いだ未熟な息子を貶めて魏を私物化しようとした子悪党となってしまい、孔明の敵としての格が落ちてしまう。

また、いくら盛られているとは言え曹爽の無能が司馬懿の専横を促す結果になったのは紛れもない事実であり、息子達が無能=父も無能としておいた方が都合がよく、司馬懿の簒奪に正統性を持たせる為に曹爽の巻き添えでポンコツ化させざるを得なかったともいえる。 


『三国志演義』系統

基本的に曹真が三国志創作に登場するのは、正史や資治通鑑を骨格とした『三国志演義』の成立以後である。
つまり演義こそが曹真の記念すべき初登場作品と言っていいのだが……

◎「常敗将軍」
演義の曹真は徹底的に無能として書かれており、蜀相手に連戦連敗し続ける。
まあ演義で孔明に勝つことは誰にも出来ないし、趙雲や姜維も超強キャラなので曹真が特別にダメというわけではないのだが、にしても曹真の場合は負けっぷりが飛びぬけている。
演義における北伐前後の時代は正史と大分展開が違う(時系列がいくつか入れ替わり、またそれぞれの戦いが大分引き延ばされている)のだが、その敗北記録を並べるとこんな感じになる。

①五路侵攻作戦で趙雲に敗北
劉備の死を知った曹丕は、司馬懿の進言で蜀に対して「五路侵攻作戦」を開始。
曹真はこの作戦の総指揮を執り、自ら1路を担って陽平関を攻めたが、趙雲に阻止されて撤退。まず1敗

②舌戦で敗北
第1次北伐で、孔明に完敗し三郡を失った夏侯楙に替わって孔明と戦う。
配下の王朗に諸葛亮に舌戦を挑ませるが、完敗して王朗は憤死。2敗め。

③夜襲迎撃失敗で敗北
王朗の死後、孔明が夜襲をしかけてくると判断して迎撃し、逆に夜襲を試みるがいずれも孔明に読まれており失敗。兵力を大幅に喪失する。3敗め。

④異民族兵を使うが敗北
郭淮の策で異民族の西羌から軍を出させ、孔明の背後を襲おうとしたが、孔明はあっさり撃破して帰順させてしまう。
曹真は蜀軍が後退したため策が功を奏したとみて出撃するが、当然孔明の罠であり、逆撃されて大敗。配下の曹遵・朱讃を失った。4敗め。
この連敗で魏の宮廷でも「曹真は孔明の敵ではありません、司馬懿を使うべきです」と言われる。

⑤撤退する蜀軍を追撃するが敗北
馬謖が負けたせいで後退する蜀軍を追撃したが、司馬懿が孔明の伏兵を読んで追撃を停止したのに対し、曹真にそんなことができるわけもなく、姜維と馬岱の伏撃を受けて大敗。配下の陳造を失う。5敗め。

⑥姜維の偽装投降で敗北
陳倉の戦いでは珍しく孔明が勝てずにいたため、その代わりということなのか、付随した戦場でついでのように曹真がまた敗北する。
姜維から投降と内応をしめす手紙が送られ、費耀が「どう考えても怪しいですって!」と忠告するも、曹真は「姜維は元は魏の者なんだから、戻ってきたいと思っても不思議ではないぞ」とまんまとひっかかる。
案の定孔明の……いや姜維の罠であり、またも大敗。費耀を失った。6敗

⑦陳倉でさらに敗北
しかし相手が曹真では1回倒した程度ではスコアにならないと思われたのか、追加でもう一敗おかわりがくる。
今回もまた「孔明を罠にはめようとするが、既に孔明に見抜かれており、罠を逆用されて大損害」といういつものパターンである。7敗め。

⑧王双が斬られた 王双が斬られた うーん
司馬懿と張コウから「孔明は密かに後退しているのに、気づいてないのですか?」と言われ、慌ててそれまでさんざん蜀軍に対して暴れてきた王双を送り出すが、孔明が仕組んだ魏延の伏兵にあって戦死。
無能な采配でまたも優秀な将軍を失ってしまい、ついに曹叡から都督をクビにされ指揮権を司馬懿に譲る。8敗

⑨南征からの撤退時に敗北
「曹真と司馬懿が大軍で漢中を攻めたが、長雨で後退」という珍しく正史要素を含んだ展開になるが、曹真は「まさかこの雨では孔明も追撃などできまい」と露骨なフラグを立てる。
さらに「孔明ならしてきます」という司馬懿と口論になり、「では賭けよう。私は陛下から賜った帯と馬を賭けるぞ」とどんどんフラグを追加していく。
さらに孔明を侮って備えを怠るわ、司馬懿から「賭けなんかいいから、注意なされよ」との忠告を「そんなに賭けに負けたくないのか」と聞き流すわと、最早負けフラグの塊と化して読者の期待をあおる。
そして当然ながらその後、孔明の念の入った襲撃を受けて見事に大敗。配下の秦良を失った。
さらに危ない所を司馬懿に助けられ、恩に着せる様子もない彼を見てさらに恥じ入り、病に倒れてしまった。9敗め。

⑩デスレターで憤死
曹真が病に倒れたことを知った孔明は、周瑜に対して使ったデスレター作戦をまた使う。
孔明は「大司馬(笑)曹真殿、1勝もできずに負け続けるとか、生きてて恥ずかしくないの?そろそろ魏も終わらせちゃうよ?」クソコテめいた煽りの手紙を捕虜に持たせて曹真に送り付け、それを読んだ曹真は心痛のあまり憤死。
こうして曹真は10戦10敗という、三国志演義でもまれに見る連敗記録を遺して世を去った。


◎「セコイ」
基本的に司馬懿の活躍を妬んでいらんことをする→大敗するというパターンが多く、人として器が小さい。
第1次北伐では司馬懿のおかげで勝ったのに、蜀が放棄した3郡を再制圧して自分の手柄にしてしまうなど、いかにも小物じみたセコさをもっている。


◎「お人よし」
部下の進言を無下にしなかったり、曹叡に疑われた司馬懿を弁護したり、諸葛亮の策で蜀に降る事になってしまった姜維の投降(策略だったけど)を受け入れたり、司馬懿に指揮権を渡せと命令された際は素直に渡そうとするなど、無能で小物ではあっても性格は優しい。
もっともこれは優しいというより、主体性がなく優柔不断と言った方が正しいかもしれない。


◎「部下がやたらと強い」
王双や孫札など、曹真の下に配属された武将たちはかなりの文字数を割いてその強さが強調されることが多い。
無論これは食べるために家畜を太らせるようなもので、最終的に孔明の餌食になるからこその強さなのだが。



などといった感じの酷すぎる、しかし曹真像として非常に完成度の高いキャラになっている。
注目すべきは、この演義型曹真には正史の曹真の戦歴やエピソードなどが殆ど反映されていないという点だろう。
その戦績を見てもわかる通り、演義の曹真が参加しているのはそのほぼ全てが創作の戦いなのである。

つまり演義の曹真は、正史のそれを脚色して作られたキャラというより、「孔明のやられ役&司馬懿のかませ犬」という物語上の必要性から逆算して想像されたキャラという側面が強い。
このため曹真の役割やキャラは既に演義に登場した時点で完成の域に達しており、現代にいたるまで変化はほとんど見られない。


『三国志平話』

演義のプロトタイプとも言われる元代の小説だが、曹真はまだ影も形もない
もっとも、「北伐で孔明のやられ役&司馬懿の噛ませ犬」になるキャラ自体はいる。いるが、それは寿命が延びた夏侯惇の仕事になっている。キャラ数節約乙


『三国志 Three Kingdoms』

現代中国の連続歴史ドラマ。後半の主役として司馬懿に大きくスポットをあてた作品なので、それにからむ役として曹真もかなりクローズアップされている。
演義における夏侯楙と曹真と曹爽を足して3をかけたようなキャラで、「無能な働き者」「頑固」「自己中」「プライドだけは高い」「小悪党そのものの性格」という役満状態のダメ将軍。
そこそこの策略家である息子曹爽に度々フォローされているが、曹爽も曹爽でイマイチ詰めが甘い上に、曹真本人が致命的なまでに無能すぎてまったく実を結ばない。
散々でしゃばって司馬懿の邪魔をしながら孔明に負けまくるが、南征からの撤退中にやられかけたところを司馬懿に助けられ、優しい声をかけられながら全力で傷を叩かれてついに殺されてしまう。


『三国志』(吉川栄治)

無能なのは変わりないが、謙虚さ、穏やかさと言った人のよさの方が強く出ている。
また原作のように身の程知らず&無自覚な完全無能とされているわけでもなく、孔明との圧倒的な能力の差を自覚していながらも、やむを得ず懸命に戦うという感じの悲痛なキャラになっている。


『横山三国志』

吉川三国志を下敷きにしている横山三国志でも、強くはないが謙虚で穏やかな人格者として書かれている。
かの孔明からも「見事な陣じゃ、夏侯楙とは雲泥の差じゃ」とほめていただけるなど、「そこまで無能ではないが、相手が悪すぎた」という感じに近くなっている。まあ結局は一方的にボコられ、殺人的な煽りによって憤死するんだけど。
また見た目のモブくささが半端ではなく、作画資料の連環画では結構貫禄のあるハデめの恰好をしているのに全く参考にされていない。横山先生的にも「作画資料を引っ張り出すまでもないキャラ」だったのかもしれない。


『三国志』(宮城谷昌光)

演義要素を意図的に全排除した珍しい三国志小説で、曹真も史実通りの優れた武将として書かれている。北伐初期のまだ未熟だった諸葛亮を圧倒、司馬懿に対しても経験からくる実力の差を見せつけた。


『コーエー三國志シリーズ』

SLG三国志シリーズは基本的に演義を原作としているが、周瑜や魯粛のようにあまりに正史と違いすぎる描写の重要キャラの場合、正史要素を考慮した能力に設定されることもある。
……なのだが曹真の場合、明らかに演義準拠と言わざるを得ない能力値にされている。と言っても貧相というよりは見掛け倒しといったほうが正しい。
能力の合計値自体は初期シリーズからそこそこ(少なくとも偏差値50を切ったことはない)で、総合値は悪くないのだが、戦闘能力に関係しない魅力で嵩上げされているため*7、実用性は数値より低く感じがち
後の作品になるにつれて正史などの要素が強まった恩恵で能力が上がってはいるのだが、一番上がっている能力は同じく戦闘能力に関係しない政治*8で余計器用貧乏になってしまったあたり、ある意味手が込んでいる。
しかしなぜか、ピザ気味のふくよかなお顔だけは正史要素を反映されることが多い。


『三國無双』シリーズ

当然というべきか、モブ。エンパなどでの性能優遇措置もあったためしはない。
ソシャゲーの外部作品『無双ブラスト』ではついに脱モブを遂げたが……これは豚?熊?武器と体型は董卓だが……やはり豚か
レア度がNなあたりがかわいそういかにも曹真である。


『三国志大戦』シリーズ

逸話を反映してか弓兵として登場する。
シリーズ通して武力知力のバランスが取れた良ステータスを持つ。
また「虎豹騎の指揮」「虎豹騎の遊撃」など派手さはないが戦力を下支えする堅実な計略を扱える。
見た目もイケメンにされていることが多く、全媒体の中でもかなり優遇されているほう。
2016年稼働版ではコスト2.5の騎兵で号令計略持ちという司令官らしいスペックの曹真まで追加された。見た目も相変わらず精悍かつイケメン。
コスト2.5は各勢力の君主や看板武将が揃うコスト帯*9であり、曹真優遇に磨きがかかっている。





「孔明とはなんと恐ろしい男よ。わしはもう追記:修正する自信がなくなった」
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*1 ただし基本的に前者が有力説ではある。

*2 弓術で言えば”押し捩り”と呼ばれる高度技法である

*3 上記の逸話を考えれば全身が鍛え上げられた筋肉で覆われたガチムチと言った方が正しい。 但し筋肉云々の知識が無かった当時の人達には「肥えている」様にしか見られなかった為に結果的に「デブ扱い」されたのかもしれない。

*4 ただしクシャ―ン帝国そのものからの使者だったのかは疑問の声もある。

*5 剣履上殿…帯剣したまま宮殿に出入りできる権利。入朝不趨…宮殿で小走りで歩かなくていい権利。これが許されるのは蕭何のような建国トップクラスの功臣か、王朝簒奪に王手をかけた権力者と相場が決まっている。

*6 曹真は将軍なので皇帝の命あらば戦うしかなく「負けると解っても戦うしかなかった」のである。 と言うよりこの批判は結局北伐を成し遂げられなかった諸葛亮や姜維にも当てはまってしまうのだが…

*7 讒言された司馬懿を必死に弁護しようとしたり、司令官の印璽を司馬懿が固辞するのに渡そうとしたりした「人の良さ」や「人望」が反映されているのだろう。

*8 演義の初登場時に「夏侯楙とは桁違いの軍備」を整えたことや、何度敗れても軍を再編したことから軍政家という扱いなのだろうか。

*9 魏のコスト2.5には曹操・曹丕親子や夏侯惇、夏侯淵、張遼などのカードが存在する。