赤壁の戦い

登録日:2010/03/13 Sat 21:53:56
更新日:2025/09/20 Sat 13:41:01
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赤壁の戦いとは208年に、現在の湖北省赤壁において曹操軍と孫権劉備連合軍との間に起こった戦いで、官渡の戦いを超える三国志史上最も有名な戦い。

経緯

事の発端は7月の曹操軍の南征から始まる。
目標は荊州を治めていた劉表及びその庇護下の劉備であったが、
劉表は曹操の到達前に病死、彼の息子はすぐさま降伏し、劉備は長坂にて必死の逃避行の末、魯粛と会見し、夏口に布陣。

孫権陣営は当初帰順しようという意見が多数であったが、周瑜魯粛が説き伏せ、孫権の決断の後、
劉備の使者である諸葛亮との間に同盟を結ぶ。

曹操軍もおよそ十五万とされる兵と荊州で得た水軍を率い、長江を下ってゆく。


戦闘

12月ごろ、曹操軍と周瑜軍が赤壁の水域にて激突、緒戦は疫病に苦しむ曹操軍が敗北する。曹操軍は後退し烏林に布陣。
両軍は長江を挟んでの睨み合い・長期戦となる。

そうなると、孫権軍より多勢の曹操軍に多くの問題が出てきた。
まず、荊州を併合したとは言え、本国から長駆しての遠征が続き、兵站が伸びきり食糧不足に陥っていた。大軍を率いていれば食料の消耗もまた激しい。
荊州からの補給に頼ろうにも、もともと荊州は今回のような大軍を動員することは想定していない。荊州軍は七万ほどとされ、その荊州兵を加えて二十万近くに増えた南征軍を賄う補給能力はなかっただろう*1
さらに、中原・河北出身者が大勢を占める曹操軍将兵のあいだに南方特有の疫病が蔓延。
曹操軍はここに来るまでに劉備軍と長坂などで戦いを続けており、その消耗もあった。
この「連戦による疲弊」は劉備軍も同じだったが、彼のもとに劉琦の軍勢・一万人の将兵が合流しており、こちらは戦意が高かった。彼らは荊州出身の兵士であり、地理に明るいことも好条件だった。

そんな中、孫権軍の宿老・黄蓋が、曹操軍の船と船が密着していることに気づいた。
彼は偽降の計を用い、自らが降伏するように見せかけて曹軍の水営に接近し、その間隙をついて火を放ち、散々に打ち破ることに成功する。
折しも南西から西北へと強風が吹いていたこともあって、火は曹操軍陣営まで届き、大量の人や馬が焼死及び溺死する。
また、敵軍に利用させるのを防ぐため、曹操軍が自軍の船を焼き払ったとする資料もある。

(もっとも、長江は東に流れ、曹操軍は西北に逃げている、という状況下では、船での追撃は困難であり*2、鹵獲されることを嫌う意味はないと思われるが。ついでに言うと、周瑜軍が長江を挟んで対岸にある曹軍陣地に渡って船を鹵獲できたというなら、既に孫軍には渡河に十分な船があると言うことであり、「敵軍に利用されることを防ぐため」という意味では効果がない。仮に鹵獲されて孫軍の所有艦船が増えたところで、それを動かす兵の数が増えるわけでもなく、効果的に扱えないはずでもあるし)

曹操軍は這々の体で敗走し、周瑜と劉備は曹操軍を追撃。
孫権も合肥を伺うが、こちらは合肥を救援に向かった蒋済の計により、孫権は包囲を解いて本拠に戻る。

それでも追撃の手は南郡まで及び、江陵を守備する曹仁と周瑜、劉備の軍は対峙。

夷陵を甘寧が数百で奪取したり、曹仁がそれに五千近くの兵を送ったり、周瑜が自ら甘寧を救援したりして、夷陵を支配下に置く。

その後周瑜は曹仁の副将の牛金を包囲するが、曹仁がなんと数十名でこの包囲網を撃破し牛金を救出、
更に周瑜に矢傷を負わせるが、ついに包囲されてしまい、補給路の北道も関羽に封鎖されてしまう。

必死に堅守する曹仁だったが既に戦闘開始から一年が経過していた故に疲弊・困窮してしまったが、
北道に展開していた関羽の封鎖網を李通・満寵らの救援軍が突破、曹仁はなんとか江陵から脱出出来た。

そのまま周瑜は南郡を、劉備は荊州南部四郡を平定することに成功。

これで赤壁から起こった一連の戦は一応の決着を見る。

所で、諸葛亮の名前がほとんど出なかった事が気になった人が居るだろうが、
正史にて明らかになっている彼の動向は「劉備と孫権の同盟を取り付けた」ぐらいであり、史書の彼の伝では赤壁について「曹操は赤壁にて敗北し、兵を引いた」としか書かれて居ないのである。
もっとも、孫権軍には実兄の諸葛瑾がおり、彼と接触して外交交渉をしていた可能性はかなり高い。というか、それがないのは劉備・孫権の立場から考えても不自然だろう。
劉備は言わずもがな、孫権にしても劉備の軍勢や曹操軍と戦った経験、諸葛亮個人が十年間の荊州暮らしで知っている荊州兵の内情など、諸葛亮から聞きたいことは山ほどあるはずだからである。


考察

もともと「赤壁の戦い」は分かりにくい戦と言われている。
最大の要因としては、曹操・劉備・孫権が一堂に会した孫権は周瑜を代打にしたような形だが戦いであるだけに、後年の魏・呉・蜀漢三国のそれぞれの立場がそれぞれの史書に反映され、三者三様に都合のよい情報が記録されてしまったためである。
歴史書に、一つの場面で矛盾する描写が多々あるというのはいつものことだが、この赤壁の戦いはそれが特に多いことで知られている。

  • 何故、曹操は長江を下り、周瑜は長江を遡ったのか
曹操の性格、今までの戦歴からして、江陵を落とし荊州を平定し、劉備を追い払った、
これで普通は魏の南征を終結させたはずである。残った孫権らは大した力はなく、後でじわじわ締め付ければそれでよかった。それを、わざわざ大軍を率いて長江を下り孫権討伐をする理由がわからない。

中原と河北を制した曹操の慢心、というのは思考停止以外の何物でもあるまい。

良く言われるのは、戦の発端が曹操の脅迫文であったこと。
しかしこいつの出典は孫呉を賛美する『江表伝』であり、内容が明らかにおかしい為に正史に採用されていないのだが、
他に曹操の侵攻を説明する目処が無いのである。
孫権の項でも触れられているが、ここにも文を載せようと思う。

『近く勅命を奉じ罪人を討つべくして南に軍旗を向けたが、

荊州は抵抗することもなく降伏をした

これより水軍八十万を率いてゆく

呉の地にて孫将軍と共に狩りをしようではないか』

この文章の突っ込み所は四つ。
まず八十万というのは各地の曹操軍全てをかき集めた兵数であり、先ず現実的では無い*3
そもそも荊州攻めには皇帝の勅命を奉じている訳で無いし、当時の孫権の所在地は呉ではない
更にこの文が発され受け取った時から両軍が進発しても、長江赤壁にて衝突しない筈なのである。
が、他に理由とできるものも見つからず、演義を始めとした創作物はこれを脚色し、様々な赤壁像を作り上げている。
そもそも「赤壁の場所」自体が正確に判明しておらず、近年では史実上の存在を疑問視する歴学者もいる始末。

  • 両軍の兵力
曹操軍の兵力については『諸葛恪伝』では「曹操軍三十万」としているほか、先の『江表伝』でも周瑜の分析で「十五、六万を超えることはないだろう。加わった旧劉表軍も七、八万は超えまいし、荊州兵は突然曹操指揮下に組み込まれたわけだから、困惑しているはず」として、曹操軍を22~24万ほどと見積もっている。
また、かつての袁紹は全盛期に十万の大軍を動員している。曹操は赤壁当時、これまでの中原四州に故袁紹の領土を支配下に置いていたので、「曹操本隊が15~16万」というのは妥当性が高い数値と推測されている。

対する孫権軍であるが、『周瑜伝』では周瑜麾下の主力軍は三万だったとしている。別の記述では「周瑜と程普を左右の都督として、それぞれに一万人を率いさせた」とあるので、この場合は二万となる。
これに、劉備の勢力が加わる。諸葛亮は『諸葛亮伝』にて「関羽の水軍一万と劉琦の兵力一万」と発言しているが、諸葛亮の発言には誇張があり、劉備・関羽と劉琦の両軍を併せて一万ほどというのが定説の模様。
いずれにせよ、周瑜・劉備・劉琦の連合軍を最大限に見積もっても五万、曹操軍をいくら少なく見積もっても二十万前後、という規模の戦いなので、それを逆転した(少なくとも南征を頓挫させた)のは大きな成果と言える。


戦の結果

赤壁の戦いの意義として、大きくは3つ。

  • 孫呉政権が曹操打倒の可能性を見いだす
孫呉は豪族の寄り合い勢力であり、彼らがバラバラであればどうしようも無い。実際、赤壁の戦い直前には多くの部下たちが「曹操への降伏」を説いた。
しかしこの赤壁での勝利により曹操を倒すということが現実的なものとなり、孫権の権威も向上。呉郡豪族が一丸となるきっかけを生み出した。
(一方、開戦前は豪族たちに危うく身売りされそうになったことは孫権の鬱屈となり、20年後にこの件を持ち出して張昭をあげつらったことがある)

  • 劉備が足掛かりとなる土地を得る
曹操の勢いが完全に止まったスキに、劉備は徐州以来であった領土をついに得た。そこが隣接する益州・巴蜀の地を盗る足掛かりとなっていく。

  • 曹操の中華統一の頓挫
破竹の勢いにて中原と河北を統一し、残すのは僅かと思われた曹操が赤壁で喫した敗北は痛恨の極みであった。
この後も、勢いづいた孫権、劉備の両陣営には濡須口や漢中にて苦しめられることになり、ついに曹操一代では天下に手が届かなくなってしまった。


上記三点から、三国志の帰趨を大きく分けた戦いであるのは間違い無い、と思われる。





追記、修正宜しくお願いします。

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最終更新:2025年09月20日 13:41

*1 全盛期の劉表は「土地は数千里、兵士は十数万」だったと言うが、この数値にはもちろん相当な誇張が入っていたはずである。その「誇張込みの総兵力」よりも、赤壁における曹操軍は多かったと考えられる。短期決戦ができればまだしも、滞陣が続けばそりゃ兵站も破綻するわな。

*2 実際、曹操は陸路華容道を通って江陵に向かうが、「長江を船で遡るのでは逃げられない」と懸念したと考えられる。その場合、船がいくら敵軍の手に渡ろうとどうでもよかったはずである。

*3 まあ兵数を大幅に水増しして号するのは今も昔も洋の東西を問わず行われていることではあるが