馬良

登録日:2010/06/09 Wed 19:19:57
更新日:2020/04/04 Sat 15:43:32
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馬良(ばりょう)とは、後漢末期から三国初期にかけての人物である。
字は季常。
生年は187年、没年は222年。


【出自】


彼の出生である馬氏は、荊州北部の名門豪族であった。

彼は五人兄弟の四男であり、全員が字に「常」の字を持っていたことから「馬氏の五常」と呼ばれていた。
その四人はいずれも優れた能力の持ち主ばかりであったが、馬良はその中でも随一の力量を持っていた。
そして、馬良は眉毛が白かったことから「白眉、最も良し」と語られていたのである。

この言葉がいわゆる「白眉」の語源である。
現代でも作品群の中で一際優れた物を「白眉」と賞するなどとしてその名を留めている。
また、馬良の弟はのちに諸葛亮に重用される馬謖(字は幼)であった。

ただ、「馬氏の五常」で名が伝わるのは馬良馬謖のみで、ほかの三人の兄は名前すら伝わらない。
彼らの時代は「名士」がかなり重宝されていた時代であったが、
それゆえに「業績を立てることなく名声だけを求めて、虚名ばかりを立てようとする」連中もかなり多かった。
実は諸葛亮の「臥竜」や龐統の「鳳雛」、その師匠である司馬徽の「水鏡」なども、「仲間内でたいそうな称号を呼びあって、実際は何の働きもしていないのに名声だけは求めていた」という説さえある*1
おそらく「馬氏の五常」も、彼ら五人が才子ばかりだったから付けられたのではなく、彼らが名声を獲得するために名乗り始めたものであろう

とはいえ、これもまた当時の世相で求められていた、一種の就職活動のようなものであるし、
荊州の有力豪族であった彼らは、そうすることが許される特権階級であったともいえる。

※当時、豪族は住民のほとんどを支配下に置くほどの実力があり、大国といえど豪族の支援がなければ徴税や徴兵さえできなかった。
 荊州刺史の劉表が豪族たちに拒まれて荊州に入れず、その後、「豪族たちの抗争に勝ちたい」と考えた蔡瑁・蒯越と組んだことで、やっと荊州に入れたというのは、この当時の国家権力の弱さと豪族の強さを象徴している。


【劉備への仕官】


さて、赤壁の戦い直後の混乱のさなか、劉備は諸葛亮の天下三分の計の要とも言える荊州南部を平定した
ここから劉備はこれまでの傭兵団の立場から脱却して、いっぱしの勢力へと成長するのだが、そのためには優秀で有能な行政官の数はどれだけいても足りなかった。
当然、豪族たちの支援も必要不可欠である。彼らスポンサーの支援がなければ、砂上の楼閣も同然なのだ。

そこで、劉備は馬一族と接触し、馬良、馬謖兄弟らを幕下に加えて馬一族の支援を取り付けることに成功した。
馬良は諸葛亮と義兄弟の契りを結んでおり、その辺も劉備が目をつける一因になったようだ。
やや穿った見方をすれば、諸葛亮にとって馬良は直接の後援者であった可能性も高い*2
なお、演義では伊籍の推挙による。


そして211年、益州刺史の劉璋が劉備に救援を要請したことと、劉備たちがそれを機に益州を乗っ取ろうとしたことから、劉備は龐統、黄忠らを率いて益州へと出発。
後方支援の拠点であり、呉や魏との最前線でもある荊州を関羽と諸葛亮に任せた。
この時、馬良も諸葛亮らとともに荊州に残っている(弟の馬謖は劉備とともに益州へ移動)。

のちに諸葛亮も張飛、趙雲ら援軍を率いて益州へと移動するが、この時馬良を関羽の補佐として残している。


【夷陵の戦い】


関羽の配下では、馬良は孫権への使者として呉へと赴いており、外交官的な立場にあったようだ。
しかし、結局は孫権と関羽の関係は悪化し、ついに孫権が魏と戦っていた関羽の背後を襲って荊州を併合してしまう

この孫権の背信や、大幹部であり相棒であった関羽の死、荊州失陥に激怒した劉備は、皇帝に即位するとそのままの勢いで軍を編成し、孫呉討伐を決行する。
馬良もこれに従軍している。
なお、馬良がいつどうやって荊州を脱出して劉備のもとに馳せ参じたのか、資料には記録にない。
廖化は呉に捕まったが脱出したとあるのだが……
少なくとも劉備の討伐軍にそのまま参加しているので、裏切りや背信はなく、単純に逃げ帰ったものと思われる。


遠征に出た蜀軍は三峡にて呉軍と対峙。いわゆる夷陵の戦いである。

この遠征で、馬良は南方異民族の一派である武陵蛮との交渉に成功し、蛮王の沙摩柯たちを参戦させることに成功している。
これは兵力の少ない蜀軍にとってはまさに大活躍といっていい働きであり、そのまま勝てていれば荊州統治にも光明が見えていたことだろう。

しかし戦いは利あらず、陸遜率いる呉軍の火計や伏兵により本陣が壊滅
馬良らは劉備を白帝城へと逃がすため殿軍を率いて剣を取り、戦死することとなった。
享年わずか36歳。


【三国演義では】

正史の活躍に加えて、外交官としての立場を買われてか、諸葛亮のもとから益州攻略戦さなかの劉備軍へと派遣され、
「天文によると誰か死にそうです。死亡フラグに注意してください」というメッセージを伝えに来る。
が、その対象だった龐統は「死亡フラグとか関係ねーです」自ら死亡フラグを立ててしまい、結局龐統の死は変えられなかった。

その後、諸葛亮と入れ替わりに荊州に戻る。

関羽が矢を受けた後、ブラックジャック華佗と麻酔なしの手術に臨んだ際に、碁で対局させられる羽目に。
荊州が落とされると伊籍とともに劉備のもとに援軍に走らされるが、結局間に合わなかった。

夷陵の戦いでは劉備の幕僚・相談役として補佐にあたるが、劉備の布陣に不吉なものを感じて益州の諸葛亮のもとに走る。
結局、驚いた諸葛亮に「すぐ戻って変更指示に行ってください!!」とまたも走らされるが、間に合うわけもなかった。

しかしこの縁で夷陵では戦死しないことになり、その後の南蛮遠征のさなかに病死するという報告が入っている。



【余談】

正史では「董劉馬陳董呂伝」にて、董和・劉巴・陳震・董允・呂乂とともに列伝が立てられている。
つまり扱いとしては良臣の一人として評価されていたわけで、決して扱いは軽くない。

……軽くはないのだが、なのに自分の記述よりも馬謖の記述の方が多かったり、
演義ではやたらと益州と荊州の間を往復させられているのに、毎度毎度間に合わなかったり話を聞いてもらえなかったりと、微妙に扱いが悪い。

まあ正史でも東に走れば孫権との外交に失敗し(別に馬良の責任ではないが)、南に走れば武陵蛮を味方につけるも結局戦争そのものが敗れ……
という事実があるため、「頑張ってるけど、本人の関係ないところで失態が起こり、努力が実を結ばない」という、難儀な人物となっている。

「死に様が演義の方が地味」という希有な人物でもある。三国演義の読者人口を考えるとこれはなかなか致命的……

仮にも「泣いて馬謖を斬る」の馬謖の兄貴で、「白眉」の語源でもあるという二つの故事成語にかかわっており、
しかもあの諸葛孔明の義兄弟という描きようによっては飛んでもないことになりそうな人物だというのに、
この影の薄さはいっそ奇跡のようである。


【その他の馬良】

  • 北方三國志
夷陵で撤退する劉備に背中で語る。

  • コーエー三国志
知力はおおむね80~90と高く、政治力は常に90の大台を突破している。魅力値も80台で安定しており、内政・外交担当としては非常に優秀。
他方で統率力や武力は低い。まあ使い方がわかりやすいということだろう。

割と饒舌で雄弁ではあるのだが、異常に声が小さくて何をしゃべっているのか聞き取れない。
そしてそれが関係あるのか、こっちの作品でも異様に影が薄い。

  • 三国志大戦
ver1
コスト1槍
武1知8
計略は士気8で味方陣地の敵に落雷を五本落とす「守護の落雷」。
三本当たれば知力9も落とせるが、如何せん使いづらい。

ver3
コスト1.5槍
武3知8
計略は士気4で撤退中の味方を撤退した場所に復活させる「戦線復帰」。
計略は中々強力だがスペックが微妙と専らの噂。

リブート
コスト1槍
武1知8征2 柵
計略は士気3で武力が最も高い味方の知力を上げ自動回復をつける「白眉の教授」。
どっちも量が半端ではあるが、知力上昇自体は蜀の中だと貴重で士気も最も低いのでコンボ重視なら使える。


  • 天地を喰らう(FC)
いらん子。

  • 天地を喰らう2(FC)
コウメイの使えない暗殺の計が使える。
それだけ。

  • 三国志(アニメ)
典葦・弁慶もびっくりする死に様を見せる。



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