南蛮(三国志)

登録日:2015/03/30 Mon 00:43:12
更新日:2020/05/28 Thu 17:17:22
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南蛮とは昔の中国において南西の異民族を差した言葉である。南中とも呼ばれた。
三国志では一つの勢力に近い形で登場している。


南蛮ってどこらへん?

現在でいうところの中国雲南省からベトナム・ミャンマー北部であるとされている。
三国志でいうとの南のあたりになる。


三国志における活躍

まず正史における記述。

もともと蜀は地理的な関係で、南蛮地帯と隣接していた。
そのため良くも悪くも影響を受けやすく、劉備の存命中にも幾度か反乱を起こしている。
あの馬謖も、越雋郡の太守であったころに南蛮と結託した反乱に巻き込まれており、それを鎮圧したエピソードがある。

孟獲の初登場は、劉備が死んだ西暦223年のこと。
益州南部・建寧郡の豪族に雍闓という人物がいたが、彼は劉備の死に付け込んで反乱を起こし、それに孟獲が呼応。
孟獲は南蛮と総称される諸部族に渡りをつけてことごとく造反させ、朱褒や高定も味方につけるなど、一時は地域全体を支配する大勢力となった

これに対して225年、劉備死後の体制を整えた諸葛亮が、李恢・馬忠の軍勢とともに自ら南蛮平定作戦を開始。
当初の首魁だったはずの雍闓は、高定といさかいを起こしたあげくに暗殺されていた。
すると孟獲が雍闓の残党を糾合し、そのまま諸葛亮の討伐軍を相手に抵抗を開始

諸葛亮は南蛮平定にあたって、ただ鎮圧するだけではなく、南蛮勢力の心服と蜀漢への組み込みを狙っていた。
端的に言うと、税の納入、兵士の供給である。
そのために彼は腰を据えて孟獲らと戦い、捕えても抵抗の意志があるとみるや解放し、ついに彼が完全に起伏したところで凱旋した。
この「何度も捕えては、完全に心服するまで開放した」エピソードは後世「七擒七縱」と呼ばれた。
正史「三国志」においては諸葛亮伝の注に引く「漢晋春秋」に記録があるのみで、あまり目立ってはいない。
ただ、「華陽国志」(348~354年に成立)にはもうこの名前で記録されているとのことで、古いことは古い。

その後の孟獲は南方の管理を請け負う立場となり、やがて「御史中丞」という官位も賜ったという。
また、南蛮平定の結果得られた南蛮出身の兵士たちは非常に勇猛であり、その後の北伐軍における精鋭部隊として活躍した。


ただ、南蛮の情勢はその後も反乱と平定を繰り返しており、そのまま平和になったというわけではない。
蜀漢側も問題は把握しており、諸葛亮とともに従軍していた李恢がその後も引き続き駐留し、南蛮情勢に対処している。

諸葛亮も死んで久しい240年には、馬忠の副将だった張嶷が越嶲郡の太守に着任し、南方や西方の情勢を劇的に改善した。
そもそも張嶷は異民族対策のエキスパートとして知られる超ベテランであり、
後に張嶷が北伐で戦死した時には南中各地の人々が平時からの恩を思い出し涙したという。


三国演義における活躍

その後、三国演義が誕生するにあたって、諸葛亮の南征は大々的にクローズアップされる。
しかし相手が一度しか戦わない「南蛮」ということもあって、ストーリーの整合性などを考えなくてもいいため、
エンターテインメント性をひたすら追求した娯楽エピソードとして完成している。

それでなくても、このころの三国演義は「劉備ら三兄弟や曹操の死」「陰惨な宮廷闘争」「漢の滅亡」「活躍した武将の老衰」など陰鬱のエピソードが続くため、
コミカルな雰囲気漂う南蛮編はまた独特の面白さがある。


南蛮の登場

劉備の死後、それを好機と見た曹丕は五路からへ一斉攻撃を開始する。
五路とは曹真孟達、そして異民族である南蛮を差し、これが南蛮の初登場である。
この時の南蛮軍は孔明の命令を受けた魏延の陽動作戦によって追い払われており、その他の四路も進攻に失敗している。

三郡の反乱

さて、先の戦いで魏延に追い払われた南蛮軍であったが、その後南蛮大王孟獲(もうかく)は本格的に反乱を起こし、さらに雍闓ら蜀の三郡太守もそれに呼応して兵を挙げる。
なんやかんやあってこの反乱は鎮圧されるが、背後にこんな火種を抱えたままではとてもと相対することなどできないと考えた孔明は、南蛮平定のために進攻を開始する。

南蛮進攻

蜀軍の進攻を知った孟獲は幹部である董荼那阿会喃金環三結を召集して迎撃に向かわせる。
……が、しょせんは田舎っぺ大将の集まり、金環三結は趙雲にあっけなく討たれ、董荼那と阿会喃は孔明に捕えられてしまう。
捕えられた2人は孔明に手厚くもてなされた上で解放されたが、これを受けて孟獲は直々に出陣する。……が、やっぱりこれまたあっさりと捕えられてしまう。
孔明は南蛮を攻めるにあたり、武力ではなく心を責めることで帰順させようとしていたため、孟獲も命を取ることなく解放させる。カウントⅠ

解放された孟獲は陣に戻ると部下に「番兵を斬って脱出してやったぜ!」などと嘯き、再び董荼那に蜀軍を攻めさせる。
しかし、董荼那は敵である自分を手厚くもてなし、命を助けてくれた孔明と戦うことが忍びなくて戦わずに引き揚げてしまう。
それを知った孟獲は大激怒し、三国志名物棒叩きの刑にされてしまった。
董荼那は当然不満に思い、孟獲を捕えて蜀軍に降伏する。カウントⅡ

二回くらいではまだまだ負けを認めない孟獲。気長にいこうとする孔明はやっぱり孟獲を解放する。
……んだが、孔明はなにをトチ狂ったか、その前に董荼那を自陣に引き挙げさせているのである。
孟獲は捕えられる過程で董荼那の声を聞いていたため裏切ったことを知っており、当然自陣に戻ったら董荼那を罠にハメて殺害する。孔明ほどの男ならこうなることは想像できると思うんですが…。
ついでに董荼那が裏切ったってことは阿会喃も怪しいという理由で一緒に殺されている。こんなのあんまりだよぉ!!

さて、性懲りもない孟獲は弟の孟優に貢物を持たせ、蜀軍に偽りの降伏をさせる。油断した蜀軍に夜襲をかけようという算段である。
そんな浅知恵で倒せるなら周瑜司馬懿も苦労はしない。
当然のごとく孔明には見破られており、夜襲に備えていた蜀軍によって孟獲は捕えられる。カウントⅢ

三度解放された孟獲。さすがにこのままでは敵わないとみて南蛮の他の酋長たちにも声をかけ、さらに大軍を集めることに成功する。
このままぶつかるには危険とみた孔明は陣を堅くし、迂闊に攻め込まないように各将を戒めた。
そして、いくら挑発しても蜀軍が攻めてこないため南蛮軍の気はガバガバに緩みきってしまい、隙をつかれてこれまた敗北。カウントⅣ

朶思王登場!

さて、知略戦では孔明には敵わないといい加減悟った孟獲。弟の孟優に相談して南蛮の知恵者朶思王(だしおう)の力を借りることにした。
孟獲を自分の領地に招き入れた朶思王は、自信満々に我に秘策あり。蜀軍など恐れるに足らずと言い放つ。
その南蛮随一の切れ者、朶思王の秘策はこれだ!

①朶思王の領地へ行く道は2つあり、一つは安全な道だがもう一つは毒蛇やサソリがいっぱいいる危険な道。だから安全な道を遮断してしまおう。
②危険な道はどうにか抜けたとしても、その先には毎日決まった時間に毒ガスが噴き出る場所がある。
③さらに先には恐ろしい4つの毒の泉がある。飲むと声が出なくなって死ぬ泉、体が溶ける泉、体が黒くなって死ぬ泉、冷たいが体が柔くなって死ぬ泉。喉が渇いた蜀軍は泉に手を出す。
④だから蜀軍はここまでたどり着けない。←Q.E.D証明終了

策……うん、策?
いやまぁ、たしかに良く言えば地の利を活かしていると言えるだろうが……はっきり言ってそのまんまである。
要約するとこの辺は危険地帯だから蜀軍も攻めてこれないよ!(キリッと言っているだけで策もへったくれもなく、正直言って知恵者関係ない。
たしかに孔明も最初は手こずっていたが、危険地帯を切り開いて進む頭脳があるからこそ本当の知恵者なのだ。
また、孟獲の兄孟節の力を借りるなどして蜀軍はとうとう朶思王の領地へとたどり着く。

「孔明とは神か悪魔か……」

さて、すっかりビビってしまった朶思王だが、孟獲はまだまだ戦う気まんまんである。
及び腰の兵士たちに喝を入れていたところ、近くの酋長楊鋒が加勢に来る。
これで怖いもんなしだぜ!と思っていたのも束の間、実は楊鋒は既に孔明に降っており、宴会で女性に剣舞をさせて楽しんでいる所を隙をついて孟獲を捕獲する。カウントⅤ

肝っ玉カーチャン祝融夫人

5回捕えられてもまぁ~だまだ諦めない孟獲くん。
本拠地に戻って酋長たちとあーでもないこーでもないと議論を交わす。ちなみに朶思王はそうこうしてる間に戦死した。
そんな不毛な議論を交わしている野郎どもを一喝したのが、孟獲の夫人祝融(しゅくゆう)である。
祝融は火の神の末裔を自称(そもそも「祝融」自体が中国における火の神の名前)し、男勝りな性格で飛刀の達人と、そこいらの武将よりもよっぽど勇猛な肝っ玉カーチャンである。
不甲斐ない男どもに業を煮やした祝融は直々に出撃し、自慢の飛刀で蜀の武将馬忠・張嶷を捕え、あの趙雲や魏延といった勇将を追い払うという大戦果をあげる。

凱旋した祝融夫人は馬忠・張嶷を殺そうとするが、
孟獲は「諸葛亮は捕えた俺を殺さずに助けてくれた。いま諸葛亮の部下を捕えたからって殺すことは無いだろ?」となだめており、根っからの悪人ではないところも見せたり。

祝融を侮りがたしと見た魏延と趙雲は、祝融のことを駝鳥夫人と挑発。
男勝りな祝融は当然激おこぷんぷん丸。冷静さを失って突っ込んで行った所を捕えられてしまう。
結局祝融は先に捕えていた馬忠・張嶷と人質交換で解放される。

猛獣使い木鹿大王参上!

さて、いい加減追い詰められた孟獲大王は、やむを得ず普段は対立している木鹿大王(ぼくろくだいおう)へと救援を求める。
木鹿大王も孟獲が敗れたら蜀の矛先は次に自分たちへ向けられると考え、孟獲への救援を承諾する。
木鹿大王の軍団は虎や豹といった猛獣や毒蛇を操り、さらに木鹿大王自身も象に乗って出陣する。
中国で象が軍に出てくるのは殷末以来のことである。

初めは慣れない猛獣との戦いに蜀軍は総崩れとなるが、ここはやはり公式チート・孔明先生の出番である。
孔明は書物であらかじめ猛獣を操る軍団のことを知っており、それに備えて秘密兵器木獣を用意しておいたのだ。
木獣とは簡単にいうと猛獣の形をした木像で、中に人が入って動かすことができ、さらに口から火や煙を吐き出すこともできた。
これにはさしもの猛獣たちも恐れて逃げだしてしまい、木鹿大王は関羽の子関索に討ち取られる。

孔明「関索人だ、人を狙え」
関索「でやっ!」(象を狙いながら)

※上記は横山光輝版三国志における木鹿大王と戦う場面。孔明のアドバイスを華麗にスルーしてた。その後ちゃんと人の方を狙ったが。

あ、孟獲さんもどさくさに紛れて捕えられました。カウントⅥ

リアルモンスター兀突骨

いい加減凹み気味の孟獲さん。やむを得ず南蛮のさらに奥地、烏戈国( う か こく)兀突骨(ごつとつこつ)の下へ身を寄せることにした。
この兀突骨だが、以下のように伝えられている。

  • 身の丈十二尺(現在でいうと270~290センチ
  • 全身が鱗に覆われている
  • 生きた蛇や獣を食べている。

※三国志演義は西遊記や封神演義のような妖怪変化の世界観ではありません。

とまぁ、フィクションなのをいいことに、いくらなんでも盛りすぎだろってくらい盛っている。

さて、兀突骨の軍には藤甲兵という軍団がいた。藤甲兵とは藤の蔓を編んだ後に油で漬け込む→乾かすを10回あまり繰り返して出来た鎧であり、槍や剣や矢を通さないほど丈夫なうえ、水にも浮く、軽いので動きの邪魔にもならないという優れものである。
例によって最初は藤甲軍に苦しめられた蜀軍であったが、材料が蔓であること、そこに油がたっぷりとしみ込んでいることから火に弱いと見破った馬謖の進言により、兀突骨をはじめとした藤甲軍は火計によってまる焼けにされてしまう。
兀突骨が孔明を討ち取ったという偽の報告を受けた孟獲は、陣から出たところをあっさりと捕まってしまう。カウントⅦ

孟獲帰順

しかし諸葛亮は、最後の藤甲軍を焼き殺したことでショックを受けていた。あまりにもむごすぎたのである。

「これほどの無慈悲な殺しをした自分が、善終できようはずがない」
「南蛮討伐といいながら、本国を遠く離れ、やったことといえば孟獲など比較にならぬ残虐ではないか」

自らの所業を見つめなおし、心が折れた諸葛亮は、七たび捕えられてすっかり悄然とした孟獲を釈放するよう言った。


しかし孟獲は、そんな孔明に自ら膝をついた。
単なる獲物ではなく、悪辣な侵略者でもなく、聡明でありながら慈悲と自責の心を持った孔明に対して、孟獲は心から帰順することとなる。
こうして、孔明の南蛮平定はなされたのであった……。



十年後、諸葛亮が五丈原で陣没して棺となって帰ってきた際、その葬式には泣き崩れる孟獲の姿もあった。




追記・修正は南蛮を平定してからお願いします。

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