イヴァン・ラキティッチ

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イヴァン・ラキティッチ - (2020/01/14 (火) 19:03:47) の編集履歴(バックアップ)


登録日:2019/03/10 (日) 09:17:42
更新日:2024/04/28 Sun 20:48:23
所要時間:約 30 分で読めます





僕の一部、僕の心は、本当にクロアチアのためにプレーしたがっていた。


家族全員があそこの出だし、自分がクロアチア人なんだという心からの気持ちがある。



───最終的に、心の声に従ったのさ。






イヴァン・ラキティッチ(Ivan Rakitić)はクロアチア代表のサッカー選手。
ポジションはMF。


◆概要


高いテクニックに豊富な運動量を兼ね備えたゲームメーカータイプの選手。
ある時は中盤の舵取り役であり、またある時には攻撃の起点や守備の要にもなる。
その一方で、虎視眈々とゴールも狙うハンターでもあり、最大の武器は強烈なミドルシュート。
バルサと言えば美しいサッカーに強烈無比な攻撃陣が印象的であるが、味方からすれば様々な役目を高いレベルでこなすありがたい存在であり、
相手からすれば自陣で守備を固めるだけでなく、飛び道具持ちの彼のマークにも人数を割かなければならないわけで、たまったものではないだろう。
かつてマドリーの監督としてバルサと丁々発止のやり取りを繰り広げたジョゼ・モウリーニョ監督も、「この世で最も過小評価されている選手の一人だ」と、称賛を惜しまないほど。

また、W杯ロシア大会での代表の大躍進により、キャプテンであるルカ・モドリッチとの絆の深さが知れ渡ることになった。
モドリッチが中性的な美少年だとしたら、こちらは澄んだ瞳に端正な顔立ちの貴公子と表現すべきだろうか。生え際が……とか言うな

クラブではモドリッチと最大のライバル関係にありながら、代表では最大の相棒という不思議な立ち位置のラキティッチ。
そして彼もまた、数奇な運命を違う形で背負っているのだった……

◆生い立ちとクラブ経歴


1988年3月10日、クロアチア……ではなくスイス北部、ドイツと国境を接する町メーリン(ラインフェルデン)にて生を授かる。*1
なぜスイス生まれなのかというと、クロアチア紛争が勃発する前に両親がここに移住したから。
当時ユーゴスラビアはまだ崩壊していなかったが、政治的にも経済的にも悪化する一方の祖国から、叔父の紹介で渡ったのである。
そのため彼は戦火に巻き込まれることなく育ち、父と兄はサッカー選手であったために、必然的に彼もサッカー選手の道を歩むこととなった。

幼い頃から非常にしっかりした性格で、小学校に通いだした頃、義務教育を終えたらそれ以上は学校に通わないと母に決意を述べたり、
その決意から外れて義務教育後は建築学校に通い始めたものの、父に「サッカーを選ぶのか、勉強を選ぶのか」と聞かれた際は、
問われた翌日に人生をサッカーに捧げる決断を両親に告げたという。
当時どこからもプロ契約の話を受けているわけではなかったにも関わらずである。

こうして見ると、故郷を追われたり、家族や親類を殺されたりなど非常に重い背景を持つことが多い旧ユーゴ圏の選手たちの中では、比較的恵まれた境遇にいたように見えるだろう。
しかし、経済的にはやはり苦しかったようで、彼自身「食べるものがなかった夜、父母は泣いていたけれど、次の日にシューズを買おうと少し空腹のまま眠ることを優先した」と述懐している。
何よりこの生い立ちが、のちに彼に究極の選択を強いることとなる……それについては後述。

7歳の頃、近隣の都市バーゼルにある国内の名門、FCバーゼルの下部組織に入団する。
05-06シーズンからトップチームデビューを果たし、06-07シーズンにはレギュラーとしての地位を確立。
リーグ戦33試合に出場して11得点を挙げ、このシーズンのリーグ若手最優秀選手に選ばれた
ラキティッチはスイスカップのタイトルを置き土産に、翌シーズン、ドイツ・ブンデスリーガのシャルケ04へとステップアップを果たした。

07-08シーズン、リーグ戦29試合に出場して3得点10アシストを記録。
CLではシャルケをクラブ史上初となるベスト8進出に導くも、このバルサとの対決にラキティッチは2戦とも足首の負傷で出場できなかった。
復帰後は上々のフォームで、CL圏内であるリーグ3位獲得に貢献した。
監督交代した08-09シーズンは継続した出場機会を得られず、チームも8位に低迷したが、「鬼軍曹」の異名を持つフェリックス・マガトが監督に就任した09-10シーズンは復調。
リーグ29試合で7ゴールを挙げ、チームも2位に。
ビッグクラブへの足掛かりとなったシャルケ時代は思い入れがあるらしく、マヌエル・ノイアーなど当時のチームメイトたちとは今でも連絡を取り合っているとのこと。

11年1月末、さらなるステップアップを目指し、リーガ・エスパニョーラのセビージャFCへ移籍。
ここでは早い段階でチームの主力に定着。12試合5得点を記録している。
11-12シーズンはピボーテ*2として起用された。12-13シーズンでは実に、100回のゴールチャンスを作っている
これはそのシーズンのヨーロッパの全選手の中で、4位にランクインするレベルである。
13-14シーズンは、セビージャでのキャリアにおいて最大の輝きを放つことになった。
このクラブにとってかのディエゴ・マラドーナ以来となる外国人選手のキャプテンに就任
シーズン序盤チームは下位に低迷していたが、本来のポジション、トップ下に戻ったラキティッチはゴールとアシストを量産。
すっかりチームの大黒柱となった彼は34試合に出場して自身最高となる12ゴールを記録。
そしてEL決勝ベンフィカ戦ではPK戦の末に優勝、MVPに選ばれる活躍を見せた


そのEL優勝後、ちょっとした騒動があった。トロフィーを手にしていたラキティッチと、DFのダニエル・カリーソが……








ピケイブラが可愛く見えるレベルである。
ラキティッチが「彼はいつものように頬にキスするつもりで近づいてきたけど、ああいう形になった。不運だったけどどうしようもない」と釈明する一方、カリーソは、
「情熱的なキスだったでしょ?興奮しきってうまく説明できない」
……否定しなかった。この項目最後のエピソードといい、薄い本が捗りそうである。
まあ、マラドーナもカニージャとディープキスやらかしてるしね!

+ そしてここで彼はタイトルだけでなく、永遠の愛も勝ち取っていた……以下その顛末
それは、移籍交渉やメディカルチェックのためにセビージャ市を訪れた時のことだった。
代理人を務める兄デヤンと共にクラブ関係者とホテルでディナーをした後、ラキティッチは緊張で眠れなくなっていた。
彼は兄に言った。「一杯飲んで、それから寝ようよ」この言葉によって、運命は大きく動き出した。
そしてコーヒーを注文した時、彼は出会ったのである……このホテルのバーに勤めていたウェイトレス、ラケル・マウリさんに。
「彼女はとてもきれいで、まるで映画のシーンのように、全てがスローモーションだった」
ラケルさんにすっかり心を奪われたラキティッチは、肝心の移籍交渉という目的すら忘れそうになっていた。
この時移籍市場はまだ4日空いており、彼は他のチームからもオファーを受けていた。
そのチームはプライベートジェットを用意し契約に備えていたが、そのプライベートジェット機にラキティッチが乗ることはなかった。
ラキティッチは兄に告げた。「兄さん、僕は明日セビージャとの契約にサインをするよ。あのかわいいウェイトレスさんに恋をしたからね!

こうして、将来彼女と絶対に結婚すると決めたラキティッチ。
毎日ホテルのバーに通い、コーヒーかファンタオレンジを注文していた。当時その二つだけが、彼がスペイン語でオーダーできるものだった。
多言語国家スイスで生まれ育ったとはいえ、スペイン語はスイスの公用語ではなく、ましてやスペインで暮らすのは初めてのこと。
話せないのも無理はなかったが、彼女を口説くため、スペイン語を猛勉強。
何度もラケルさんにアタックし続けていたが、彼女はなかなか応じなかった。
曰く、「あなたはサッカー選手だから、いつか違う国のチームへ行ってしまうわ。そんな恋はとてもつらいの」

しかし彼はあきらめなかった。
ある日、いつものバーにいた人がこっそりとメッセージを流した。「オフの時も姉妹揃って、ホテルのバーにいる」と。
彼の恋愛劇はすでに町中に知れ渡っていたのだ
ラキティッチはすぐさま車に乗ってバーに駆けつけた。
「来ちゃった。今なら僕とお話しできるんじゃない?君は仕事中じゃないでしょ?じゃあ、ディナーを共にする時間があるね。さあ、今日から始めよう」
ラケルさんはついに彼の誘いに応じた。出会ってから、実に7か月目のことであった。

そしてラキティッチは13年4月、2年にわたる交際の末ラケルさんと結婚。*3
「人生の中で一番大変だった事じゃないかな。CLを獲得するより大変だったね」と、ラキティッチは振り返る。
二人は同年7月に長女アルテアちゃん、16年5月には次女のアダラちゃんを授かっており、現在ではアツアツの家族写真をSNSに投稿している姿がよく見られる。
さらに右腕の肘から下のタトゥーには、両親や兄妹の生年月日に加え、ラケルさんへのメッセージが刻まれた。
「ラケル、君がいるから今の僕があり、君は僕の未来そのもの。この出会いは人生で最高のものだ」




こうして、「ハリウッドで映画化決定」レベルの大恋愛はここに実を結んだのだった。
めでたし、めでたし。そして末永く爆発してください

そんな彼も、翌シーズンにはFCバルセロナへの移籍が決まった。
「これはさよならじゃない。また会おう、だ」
セビージャ退団会見では様々な思いがこみ上げて、人目もはばからずに涙する一幕も見られた……
このクラブで絶対的な司令塔として君臨し、チームメイトやファンから絶大な信頼を集めていたラキティッチ。
事実、移籍後もセビジスタたちから愛されており、15年4月のサンチェス・ピスファンでの試合で、セビジスタたちはスタンディングオベーションで迎え、彼の名前をチャントし続けていた。
ラキティッチも「セビジスモから受けたすべての愛に心から感謝するよ!」と、メッセージを発したのだった。

絶対的司令塔シャビの後継者という触れ込みでバルサにやって来たラキティッチ。
同じ司令塔でも、セビージャとは格が違う。さらに当時はリオネル・メッシを筆頭にネイマール、そして同時期に加入したルイス・スアレスの「MSN」が結成された年でもあった。
そんなクラブで、彼はどうやって自分の立場を確立したか?
シャビの後継者になるのではなく、縁の下の力持ちタイプへとプレースタイルを変化させていくのである。
「MSN」の破壊力を生かすためにひたすら裏方に徹して走り回り、カンテラ(バルサの下部組織)育ちでないにも関わらず早い段階でチームになじみ、後半戦では主力に定着。
入団1年目でバルサは08-09シーズン以来となるリーガ・国王杯・CLの3冠を達成
CL決勝ユベントス戦では先制点も決めており*4、バルサの一員として、彼は見事にその大役を務め上げた。
その後も15-16、17-18、18-19シーズンにリーガを、15-16、16-17、17-18シーズンに国王杯を獲得している。
上記の利便性や献身性に加えて怪我をしにくいこともあって、17-18シーズンには71試合出場という恐るべき記録を打ち立てている。
バルサで55試合、代表で16試合。これによってラキティッチはこのシーズン、世界で最も試合に出場した選手となったのだった

+ 以下、こぼれ話
〇日本を代表する漫画『ドラゴンボール』の大ファンであり、ある試合中に超サイヤ人と化したことも。






この写真がよほど気に入ったのか、TwitterやInstagram、Facebookに連投していた。日本人としてはちょっと嬉しいエピソードである。
ちなみにバーゼル時代には中田浩二と、シャルケ時代には内田篤人とチームメイトだった時期があり、地味に日本人選手と縁のある選手だったりする。


○彼の代理人を務める兄、デヤン。弟のイヴァンより5歳年上であるが、この二人、一卵性双生児に匹敵するレベルでそっくりなのである






また、彼の右の二の腕には兄の名前が刻まれており、深い絆を感じることができるだろう。実の兄弟だしね。



余談だが、デヤンは伊野波雅彦のハイデュク・スプリト移籍に1枚噛んでおり、兄弟揃って日本人選手と縁がある。*5


○ラキティッチ一家は故郷のメーリンにNKパジェ・メーリンというアマチュアクラブを所有している。
会長は父、監督はデヤン。イヴァン曰く、「選手はほとんど僕の幼馴染や友達、あとは近所の人」とのこと。*6
12年にはバーゼル州リーグの2部に昇格し、その記念にラキティッチ&フレンズ*7と親善試合も行っている。わーい!サッカーたーのしー!
さらに15年にはクロアチアからの移民クラブとして初めて、第2地域間リーグ(4部リーグに相当)にまで昇格している。


○子供の頃の憧れの選手は、「バルカンの黄金銃」の異名を持つMF、ロベルト・プロシネツキ。
この選手はドイツ出身で、彼と同じく移民系の選手である。
現在はバルサで共にプレーし続けていたアンドレス・イニエスタが憧れの選手筆頭であり、
「あんなに愛情を持って、ボールを扱い、サッカーに取り組み、人々と接する選手を、僕は他に知らない」と、称賛を惜しまない。


○中国語での愛称は「辣鸡(ピリ辛チキン)」
おそらく中国語表記の「拉基蒂奇」の拉基と同じ読みの辣鸡を当てたものと思われるが、モドリッチの「魔笛」との落差が……
ぶっちゃけ「Raketa(クロアチア語でロケットの意味)」の方がカッコいいだろう。


○多言語国家スイス出身だけにマルチリンガルであり、現在彼はドイツ語、英語、スペイン語、そしてルーツのクロアチア語を話すことができる。*8
その語学力を生かして、新入りの選手の面倒を見ることが多い。
一方で、スイスのドイツ語は本国のドイツ語と違っていたため、シャルケ移籍当初は苦労したという。
スペイン語も熱心なセビジスタであるラケルさんの影響か、アンダルシア訛りがきついものらしい。
また、娘たちにはスペイン語、英語、フランス語の三ヶ国語をマスターさせるつもりであり、さらにクロアチア語とドイツ語も少しずつ教えている。*9


○前述の通り建築を学んでいた彼であるが、実際製図者として、北京のオリンピック・スタジアムのプロジェクトを行っていた*10
サッカー選手として大成した今は中断中であるが、引退した後また建築の勉強を再開するつもりなのだとか。
また、彼が建築を学んでいたヘルツォーク&ド・ムーロンは世界的にも有名な建築設計事務所。
地元バーゼルのスタジアム、ザンクト・ヤコブ・パルクやFCバイエルンのホームスタジアム、アリアンツ・アレーナ、
日本ではプラダ青山店、ミュウミュウ青山店などを手掛けている。
バルセロナもまたガウディを始めとした著名な建築家の街であり、そういう意味でも彼に似つかわしいと言えるだろう。


○子供の頃からテニスの経験があり、テニス選手になることも考えていたが、13歳の頃に父親の勧めでサッカーに専念することになった。
その後もテニスに興味はあるようで、14年全米でグランドスラム初優勝を達成したマリン・チリッチの試合(ちなみに決勝の対戦相手は錦織圭)をなぜか裸で観戦していた
また、18年3月、代表の選手たちと共にNBA観戦に行った時、テニスのTOP4の一人、ノバク・ジョコビッチと出会っており、
ロシアW杯決勝直前に行われたウインブルドン決勝前にエールを送っている。
ちなみにジョコビッチはグルテンフリーの食事法で有名だが、ラキティッチ自身謎の体調不良に悩まされていたところ、セリアック病*11を患っていることが判明。
家族にもグルテンフリーの食事に協力してもらっている。
ジョコビッチもまたグルテン不耐性を患っており、そういった点でも、近しいものを感じていたのかもしれない……
その一方で、クロアチアのチョコクッキー「Domaćica」のCMに出演している。
成分表 を見る限り、普通に小麦粉を使っているようだが……体質的に大丈夫なのだろうか?


◆代表経歴


……さて、彼はクロアチア代表であると言ったが、生まれも育ちもスイス。事実、スイスで各年代のユース代表(U-17・19・21)さえ経験していた。






そこから、いかにしてクロアチア代表となったのか?

それは07年5月5日、当時のクロアチア代表監督、スラヴェン・ビリッチの打診を受けたことから始まった。
ビリッチはクロアチアが98年W杯フランス大会で3位に入賞したときの主力選手であり、ラキティッチはその活躍を見ながら育った世代だった。
「俺について来い。俺たちの国のためにプレーするんだ。お前が来てくれるのなら全力を尽くすぞ」
偉大な先輩からの、熱いメッセージ。
スイス代表でプレーし続けるつもりだったラキティッチの心は、大いに揺れた。
建設会社に勤める父が、独立間もない本国から取り寄せてくれたユニホームを毎日のように着ていた少年時代から、クロアチア代表には特別な憧れがあった。
しかし、スイスで育った以上、スイス人としての意識が育つのも、また当然のことだった。*12
確かにクロアチアは自分のルーツであるが、生まれ育ったスイスには大きな恩がある。それに、もしクロアチアを選んだら、裏切者扱いされるのは目に見えている。
───すなわち彼は、ここでアイデンティティの問題に直面することになったのである
あらゆる重圧と戦いながら彼は部屋に一人籠り、自らに向かって問い続けた。
……自分の祖国はいったいどちらなのか?と。

そして約50日にわたる葛藤の末、ラキティッチは究極の選択に答えを出した。
ビリッチ監督に「一緒に行きます。これからあなたのチームの一員になるつもりです」と電話で告げたのである。
部屋のドアの後ろでは、父が待っていた。
ラキティッチはあえて、「スイスでプレーし続けるよ」と冗談を言った。
父は否定することなかったが、すぐさま「いやいや、クロアチアでプレーするつもりだよ」と本当のことを打ち明けた。
これを聞いた父は、涙を流しながら感激したのだという……

+ 実はその選択の裏には、民族を超えた友情があった。
悩めるラキティッチの選択を後押ししたのは、当時入団したばかりのシャルケのチームメイト、元セルビア代表のムラデン・クルスタイッチだった。
彼は14歳年上の先輩に相談を持ちかけていた。すると、クルスタイッチは逆に問いかけてきた。


お前の心臓の音はどこから聞こえるんだ?クロアチアか、スイスか?お前はクロアチア人なんだから、クロアチア代表でプレーしても変じゃないはずだ。自分の国を選べばいい」


ラキティッチの鼓動は、バルカン半島から聞こえてきた。

その後も、セルビアとの国境にほど近いボスニアの町にあるクラブ、ラドニク・ビイェリナの会長となったクルスタイッチに、新しいスコアボードを頼まれた時は即座にOKし、
ボスニアの小さなクラブに、22平方メートルの最新式LED電光掲示板が設置されることになった。*13
ロシアW杯でも、セルビア代表監督に就いたクルスタイッチについて、「彼とは家族同然の仲だ。今でも頻繁に連絡を取り合っている。決勝でぜひセルビアと対戦したいね」と語っている。
かつて血で血を洗う戦争を繰り広げたセルビアとクロアチアだが、それだけに、民族を超えたこの絆の深さには胸を打たれるものがあるだろう。

しかし、齢19にして人生最大の決断を終えたラキティッチの元には、危惧した通り多くの誹謗中傷や脅迫が殺到することになった。
折しも当時のスイスは政治的に右寄りになっており、家族のスイス国籍の取得を右翼政党に妨害されたりした。
それでも、彼はけっして後悔することはなかった。心の声に従い、選んだ道なのだから。
戦争により祖国に戻れなくなり、残した親類や友人を多く喪った両親。
戦争が終結するまで、テレビや写真でしか祖国を知らずに育った息子。
直接戦争を経験したわけではないとはいえ、彼もまた「戦の子」の一人なのである*14

そしてクロアチア代表を選んだことにより、出会ったのである……共に次代を担う司令塔、ルカ・モドリッチと。
平和なスイスで生まれ育ったラキティッチと、激動の時代のクロアチアを生き抜いたモドリッチ。対照的な生い立ちを持つ二人の運命は、ここに交差することになる。

初めての大会、EURO2008では2戦目のドイツ戦で揃い踏みを果たした。
1点リードで迎えた62分、右サイドでボールを受けたラキティッチがゴール前にクロスを上げると、ボールはDFに当たり軌道を変える。
ポストに当たって跳ね返ったボールはイビツァ・オリッチの目の前に転がり、待望の追加点。
クロアチアは2-1で逃げ切りに成功。強豪相手に金星を挙げ、グループリーグを1位で突破した。
……しかしベスト8のトルコ戦で待っていたのは、悪夢としか言いようのない結末だった。
クロアチアは延長後半終了1分前に先制点を挙げ、誰もが勝利を確信した直後にトルコに追いつかれてしまったのだ。
そしてPK戦、クロアチアはモドリッチ、ラキティッチ共々失敗し、ここで敗退。クロアチアは歴史的大逆転劇の犠牲者となってしまった

EURO2012ではアイルランドに勝利し、イタリア相手に引き分け。前回王者のスペインと勝ち点で並んだ。
スペイン戦、53分にはモドリッチからの絶妙なセンタリングを受けたラキティッチ渾身のヘディングシュートは、守護神イケル・カシージャスにファインセーブされる。
逆に試合終了間際、スペインはセスク・ファブレガスの浮き球に抜け出したイニエスタのパスをヘスス・ナバスが流し込んで待望のゴールをゲット。
同グループのイタリアがアイルランドに勝利して勝ち点5となったため、クロアチアは死のグループ内で健闘したものの、勝ち点1差でグループリーグ敗退の憂き目に遭った。
また、W杯ブラジル大会では1勝2敗でグループリーグを去っている。

EURO2016、グループリーグ初戦の相手はトルコ。因縁の一戦である。
41分、ダリヨ・スルナの右CKの流れから、逆サイドにいたラキティッチが折り返し、ゴール前の混戦のこぼれ球をペナルティエリア外側から決めたのがモドリッチ。
この度肝を抜くようなスーパーゴールにより、クロアチアは見事リベンジを果たした。
チェコ戦では、1点リードで迎えた59分、マルセロ・ブロゾビッチの縦パスに抜け出したラキティッチが芸術的ループでネットを揺らし、2-0に。
が、モドリッチの負傷交代から雲行きが怪しくなり始める。76分に1点差に詰め寄られると、その数分後に事件は起きた。
あろうことか、クロアチアサポーターはピッチに発煙筒を投げ込み、試合は一時中断となったのだ
これによってクロアチアは集中力を切らしてしまい、試合終了間際にPKを献上し、これをトマシュ・ネチドに決められて同点に追いつかれた。
選手を支えるべき立場であるはずのサポーターからの妨害。
クロアチアサッカー連盟の腐敗・汚職に対して抗議する意図があったというが、もはや蛮行云々を通り越してわけがわからないよとしか言いようがない事態である。
そもそもクロアチアは予選からサポーターの人種差別行為で勝ち点剥奪の処分を受けていただけに、失格になってもおかしくないような立場だった。
結局10万ユーロの罰金のみで済んだものの、こんな目に遭った選手たちや関係者の心情は筆舌に尽くしがたい
それだけに、次のスペイン戦で、当時2連覇中だった王者相手に見る者の溜飲を下げる大金星を挙げたのが救いである。
なお、チームはベスト16でポルトガルに敗れ敗退している。

このように、大会のたびにダークホース候補となりながら、なかなか結果を残せないでいたクロアチア。
フランス大会世代の活躍を見て育ったモドリッチ、ラキティッチら多くの主力選手は、ロシアW杯を迎える頃にはすでに30前後となっていた。
黄金世代は、燻ったまま終わってしまうのか……?







しかし彼らはここで終わらなかった。


ロシアの地にて、炎はついに燃え上がった───





初戦のナイジェリア戦に2-0で勝利し、迎えたアルゼンチン戦。
メッシ筆頭に強力な攻撃陣を有するアルゼンチンであるが、いかにメッシを動かすかにこだわるあまり、連係がかみ合わない。
それに対しクロアチアは、モドリッチ、ラキティッチの司令塔コンビを筆頭に、誰もが高い集中力を維持してハードワークを続け、チームの完成度で相手を圧倒。
GKウィリー・カバジェロのミスを的確に突いたアンテ・レビッチの先制点で俄然勢いがついたクロアチアは、80分にはモドリッチがゴール右隅へ針の穴を通すようなミドルを決めた。
アルゼンチンは前節でW杯初出場のアイスランドに引き分けたこともあって、グループリーグ敗退の瀬戸際に立たされ、焦りを隠せなくなっていく。
85分にはファールによってラキティッチが倒れているのにも関わらず、ニコラス・オタメンディが頭に向かってボールを蹴り込むというレッドカード物のプレーを見せている。
一歩間違えば骨折や失明につながりかねない悪質極まりないプレーである。この事態に真っ先に食って掛かったのが、他でもないキャプテンのモドリッチだった。
このような目に遭ったものの、ロスタイムにラキティッチは相手にとどめを刺す追加点を挙げた。
終わってみれば3-0という圧勝。いや、内容を鑑みれば、スコア以上の圧勝と言ってもいいだろう。
2試合連続で完封勝利したクロアチアは早々にグループステージ突破を決めた。これはフランス大会以来20年ぶりのことだった。
そしてアイスランド戦は控え主体で2-1で勝利。グループリーグを首位通過したのであった。





……だが、クロアチアにとってこれからが本当の地獄だった……





ベスト16のデンマーク戦。試合は1-1のまま延長戦へ。
114分、クロアチアは土壇場でPKを獲得。キッカーはモドリッチ。
しかし、コースを狙ったシュートは相手GK、カスパー・シュマイケルの胸にすっぽりと収まってしまった。
千載一遇のチャンスを逃したクロアチア。試合はPK戦へもつれ込む。
このPK戦直前の円陣で、ラキティッチは仲間たちに発破をかけた。
「ルカはこの10年間、僕らのためにこれだけしてくれたんだ。今度は僕らがルカを助ける番だ!
そしてPK戦の3番目に登場したモドリッチは先ほどの失敗を引きずることなく成功させると、最後のキッカーとして登場したラキティッチも決め、デンマークに引導を渡した。
10年前のEUROでどん底に叩き落された二人。それだけに、この勝利が持つ意味は非常に大きなものだった。

ベスト8ロシア戦。ベスト16にてスペインを撃破するという番狂わせを起こした開催国相手に、試合は再び1-1の同点のまま延長戦に。
GKのダニエル・スバシッチはハムストリングを痛め、右SBのシーメ・ヴルサリコが負傷交代という絶体絶命の状況の中、
クロアチアは100分、ドマゴイ・ヴィダがモドリッチからのCKをヘッドで押し込み、ついに逆転に成功した。
しかし試合はこのままで終わらなかった。結局そこから追いつかれ、試合は再びPK戦にもつれ込んだ。
デンマーク戦に続き、10年前のトルコ戦をたどるかのような展開となったが、彼らもう、あの頃とは違っていた。
ロシアが5人、クロアチアが4人蹴り終えた時点で3-3。再びラキティッチがクロアチア最後のキッカーとして登場。
この日も攻守共に献身的だった彼の右足から放たれたキックは、ゴール左隅に突き刺さった。
こうしてクロアチアはデンマーク戦に続き、彼によって相手に引導を渡したのだった。
そしてラキティッチは試合終了後のインタビューで、ルカに急にちょっかいを出されていた

準決勝イングランド戦。
開始5分、ゴール正面の絶好の位置で得たFKをキーラン・トリッピアーが決めてイングランドが先制。
さすがの彼らも2試合連続PK戦を戦い抜いたこともあって、疲労しきっているのは誰の目にも明らかであり、前半はイングランドペースで試合を折り返す。
しかし数々の修羅場を潜り抜けてきた彼らは、そのことで折れることはなかった。
68分、ヴルサリコのクロスをあえて頭ではなく足を伸ばしたことで相手より先にボールに触れた、イヴァン・ペリシッチの技ありゴールで試合を振り出しに戻す。
クロアチアは息を吹き返し、試合はオープンな展開になるも、結局三たび延長戦にもつれ込む。
ここまでくるとクロアチアの選手たちはもはや、満身創痍と言っていい状態であった。
左SBのイヴァン・ストリニッチは負傷交代、エースストライカーのマリオ・マンジュキッチも倒れるシーンがあった。
そんな中で迎えた延長後半。ふわりと浮かんだルーズボールをペリシッチが頭で流す。それに食らいついたのはマンジュキッチだった。
魂のすべてを込めた値千金の逆転弾。そしてイングランドの最後のチャンスだったFKをしのぐと、待ちに待った歓喜の時が訪れた───
彼らはついに、フランス大会の偉大な先輩たちを超え、初の決勝進出という偉業を成し遂げたのだ
そしてこの死闘を120分間戦い抜いたラキティッチは、驚愕の事実を打ち明ける。
なんと、試合前日に39度の高熱を出していながら、間に合わせてきたというのだ
……もはや感動を通り越して、戦慄すら感じるレベルである。

しかし、彼は別の意味でも本気を出していたようである。
イングランドとの死闘を終えた後喜びを爆発させ、敵将のガレス・サウスゲイト監督と健闘を称え合ったのだが、その姿が……





な ん と い う 見 事 な 脱 ぎ っ ぷ り




ユニフォームだけならまだしも、靴下やスパイクまで脱いだパンイチ姿
その前日に高熱を出していたという事実も踏まえると、驚きしかないだろう。色々な意味で。

さらにラキティッチは、優勝したらどうするかについて聞かれた時、こう答えている。


「自分は額に空きスペースがある。神の思し召しがあれば、僕らは勝つ。その時はそこにタトゥーを入れるよ!でも、まずは妻に聞かなくちゃだね*15
「毎回試合の後に、僕はユニフォームとシューズをスタジアムにいるファンにあげている。だからもしW杯で優勝したら、僕は何も残さないかもしれないね*16


もうどこからツッコんでいいのかわからない。
特に後者は中国メディアへの発言であるが、その結果中国で彼は「優勝したら裸で走る」と報じられる羽目になったのだった。

……そして迎えたフランスとの決勝戦。
フランスよりまるまる1試合分長く戦っていた彼らは体力的に、とうに限界を超えていた。
さらに追い打ちをかけるように、18分のFK、38分のPK献上と2度もVAR(ビデオアシスタントレフェリー)に泣かされ、後半に入るとピッチ上に侵入者が乱入。
その後立て続けに失点を重ねている。
もはや運にも判定にも見放された状態であったが、それでも彼らは最後まであきらめなかった。
28分にはペリシッチの左足で一度は同点に追いつき、69分にはバックパスを受けたウーゴ・ロリスにマンジュキッチがプレスをかけると、
ロリスが左足で触ったところにマンジュキッチが詰め、押し込んだ。
試合は4-2で終了。それまでの試合時間の長さや試合中のトラブルを考えると善戦したものの、やはりコンディションの差はどうしようもないものがあった……
そして彼が全裸で走り回ったり、デコにタトゥーを入れたりする愉快な光景も幻となったのだった

その直後、激しい大雨がピッチ上に降り注いできた。
ラキティッチはこの様子を「空も泣いている」と表現し、こう続けた。
「1億人のクロアチア人が僕らと共にいてくれたと感じているし、みんなが僕らのためにいてくれたと思う。すべての人間が、クロアチアと僕らのフットボールに恋に落ちたと思うよ」
事実、クロアチアの選手たちの不屈の戦いぶりは誰もが賞賛するところであろう。
さらにこの大躍進がきっかけで、この国の選手やサッカー、そしてクロアチアという国そのものに初めて関心を持たれた方も多いのではないだろうか。


彼らは世界中の人々の心を動かしたのである。

◆心の兄弟・モドリッチとの絆


彼がクロアチア代表を選択してから、ずっと代表で共に戦ってきたモドリッチ。
バルサとレアル・マドリー、例え所属しているクラブが最大のライバル同士でも、その絆は揺るがない。
前述の代表経歴でも二人は素晴らしいコンビネーションを見せてくれたが、その仲良しぶりについてさらに掘り下げて、この項目を締めくくろう。

例えば全世界が注目する伝統の一戦、エル・クラシコ前には、仲良くハグしたりするところがよく見かけられる。
この二人のいちゃつきっぷりは、歴史的な背景も絡んで殺伐とするクラシコの一服の清涼剤……かもしれない。
ちなみにモドリッチは、子供の頃はバルサを応援していたらしい。さらにバルサは彼にオファーを出していたことがある。
それが結局、最大の宿敵同士に分かれることになるとは……皮肉な運命である。

また、代表では長年一番近くで活躍を支えていただけに、モドリッチへの賞賛は留まるところを知らない。


(モドリッチとイニエスタについて)「彼らは別の惑星から来た選手たちだよ」*17

(FIFA最優秀選手賞受賞時)「おめでとう、ルカ・モドリッチ!君の全てが受賞に値し、クロアチア全体が君を誇りに思っている!みんなのキャプテン、いつも一緒にいてくれてありがとう」*18

「ルカを妬む者は、自らの嫉妬で身を滅ぼすことになるぜ!」*19

「僕は彼が獲得すべき最後の賞(バロンドール)を勝ち取ることを願っている。間違いなく彼はそれに値するプレーヤーだからね」*20

「僕は心から彼のことを誇りに思っているし、もし彼がそれらの賞を獲得できれば自分のことのように嬉しいよ」*21

「僕がルカをどれだけ誇りに思っているか、彼には分かるまい」*22



そして、モドリッチへの愛情表現の極めつけと言えるエピソードがこれである。
ロシアW杯決勝戦後、互いのメッセージを刻んだユニフォームを交換しているのだが、その原文と訳は以下の通りである。*23






モドリッチ
「Mom bratu Ivanu od srca. Ponosan što mogu s tobom dijeliti svlačionicu i prekrasne trenutke.」
「兄弟のイヴァンへ。心から、ピッチで素晴らしい時を君と分かち合ったことを誇りに思う」

ラキティッチ
「Za mog brata Luku od srca. Najveća mi je čast bila dijeliti sve ovo vrijeme s tobom.Voli te Raketa!
「兄弟のルカへ。あらゆる時間を君と過ごせたことは、最高に誇らしいものだった」


バルサとマドリーという最大のライバル関係を超越し、友情どころか家族愛すら感じさせるやり取り。
それまで代表で共に戦ってきた年月と道のりを考えると、その熱さや重みは計り知れないものがある。
……ところで、ラキティッチのメッセージの原文の最後が赤くなっているが、実はこの部分だけ、各メディアで訳されていないことが多いのである
せっかくなので、ここで訳してしまおう。まずRaketaは彼の愛称。問題はVoli teの意味である。
その意味は「あなたを愛しています」。そう、この一文の言っていることは……






「ラケタは君を愛しているよ!」







   /⌒ヽ
  / ゚д゚) ………
  |U /J


つまり彼は、自ら書いたラブレターを全世界に公表したのであるカリーソの件といい、ラケルさんはどう思ってるのだろうか
「兄弟の~」と前置きしてあるとはいえ、もしこれが各メディアで訳されていたら、全世界のサッカー好きの腐女子たちの妄想はたちまち業火に包まれていただろう。
代表の愛称「ヴァトレニ(炎)」の通りに……


追記・修正は、盟友と兄弟の契りを結んでからお願いします。

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