河越城の戦い/河越夜戦

登録日:2012/03/29 Thu 10:17:28
更新日:2025/05/04 Sun 12:02:29
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北条家最大の試練は、戦国史上最も無謀な戦いに勝つことだった。





河越城の戦いとは、戦国時代初期に行われた、関東武蔵の要衝・河越城の所有権を巡る北条氏扇谷上杉氏の戦いの総称である。
計五回行われた合戦だがこの項目では第五次、通称河越夜戦について解説する。


◎序章

室町後期の関東では山内上杉氏扇谷上杉氏古河公方足利氏三バカ…もとい、三つの名家が三つ巴となって争いを繰り広げていた。
(この辺の推移に関しては「足利茶々丸」の項目も参照)
そこにひょっこり現れたのが今川家の家臣だった伊勢盛時北条早雲)。
古川公方と関東の覇権を争っていた堀越公方足利茶々丸を打倒するなどして伊豆・小田原を支配した新興勢力・北条氏は、二代目・北条氏綱になると四度の戦いを経て、
扇谷上杉氏の河越城を落とすまでに勢力を広げていた。

ここにきてようやく危機感を抱いた両上杉氏は和睦して北条氏に対抗する事を決意。
数万の軍勢を率いて三千人の守る河越城(現在の埼玉県川越市付近)を包囲するのだった…。

山内上杉氏当主・上杉憲政
扇谷上杉氏当主・上杉朝定
上杉連合軍60000

VS

河越城守兵3000
河越城守将・北条綱成


◎北条包囲網

上杉家の包囲に合わせて駿河・遠江の大名今川義元が西方から侵攻。
河越城と駿河侵攻の二面作戦で北条を消耗させる作戦に出る。

さらには対上杉という点で北条に好意的だった古河公方・足利晴氏上杉方に便乗人間の屑
当時の北条家当主は小田原の亀の悪名を持つ北条氏康
氏康は鉄砲の音にビビって腰を抜かし、切腹しかけた醜聞を持つ男であり、父・氏綱と違い頼りにならないと思ったのだろう。

ともかく、北条は東西南北全ての大名を敵に回す事になった。


◎氏康の決断
氏康はまず今川義元との和睦を選んだ。
既に戦国大名として自立していた今川氏よりも、公家大名から脱却しきれない上杉と戦う方が今後も楽だと踏んだのである。
さらに、現在でこそ関係が悪化していたが、もともと北条家と今川家は仲のよかった時期がある。

また、河越城は要害に建てられた堅城であり、守るは猛将・北条綱成。
河越城は守りきれると睨んだ氏康は武田晴信の斡旋で今川氏に譲歩する形で停戦。
全兵力を河越城の救援に注ぎ、決戦に挑む。


上杉憲政上杉朝定足利晴氏
関東諸侯連合80000超

VS

河越城守兵3000
北条方援軍8000
北条氏康・北条綱成


※兵力差は約8倍
なお、敵兵数は関ヶ原の戦いの西軍や東軍とほぼ同じである。


◎河越夜戦
氏康は正面から戦う事を避けた。
敵は10倍近い数なので当たり前である。

一方、も一気に河越城を攻め落とすことはしなかった。
河越城を餌に氏康を小田原城から引っ張り出して討ち取ろうと考えていたのである。

予定通り出陣してきた北条氏康だったが、小田原の亀の異名通り一向に攻め寄せる気配がない。
兵力差は圧倒的なのに戦いは長期化、既に半年が経とうとしていた。

が、この半年が大きな意味を持っていた事に連合軍は気づいていなかった。


当たり前だが半年もの攻囲戦により、兵の士気はすこぶる下がっていたのである。
圧倒的な兵力差で勝利は確定的に明らか。
おまけに援軍に来た氏康も戦意が見られず、連合軍の陣地には楽勝ムードが漂っていたのだ。




全て氏康の戦略通りである。
氏康はこの半年にわざと小競り合いを仕掛けては敗走したり、風魔小太郎ら風魔一族の忍びを使って敵陣に酒をバラまいたりし、
連合軍の油断を誘い、士気を下げる事に努めていたのだ。

なお、上杉方は過去に12年間対陣という事もやってのけているので、士気などこれっぽっちも気にしていなかったのだろう。

案の定だらけきった連合軍。
氏康は遂に攻勢の下知を下す。


包囲から半年も過ぎたある日、北条軍は闇夜に紛れて敵陣を強襲、河越城の兵と挟み撃ちを仕掛けた。
これが河越夜戦である。

全くの無警戒だった連合軍は総崩れ。
統率が取れず、逃亡、投降、同士討ちと散々に追い立てられ、扇谷上杉氏当主・上杉朝定は討死上杉憲政足利晴氏もボロボロになって敗走した。


この戦いにより、北条氏の関東支配は大きく前進する事となった。



◎登場人物とその後の末路
  • 北条氏康
後北条氏三代目当主。
革新的な民政と生涯無敗の采配を誇る名君なのだが、いかんせん地味なイメージが強い。
通称はビビりな小田原の亀だったが、いつしか勇猛果敢な相模の獅子に。

  • 北条綱成
氏康の義兄弟。
勇猛果敢な名将で、8万の大軍を相手に半年以上も河越城を守り続けた河越夜戦第一の功労者。
元は今川家臣の出身だが、今川家のゴタゴタで北条家に亡命、北条一門となった。
義兄弟・氏康とは強い信頼で結ばれ、決して裏切る事はなく、氏康の逝去を知ると剃髪して仏門に入った。

  • 上杉憲政
関東管領山内上杉氏の当主。
配下には関東一のチート爺こと長野業正など。
この戦いの後も敗走を繰り返し、何をトチ狂ったか、甲斐の虎・武田信玄に戦いを挑みボロ負け。
守護代・長尾家に転がり込み、上杉輝虎(後の謙信)に家名と関東管領の役職を譲り、再起を目指す。
しかし、謙信は後に北条と同盟する。
最期は御館の乱で氏康の息子の味方をしたために討ち取られる。

  • 上杉朝定
上杉氏の分家、扇谷上杉家の当主。
河越城は元々彼の城だった。
配下には対小田氏治兵器の太田資正。ちなみに彼のひいおじいちゃんが河越城を建てた築城の名手・太田道灌
河越夜戦の混乱の中、落馬して頭打って死亡という情けない末路を辿った。

  • 足利晴氏
古河公方、もとい便乗公方。
夜戦後は北条に乗っ取られ、便乗する事を強いられているんだ!なハメに。

知恵袋の太原雪斎をひっさげ、当時最も天下に近いと謳われた海道一の弓取り
実はこの戦いも彼が上杉と同盟したのが発端であり、この戦いにより氏綱の代に奪われた駿河の奪還に成功した。
十数年後、同じく日本三大奇襲戦の一つ桶狭間の戦いで命を落とすが、それはまた別の話。



なお、ここまで書いたが、全て定説である。
他にも実は連合軍の兵数がもっと少なかったとする説、夜襲ではなく調略で諸侯の足並みを乱したとする説もある。


しかし、両上杉家と古河足利氏を筆頭に関東の諸侯が河越城に兵を挙げ、
その時期を境に両上杉氏と足利氏が没落し、北条氏が関東に覇を唱えたのは確かな事実である。







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最終更新:2025年05月04日 12:02