今川義元

登録日:2024/02/14 Wed 17:30:00
更新日:2025/04/24 Thu 20:33:13
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今川義元(いまがわよしもと)は、戦国時代の武将・大名。
駿河(するが)および遠江(とおとうみ)の二国を治めた守護大名で、今川氏第11代当主でもあった。
海道一の弓取り」の異名を持つ。なお、本姓は源氏。*1
優れた手腕で今川家の全盛期を築き上げるが、尾張に侵攻した際に「桶狭間の戦い」で織田信長軍に討ち取られる。

●目次

【生涯】

◇家督相続まで

永正16年(1519年)に生誕。父親は今川氏親。母親は正室の寿桂尼とも、側室の子ともされる。
三男として生まれており、今川家の跡継ぎとしてはすでに二人の兄がいたので優先順位は低く、生後すぐに出家させられ、寺で少年期を過ごした。
なお僧侶としての名前は栴岳(せんがく)承芳(しょうほう)
最初は駿河国の寺にいたが、十歳から京都に行き、建仁寺や妙心寺で修行。
後に「軍師」と言われる太原雪斎はこの頃からの師僧である。

さて、父・今川氏親は大永6年(1526年)に没し、今川家は長兄・氏輝が後を継いでいた。
しかし天文5年(1536年)、この長兄・氏輝と次兄・彦五郎が同日に逝去してしまう。
氏輝は病弱だったとされ、すでに死期を悟っていたのか、京都から三弟・義元を呼び寄せて後事を託していた。
義元は長兄の依頼を快諾し、まずは還俗したうえで、室町幕府の征夷大将軍・足利義晴から一字を賜り、義元と名乗った。

しかし、こういう君位の継承というものがスムーズに進むためしがない。
今川家も例外ではなく、家臣団の有力者、()(しま)が、義元の異母兄・玄広(げんこう)()(たん)を擁立して反発、内乱を起こした。玄広恵探は福島家の娘が産んだ公子だからである。
これを「花倉(はなくら)の乱」という。

玄広恵探・福島家の連合軍は、最初のうちは激しく攻撃を掛けたが、今川義元・太原雪斎・岡部親綱らも頑強に抵抗し、やがて福島側が勢いを落とす。
さらに義元が伊豆・相模を領する北条氏(後北条氏)からの支援をとりつけたことで形勢逆転。花倉城が陥落して恵探も自害したことで、今川義元が新当主となった。
しかし、内乱で殺し合った今川家傘下の武士たちは、その後も諍いを続けることとなる。


◇悪戦苦闘

天文6年(1537年)2月、義元は隣国・甲斐国の守護大名、武田信虎と同盟を結ぶ。義元は武田の娘を嫁にとった。
これは隣国の関係を良好にしようというものだった……が、これで怒ったのが北条家である。
もともと、武田家は南に今川家、東に北条家に接しており、それぞれ隣国同士で利害関係があった。
それでも、今川家と北条家はながいこと友好関係にあった(たとえば北条早雲は今川氏親を擁立した人物である)が、北条家と武田家の対立は根深いものとなっていた。
その「北条家の宿敵」武田家に、今川家が同盟を結んだというのは、北条家にとっては裏切りに等しかったのである。
戦国情勢は複雑怪奇なり

怒った北条氏綱は、八つ当たりのごとくに駿河に侵攻。
今川義元も反撃しようとしたが、前年の内乱からすぐのことで反対や様子見に回る傘下武士団が多く、河東(静岡県東部)一帯を失った

失地を挽回できないまま三年が経過した天文9年(1540年)。今度は尾張の織田信秀が、三河国に攻め込んだ。
三河が織田の手に落ちれば、今川は西から襲われることになる。すでに東の北条家に対して劣勢ないま、東西に挟まれるのは避けたい。
というわけで義元は三河の諸侯軍と連合して、織田軍に対して決戦を仕掛けるが、天文11年(1542年)に大敗した
なおこのいわゆる「第一次小豆坂の戦い」は松平氏単独の戦で今川家は関係していなかったのではないかという説もある。

ただ、前年の天文10年(1541年)には北条氏綱が死去。
さらにこの年には甲斐守護・武田信虎が息子の武田信玄(このころは「晴信」)により追放される。(甲斐国志によれば双方合意の上で、信虎が隠居したとされる)
今川義元は武田信虎の亡命を受け容れ、また武田信玄とも友好関係を築いたため、どこかで折り合いを付けたようだが、いずれにせよ近隣諸侯の関係は少し変わっていた。
(義元は晴信に、信虎の隠居料を請求する書状を出しており、晴信もそれに応じた。以後、信虎の隠居費用は武田家から支払われ続けた。)


◇領国拡大

この時期までは軍事的に劣勢だったが、今川義元は北条家と代々対立している、山内上杉氏と同盟を締結。東西から北条家に攻め込む計画を立てた。
さらに、今川本隊には武田家の援軍も加え、また分裂していた上杉家が「共通の敵」北条家を倒すべく一時休戦。
天文14年(1545年)にそれぞれの連合軍を率いて、失地挽回をかねて攻め込んだ。

東西から攻め込まれた北条家は苦戦するが、北条家新当主北条氏康はここで武田晴信を介して今川義元と外交交渉を開始。
実はこの戦いから少し前には武田家は信濃侵攻のために北条家とは誼を通じていた。
天文6年(1537年)に占領した河東一帯を、今川家に返還することで和睦した。
失地挽回を果たした今川義元は満足して撤退、武田信玄も自分の顔が立てられたと言うことで満足して帰還。
そして西部戦線の戦力を東部戦線に集中できた北条氏康は、一転して上杉連合軍に逆転勝利を収めた。上杉はいい面の皮である。
その後、北条家は関東や上杉家へと戦力を集中。今川家との関係は徐々にだが和らいでいった。


今川家の西にある三河でも、動きがあった。
西三河の豪族・松平広忠が今川義元に帰順し、嫡男・竹千代(後の徳川家康)を人質に出した。
三河のさらに西にある尾張の織田家にとっては、東の敵がさらに強くなるので当然好ましいものではなく、竹千代を拉致するなど妨害を図ったが、全体としては今川勢が優位を保った。
天文17年(1548年)には織田信秀が三河に出兵するが、今川軍は軍師・雪斎と重臣・朝比奈泰能らを将として織田軍を撃破、三河での優位を安定させる。

翌・天文18年(1549年)には松平広忠が死去、また嫡子・家康はこのころ織田の人質となっていたので、このままではまた三河に干渉されると嫌がった今川義元は、
  • 三河の岡崎城を占領する
  • 織田軍支配下の三河安祥城を攻め落とす
  • 織田信秀の庶長子・織田信広を捕らえて人質交換により家康を奪還する
などして、松平家の傘下だった三河の中小領主を今川家の支配下に取り込んでいった。
天文20年(1551年)には織田信秀も死去し、今川義元の三河・尾張への攻勢はますます激しくなった。


◇体制強化

天文22年(1553年)、亡父の定めた分国法「今川仮名目録」を改訂。
これは、
「現在、今川家の領土を治めているのは足利将軍家の権威によるものではなく、今川家の実力によるものである」
「室町幕府からの守護使不入の権を認めない」などの趣旨で、
領国内における室町幕府の権威の全面否定今川家の権威を顕揚したものである。
これを持って「今川家は守護大名から戦国大名に転換した」とも言われる。


天文21年(1552年)には、今川義元の娘を武田信玄の子・義信に嫁がせており、
また翌年には武田信玄の娘を北条家に嫁がせて、こちらも婚姻同盟がなっていた。
そして天文23年(1554年)には、北条氏康の娘(早川殿)を今川家嫡子・今川氏真に嫁がせ婚姻同盟を強化。
世に言う「甲相駿三国同盟」「善徳寺の会盟」である。
まあこの手の同盟はいつ崩れてもおかしくないものではあるが、とりあえず関係改善と相成った。
おかげで軍事的に余裕のできた今川義元は、駿河・遠江・三河で検地を行うなど、国内整備に邁進した
三年後の弘治元年(1555年)には「第二次川中島の戦い」が勃発したが、
今川義元は武田信玄と上杉謙信(当時の名前は長尾景虎)の和睦を成立させた。これも三国同盟による行動かも知れない。

一方、三河を巡る織田家との対立は激化。

永禄元年(1558年)には、義元は家督を嫡男・氏真に譲って自らは「隠居」した。
まあ実際には義元がいわゆる「大御所」として君臨していたようだが、
「本国」となる駿河・遠江の行政文章は氏真名義になるなど、禅譲はある程度本気だった模様。
その分、つまり本国経営は嫡男に任せながら、自分は三河とその先の尾張など、西部方面の鎮圧・経営に集中した模様。


◇桶狭間の戦い

永禄3年(1560年)、今川義元は駿河・遠江・三河の三国から二万あまりの大軍*2を動員、尾張国への侵攻を開始した。
この戦略目標に関しては諸説あって、「京都に攻め込んで室町将軍や天子を擁立して天下に覇を唱えんとするもの」とする説もあれば、
「目標はあくまで尾張で、織田家を倒すか痛撃を与えて、三河の安定と尾張への侵略をするためだった」とする説もある。
また先鋒隊には徳川家康(当時の名前は松平元康)も参加しており、織田軍を蹴散らして優位を保っていた。
今川義元の率いる本隊は、大高城へと移動を開始した。

ところがその途上、休憩中だった桶狭間山で織田信長の率いる部隊に奇襲攻撃を受ける。
今川義元は駕籠から降りて部下たちを率いて奮戦。
自らも刀を抜いて、襲い来る敵兵の膝を叩ききって撃退する、相手の刀と切り結ぶ、飛び付いてきた敵兵の指に噛みついて食いちぎるなど、
死に物狂いの抵抗を見せたが、その織田家家臣・毛利良勝*3によってついに首を取られてしまった。享年42歳。


◇死後

今川義元の戦死の衝撃は想像以上に大きかった。
家督は嫡男の氏真がすでに継承していたが、父の戦死直後から徳川家康が独立するなど、主に三河の武士団が次々と独立。
さらに今川家の本土と言うべき駿河国でも、正誤も定かならぬ風聞が飛び交って大混乱に陥り、疑心暗鬼のるつぼに陥ってしまった。

さらに、肝心の今川氏真は若いこともあってか家臣団をまとめられず、無理に重臣を殺害したことで却って人心を失うなど、ミスを重ねる
今川義元の戦死から九年後の永禄12年(1569年)、今川氏真は武田信玄と徳川家康によって駿河・遠江を追われてしまい、大名としての今川家は滅亡した。


【人物】

戦国大名と言われる人物には、もともと室町幕府から守護大名として任命されていたタイプと、
いわゆる「下剋上」により守護大名を倒して大名として扱われるようになったタイプとが存在する。
後者の代表が北条家や織田家であり、前者の代表が武田家や、この今川家である。

つまり今川家は歴史的に「室町幕府の名門」と言える家柄で、また今川義元は京都の公家文化によく通じ、
京都の公家・僧侶などをよく招き交流して、その文化を領国に導入していた。
義元自身も、招いた公家から和歌の指導を受けたり、月一回・定期的に歌会を開いたり(これは非常に珍しいことだったという)、
自ら公家流の化粧をしていた、馬に乗らず輿に乗っていた、と言った話が伝わる。

そして公家と言えば、戦乱のない(あるいは戦乱から無視された)京都でひたすら権謀を弄び、高い官位をいかに獲得するかに執心するイメージが古来あったため、
その公家文化を率先して取り入れていた今川義元は、その最後のあっけなさも含めて、
「乱世に向かない軟弱なお貴族さま」「武士のくせに貴族の道に没頭し、軟弱になった名門出のボンボン」と言うイメージがよく付けられていた。


もっとも、公家の様式を整えるのは格式の高い守護大名なら当然の権威付けであるとか、武士の化粧は普通のことだったとかも言われる。
和歌を中心とした貴族趣味も、ただの平和ボケではなく、教養の高さを示すものであった。
いかに武士社会と言えども大名クラスとなれば教養を問われるもので、疎かにしていいものではない。
むしろ今川義元および家臣団の和歌は下手クソだったらしい。教養とは言っても、しょせんは田舎武者と言うことか……

また今川義元は、少なくとも「軟弱」でなかったのは事実である。
確かに桶狭間の戦いでは一朝にして戦死してしまったが、最後の場面では自ら刀をとって襲いかかる敵兵に斬りかかり、
最後の敵となった毛利良勝に対しても指を食いちぎったなど、武芸と闘志に満ちた人物だったことは間違いない。
また、今川義元が使っていた輿は塗輿(ぬりごし)という守護だけに許された格式の高いもので、
これに乗っていたのは身分の高さを示して織田信長との格の違いを見せつけるための振る舞いであったと言われる。
馬に乗れないということもなく、桶狭間の戦いでは敵襲を受けて馬に乗り換えたとも伝わる。


当主となって間もないころは、
  • 迂闊に武田家と結んだためにこれまで良好な関係だった北条家と対立する
  • 北条家に領土を奪われ、挽回に何年もかかる
  • 同時期に織田家に攻められ東西から苦戦する
などミスや苦労もあったが、
数年後には武田家に加えて上杉家とも手を組んで北条家に攻め込む、北条との和睦交渉を受け容れて失地挽回を果たす、など外交手腕を発揮

軍事面では、西から迫る織田軍をほぼ単独で撃退し、係争地・三河の支配権を固めて敵地・尾張にも勢力を扶植するなど、
親から受け継いだ土地だけでなく自らの代で勢力を広げもした
内政面では、今川家の権威を高めて室町幕府からの独立を果たす、石高検知や金山開発や交通網整備にも力を尽くすなど多くの手腕を見せた。
もともと武士社会、特に鎌倉~戦国の武士は、
  • 家臣の武士一人一人がそれぞれ武士団をもち、大名はそれら武士団の連合体
  • 君権は意外と弱く、配下の武士団にいろいろ利害調整をして話を付けないと募兵さえままならない
  • 割と簡単に寝返ったり、昔の遺恨をいつまでも引きずる
という、中世西洋の封建的無秩序そのものな状態であった*4が、
寄親・寄子制度を導入・整備して、主従間の契約や利権保護を明確にし、家臣たちの統制を図っていた。

彼が戦死したときはまだ42歳。戦国大名としては、あと十年生きていてもおかしくない年であった。
桶狭間で戦死しなければどうなっていたかは分からないが、更なる飛躍ができた可能性もあるだろう。
彼は戦国の世に現れた風雲児である織田信長に敗れてしまったが故に時代から見放された「悲運の武将」でもあった。


【各作品】

古い作品ほど「公家かぶれの軟弱な大名」「革命児・織田信長の引き立て役」として扱われていた傾向にある。
場合によっては息子と融合されて「蹴鞠に興じるボンクラ」という、いくらなんでもおかしいキャラ付けにされることすらザラ。
蹴鞠は京都文化の一つで、今川義元が京都文化に精通していた以上、実際に蹴鞠はたしなんでいたかもしれないが。
遺された和歌はうまくなかったらしいので、下手の横好きだった可能性もある

一方、ここまで語ったように「織田信長をして一発逆転に賭けざるを得なかった強敵」と評価される機会もまたある。
例えばセンゴク外伝桶狭間戦記(2007)では公家かぶれの信長の噛ませ犬という従来の描かれ方ではなく、戦国大名化を進めた才気に溢れる大人物として描かれる。

2019年に地元の静岡にて今川義元公生誕500年祭が行われ、それを機に再評価する流れが作られている。
その二年前、2017年のNHK大河ドラマおんな城主直虎』にて、それまでの軟弱なイメージを真っ向からぶち破るような、
恐るべき戦国大名・今川義元を春風亭昇太氏が見事に演じ、話題になった影響もあるのかもしれない。

また、本来の意味とは異なるが海道一の弓取りと言う異名から弓道が得意だったりすることも多い。

桶狭間の戦いに登場。
京都の風雅な文化人として振る舞いながらも、三国を治める壮大な気宇もある豪傑として描かれる。
あくまで脇役なので出番こそ少ないものの「凡庸な男ではない」「東海の覇王」とその才覚・功績を称賛されている他、
「信長は今川義元を討ったような奇襲作戦は二度としなかった」「信長にとってはそれ以外に打つ手がなかった」など、
勝利こそできたものの、信長にとって義元はかなりの強敵であったことを示唆する記述も見られる。

  • 2007年大河ドラマ「風林火山」
谷原章介が演じた。
演者の容姿もあってかそれまでの一般的なイメージよりもスマートな印象を受ける。
若年期から当主にのし上がるまでも描かれ、寿桂尼と雪斎をまじえて策謀を巡らす場面は通称「今川暗黒会議」とファンから呼ばれている。
一方でプライドが高く激高しやすいところがあり、主人公の山本勘助とは終始折り合いが悪い。
終盤には彼の策に誘導される形で破滅を迎えてしまう。


  • 2017年大河ドラマ「おんな城主 直虎」
上述の通り、落語家である春風亭昇太氏が演じた。
演者が『笑点』にも出演している落語家ということもあって、どういう義元となるのか話題となっていたが、
ふたを開けてみれば、時代背景を考えれば昇太氏のトレードマークの一つである眼鏡を外すのは当然としても、
笑点』でお馴染みの笑顔を見せないどころか、下の身分の者がいる場では直答することすらなく、
所作や側近の者を通じて自らの意思を示し、下の者の謀反を疑えば容赦なく粛清する冷徹な「太守様」として描かれ、
主人公の井伊直虎を含む井伊家やその家臣団、そしてテレビの前の視聴者を震え上がらせたが、桶狭間の戦いで討たれた。
メインが井伊家なのでその死に様は詳細には描かれず、『笑点』では「いつの間にか死んでた」とイジられた。

  • 2023年大河ドラマ「どうする家康」
「否~!!我らは民に生かされておるのじゃ。民に見放された時こそ我らは死ぬのじゃ!」
義元を演じたのは狂言役者でもある野村萬斎氏。
まだ「松平元康」と呼ばれていた頃の、若き徳川家康が人質として過ごした駿府の当主として第一話から登場する。
部下たちの思いはどうあれ、若き家康にとっては尊敬する君主であり、義元もまた家康が尊敬するに足る名君主として描かれるが、
第一話の終盤に桶狭間の戦いが勃発し、家康に金色の鎧を贈って「これからも今川家に尽くしてくれ」と彼を激励したその後に、
魔王感マシマシで登場した岡田准一氏演じる信長に、討ち取られた首を括りつけた槍をぶん投げられるという、
ある意味即オチ二コマめいたギャグ描写にも見える、第一話にして討ち死にするという衝撃的な展開が描かれた。
こうして義元は第一話にして死亡し、松本潤氏演じる松平元康は大いに悩みながらも戦国時代を生き抜くこととなるが、
生前の義元の名言・格言は、彼の死後も元康(家康)の中に根付いており、彼の助けとなるのであった。

  • 信長の野望
意外と第1作から全体を通して真っ当な評価を受けている。
一貫して、統率力と政治力と魅力に優れた、君主として優れた人物。
とはいえ数値上は80代後半がほとんどで、信長、信玄、氏康、謙信といった超一流と比較すると明らかに一段劣るという位置づけだった。
特に馬に乗れないほど太っていたという俗説からか、武力は極端に低く評価されている作品も。
しかし近年は再評価が著しく、統率と政治は90の大台を突破し、武力と知謀も80台後半と、高水準でバランスの良い名将となっている。
ついでに顔グラも白塗りデブからイケメン貴公子へと別人レベルの変貌を遂げた。
また、弓取りの意味を弓道の弓と解釈しているようで弓に関する適性や戦法を与えられていたり、グラフィックでも弓を持っていることも多い。
義元存命時は恵まれた駿河、遠江という立地、バックは武田と北条に守ってもらえる。まだ小さい頃の織田を倒せば後は流れで上洛するのみ。
配下も質・量ともに豊富で、初心者にもプレイしやすいと評判。……その優秀な配下が殆ど後の徳川家なのには目を瞑るとして。
一応純粋な家臣の中では岡部元信や朝比奈泰朝あたりはそれなりに強く、政治面なら母・寿桂尼は優秀。
固有の戦法や政策が与えられていることも多く、『大志』では強制的に停戦を結ばせる「雪斎の教え」が猛威を振るった。
なお、定番の一つたる1560年シナリオでの扱いは作品によって様々。
開始直後に桶狭間の戦いが始まって死亡することもあれば、選択肢次第で戦死を回避できる場合もある。今川家を担当している場合はそもそも桶狭間が起こらないなんてことも。
ちなみに、詳細は氏真の項に譲るが義元死後の今川家は途端にハードモードとなる。

センゴク本編には出ないが外伝である桶狭間戦記にて信長とのダブル主人公として描かれた。
珍しく義元の若かりし頃が描かれ、名軍師太原雪斎との出会いから物語が始まる。
奔放な性格の優男だがカリスマ性に溢れ、人心掌握や政略に天賦の才を持つ。
豊かな領国に流入した流民を差配し、今川仮名目録追加や寄親寄子制による軍事力の強化を進める。
それにより人口が膨大化したため、その軍事力を持って尾張への侵攻を開始した。

信長の尾張統一後の最初の強敵としてそれなりに存在感がある。
武将としては有能だが油断癖があり、生前の雪斎から度々説教を受けている。
弱点は息子が馬鹿なこと。あと麻雀が弱いこと

武将達が大体ギャグキャラにされがちな本作きっての常識人だが、同時に家人に「この世で一番モテない男」扱いされるレベルの非モテキャラ。
しかも戦国時代基準での常識人であるが故に生まれる時代を間違えた息子の才能に気付いておらず、その息子が父親と正反対のイケメンキャラである事もあって完全にナメられている。

詳しくは該当項目を参照。
ナヨナヨしたおじゃる口調で喋る、厚化粧に肥満体という、戦国の荒々しさがかけらも感じられないデザイン。
さらに息子の設定まで導入されて、蹴鞠好きになっている。信長の野望とは対照的に、色物義元の典型例である。
上述通り、蹴鞠も京文化なので実際にやっていないとは限らないが、彼の場合は「蹴鞠を通じて日の本を統一する」などとのたまうネタキャラと化した。
おまけに戦国無双ゲーム自体がある意味信長を中心に回るので、桶狭間で戦死する役割でしかないことも多い。
特に1の新武将シナリオでは、織田信長の奇襲を一度は撃退したのに二度目の奇襲を受けて死亡する最期で、あまりの扱いの悪さが後々まで語り草になっている。
だが小物だった1を除けば彼なりに戦を無くそうとしている事は見て取れ、他の武将達とのやりとりでも実は大器なのかもしれないと匂わせている。その辺りは同じような扱いがされている劉禅と同じだろうか。
「4」でも実質は「桶狭間で散るだけの標的」である……
「4」の突然の描写のせいか、設定が大きく変更された「5」では筋肉質な武将として大きく変更された。

詳しくは該当項目を参照。
こっちも定番のおじゃる口調公家風デザインだが、創作の今川義元にありがちなでっぷり体型ではなくかなりの細身である。
「ぱっと見ただの変人に見えて要所要所で冷静に物事を見据えている」という戦国BASARAシリーズでは逆によくある方の色物。
戦国BASARA全体の色物具合から相対的に考えても、色物系の義元にしてはマトモかもしれない。

初代「仁王」ではサブミッションのボスとして登場。
この頃は屍狂い(亡者っぽい見た目をした、プレイヤーと同規格の敵キャラ)だったので、ミッションの名前や装備の見た目から推測しなければ義元公とはわからない程度のものだった。
戦国無双で言うところのモブ武将のような扱いである。
より遡った時代を描いた「仁王2」ではメインミッションのボスに抜擢されたが、そのビジュアルは白塗りの公家化粧に恰幅の良い体型。
「また蹴鞠義元か…」とプレイヤーが落胆したのも束の間、「ほう、また肴が一匹増えたようじゃ……」と呟くその声はCV:中尾隆聖
そして背には白い巨体が金に光り輝く雷の守護霊・六牙象。まさに「海道一の弓取り」の名に相応しい、威風堂々とした大大名の姿がそこにはあった。
実際に戦うとまだ序盤寄りのボスなのでそこまで強くはないが、短い出番からでも垣間見える彼のカリスマ性と彼の顔がドアップになる掴み技の演出は多くのプレイヤーに深い印象を残した。

「今川ヨシモト」名義で登場。詳しくは該当項目を参照。
天然系お嬢様で、ネタ枠というほどではないがネタ色もそこそこある。
あと、弓使いである。今更ながら、「弓取り」は武士の比喩であり、別に弓が得意であるという意味ではないことを補足しておく。

  • 戦国大戦、英傑大戦
戦国大戦は最初のバージョンから登場。それどころか勢力の1つが「今川家」であり、織田、武田、上杉と並んでの大抜擢であった。
勢力の共通意匠は「顔の化粧」であり、当主たる今川義元も口元が黒い蝶のような化粧で覆われている。
「圧倒的、圧倒的よぉ」と同じ言葉を2回繰り返しながら、非常に高い武力上昇とそれに釣り合ったデメリットを持つ全体強化計略「上洛の幻」で敵を蹂躙していく。
更に効果終了時に兵力(HP)が大幅に減るデメリットは娘の瀬名のお陰でペイできた。…為にその娘の計略にメスが入れられてしまった。
なおストーリーモードに当たる「群雄伝」だが、最初のバージョンの副題が「1560 尾張の風雲児」なのでやっぱりやられてしまう。
…のだが、今までの創作では信長本人にトドメを刺されることが多かった彼が、
群雄伝では梁田政綱の情報を元に突撃してきた毛利新助に討ち取られるという史実に近い描かれ方をされた。
そのお陰で一人のシナリオライターがSEGAへの入社を決意したのはまた別の話。

その後も今川軍は継戦能力の高さと義元の爆発力のある号令で環境には居続けたものの、
ストーリー的にはもう死んでいるため、追加カードも少なめで群雄伝では影も形もない状態が続いた。
しかし時代設定が過去となった「1477 破府、六十六州の欠片へ」にて若い頃の義元が追加。
こちらの計略「花倉の戦火」は単体強化で強力であるがやはりデメリットが重いというものであった。
更に群雄伝に彼の伝が追加。今まで語られることが少なかった「花倉の乱」を主軸に今川義元という男を紐解いていく。
最初は「1477」で追加された義元が主役だが、途中で1560版のSRに成長する。
…も、そこからは破滅への物語であり、最後には織田信長を討ち取った…と思いきやそれは空想オチであり、
結果史実通りに討ち取られるという何処かで見たような終わり方をするのであった…。そういや勢力カラー一緒っすね。
とはいえ若干滑稽に見えるもののいわゆる暗愚としての扱いはされておらず、
また化粧を外した顔は意外とイケメンだったりするので扱い的には非常に良いと言えよう。

英傑大戦でもSR版の姿で登場。
なんというかテンションが爆上がりしており非常にポジティブ。
様々な時節行事を「今川の季節ッ!!」と言い張る等ほぼネタキャラであるが、その言葉の節々には部下思い、仲間思いな一面も見て取れる。
特に贈り物台詞の「これ以上、有能な家臣が増えてしまっては戦すら起らぬぞッ!」と言い高笑いする姿は彼の本質を表していると言えるだろう。
一方で妻の定恵院も戦国大戦時代から登場しており、彼女はなぜか常に包帯姿であった。一方で仲は良く、英傑大戦では義元の彼女に対する意外な姿も見られる。
なお計略自体は使いやすいものに変更されているが、計略を使っても同じく計略を使った織田信長に一歩及ばないステータスになるのは皮肉だろうか。





「否~!!我らはWiki篭りに生かされておるのじゃ。Wiki篭りに見放された時こそ我らは死ぬのじゃ!」

という事で、真の主であるWiki篭りの皆様方、追記・修正よろしくお願い致します。

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最終更新:2025年04月24日 20:33

*1 今川氏は源氏の名門であり室町幕府の頂点足利氏の分家の吉良氏の更に分家の家系。つまり足利一門。「足利が絶えれば吉良、吉良が絶えれば今川が征夷大将軍になる」という伝説もあるがおそらく将軍になるには相当厳しい立ち位置。

*2 四万前後とする説もあるが、国力からしても多すぎるとのこと。実数二万あまり、公称四万と言うことか。

*3 資料によっては毛利新助とも。また、服部小平太であったとする説もある。

*4 実際、今川義元も世襲当初は武士団をうまくまとめられず、軍事的に弱体であった。