ウォーターゲート事件/Watergate scandal

登録日:2012/07/19 Thu 01:57:02
更新日:2024/11/12 Tue 02:06:57
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ウォーターゲート事件とは、1972年6月17日、ワシントンD.C.のウォーターゲート・ビルにある民主党全国委員会本部に5人の男が侵入し、
盗聴装置を仕掛けようとして未遂に終わった事件。
およびその事件を皮切りに共和党政権による犯罪行為が次々と明らかになり、遂には当時の大統領が辞任に追い込まれるまでの一連のスキャンダルを指す。


<主要な人物>


リチャード・ニクソン大統領
当時のアメリカ合衆国大統領。
中道保守派を基盤としながらリベラル層にも支持層を広げ、ベトナムからの撤兵、デタント(ソ連との融和政策)の推進、アメリカ環境保護局や麻薬取締局の設置など、
内外で多くの実績を残していたが、同事件により名声が地に堕ちる。
今のところアメリカ史上ただ一人の『生きている内に辞任に追い込まれた大統領』というポジションに加え、
悪人面のせいで余計に悪いイメージを被っている感が否めない。
とある伝記映画ではなんとケネディ大統領暗殺事件の主犯として描かれてしまうありさまだった。
(これはさすがに遺族が抗議したが、そう思われても文句の言えない行いがあったのも事実である)

ディープ・スロート
政権の不正行為の「情報を得る方法」をワシントン・ポストに流した謎の情報提供者。
ディープ・スロートとはマスコミが付けた通称であり、当時大ヒットしたポルノ映画から名づけられた。良い子は意味について検索してはいけない。
正体については項目末にて記載。サイボーグ忍者ではない。というか、サイボーグ忍者の方はこれが元ネタ。
立場上ダイレクトに流せる立場ではなかったらしく、その情報提供の方法は道筋を示したり情報の入手方法を示唆したり、
情報のありかを指示という形で遠まわしに教えるなど情報漏洩に該当しない巧妙な手口だった。

ボブ・ウッドワード
ワシントン・ポストの記者。
ディープ・スロートが彼(と相方のバーンスタイン)に接触したことで事件は劇的に進展していくことになる。

カール・バーンスタイン
ワシントン・ポストの記者その2。
相方のウッドワードと共に、ディープ・スロートに導かれる形で事件の証拠を探り当てることに。
実は彼もウッドワードも当人が死ぬまでディープ・スロートの正体は黙っておくつもりだった。




<事件の経緯>


■ウォーターゲート・ビルへの不法侵入

1972年6月17日深夜、ワシントンD.C.のウォーターゲート・ビルの警備員がドアの鍵がロックされないように貼られたテープを発見した。
初めは日中に搬入業者が貼ったものと思い、剥がして立ち去ったものの、数十分後に再び通りかかったところ剥がしたはずのテープが貼り直されていた
不審に思った警備員はワシントン市警へ通報し、警官隊が銃を持って駆けつける。
かくして6Fの民主党全国委員会本部オフィスへ不法侵入していた5人の男が現行犯逮捕された。男たちの目的は民主党オフィス内に盗聴器を仕掛けることであった。

更に犯行メンバーの一人から押収された手帳の中に、ニクソン大統領再選委員会で以前働いていた人物のホワイトハウス内の連絡先電話番号が見つかったことで、
侵入犯がニクソン大統領に近い者と関係があるのではないかとの疑念が生まれた。
これに対し、大統領の報道担当官ロナルド・ジーグラーは「三流のコソ泥」とコメントし、ホワイトハウスとは無関係であるとして一蹴した。
実際問題、テープで無効化したドアの鍵は中からは好きに解除できるため、わざわざテープを貼り直した意味は全く無かった
この無駄なポカミスがなければ侵入事件は発覚せず、この大事件にも結びつかなかったわけで、
三流のコソ泥という比喩は実に的を射ていると後年大いに皮肉られている。


■ディープ・スロートからのプレゼントだ

審問の過程で、犯行メンバーの一人がCIAの元局員で大統領再選委員会の警備主任であったことが判明。
調査の結果、彼が大統領再選委員会から何らかの賃金を受取っていることが発覚する。

同じ頃、ワシントン・ポストの記者であるボブ・ウッドワードとカール・バーンスタインが独自の調査を始め、
「ディープ・スロート」と名づけられた内部情報提供者から得た、事件に関する様々な事実を紙面に発表した。
内容その物は関係者の間では既知であったが世間に明かされていない物も多く、それらの記事はウォーターゲート事件に対する世間の注目を集めることとなり、
ニクソン大統領やその側近へ大衆は疑心を抱き始める。


■捜査妨害

7月23日、ニクソン大統領とハルデマン大統領首席補佐官は、FBIのメキシコ人ビジネスマンに対する犯罪調査を遅らせるようCIAに依頼する件について議論を行う。
その様子はテープ録音されており、後に特別検察官に提出を求められることとなる。

ニクソンは「国家安全保障」が危険にさらされるだろうと主張し、CIA副長官にFBIの調査を妨害するよう指示。
盗聴工作の資金であるメキシコ人ビジネスマンを隠れ蓑にした秘密献金の存在を隠蔽することが目的だった。


■録音テープの存在の発覚

1973年1月8日、裁判にて被告全員に対し、犯罪の共同謀議、家宅侵入および盗聴について有罪の判決が下されることになるが、
被告が証言せず有罪を認めるように賄賂が支払われたという事実もバレる。

これを知った連邦地方裁判所判事の怒りは頂点に達し、被告に対して懲役30年のブタ箱送り事件の調査に協力するかを選べ』と詰め寄った。

侵入犯「すいません全部話します」

かくして揉み消し工作は失敗どころか火に油を注ぐ結果となった。

証言を元に上院ウォーターゲート特別委員会が設置され、ホワイトハウスの職員の召喚が始まった。

4月30日、ニクソンは彼が最も信頼するハルデマンとアーリックマン両補佐官の辞職を余儀なくされた。加えて、法律顧問ジョン・ディーンを解雇。
司法長官をエリオット・L・リチャードソンに代え、彼は特別検察官にアーチボルド・コックスを指名。

7月13日、特別委員会にてバターフィールド大統領副補佐官が、ホワイトハウスの録音システムが大統領執務室中の全会話を記録していることをゲロした。
コックス検察官と上院特別委員会は直ちにホワイトハウスに対し録音テープの提出を命じた。
そんな決定的証拠を引き渡す訳に行かない政権側はこれを拒絶。もうこの時点で認めたようなものだけどな!


■土曜日の夜の虐殺

1973年10月20日、ニクソンはこれが権力だ!と言わんばかりに大統領特権でテープの提出命令を無効にするようコックスに命じた。

コックス検察官「だが断る」

提出命令を無効にすることを拒否されたニクソンはリチャードソン司法長官に対してコックスを解任するよう要請した。

リチャードソン司法長官「だが断る」

仕方なくニクソンはウィリアム・D・ラッケルズハウス司法副長官に対して同様のry

ラッケルズハウス副長官「だが断る」

…長官、副長官の二人は拒否を貫き抗議の辞任。結局、特別検察官を解任したのは新任の訟務長官であった。以上の解任劇は「土曜の夜の虐殺」と呼ばれた。

11月17日、ニクソンは400人の記者の前で自らの行為を「私は悪党では無い! (I am not a crook.)」と弁明する。
これは後々まで語られる有名な文句となった。主にネタとして。
また、この露骨に権力を濫用する行為に対し大統領弾劾法案が提出される。


■秘密テープ提出へ

ニクソンは編集したテープの筆記録を提出することには合意した。だが公表された筆記録は削除箇所が多数存在し、それが大幅なものであることも判明。
ホワイトハウスはこれをニクソンの秘書が電話応答の際に誤って録音機につけたペダルを踏んでテープを消去したと説明したが、
電話に出ながらペダルを踏むにはストレッチマン並に無理な体勢になることがセンセーショナルに取り上げられてしまった。

後の鑑定でこの編集は複数回に渡り念入りに行われたことが判明し、それは違法行為として訴追対象になるほど大幅であることも判明した。

1974年7月24日、最高裁判所はテープに対するニクソンの大統領特権の申し立ては無効とし、さらに特別検査官にテープを引き渡すように命じるという判決を下す。
この命令に従い、ニクソンは7月30日に問題のテープを引き渡すこととなる。


■弾劾の可決

1974年3月1日、大統領の元側近7人がウォーターゲート事件の捜査妨害を企んだことで起訴された。
さらに秘密にニクソンを起訴されていない共謀者として指名した。
さらに下院司法委員会では1974年7月27日に大統領に対する第1の弾劾(司法妨害)を勧告することが可決され、
さらにその後7月29日には第2の弾劾(権力の乱用)が、また7月30日には第3の弾劾(議会に対する侮辱)までもが可決されてしまう。

また、提出されたテープが公開され、その中でニクソンが国家安全保障に対する問題を捏造することにより調査を阻む計画を作ったことが完全に暴露された。


■大統領辞職

弾劾に足る十分な票があることが共和党上院議員によって伝えられる。
歴代米大統領に様々なスキャンダルはあれど、唯一、弾劾により失職した例は無い。
遂にニクソンは自らの意思で辞職することを決定した。

1974年8月8日、テレビ演説でニクソンは8月9日正午に辞職することを発表。

ニクソンの辞任後はフォード副大統領が大統領に昇格し、
9月8日、「ニクソン大統領が行った可能性のある犯罪について、無条件の大統領特別恩赦を、裁判に先行して行う」という声明を発表した。
これによりニクソンは以後一切の捜査や裁判を免れたが、恩赦を受ける=有罪を認めることを意味していた。


かくしてアメリカ史上最大のスキャンダル事件は幕を閉じた。


■その後の余波

ウォーターゲート事件以降、マスメディアが重要な政治家の個人行為を明らかにすることに精力的になり、
さらにそこから政治的な問題への波及も増加することとなった。

そのうちの一つが1977年、英国の落ち目のTV司会者デービッド・フロストが再起をかけて敢行したニクソンへのインタビューであった。
フロストは単独で取材を行い、資金を調達し、一対一の討論番組という場を用意する。
政界復活を目論むニクソンもこれに応じ、数時間以上にも渡る激戦が繰り広げられた。
ニクソンはベトナム戦争や中国関係に対しての事前準備を整えていたものの、フロストは徹底してウォーターゲート事件を追求。
ついに事件当時ニクソンが口にしなかった謝罪を引き出すことに成功する。
これによってニクソンの政界復帰は絶望的になり、対してフロストは政治社会へただ一人で立ち向かい勝利したという事で、
二十世紀における偉大なジャーナリストの一人として名を刻むことになった。


1994年4月22日、ニクソンは脳卒中により81歳で死去した。
大スキャンダルの主犯であったためか大統領経験者の死去の際に行われる国葬は行われず、一市民として埋葬された。


2005年5月31日、「ディープ・スロート」の正体は当時のFBI副長官マーク・フェルトである事がフェルトの家族とその弁護士(※後述)から発表される。
(事件当時もホワイトハウス側はフェルトとワシントン・ポストの記者が通じていることを把握しており、
 世間からも候補のひとりとして挙がっていたものの、完全には尻尾を掴ませなかった)

事件以前から彼と親しい友人であったウッドワードもこの事実を認め、これに関する書籍を執筆した。
(『ディープ・スロート 大統領を葬った男』というタイトルで日本語版も出ている)
フェルトの役職から、デタント(容共)に前向きだったニクソンを保守派(反共)の根強いFBI・CIAがクーデターを図ったという説もあり、
またフェルト自身の動機は昇進問題に絡む私怨も含まれていたとも言われている。
それもあってか評価は分かれており、第43代大統領を務めたジョージ・W・ブッシュも、
「(彼のやったことを賞賛すべきか否か)判断するのは難しい」と評している。

真実はどうかというと、2000年にウッドワードが彼を尋ねた時には、既に認知症で当時の事件についてもほとんど覚えておらず、
2005年の発表も、実娘やその弁護士の要請に応じたものであった。
彼が何故ウッドワードとバーンスタインに情報を授けたのかは、永遠の謎となってしまったのである。

2008年12月18日、「ディープ・スロート」マーク・フェルトは95歳で死去した。


<余談>


フェルトは1973年にFBIを退職しているが、その後、過去のある事件でFBIが捜査のために行った不正の責任者として裁判となった。
その際、ウォーターゲート事件で『敵対』したニクソンから擁護され、ジャーナリストとしての立場を貫く盟友ウッドワードとは敵対している。

ディープ・スロートの正体に関しては本人が明かすまでの間、様々な説が飛び交った。
そのため創作では非常に使い易く、『Xファイル』に出てくるディープ・スロートも設定上はこの事件のそれと同一人物である
また、正体不明だったのを逆手にとって「偶然ホワイトハウスに出入りできるようになった二人組の女子高生」がディープ・スロートの正体、
という大胆な設定を主軸としたコメディ映画『キルスティン・ダンストの大統領に気をつけろ!』なんてものまである。

この事件の影響で『ディープ・スロート』は「活動先の組織で要職に就き、重要情報を漏洩させるスパイ」を意味するスラングとしても機能することとなった。
まあ、事の顛末を見れば仕方ない事ではあるけど。




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