長友佑都

登録日:2011/06/09 Thu 00:01:12
更新日:2024/02/21 Wed 07:27:56
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長友(ながとも)佑都(ゆうと)は日本のサッカー選手。サイドバックでありながら俺達に夢を見せてくるファンタジスタ。1986年9月12日生まれ。
無名の大学生からインテルに就職した最強の勝ち組である。


  • プレースタイル
試合中にシャトルランをこなしながらプレーするくらいの変態的スタミナで無限に上下動する、(2020年代基準では)古典的サイドバック。
本人曰く
「高校の時から走力は誰にも負けない自信があった」
また本来は右利きであるが、左足もそつなく扱える。そのため両サイドこなすことができ、むしろ左サイドが主戦場である。
スピードも優れており、そのスタミナとスピードでサイドを駆け抜けるプレースタイルはイタリアで
SEGAのソニックじゃねーか!」
と称された。小さいしね。
走り回るだけではなく対人守備能力にも定評があり、エースキラーとの呼び声も高い。
弱点は、攻撃面では大外に駆け上がりクロスを上げるというSBの基本の動きは得意だがそれ以外の「攻撃で違いを作る」能力は乏しいこと、守備面では170cmという身長のためサイドとはいえロングボールの的にされやすいこと。
ただし非常にパワフルであり、空中は厳しいとしても地上の競り合いならそうそう遅れは取らない。


◇経歴
愛媛県西条市出身。1986年9月12日生まれ。
小学生の時、Jリーグ創成期を目の当たりにした事が、サッカーを始めるキッカケ。
元々運動神経が良かったため、すぐにレギュラーになる。

サッカーを始めてからずっと中盤のサイド、センターでプレー。
エースだったが、ドリブラーで玉離れが悪く、守備意識が低い、という一般に知られる長友からはとても想像のつかない選手だった。
この時、愛媛FCのセレクションを受けるが落ちている。

中学になってもそのスタイルは変わらず、俺様プレーで結果的にチームを勝たせる選手だった。
だが、守備意識の低さとスタミナの無さを当時の顧問の先生に指摘され、駅伝に参加するという荒療治でこの弱点を克服。
この頃から弱点だった走力が自身の最大の武器となった。

  • 中学時代は県予選三位が最高成績で、全国大会に出場出来なかったが、推薦で高校サッカーの強豪である東福岡高校に進学する。
この頃から走力と1対1の強さ、フィジカル全般を徹底的に鍛え上げた。
レギュラーを掴んだのは3年生になる直前の2月の九州大会。途中交代で出場し、好パフォーマンスを見せた。
高校選手権二回戦で市立船橋と対戦し、PK戦の末敗れ、長友の高校サッカーは終わる。
この頃はまだプロ注目の選手というわけではなく、スポーツ推薦を貰えなかった為、学業成績による指定校推薦で明治大学へと進学する。

だが、プロになりたいという気持ちは捨ててはいなかった。

  • 明治大学進学後はヘルニアとの戦いが続いた。激痛に耐え、辛いリハビリを送る日々……
そして体幹トレーニングを本格的に取り入れたのもこの時期からだった。
そして転機が訪れる。リハビリを終えて復帰した後、監督に1対1の強さと変態的スタミナを買われてサイドバックへコンバートされる。
最初は乗り気で無かった長友も、次第のこのポジションが自分に合っていると自覚し始める。
が、ここでヘルニアが再発。チーム練習には参加出来ず、スタンドで太鼓を叩く日々が続き、
しまいには鹿島アントラーズのサポーターチームから太鼓係としてスカウトされる始末。

「君、良い太鼓してるね。鹿島に入らないか?」


半ば自棄になりかけたが、チームメイト達の支えもあり、何とか這い上がる。
そして大学二年の秋に始まった関東大学後期リーグではスタメンの座を勝ち取る。
そのシーズンの活躍が認められ、2006年の冬には大学生の日本代表に選出される。
その後FC東京のスカウトの目に留まり、大学在籍中にFC東京の選手としてナビスコ杯に出場する。

まだ契約を結んでない状態ではあったが、プロデビュー出来たことで、長友はプロ入りの決意を決める。
しかし、三度ヘルニアが再発。U-22日本代表に選ばれた矢先のことだった。
だがここもチームメイトや監督、そしてFC東京のスタッフ達の支えで乗り切ると、特別指定選手としてFC東京の選手となる。

  • そして2008年、開幕戦からスタメン出場を果たすと、これをライバル達に譲る事はなかった。
この時本人はA代表でデビューしていた内田篤人をライバル視していたという。
そして同年にA代表に招集された長友は、このシーズンにベストイレブンと優秀新人賞を獲得。そして口にはしなかったモノの海外移籍を視野に入れはじめていた。

  • 2009年。既に代表でのスタメンを確立させていた長友はオランダ、ガーナとの試合で「世界レベル」を痛感する。
本人はこの試合後に
「まだフィジカルが足りない」
と更にフィジカルトレーニングをハードなモノにした。
ドMここに極まる。
またFC東京がナビスコ杯で優勝し、良い形で2009年を終えた。

W杯初戦のカメルーン戦。
時に危ういシーンもあったが、江藤(エトー)さんを完封。川島のどや顔と気迫溢れるセーブやのゴールで見事カメルーン戦をモノにする。

続くオランダ戦。ファン・ペルシーを吹っ飛ばしたりカイトを削ったり左サイドから惜しいシュートを放ったりしたが、0-1で破れてしまった。

そして予選突破をかけたデンマーク戦。
欧州屈指のガチムチ軍団を前にフィジカル負けしないチートっぷりを披露すると、ブレ玉をぶちこんだりクライフターンでアシストしたりと△が無双、
ガチャピンが芸術的フリーキックを決めたりして見事決勝Tに進出を決める。
日本中を狂喜乱舞させた。

決勝Tでは、パラメヒコマンがPKを外し、チームは敗れたが、この大会での活躍が評価され、長友はイタリアのチェゼーナへ移籍。
ローマに移籍する話もあったが、結局破談になった。

  • そしてイタリアで相変わらず走り回っていると、いつの間にか評価が上がっており、インテルやユベントスといったビッグクラブが注目する程になっていた。
(後にインテルの強化担当ブランカは、アジア杯以前から長友を獲得するつもりだった事を明かしている)

アジア杯での優勝を手土産に意気揚々とイタリアに戻ると、インテルやミランが自分を獲得しようとしているというニュースが出回っている事に驚く。
そして2011年1月31日。イタリアに帰ってきた翌日、冬の移籍市場が閉まるその日に長友はインテルから連絡を受ける。
そしてものの数時間で契約がまとまると、インテルの長友が誕生した。日本人で始めてのメガクラブ所属のジョカトーレが誕生する。
レンタル移籍で背番号は55。モロッコ代表のカルジャ、イタリア代表のラノッキア、パッツィーニら共に入団。
入団早々にマテ兄貴にいじられたり、サネッティに食事に誘われたり、W杯で戦った江藤さん、スナイデルと仲良くなったりと直ぐに溶け込んだ。
入団当初はあまり出場機会に恵まれなかったが、そんな中でも好パフォーマンスを披露。
ジェノア戦でセリエA初ゴールを記録し、波に乗るとポジション的にライバルのキブが色々とやらかしスタメンを手に入れる。
CLのシャルケ戦以降はスタメンを不動のモノにし、コパイタリア決勝を制してイタリアでの初タイトルを獲得。

イタリア初年度は上々の形でシーズンを締めくくった。
また、シーズン終了後にスナイデル、江藤、サネッティと共にインテルの広報キャラに選ばれ、キャンプ地の宣伝用ポスターになっている。
そして、7月1日にチェゼーナからインテルへの完全移籍が発表された。

  • 改めて イ ン テ ル 長 友 誕生。ちなみに背番号は55。
11~14年あたりは負傷離脱を除けばほぼレギュラーとして活躍。その間にブラジルW杯にも引き続き出場。
在籍期間のうちは監督交代もSBの補強も頻発し、14-15シーズン以降は怪我やミスなどで出場機会を何度も失うが、そのたびに復活して一定の出場機会を得続けた。
メンタリティの面でも高い評価を受け、副キャプテンの座にまで就いた。
途中途中でマドリーだのユナイテッドだのといったビッグクラブからのオファーの話も上るほどであった。
しかし17-18シーズンは11月からスパッと出場が途絶えてしまい、ついに移籍を決意。
冬市場でトルコの強豪ガラタサライにレンタル移籍し、シーズン終了後に完全移籍となった。

最終的に、インテルにはレンタル含めて7年(11年初~17年末)在籍。
大活躍したと言えるかは意見が分かれるかもしれないが、この間に同世代のエース本田&香川がビッグクラブで躓いたのと比べれば雲泥の差であり、
所属クラブのレベルを重視するなら、この世代どころか日本サッカー全体でも他に類を見ないほどの成功者だろう。

  • 2018年、長友32歳。
ガラタサライ初年度は主力として活躍。
そのままロシアW杯でもおじさんJAPANの一員として働く。ハリルホジッチ監督の電撃解任と共に行われたおじさんJAPAN化だが、長友はハリル時代から普通に出ていた。あと本戦前に突然髪を金髪に染めた。

18-19シーズンは負傷もあって出場機会がやや限定される。
そして19-20シーズンはチームが若返りの方針を打ち出して外国人枠の都合で戦力外にされ、移籍もまとまらず半年飼い殺しという非常に辛い立場に置かれた。
シーズン終了後にマルセイユへの移籍が決まる。マルセイユは長友と共に日本のサイドを守る酒井宏樹の所属クラブであり、まさかのフランスの地でサムライSBコンビ成立。
もっともリザーバーと見られていたのだが、加入した矢先にレギュラーの左SBが負傷離脱したため、結果リーグ戦25試合とレギュラー級に出張った。
ただ、半年のブランクと加齢のコンボかプレーの評価はせいぜい「控えならまぁこんなもんか」程度で、マルセイユサポからの評判も芳しくなかった。

そんな感じで良くも悪くも役目は果たして1年で契約満了。古巣FC東京に帰還する。
しかしJでもパフォーマンスは精彩を欠き、それに似つかわしくない発言で日本のサポにも非難を浴びまくる。
2022年には36歳となる年齢、長友という選手のキャラクターからしても加齢の影響は致命的であるし、終わった選手という評価は決定的になった。

一方で、代表では日本のSBに相応の後継があまり育たなかったのもあるとはいえ、大きく世代交代した森保体制下でも代表に呼ばれ続けていた。
しかし代表でのパフォーマンスもクラブと大差ない状況であったが、2022年に入ってキレを取り戻し始め、ブラジルとの親善試合では評価急上昇中のヴィニシウスを普通に抑えるなど往年のエースキラーぶりも顔を覗かせ始める。
カタールW杯本番では若手左SB本命の中山雄太が負傷で招集取り消しとなったのも重なり、全試合先発出場。
交代策の関係もありフル出場はなかったがパフォーマンスは安定しており、3バックの重用に伴い、サイドが攻撃的な選手に偏る中で貴重な本職WBともなった。
そしてこの出場により、初めてW杯4大会のピッチに立った日本人となった。*1
なお、ロシアの時同様に金髪でカタールに入国したと思いきやドイツ戦の直前には赤髪になっておりそのまま通した。


◇その他
2016年6月、タレント・女優の平愛梨との交際が発覚した。
これを受けて長友は愛梨のことを、イタリア語で愛する人を意味する"アモーレ"と表現し、ちょっとした流行語になりつつある。
アモーレという表現が口をついて出てくるあたり完全にイタリアナイズされてますね…(最近では会見中に日本語を忘れたこともあった)。

カタールW杯ではドイツ戦の勝利後に「ブラボー!!」とやたら連呼して他の選手のインタビュー中にも鳴り響く有様となり、そのおもしろおじさんっぷりで再び流行語を生み出した。
スペイン戦の後ももちろんうるさかった。
ちなみに、「日本代表でブラボーを連呼する人」は長友がオリジンではなく、オシム*2→ミシャ*3→森保*4と日本の監督たちの間で受け継がれたものでもある。
長友がその流れを踏まえてブラボー連呼してるのか関係ないブラボーなのかは謎。




追記、修正はブラボーなアモーレがお願いします。

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最終更新:2024年02月21日 07:27

*1 98-10の川口・楢崎、長友と同じ10-22の川島と、GKなら他にも4大会「招集」されているが、彼らは「試合への出場」のない大会を含む。

*2 クロアチア人。

*3 オシムの腹心。セルビア人。

*4 ミシャ体制下の広島でコーチを務めた。