長篠城攻防戦

登録日:2013/12/12 (木) 14:50:04
更新日:2025/02/19 Wed 14:16:33
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-長篠の戦い-

天正3年(1575年)に織田信長・徳川家康の連合軍と武田勝頼の間で勃発した、日本史を学んでいれば誰もが一度は耳にするであろうこの合戦。
その結果はおそらく多くのアニヲタ諸兄はご存知であるとは思うが、この長篠の戦い、その裏に隠されたあるひとつの城を巡った物語をご存知だろうか?

楠木正成による「千早城の戦い」と共に「弱き城、不利な状況、少ない兵であっても援軍や勝算の見込みといった希望があるならばそれらすべてを跳ね除けて生き延びる」という実例となった戦でもある。

発端


その物語を語る前にまず、何故そもそも長篠の戦いは起こったのか?これを解説していこう。
徳川家康が治める三河国と、武田信玄が治める信濃国、その丁度国境に当たる位置に、あるひとつの小さな城があった。
それが長篠城である。
大野川と寒狭川の交わる独特な地形を利用して作られたこの城はまさに天然の要塞とも言うべきもので、三河と信濃の国境ということもあり、徳川・武田の両家にとっては敵地への最前線の拠点ともなる。

1572年10月、武田信玄は将軍・足利義昭織田信長討伐令に答える形で西上作戦を開始。三方ヶ原の戦いで家康軍を一蹴すると、攻撃・説得でこの長篠城などを始めとした周辺の城を味方に引き入れる。
その前後から三河・遠江に侵攻していた武田軍は三河の一部…山岳地帯に当たる奥三河を治めていたのだ。
しかしその直後に体調を崩した武田信玄は、撤退を決定。その道中で病死してしまう。
とはいえ奥三河を抑えられたままだと、奥三河から直接岡崎・吉田(現・豊橋市)を攻められる危険性がある。信玄の死のわずか3ヵ月後には家康がこの城を奪い返したことからも、その重要性がうかがえる。

しかし信玄の跡目を継いだ武田勝頼が、今度は1万5000もの大軍を率いてこの長篠城へと攻め入ってきた。これが長篠の戦いの幕開けである。

この時、長篠城の防衛に当たっていたのはわずか500の兵。それを率いていたのは、当時20歳そこそこの青年武将・奥平貞昌であった。


勝頼と貞昌の因縁


当時の武田家にはあるひとつの問題があった。信玄の死をきっかけに、隣国の徳川家へと寝返る者が出ていたのである。
前当主である信玄という大黒柱の存在が大きく、これによって武田家は統率されていた*1ためである。
そして後を継いだ勝頼にとって、武田家がこのまま空中分解しないためには、動揺している部下を強引にでもまとめ上げることが必須となったのである。
結果的に短慮に見える言動もいくつかあるし、長篠城を奪還されたことには本当に激怒していたとも思われるが、
実際問題としてこの時の勝頼にとって配下に弱い姿勢を見せることなど許されていなかった
この様に勝頼は状況に対応するための行動をとっているため、決して暗愚な将だと言えないことは付け加えておく。
というかこういう状況になったのは、義信事件からの成り行きで勝頼を後継者にしたり(もともと諏訪家への養子であったため、名前に武田氏の通字である"信"が入っていない)、周辺諸国と同盟したり中途半端に喧嘩売ったりしてた信玄の責任が大きい。

そしてそんな武田家を離反した中の1人が、信玄の三河侵攻の際に武田家に転属していた奥平貞昌だった。
奥平家は元々今川家に属していたが、桶狭間の戦いの後に徳川家の傘下となっていた。それが武田信玄の三河侵攻時に武田氏に属していたのだ。
家を残すため強い方の勢力につく、というのはこの時代よくあることである。

そして徳川家康は武田氏を牽制するために、有力な武士団である奥平氏を味方に引き入れることを考えた。
家康は貞昌の父・奥平貞能に対して、家康長女・亀姫と貞昌の婚約、領地加増、貞能の娘と本多重純の結婚を条件に徳川帰参を誘ったのだ。
貞能は帰参を拒否したが、貞昌は武田家を離反し徳川家へと帰属した。同時に武田家に人質として送っていた妻と離縁した。
だが、これに激怒した勝頼は人質に取っていた貞昌の母と弟を処刑する。

自分で選んだ道とはいえ、貞昌の勝頼への恨みは相当なものだったであろう。
それを示すように、貞昌はわずか500の手勢で1万5000もの武田軍の大軍団を相手に奮戦。長篠城を守り抜いていた。
この時に貞昌が手の皮が破けて血まみれになりながらも打ち鳴らしたとされる太鼓が、今も長篠城址博物館に安置されている。

しかし5月14日、そんな貞昌の奮戦にも遂に限界の時が訪れようとしていた。勝頼側から放たれた火矢数本により食糧庫が陥落したのである。
手元に残された食糧はわずか4、5日分。落城はもはや時間の問題であった。


岡崎城の家康


同じ頃、三河の岡崎城にいた家康も窮地に立たされていた。
長篠城に15000もの大軍を率いて攻め入ってきた武田軍に対して、単独でこれを迎え討つことは不可能と判断した家康は、同盟を結んでいた織田信長に援軍を要請した。
だが、信長は一向に援軍を寄越す気配がなかったのである。

勿論信長も、以前の浅井・朝倉討伐戦で協力した家康の救援を無視したかったわけではない。
しかし、当時信長は後に「第一次信長包囲網」と呼ばれる浅井、朝倉、本願寺、伊勢長嶋一向衆、三好三人衆、雑賀衆、延暦寺など多方面の敵と対峙していた。
その為、東方の武田に対峙する家康に援軍を送る余力がない状態だった*2
そして中々援軍を寄越さない信長に対して、家康も遂に堪忍袋の緒が切れた。


「もし援軍を寄越して下さらぬのであれば、信長殿との同盟を破棄して勝頼と和睦し、その先鋒隊として私が尾張へ攻め入りますぞ!」

家康が信長に対してこれほどまでに強気な姿勢を見せたのは、後にも先にもこの時が唯一であったという。
これを受けて信長も奮起


「そこまで申すのであれば、援軍などとは言わん!この戦、これはもはや信長の戦である!!」

参戦を決意した信長が3万以上の軍勢を率いて岐阜城を出発したのは、5月13日のことであった。


その男の名は


しかし、そんな情報は武田軍に包囲された長篠城の兵士達の耳に入るはずもない。
貞昌以下、500の兵士達は勝頼に降る気など毛頭なかった。

「殿が我らを捨てるおつもりならば、せめて最期は三河者の意地を見せてくれよう!皆、死に花を咲かせる時じゃ!!」

全員が討ち死の覚悟を決めようとしていた時、ある1人の男が、岡崎城へ援軍の催促へ向かおうと名乗り出たのである。

その男、名を鳥居強右衛門勝商(とりいすねえもんかつあき)、齢30を過ぎた一介の足軽(武士としては一番最下級の地位)であった。

5月14日、強右衛門は城の下を流れる水路から密かに出発。
そこから続く急流で名高い寒挟川を得意とする水泳を以てその身一つで泳ぎ切ると、長篠城を見下ろす雁峰山で脱出成功を伝える狼煙を上げた後、
すぐさまその足で現地から65kmは離れていたとされる岡崎城へと向かった
その健脚は凄まじく、恐らく整備も何もされていなかったであろう岡崎への道を翌15日には踏破しきっていた。
家康が召集した長篠城救援部隊8000、そして信長の援軍3万も同時に岡崎へ到着していた。
強右衛門の口から長篠の顛末を聞いた信長と家康はもはや一刻の猶予も無いことを知ると、翌16日を出陣と定めた。
家康はここまで休み無く動いてきた強右衛門に、ひとまず休んで翌日に自分達と共に長篠へ向かうことを薦めたが、
強右衛門は「この吉報をすぐにでも長篠城の兵達に伝えたい」と疲労困憊の体を押して、長篠城へと取って返したのであった。


忠烈の士


だが、強右衛門の命運は遂に尽きた。武田軍の兵士に扮装して再び長篠城へ入り込もうとした強右衛門であったが、
雁峰山で上がった狼煙を見て歓声を上げた長篠城の兵士達を見て、不審に思い警戒を強化していた武田軍に捕らえられてしまう。
厳しい尋問の末に全てを白状してしまう強右衛門。だが勝頼もまた追い詰められていた。
あと3日もしないうちに(軍勢の正確な把握はしていないだろうが)3万を越える織田・徳川の軍勢がやってくる…。
そこで勝頼はある取引を強右衛門に持ちかけた。


「貴様、長篠城の者達に向けて『援軍は来ない』と申せ。そうすれば貴様を余の家臣として迎え入れてやろうではないか」


勝頼は強右衛門自身の口からそう言わせることで、長篠城の防衛隊の士気を削ぎ、攻めずして降伏を促そうとしたのである。
これに対して強右衛門が出した答えは


「…ははっ!身に余るお申し出。かたじけのうございます!!」


なんとあっさりとこれを承諾してしまったのである。
…この事が勝頼最大の失策になるとは勝頼はもちろん、武田軍の誰もが思わなかったことだろう。


その後、強右衛門は褌ひとつに身包みを剥がされた状態で長篠城の兵士達の前に引きずり出された。
槍のギラついた穂先が強右衛門に差し向けられる中、彼は大音声で呼ばわった。




「皆、安心せいっ!!これより2、3日のうち、織田・徳川の連合軍3万の兵が必ずや援軍に来てくださるぞっ!!今しばらくの辛抱じゃあっ!!!」




それは捕らえられた時に既に命を捨てていた強右衛門が打った、まさに一世一代の大芝居であった。
武田軍の誰もが、あっと思った時には全てが遅かった。それを聞いた長篠城の兵士達は一斉に歓声を上げた
だが次の瞬間、強右衛門は逆さまに磔にされ、激怒した勝頼を始めに強右衛門に向けられた刃がその体へ殺到する*3
鳥居強右衛門勝商絶命。彼は自らの命と引き換えに、見事にその役目を全うしたのであった


彼の壮絶な死に様を目の当たりにした長篠城防衛隊は大いに奮い立った

「強右衛門の死を、無駄にするなぁっ!!!!」

もはやその一心だけが、極限状態の長篠城の兵士達の心を支えていた。


その後


織田・徳川連合軍が長篠城近辺の設楽ヶ原に陣を敷いたのは5月18日。これによって勝頼の本隊は長篠城攻略からこの場所へ引きずり出される事となった。
長篠城は遂に落ちなかった。絶望的な状況の中、強右衛門の行動・そして彼が命を懸けて伝えた吉報により再び一丸となった貞昌と兵達は見事に城を守り抜いたのである
貞昌は長篠城を包囲していた武田軍を背後から強襲した酒井忠次によって救出された。
しかし、この救出戦では近くの鳶ヶ巣山砦が三度奪い奪われるという大激戦地の一つとなった。

この後の結果は周知の通りであろう。
(勝頼にとっては撤退しても先の見通しが立たなくなっていたとは言え)設楽ヶ原に何重に柵を張り巡らせて鉄砲を大量に投入して迎え撃った織田軍が武田軍を散々に打ち破り、勝利を収めた。

因みに無事城を守り通せた奥平貞昌は信長から賞賛され、信長の偏諱「信」を与えられて名を信昌と改名、家康の長女亀姫を無事に正室に迎え家康の婿となった。
そして奥平家そのものが明治時代まで栄える最大のきっかけとなった。

一方の武田家は元々の状況の悪さに加えて、この戦の影響から織田・徳川に後手に回らざるを得なくなってしまい、計略において圧倒的不利な状況に陥ることとなる。
かつて父親の宿敵、上杉謙信と和睦して手を結ぶなど対抗するも直後に謙信が急死してしまい、同盟相手の北条や家臣が織田方に寝返りが相次ぎ、かつて戦国最強と謳われた武田家は滅亡する事となった。

表では織田・徳川が当時最強を誇った武田軍を破った程度にしか語られる事の無いこの戦。その裏には、2人の男達の壮絶な物語があったのである。
もしも貞昌がもっと早く城を落とされていたら…もしも強右衛門が勝頼に降っていたら…もしかしたら滅亡していたのは武田ではなく徳川の方だったかもしれない。


余談

鈴木金七郎重政という足軽も鳥居強右衛門と一緒に脱出したらしいのだが、鳥居強右衛門の印象が強すぎたためかあまり後世に伝わっていない。
どうやら役割を果たした後はそのまま岡崎城に残ったため歴史の影に埋もれてしまったらしい。
一方の鳥居強右衛門はこの戦の影響で武将に劣らぬ立派な墓が建てられ子孫も厚遇されることになった。
その1人である鳥居信商もまた、関ケ原の合戦において西軍の要人であった安国寺恵瓊を捕縛するという大手柄を挙げている。

武田軍に捕らえられた強右衛門に監視・世話役として接する内に身の上話等で親しくなった落合左平次道久と言う勝頼の家臣は、
彼のその壮絶な、そして忠義に満ちた最期に感動し、彼が張り付けにされていた様子を旗指し物として絵に残した
これも上述の太鼓同様に今も残され、その絵を元に長篠城への案内看板が立てられている。

強右衛門の決死の行動に武田軍の家臣からも助命を嘆願する者が出たという話もあるが、
火急的対応が必要な上に強右衛門のやったことがやったことなだけにこちらについては創作の可能性が高い。

攻防戦後、武田側の捕虜からこの話を聞かされた家康は憤り、
「勝頼の様な武士の忠義を粗末にする大将は、いずれ家臣達に見限られて惨めな最期を迎えるだろう!」とまで言い放ったとされる。*4
徳川関連の書物では大苦戦した信玄は実際通り強大な敵として記す一方で、勝頼に対しては猛烈にこき下ろす描写をされている傾向にあるため注意が必要である。
学校の授業で触れられる範囲だけでは、長篠の戦いでの惨敗によって武田家が滅亡する要因となってしまった事にしか触れられず、
創作においてもこうした面ばかりが強調されて「無謀な突撃で信玄以来の有能な将達をむざむざ死なせた無能な暗君」というイメージが先行してしまっているが、
実際の勝頼は戦巧者として知られており、その名を逆利用して越中一向一揆を鎮圧したり、信長と家康共に長篠の戦い以後も侮らずに情報戦を繰り広げたり慎重に戦力を削いだりして戦っている。

バラエティ番組「水曜どうでしょう」における「試験に出る日本史」では企画コンセプトのフィールドワークに則り、長篠城跡現地にて小芝居を交えつつ上記の流れを分かりやすくかつかなり真面目に紹介している。*5

配役
大泉洋:織田信長・奥平兵
鈴井貴之:武田勝頼・武田兵・徳川家康・奥平兵
藤村忠寿:奥平兵

安田顕:鳥居強右衛門勝商

その場で台本を渡された安田は強右衛門の行動・顛末を知らなかったため、勝頼に唆され貞昌を裏切る件では一度アドリブで「いやじゃ!」と勝頼の申し出をはねのけるなど勝手な演技をしている。その直後に強右衛門が援軍の知らせを伝える場面では、強右衛門が忠烈の士と知り台本を見ながら嬉しそうな表情を浮かべ、「今しばらくの辛抱じゃーッ」と台詞を叫んだ。


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最終更新:2025年02月19日 14:16

*1 関係が浅いところだと恫喝に近い関係のところも多いが戦国時代ではむしろ普通である

*2 この他、ちょうど梅雨の時期のために鉄砲が使えないことを懸念していた、京都を眼前に後方の三河を守ることが果たして正解なのかと思案していた、などが援軍を渋った理由として諸説ある

*3 実際は磔か切り殺されたかのどちらかで、逆さ磔にはされていないのでは?と目されている。また、勝頼も近くにいたら斬りかかってもおかしくないが実際は処刑を命じたのみと思われる。

*4 この後、晩年の勝頼はこの通りに家臣達の相次ぐ裏切りによって最期を遂げた。が、少なくともこの予言は創作だと思われる。また、勝頼からすれば相手方の間者を処断するのは当然の判断である

*5 番組内では強右衛門の脱出・到着を知らせる狼煙については紹介されていない。