康芳夫

登録日:2015/03/05 (木曜日) 20:05:16
更新日:2025/04/03 Thu 14:51:20
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40代以上の人ならば誰でも知ってる珍妙な企画。

ネッシー捕獲、モハメド・アリVSアントニオ猪木、オリバー君。

そのトンデモな企画の裏には必ずこの男がいた。

それが、虚業家(きょぎょうか)(こう)芳夫(よしお)(1937年5月15日 - 2024年12月2日)である。


概要

1937年、康芳夫は東京・西神田で生まれた。
母親が日本人だが、父親は中国人の医師で、当時の日本政府にとって都合の良い南京政府の駐日大使付侍従医として強制的に徴用されているという経歴であったため、憲兵やクラスメイト、学校の教師達は彼を「チャンコロ」という差別用語を使って蔑視していた。

だが、康にはイジメを受けていたという記憶は無い。
獲物を睨みつけるライオンのような目つきには、大の大人も一歩退いたからだ。
そんなことよりも、彼はどうしても気になっていたことがあった。

母親は「日本は神に守られた国だから、絶対に負けることは無いわ。日本軍は遠い国々で戦争に勝っているのよ」と言い、
父親は「日本はこのままだと戦争に負ける。大使館で日本軍が連戦連敗していることを聴いているから分かるんだ」と言っていた。

「いったいどちらが本当のことを言っているのだろう…? 父さんなのか、それとも母さんなのか…?」

康はどちらの言っていることが本当なのかと疑問に思った。

やがて、父親の言っていた通り、1945年8月15日、日本は敗戦した。
敗戦後、康を差別していた教師達は中国人に媚びへつらうように頭を下げだし、
近所の住民は天皇の御真影を叩き割り、チンピラ達に売り渡しはじめた。
康はさらに混乱した。

なんなんだ!? こいつらはいったい誰を信じているんだ…!? 真実を貫いている人間はこの国にはいないのか!?

そんな疑問を抱いたまま、康は海城高校に入学。
康は番長のマネージャーに付いて、当時勢力をのばしていたヤクザ組織とのコーディネーター業をやり、
ついでに中国人のみに配給される食糧を闇に流してヤクザ組織を大儲けさせ、その収入で毎夜豪遊するという生活を送っていた。
そんな時、彼は当時流行していた見世物小屋を稼いだ金を払って見物した。
康は、見世物小屋にいる観客達が見世物を見ている様を見て思った。

種も仕掛けもある嘘っぱちの見世物なのに、客達は声を上げて驚く…。
不思議だ…、彼らの 嘘を見る目 は真実だ! 目の中にある 集中力 は本物だ!!

これが、後に興行師として名を馳せる『康芳夫』の始まりだった。


興行師『康芳夫』の歴史

高校卒業後、東京大学に合格した康は、1961年、東大五月祭で企画委員長となった時、国内の一流ジャズメンを呼んでライブを開催した。
当時はまだ大学にジャズコンサートなどなかった時代であったため、総長らは康の企画に反対したが、彼の話術に説き伏せられてしまった。
結果は大成功。ライブの入場券はプレミアがつき、伝統ある五月祭で革新的な企画を成功へと導いた康は、「自分にはプロデューサー的な仕事が性にあっている」と感じるようになった。

東大卒業後、康は後の相棒である『赤い呼び屋』の異名を持つ興行師・神彰(じんあきら)と手を組んで、「ボリショイ大サーカス」を大ヒットさせた。
全国での開催は長蛇の列が出来、大量の札束が金庫からあふれ出ていたという。
同年には、入社したアートフレンドアソシエーションでいきなりソニー・ロリンズの来日公演の企画を任され、辞書をひきながら契約書を確認し、一人でロリンズの弁護士と渡り合い、なんとかこれを成功させた。
後に康はこの企画について「呼び屋の仕事をスタートする最初のゲートをくぐったような興奮を感じていた」と語っている。

1966年には、ジム・クラーク、ジャッキー・スチュアートなどといった、当時のトップレーサーを来日させて行った「日本インディ200マイルレース」の企画に携わるも、興行的には大失敗し、多額の負債を抱える羽目になる。
しかし、同年には「アラビア大魔法団」という、顔を黒く塗ってアラビア人に扮装しただけのインチキ企画を大当たりさせ、日本インディ200マイルレースでの負債を一気に取り戻した。

その後康は、出版のプロデュース業やボクシングタイトルマッチの日本開催の企画などを行っていった。


1973年には、ネッシー捕獲のための探検隊「国際ネッシー探検隊」(隊長は石原慎太郎)をイギリスのネス湖に派遣するというトンデモな企画をプロデュースしたが、イギリスのメディアからは「東洋人がネッシーを金儲けのためのダシにしている」「ネッシーの捕獲と見せかけて、実は油田を掘ろうとしてるのではないか」と批判された。
康は捕獲したらネッシーの所有権についてイギリス政府と交渉しようと本気で思っていたそうだが、結局ネッシーは見つけることは出来なかった。
後にネッシーが「実はエイプリルフールのジョークのつもりで作った全くのデタラメだった」という事実が明かされた今となっては、大の大人がエイプリルフールの嘘に振り回されたという、笑うに笑えない企画となってしまった。
他にも同年にはイギリスの有名シンガー・トム・ジョーンズ来日公演といったイベントも取り仕切った。


1976年、染色体が人間とチンパンジーの中間の47本あるといわれた「未知の生物」オリバー君を来日させるという、はたまたトンデモな企画をプロデュース。
最初にテレビで放映されると、視聴率は22.5%を叩きだし、関連記事を載せた新聞・週刊誌は売り上げが増大するという社会現象まで巻き起こした。
放送後「オリバー君の子供を産みたい」という女性まで現れて、ベッドインの企画が持ち上がったが、
各方面からの反対と、オリバー君の染色体の本数が チンパンジーと同じ48本である と、とある生物学者が結論付けたために中止になった。
しかし、その生物学者は「いくら染色体が48本だからといって、チンパンジーと日本人との混血は不可能であると結論付けられない」とも言っていたらしく、
これに関して康は「オリバー君が人なのか猿なのかは分からなかった。結局のところ、猟奇的過ぎたんだろう」と述べている。(そりゃそうだ)
なお、オリバー君はその後フランスの富豪の下で暮らし、2012年に天寿を全うしている。


同年には、モハメド・アリVSアントニオ猪木の格闘技世界一決定戦を開催。
この企画のプロデュースを担当したのは猪木で、康はコーディネーターとしての役割を果たした。
アリ側はこの企画を「ショー的なエキシビジョンマッチだろう」と思っていたという。
しかし猪木の本気さと強さに驚き、不利にならないよう特殊ルールでがんじがらめにするという(実に大人げない)手段に出る。
ボクシングチャンピオンとプロレスチャンピオンが戦ったらどちらが勝つのか、
アリの提案した特殊ルールを、猪木はどう掻い潜るのか、当時のちびっ子たちはわくわくしながらテレビ中継を凝視した。
…が、試合の結果は今なお 最大の泥仕合 として語り継がれることになったのは言うまでもない。
まぁ、特殊ルールを出されたら、猪木も苦肉の策を取らざるを得なかったのは十分にわかるのだが。


1977年、ベンガルトラvs空手家という企画をプロデュース。
ベンガルトラの対戦相手として康は、当時最強空手家とうたわれた、極真会所属の空手家・山元守の承諾を取り付けた。
会場は極真会のネットワークでハイチに決定した。
しかし試合の4日前というところで、動物愛護家で知られる女優ブリジット・バルドーからの抗議で中止に。
そのブリジットからの抗議の内容は「ジャップの動物虐待をアメリカは許すザマスか!? ベンガルトラちゃんがかわいそうザマス!!」
という、ヘタしたらトラに食い殺されていたかもしれない山元をないがしろにしたものであり、それを聞いた康は「トラがかわいそうだって? じゃあ日本人空手家はかわいそうじゃないってのか? 大した女優様だな」と呆れたという。
よくよく考えてみれば、極真会がこの企画について異議の申し立てをしなかったのは、それはそれで凄いことである。


1979年にはウガンダの独裁者として知られていたイディ・アミンvsアントニオ猪木の格闘技世界一決定戦を企画。
実際にアミン、猪木と契約を交わし東京で記者会見までしたが、ウガンダで内戦が勃発し、アミンも亡命で試合どころではなくなり、企画は中止。
もし実際に試合が行われていたら、レフェリーはモハメド・アリになる予定だったという。


1986年には、ノアの箱舟探索プロジェクトを企画。
元宇宙飛行士、地質学者、考古学者など30人を組織してバイブルランド国際調査委員会を旗揚げし、
最高顧問にはアポロ15号で月面着陸に成功したジェームズ・アーウィンを招聘し、最先端技術でノアの方舟を探索しようとした。
が、中東の政情不安、湾岸戦争の勃発により、プロジェクトは凍結されてしまう。

テレビの仕事以外にも出版業にも関わっており、出版分野における仕事には、
  • 『血と薔薇』創刊
  • 『家畜人ヤプー』出版
  • 『週刊プレイボーイ』での「三浦和義のアナーキー人生相談」プロモート
  • 川尻徹のノストラダムス本プロデュース
なども手掛けている。


末路

…と、康はありとあらゆるトンデモ企画をプロデュースする『虚業家』として活動し、『伝説のプロデューサー』とまで呼ばれるようになっていった。
しかし、そんな康を快く思わない人間達がいた。
今まで康の打ちたてた企画のせいで、大痛手を負ってきたTV局の上役、出版社の編集者達である。


「ネッシー捜索の大失敗、オリバー君という名のチンパンジーの来日、アリVS猪木の泥仕合…。康の打ち立てた企画のせいで、俺達は赤っ恥をかいてきている!!」
「視聴者や読者からも『クソ企画に関わったお前たちも同罪だ』っていう批判が来ているね」
「これ以上あんなの企画に関わると、TVも雑誌も終わりじゃぞ!!」
「康は自分を虚業家と名乗って、調子に乗りすぎた。そろそろヤツには消えてもらうとしよう」

「そしてこれからは私達、大手の広告代理店が彼に代わって興行を仕切る…。フフッ、とても良いシナリオですわね」
「その通りです、お嬢様」


こうして康は興行プロデュースの世界から追い出され、1990年代前半から興行は、大手の広告代理店が調査をして合理的に取り仕切るようになった。

だが、康を追い出した者達は気づいていなかった。

大手広告代理店が取り仕切る興行=大会社の力がまとめている興行に過ぎない ということに。

その会社の力で興行を執り行う社員達に、康が今まで仕切ってきた興行の『 真実 』を感じ取ることが出来るのだろうか?

現に、今の興行のほとんどはいかにも安全牌を切ったような企画ばかりで、ネッシー捜索やアリVS猪木のような心躍るようなものがなく、TVは某クイズ番組に追従するようなバラエティ番組だらけとなり、雑誌も政治家や芸能人のスキャンダルを並べ立てただけのものとなってしまっている。

康は、自分が企画したネッシーの探索について、こんな発言をしている。


嘘一つで僕は2億近い金を動かした。それが面白いんであって、ネッシーがいるかいないかは問題外さ

人工的に暇つぶしが出来るものを作り上げて、自分も楽しんで、人も楽しませる。それが僕の仕事なんだよ


宝くじを買った人は『夢を買ってるんだ』と言う。
発表されるまでの間、『もし当たったら何をしよう』と夢想する。
その瞬間、人は『虚』『実』の間を堪能しているのではなかろうか?

康芳夫は、その奇想天外な企画の数々で当時の人々に、そんな『虚』と『実』の瞬間を提供してくれたのかもしれない…。


人は私を“ホラ吹き”と呼び、“虚業家”と名付けた。
結構だ。私は“ホラ吹き”だ。“虚業家”でもある。
考えてみてくれ、荒廃と混乱が支配するこの時代、
管理社会の閉塞状況のなかで、人間が窒息寸前の現代、“虚業”こそ男の仕事なのだ

著書「虚業家宣言」より


追記・修正は、ネッシーやオリバー君、アリVS猪木に心躍らせた方々がお願いします。



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  • 1937年
  • 1937年生まれ
  • 故人
  • 東京都
  • 西神田
  • 87歳
最終更新:2025年04月03日 14:51