湾岸戦争

登録日:2015/03/31 Thu 13:43:50
更新日:2025/04/05 Sat 22:57:31
所要時間:約 31 分で読めます





湾岸戦争(Gulf War)

期間:1990年8月2日~1991年2月28日


  • 主要交戦国
クウェート、アメリカイギリス、フランス、サウジアラビア、エジプトなど

VS

イラク


湾岸戦争とはイラクがクウェートに侵攻したのをキッカケに国際連合が多国籍軍の派遣を決定し、1991年1月17日にイラクを空爆した事に始まった戦争。
別名「第一次湾岸戦争」とも呼ばれる。


当時のメディアがミサイル爆撃の様子をゲーム画面のように表示したため、それにあやかって『テレビゲーム戦争』や『ニンテンドー戦争』とも呼ばれていた。 
これは当時の湾岸戦争に対する代表的なイメージだが、実はに過ぎない。

というのも多国籍軍航空部隊は1ヶ月もの間、イラク南部からクウェート全域で防衛していたイラク軍を徹底的に爆撃したが、無力化はできていなかった。
その為、大規模な地上戦に移行せざるを得なかったのだ。
つまり「戦争はゲームのようなもの」という価値観を米軍はなんとかして入れ込もうと必死だったのだ。
これはベトナム戦争で報道管制を殆どと言って良いほど敷かなかった為、反戦運動を引き起こして国政が混乱した事による反省と対策である。
(当然だが当時の将官・将兵はベトナム戦争経験者が多い)



前史・発端

1968年から政権党バース党の書記長としてイラクを我が物としたサダーム・フセインは、逆らう者は徹底的に粛清・虐殺する独裁政治を行った一方で、産業の国営化、農業の機械化、土地の分配、女性差別の撤廃、学校教育の強化…etcといった近代化と経済発展を行った。このようなやり方を開発独裁という。

その結果イラクは中東有数の近代国家となった。しかし1979年に隣国のイラン帝国でイスラム革命が起こり、シーア派のイラン・イスラム共和国が出来上がった。その指導者アヤトラ・ホメイニは極端な反米・イスラム原理主義者で、アメリカの反感を買った。

更にイスラム革命の波及を恐れるサウジアラビアやクウェートといったペルシャ湾岸の親米王政アラブ諸国(これらの国はイスラム教のスンナ派を国教とする)は同じスンナ派のイラクを支援し、また敵の敵は味方理論でアメリカやフランス、西ドイツ、更に更に宗教革命による共産主義体制崩壊を恐れるソ連までもがイラクを支援した。そしてイランに対抗させたのだ。

そして同時にイラク自身もイランと領土問題を抱え、イラクが自国の領土と主張する部分をイランに奪われていた。しかし革命前のイラン帝国は親米国家でアメリカの支援を受けていたのでもしイラクが攻め込めば返り討ちにあってボロ負けするのは火を見るよりも明らかであった。しかし今なら違う。今やイランは世界の敵。そしてイラクは同胞であるアラブ諸国は勿論、冷戦中の西側からも東側からも支援され、頼りにされている。やるなら今しかなかった。世界の大国の支援はイラクにとっても都合の良いものだったのである。

そして1980年9月22日、イラクは突如としてイランに侵攻を開始。ついにイラン・イラク戦争が始まった。これは明らかなイラクの侵略であったが、前述のようにイランは大国から嫌われていたのでイラクは軍事支援や後押しを受け、大量の武器を輸入した。しかしイランは国土が広く兵站は伸び切り、更に信仰心あふれるイラン軍の粘り強い抵抗もあってなかなか決着がつかなかった。そして周辺諸国を巻き込んだグダグダの末ホメイニは死去し、1988年8月20日に結局停戦。これは事実上イランの敗戦であり、1990年に両国は国交を回復した。

しかし問題は戦後であった。イラクは戦争にこそ勝てなかったものの、事実上イランを負かし、世界の大国を味方につける事ができた。しかしそうそう喜んではいられなかった。8年間も戦争をしていたのだからイラクは疲弊しきっている。更に戦時債務。前述のようにイラクはソ連やフランスなどの大国から大量の兵器を購入し、湾岸諸国からは巨額の戦費を借りた。その総額は600億ドル。とても今のイラクが払いきれる額ではなかった…。

そこでイラクは同国、いや中東諸国最大の武器による経済発展と戦後復興を行おうと考えた。そう、石油である。

しかしここでさらに問題が立ちはだかる。当時は石油が激安だったのである。当時の石油レートは1バレルにつき15,16ドルで推移していた。どうしてそんなに安いのか。

サウジアラビアとクウェートのせいだった。

イラクを含む中東諸国の主な輸出品は石油である。輸出すれば需要と供給のメカニズムによって市場原理が動く。そのため国際市場に出回る石油量が増えれば供給量が増えて価格が下がる。この原油高も根本はそれだ。つまり各国が石油を輸出しすぎれば、結局は皆が損をする。そのため産油国は石油輸出国機構(OPEC)を結成し、その協定で各国に配当量が決まっているのだ。しかし、この時サウジとクウェートが配当量を超えて石油を増産していたのである。だから石油価格が落ちていたのだ。

それは協定違反ではないのか…という事になるのだが、確かにクウェートは違反だが、サウジは違反にならない。サウジアラビアは王家であるサウード家の絶対王政が敷かれており、彼らはサウード家の私有物として石油を採掘・輸出していたのだ。

戦争前夜

OPEC協定を無視するクウェートと、グレーゾーンで増産を続けるサウジアラビアよって国際原油価格は下落し、石油輸出が主な外貨獲得手段だったイラクに打撃を与え、勿論イラクも黙ってはおらず、OPECに原油価格を1バレル25ドル以上にするよう再三訴えた。

しかしOPECは無視。サウジとクウェートはなおも増産を続けた。

更にクウェートが採掘していた油田にはイラクの油田と地下で繋がっているものもあり、イラクはこれを盗掘として非難。

そんな事を意に介さないクウェートは、無償援助した100億ドルの返済を要求した。勿論イラクにそんな金は無い。当然反発した。両国は外交衝突を繰り返した。

ブチギレたイラクは軍を動員。1990年7月末、イラクはクウェートとの国境付近に戦車軍団からなる機甲師団を派遣した。ソ連から輸入した戦車が主体の大部隊であった。

砲口を南に向け今にも攻撃開始しようとするイラク軍の動きをいち早く察知したのはアメリカの偵察衛星であった。アメリカはこの事実をアラブ諸国に伝えたが、これらの諸国は大した脅威ではないと本気にしなかった。クウェートでは金目当ての脅しと考え、サウジアラビアは無視。エジプトは仲介に動き、OPECは原油価格の引き上げを提案した。

エジプトの仲介とOPECの提案にイラクも矛を収めると考えたのか、エジプトのホスニー・ムバラク大統領とパレスチナのヤセル・アラファト議長は「イラクのクウェート侵攻は無し。」とテレビで明言した。

クウェート侵攻

1990年8月2日、イラクはクウェートに侵攻。ムバラクとアラファトを出し抜いた形で侵攻したイラク軍は、クウェート軍の50倍に当たる10万人の兵力で6時間でクウェート全土を占領した。

この時イラクは「クウェートで革命を起こした反体制派に要請され、これを支援する。」という名目で侵攻したため、占領後にイラクとクウェートの二重国籍を持ち、クウェートの政治家でありながらイラクの工作員だったアラー・フセイン・アリーにクウェート自由暫定政府を樹立させた。この政府は明らかにイラクの傀儡政権と言われ、閣僚はそのほとんどがイラクの軍人であった。

その後暫定政府は「クウェート共和国」と名を変えたが、4日後の8月8日にクウェート政府が母なるイラクへの帰属を求めた。としてイラクは19番目の県「クウェート県」としてクウェートを併合した。傀儡トップ兼工作員のアラー・フセイン・アリーはイラクの4人目の副首相となった(当時のイラクでは首相は大統領のフセインが兼任していたので、副首相が事実上の副首相ポジションであった。なお副首相は複数人いた。)。

国を追われたクウェートの首長ジャービル3世・アル・サバーハはサウジアラビアに亡命した。

なおイラク軍といっても後述のように当時のイラクには国防省の管轄である正規軍と大統領直轄の精鋭部隊である共和国防衛隊がおり、クウェート侵攻作戦は共和国防衛隊のみによって行われ、正規軍には秘密にされた。そのため侵攻当時のアブドラ・ジャビル・シャンシャル国防相やニザール・カズラジ参謀総長はテレビのニュースでクウェート侵攻を知るような事態となった。

湾岸危機

勿論国連が黙って見過ごす訳もなく、イラクに対してクウェートからの即時撤退を求める決議をした。当初イラクは無視したが、次第に姿勢を硬化させイスラエルがパレスチナを侵略・占領してもお咎め無しなのに、イラクのクウェート侵攻のみを非難するのはおかしい!と主張。このような理論をパレスチナ・リンケージ論と呼ぶ。(なお、こーゆうのを世間一般に「逆ギレ」と言います。)

次に国連はイラクへの全面禁輸を決議。経済制裁を行ったのである。なおその後原油価格が上がっており、そのためイラクの当初の目標であった原油価格の引き上げこそ達成されたが、そもそも経済制裁でイラクは原油の輸出ができないという本末転倒な結果を招いたのであった。

とはいえ制裁されたとはいえクウェートは手に入った。ところがここでイラクにとって想定外の事態が起きる。サウジが米軍駐留を認めたのだ。

これはイラクにとって完全に誤算であった。サウジアラビアはイスラム教の中でも特に厳格なワッハーブ派を国教としており、外国人や異教徒には特に厳しい。そのような国が異教徒の軍隊を受け入れるはずがないのだ。本来は…。

しかしサウジはアメリカと仲が良い。なお誤算はこれだけではなかった。周辺の産油国も含む諸国もアメリカに同調し始めたのである。

ナイラ証言

1990年10月10日、クウェート人難民のナイラと称する少女が「イラク軍はクウェートの病院からの略奪を行い、多くの新生児を銃剣で刺すなどして虐殺した」と証言。
この証言はアメリカ全土にテレビ放映され、また議員らも彼女の証言を引用するなどしてイラク軍の悪虐ぶりを知らしめ、アメリカ国民は湾岸戦争開戦を支持するようになっていく。

しかし後にこの証言は全くのウソだと判明。しかもナイラはクウェート政府高官の娘であり、挙句の果てにはクウェートに住んでいなかった事が暴露される。ちなみに「新生児を銃剣で刺す殺すなどして虐殺」というのは第一次世界大戦や日中戦争の南京事件の頃から使われている定番のプロパガンダである。

人間の盾


1990年11月28日
イラクはクウェートから強制的に連行した外国人を「人間の盾」として人質にするのと同時に国際社会に発表する。
この戦争とは本来は無関係だった日本、ドイツ、アメリカ、イギリスなどの民間人を、自国の軍事施設や政府施設などに人間の盾として監禁する、というものだった。

この卑劣な行為は世界中からの批判を浴びる事となり大バッシングを受ける。
これを受けた後にイラク政府はお茶を濁し、すぐさま人質の解放を行った。その後に多国籍軍との開戦直前の12月頃に全員が解放された。なお日本では元プロレスラーの政治家アントニオ猪木や元首相の中曾根康弘がイラクを訪問し、フセインと交渉して人質解放を成し遂げた。

しかし、あいも変わらず懲りないイラクは敵国であるクウェートの占領を続けていた。国連の度重なる撤退命令を無視したため年末の11月29日に国連安保理を開催し、
年始の91年1月15日を撤退期限とした。後に対イラク武力行使容認決議を採択する。

多国籍軍・砂漠の盾作戦

SS

↑湾岸戦争の多国籍軍に参加した国の地図。

イラクの軍事侵攻に対し、同日中に国際連合安全保障理事会の会議が開かれ、無条件撤退を求める安保理決議を採択。

さて、世界の警察を自負するアメリカはイラクを攻撃する事を決めた。国連軍の編成かと思われたが、拒否権の問題で無理そうだったため多国籍軍という形をとった。

アメリカ大統領ジョージ・H・W・ブッシュはイラクの悪行を断固非難し、サウジアラビアに軍を派遣。前述のようにサウジも受け入れた事により駐留が決定し、米英仏軍、エジプトやサウジなどのアラブ合同軍、更にはアメリカと対立していたシリアまでもがイラクとサウジ・クウェート国境線付近に軍の進駐を開始した。延べ50万人以上の大群である。

なおサウジアラビアとしても石油の過剰輸出の件でイラク側と対立していたこともあり、クウェートに続いて自国も侵略される事に怯えていた。なおこのサウジへの駐留・展開作戦は砂漠の盾作戦と呼ばれたが、これは当初クウェートの解放というよりはサウジアラビア防衛が主な目的であった。

サウジアラビアは豊かな石油産出により発展した典型的なレンティア国家であり、国軍その豊富な資金や西側諸国との蜜月関係により効果で高性能のアメリカ製兵器を揃えていた。とは言っても絶対王政でイラク以上の独裁国家であったため国民や軍部の不満は爆発寸前であり、それをかろうじて社会保障などで抑えていた国王や王室は軍部のクーデターを恐れて国家を防衛するのに十分な人員や装備を意図的に充実させず、訓練も満足に施していなかったため米軍の増援無しでイラクと全面戦争を行えば装備面でははるかに劣るイラクに完膚なきまでに叩きのめされる事は火を見るよりも明らかなのであった。そのためサウジアラビアにとっては寧ろアメリカ軍派遣を受け入れるという選択肢しか無かったのである。

当事者であるアラブ・イスラム諸国では侵攻されたクウェートは勿論、イスラム世界の盟主を自認するサウジアラビアの他にもバーレーン、カタール、アラブ首長国連邦(UAE)、オマーンといった湾岸協力会議(GCC)もアラブ合同軍に参加。アラブの盟主を自認するエジプト、超反米国シリア(後述)、サウジなどと関係が深く元から軍を駐留させていたパキスタン、バングラデシュ、アフリカ諸国では同じイスラム教徒が多いモロッコ、ニジェール、セネガルも部隊規模の大小問わずこれに参加した。

またアメリカ中心の欧米・旧西側諸国では主力部隊のアメリカの他、イギリス、フランス、イタリア、オランダ、ベルギー、スペインといった西欧諸国、カナダ、北欧のデンマーク、ノルウェー、そしてギリシャのほぼ全ての北大西洋条約機構(NATO)加盟国、意外と知られていないが湾岸戦争が初の海外派兵となるドイツ、オセアニアの大国オーストラリアとニュージーランド、更に元東側諸国で東欧革命で民主化したチェコスロバキアとポーランド、そして1982年にフォークランド戦争でイギリスと激戦を繰り広げたアルゼンチンまでもが多国籍軍に加わった。

前述のように以前からアメリカと敵対関係にあり、イスラエルとも何度の戦争を勃発させているシリアも関係を改善し、多国籍軍側での参戦を決定する。実態はレバノン内戦に関する取引であり、また当時のシリア大統領ハフィズ・アル=アサドと同じく当時のエジプト大統領ホスニー・ムバラクが空軍学校時代に同級生だったからお互いに説得したという説やシリアもイラクと同じバース党政権であったがシリアとイラクのバース党はお互いに自国の派閥が正当だと認識していた事やその派閥同士の思想対立が原因だとする説もある。

詳しい意図は不明だがアメリカはバーレーンに司令部を置いた。多国籍軍の50万人がサウジアラビアのイラク・クウェート国境付近に進駐を開始する。

多国籍軍は全く関係のない国同士や敵国も混ざり合っていたのでリアルドラえもんだらけ状態となっていた。そのため装備もバラバラで、アメリカやイギリス、フランス、サウジアラビア等が戦車だったらM1A1エイブラムスやチェレンジャー1、戦闘機ならF-15やF-16、F-14、F/A-18といった西側兵器を使っていたのに対し、シリアは戦車ならT-72やT-55、戦闘機ならMiG-21やMiG-23といったイラク軍が使っているのとまったく同じ東側兵器を使っていたというカオス状態が存在していた。なおエジプト等はF-16とMiG-21を同時に使うという東西ごちゃ混ぜ装備という更なるカオスであった。

日本側はあらかじめ自国の法律で戦争に参加しないと決めていたため、軍に対して総計135億ドルの援助を施していたわけだが、
そのため参戦した各国の代表たちから「金だけ出して人を出さず」、「似非国際貢献」、「一国の平和主義」等と非難される事になる。
135億ドルという数字も、石油に依存している国としては出費している金額自体は少ない方である

ドイツもまた憲法を盾にNATO域内のトルコまでしか派兵せず、主な貢献が70億ドルの拠出となったため日本程ではないが「小切手外交」の誹りを受けた。

イラク軍

湾岸戦争で、そしてイラク戦争で結果的に惨敗したイラク軍を多くの人は「雑魚」だと思うかも知れない。
しかし、注意しなければならない。当時のイラク軍は世界第3位とも言われる程の軍を整備していた。
なおフセイン体制時代のイラク軍の装備というとソ連・中国製の旧式兵器をいうイメージを持たれる事が多いが、実際には大量のソ連・中国製の他にイラン・イラク戦争時の支援として輸入したフランス製、イランやクウェートから鹵獲したイギリス・アメリカ製のものなど雑多に装備しており、フセイン政権崩壊以前から東西ごちゃ混ぜ装備なのであった。
このように、湾岸戦争へ突入する前に一旦このイラク軍のことを少し知っておきたい。

まずイラク地上軍は大きく2つに分かれる。陸軍と共和国親衛隊だ。
陸軍は数が多いが兵器の質に劣り、共和国親衛隊は数が少ないが兵器の質で勝る。
数が少ないと言ってもクウェート侵攻直前には
  • 総兵力15万人、8個師団
  • 戦車1100両
  • 装甲車700両
  • 野砲800門
を保有する大陸軍と化していた。
大雑把な比較だが、同時期の陸上自衛隊以上の規模を有していた。共和国親衛隊だけで。

配備される兵器においては共和国親衛隊と陸軍で全く違う。
例えば戦車では陸軍がソ連製のT-62やT-55、中国製の69式戦車や59式戦車を持っていたのに対し共和国防衛隊は当時のソ連の最新戦車で東側最強と言われたT-72を持っていた。また鹵獲品のイギリス製チーフテン、装甲車ではソ連製のBMP-1やBTR-60を保有していた。

またS-125地対空ミサイル、ZSU-23-4シルカ対空自走砲といった対空兵器もあり
両者の協同による機関砲とミサイルの弾幕は多国籍軍の空爆をできる限り妨害した。
当然彼らは士気も高く、次々と投降する陸軍とは別格の戦いぶりを見せつけた。というか湾岸戦争の地上戦は彼らを撃破することが目標だった。

そしてこの共和国親衛隊と合わさったイラク地上軍は
  • 63個師団、110万人
  • 戦車5800両
  • 装甲車1万2000両
の規模となる。
何故、多国籍軍(大半はアメリカだが)が大規模な軍勢を中東に集結させる必要があったのか、分かるだろう。

イラク海軍は小規模で、主な艦艇としてはイタリアから輸入したアサド級コルベットやソ連製ミサイル艇や機雷艇、哨戒艇などとなっていた。そして中国製対艦ミサイルのシルクワームミサイルを持っていたため多国籍軍の脅威となった。

イラク空軍はソ連、中国、フランスから輸入した強力な戦闘機を多数保有する大空軍となっており、イラン・イラク戦争後に導入した最新ソ連製MiG-29、以前からあったMiG-21、MiG-23、MiG-25、Su-20、Su-24、Su-25、中国製のJ-7、フランス製のミラージュF1を保有していた他爆撃機も複数持っていた。その中でも多国籍軍に特に警戒されたのはミラージュF1に装備されていたフランス製対艦ミサイルであるエグゾセミサイルであった。

砂漠の嵐作戦(Operation Desert Storm)


1991年1月17日
年始早々に多国籍軍はイラクへの爆撃を開始。宣戦布告は行われなかった。
CNN放送は空襲の様子を実況中継し、世界中に事実を知らせるため報道を命がけでリポートする。
イラク軍は多国籍軍の圧倒的な戦力・優勢を察知して、航空兵力の損失を恐れて空中戦を控える体制に入る。
自国の軍機をイランなどの周辺国に強制的に退避させたり、イラク航空の旅客機も同じように周辺国に退避させるという完全に逃げの姿勢であった。

……この作戦の効果だが、後の分析ではこのような爆撃ではイラク軍野戦部隊をほとんど撃破できなかったと判明している。(空軍、海軍はほぼ壊滅した)
総司令官のシュワルツコフは「地上戦の前までにクウェート戦域のイラク地上軍を爆撃によって半減しておく」と明言していたが、
実際には戦車は40%、装甲車は30%、野砲は47%、兵員は34%しか撃破できなかった。目標は結局達成できず。
しかもイラクのエリート部隊、共和国親衛隊の戦車の80%は生き残っていた。
攻撃が成功しなかった理由は、イラク軍の対空砲火と掩体による防護が徹底していたからだ。
結局、圧倒的な航空兵力が向けられても、それの運用と、運用による被害を妨げることが出来れば案外どうにかなるのだ。
代表的な航空機も紹介しよう。

F-117

砂漠の嵐作戦を、そして湾岸戦争の先鋒を務めた。レーザー誘導爆弾を投下し防空組織の中枢を破壊した。初日の任務の平均命中率は57%。
唯一のステルス爆撃機だったためイラク中心部への精密爆撃という大任を任された。ただし夜間限定。
通信網は破壊できたが、対空兵器、ミサイルには手を付けていない。この膨大な兵器は空軍を最後まで苦しめることになる。

トマホーク巡航ミサイル

注目された新兵器であり、同時にイラク中心部の昼間爆撃に使えた唯一の兵器だった。
指揮統制施設や電力施設を攻撃した。目標にはバース党本部、大統領官邸も割り振られている。

B-52

ベトナム戦争の絨毯爆撃が有名だがここではクラスター爆弾で戦車をピンポイント攻撃しろという無茶な任務を授かる。
クラスター爆弾の火力は戦車だとエンジンにでも当たらない限り無力化できないし、イラク軍が暢気に戦車を地表に露出させる訳がない。
9日間の任務では連日平均35機のB-52が約1600発の爆弾を投下したが、戦果は1日当たり6~8両だった(しかも大半は戦車ではない)。
ただしイラク兵に対する心理的影響は絶大だったようでB-52の爆撃を恐れて投降した将校もいる。彼のいた所にB-52は爆撃しなかったのだが。

F-111

地上攻撃という点で最も活躍したのはA-10ではない。F-111 アードバーグである。

ベトナム戦争でも優秀だったこの機体は、湾岸戦争では当初は戦略爆撃に使われていた。
しかし、レーザー誘導爆弾(実は先程のB-52のクラスター爆弾より安い)を駆使することで、
掩体内に隠れている戦車と夜の砂漠の温度差を利用してFLIR(前方監視赤外線映像装置)のディスプレイから戦車を発見するというタンクプリンキング戦法が使えることが判明し、戦車狩りに移行した。
このタンクプリンキングの効果は絶大で、今まで安全な戦車の中で寝ていた共和国親衛隊の兵士が、戦車から離れた塹壕で寝るようになったと言われている。
なお戦争中に使用されたレーザー誘導爆弾の6割をF-111が投下した。

F-15E

当時最新鋭機ということもあり、数は多くなかったがF-111のような夜間爆撃に優れており、以降の戦争ではF-111の任務を引き継いでいる。

A-10

A-10の名を轟かせた戦争は湾岸戦争だが、イラク軍のエリート部隊である共和国親衛隊の、当時世界一と言っても過言ではない濃密な防空網には撃墜が相次いだ。
F-111のタンクプリンキングに刺激された上層部が、F-111では出撃できない昼間の、それも共和国親衛隊の爆撃に駆り出したのだが、A-10は鈍足で、装甲も大型ミサイルには十分ではなかった。
実際、2月15日の任務では6機出撃したA-10の内、2機撃墜、1機大破と散々な目に遭ったのだ。以降はイラク陸軍歩兵師団への掃討に戻った。

他にも様々な航空機が参加している。また、無人航空機による大編隊をイラクに侵入させ、それを防空網がキャッチして攻撃している間を狙って
ハーム対電波源ミサイルを発射し、無人機に対してミサイルを誘導するレーダーの電波を狙って防空網を殲滅することも行われた。

ここからイラク軍野戦部隊の破壊を狙うことになるのだが、地上攻撃はなかなか進まなかった。当時の上層部にとって予想外の事態が起きたからだ。

諸国への爆撃


フセイン大統領は
アラブ対その支持者(キリスト教などの異教徒)の構図を築こう」という異常な提案を出す。
1月18日からイスラエルへ向けてスカッドミサイル43基を発射する。ミサイルは着弾しイスラエル最大の都市テルアビブで大規模な死傷者を出す。
このスカッドミサイル(正確には発射台)を狩るために数多くの航空機が割り当てられ、中東にはパトリオット防空システムも緊急配備された。


イスラエルは開戦直前にモサッドなどからフセインが攻撃準備をしていることを知り、1月16日に全土へSOS警報を出していた。
42日間で18回39発のミサイル攻撃が直撃する。ミサイル空襲でパニックになり逃げ惑う人々たち。あっという間に町は焼野原となった。

大まかな内訳としては10回の攻撃で

  • 約226名が負傷
  • 2名がミサイルの直撃で即死
  • 5名がミサイル警報によるショック死
  • 7名が対化学攻撃用ガスマスクの取り扱いミスで死亡
という洒落にならない数値の犠牲者を出す。

この件によってイスラエルはイラクに対して更に不満や反発を抱くことになる。
フセイン自体はイラクの挑発によってイスラエルが参加し、
「多国籍軍VSイラク」である戦争を「キリスト教圏VSイスラム教圏」という異教徒間戦争に変えようという狙いがあったわけだが、
それを見越していたアメリカや国連によって阻止され計画は水の泡となった。


イスラエルの異教徒間戦争への誘致に失敗したイラクは次のプランへと移行する。

次の標的はサウジアラビアとバーレーン国でありイスラエルと同規模のミサイルを放ち、ここでも大勢の犠牲者を出す。

異教徒に加担した裏切り者を制裁することでアラブ世界の結束を図るために。

この思惑は思うように行かず他国が持っているイラクに対する不信感や反発心を余計に強めてしまったが。

カフジの戦い

実は砂漠の剣作戦が発動される前にイラク軍はサウジアラビア領のカフジへ侵攻していた。
制空権はとられているのに何故野戦部隊は移動できたのか?」という問いが生まれるだろうが、湾岸戦争に投入された偵察機は42機しかなかった。
先程のスカッド狩りの支援に投入されているだろうと考えると、スカスカな偵察を回避してイラク軍が大規模な移動を出来てもおかしくない。

この時のためにイラク軍は戦車603両、装甲車751両、野砲216門、兵員36500人(定員)を投入した。
なお、カフジの戦いとは言うが、イラク軍は海兵隊の兵站基地キブリト、ミシャブ港まで侵攻を狙っていたと言われる。ミシャブ港はカフジから50kmしか離れていない。
戦果としてフセインは米軍捕虜を手に入れて、人間の盾に使う気だったとイラク軍情報部長は証言している。

なおこの際にキブリト付近の監視ポイントを警備していた海兵隊は戦車を持っておらず、LAV-25シリーズを装備していた。
LAV-ATから放たれるTOW対戦車ミサイルが非常に効果的だったが、初の夜間戦闘による同士討ちや、援護にきたA-10がマーベリックをLAV-25に打ち込むなど混乱も多かった。
この偵察隊は奮戦し戦線の突破を防いだが、カフジは占領され紆余曲折*1の末にアラブ合同軍が奪還した。

砂漠の剣作戦(Operation Desert Sabre)


1991年2月24日
遂に空爆が停止命令を下される。この間に戦力を高めて、兵力78万人、作戦機2780機、艦艇180隻が集結し、WW2以降最大規模の軍となった多国籍軍は地上戦"砂漠の剣作戦"に突入。
前回の"砂漠の嵐作戦"とは名前が似ているが何の関連もなく、むしろそれに対するアンチテーゼであった。クウェートを包囲するかのようにイラク領に侵攻する。
砂漠の嵐作戦が地上部隊の撃破に満足した結果を残せなかったため、ここからは大規模戦闘がほぼ常時繰り広げられることになった。
なお、この砂漠の剣作戦で多国籍軍と対峙したのは共和国親衛隊である。

ここでは陸上兵器とヘリコプターについて紹介する。

M1A1

強靱な装甲と劣化ウラン弾という最強の火力と最強の盾を備えた最強の戦車。
上部装甲にAH-64のヘルファイアが命中しても撃破されない程固いし、T-72を一撃で葬れた。

ただし車体の背後を狙われたM1A1がT-72に撃破された事例があった。
装填装置は手動だが熟練の兵士なら数秒で装填を終えてしまえるので当時の自動装填装置では敵わないこともあった。
ガスタービン式エンジンなので燃費が酷く悪く、スピーディに進んだ地上戦でも燃料補給を強いられた。

ちなみに作戦に参加した戦車の名に「マッド・マックス」があり車長は「ハーバート・マクマスター」大尉だった。
後のトランプ政権で国家安全保障問題担当大統領補佐官に指名される漢である。


M2/M3ブラッドレー

歩兵陣地の掃討作戦、偵察に大いに貢献した。ちなみに歩兵陣地の掃討作戦は塹壕までブラッドレーの小隊で進撃し、
援護された装甲ブルドーザーが塹壕を歩兵ごと埋めるというものである。後にその非人道性で非難された。
当然装甲は戦車に比べて薄いためどこの師団でもM1A1より撃破された車両が多かった。


AH-64 アパッチ

掃討作戦で有効性を示し、戦争中にイラク軍装甲車両を800両破壊した戦闘ヘリ。F-111のようにFLIRを利用して目標を補足している。


多国籍軍との戦闘により、イラク側は苦戦を強いられ、このまま抵抗しても多国籍軍から報復され国ごと消し飛ばされかねないため、
これ以上の戦いが無意味だと判断したのか地上戦開始から100時間後にイラク軍は大量の捕虜を出しながら撤退する。
どちらにせよイラクは四方八方を敵に囲まれ、最初から勝機など見えてなかったのだ。
イラク側の勝機が見えないような戦闘計画を練ったからでもあるが。

1991年2月27日
アメリカのブッシュ大統領が停戦を発表する。
フセイン大統領は事実上の敗戦を認め半年間に渡る過酷な戦いは終わりを告げた。

この戦争で使用された兵器はF-15E、トマホーク、劣化ウラン弾、ステルス爆撃機、クラスター爆弾、パトリオット・ミサイルなど多く存在し、
いずれもアメリカが開発した新兵器であり殺傷能力の高い兵器ばかりであった。

1968年に定めたNPT(核拡散防止条約)を余裕でガン無視しているレベルである。アメリカとは間違えても戦争をしてはいけない

1991年3月3日
暫定停戦協定が結ばれ、一見すると戦争が終結したかのように思えたのだが・・・

なおこの戦争によって多くの犠牲者を出し、被害も尋常ではなかったため怒り狂ったクウェート側はイラクに賠償金を求めた。
その額は301億5000万ドル(2兆6000億円)に及び1994年頃から支払いを始め、イラクとクウェートはこれを機に国交を断絶する。


停戦と新たなる野望


3月3日にイラクの代表が暫定休戦協定を受け入れ、イラクは敗戦を認めたと同時に停戦していたのだが
イラク軍の主力の多くは温存されており、この温存兵器が、後の懸案事項となった。

終戦直後にやけを起こした南部シーア派と北部クルド人が反フセイン暴動を起こしていたが

当のフセイン大統領は
どうせ他国は平和になったと勘違いしているだろうし、アメリカなどが介入する余地はないだろう
と思っており、密かに温存していた軍事力でこれらを制圧し、首謀者ら多数を殺害する。

フセイン、あんたも懲りないねぇ・・・

1991年4月3日
国連でクウェート侵攻の反省点から
  • 「クウェートへの賠償」
  • 「大量破壊兵器(生物化学兵器)の廃棄」
  • 「国境の尊重」
  • 「抑留者の帰還」
をスローガンとする安保理決議が定められる。

1991年4月6日
イラクが表面上だけながらも停戦を受諾し、正式に停戦合意をする。 翌年の4月11日に発効となる。しかしイラクは新たなる計画を立てていた・・・
話は停戦から4年後の1995年に続く

1995年4月4日
停戦からちょうど4年の月日が経過していた。
安保理が石油交易を部分的に許可する決議をしたものの、イラク側は全面解除以外に受け入れられないと拒否。
数年前に停戦をしたのにもかかわらず、まだ戦争する気はあったようでありフセインは戦争を起こしてもおかしくない戦闘姿勢であった。

核開発防止のための国際原子力機関(IAEA)査察も拒否した事により、長期間にわたる経済制裁を受ける事となる。
だがイラクは数年前の「湾岸戦争」に対して遺恨が残っており、それは8年後のイラク戦争まで持ち越されることになる。

中東のあちこちでは弾圧や差別を受けてきた過激な一派が頭角を現すようになり、暴動を起こすようになったため平和とは程遠い情勢であった。宗教観での対立や紛争は更に激動化する。

なおアルカイーダと呼ばれる過激派グループが現れたのもこの時期であり後に全米を恐怖に陥れた9・11テロを引き起こす事になる。
ただしリーダーであるウサマ・ビンラディン氏はサウジアラビアの出身であり反イスラム勢力でありイラン・イラクとは敵対している。彼は後にサウジアラビアの国籍を剥奪され、本籍をアフガニスタンへ移す事になる。

元多国籍軍だったシリアも上記の反イスラム主義であるアルカイーダと利害が一致するため国連から脱退し、寝返って過激派グループに所属した。
停戦とは言いつつも中東の人々から完全に憎しみの心は消えることは無かった。

戦後


  • イラク
フセイン大統領は厚かましくも懲りずに戦争をしようとする。クウェート側とは例の件で絶交したため次の標的はイランとアメリカになる。

  • イラン
隣国のイラクとの関係は更に悪化する。治安も以前より悪化し、アメリカに対してより反米的な姿勢になる。

  • クウェート
当初は援助をしていた日本を煙たがっていたが、後に考え方を改め直す。イラク側に高額な賠償金の支払いを命じ、イラクとは国交を絶った。
また前述の「ナイラ証言」がクウェート政府とアメリカの広告会社のでっち上げたニセ証言(当のナイラと言う少女は在米クウェート大使の娘で、新生児虐殺に関しては完全な嘘)
ということが戦後の詳しい調査で発覚し、プロパガンダでアメリカ国民を戦争に引き込んだことで批難を浴びた。

  • パレスチナ解放機構(PLO)
フセインを事実上支持してしまうという最悪手を打ったアラファトは、イラク敗戦で周辺諸国からハブられ苦境に陥る。
資金的にも政治的にも行き詰まったPLOは、それまでの対イスラエル闘争路線を修正せざるを得なくなった。

  • アメリカ
戦争には勝ったが、イランやイラクから余計に恨みを買ってしまう。中途半端にイラク軍の戦力を残してしまったために中東の混乱は収まらず
最終的には二度目のイラク戦争で今度こそフセインの息の根を止めたのだが、今度は戦後処理を誤り泥沼の内戦状態を生み出してしまう*2
この問題を解決するまでに20年という月日を費やし、長きに渡る確執が続く。また日本と同様にバブル崩壊の煽りを受け景気は悪化する。ここから本格的な暗黒時代の始まりでもあるのだが日本と同様にバブルの余波が残っていたためアメリカ国民は残り火で浮かれていた。

  • 日本
湾岸戦争の終わりとともにバブルが崩壊し暗黒時代へと突入し、湾岸戦争の影響で石油価格が高騰するなど暗い要素は多かったが、景気の問題はまだそこまで深刻ではなかった。
バブルの余波もあり世相も明るかった。停戦後にペルシャ湾へ海外自衛隊を派遣。慇懃無礼な態度をする多国籍軍に対して不満があった鶴見俊輔や鈴木正文らが反戦デモを結成した。

だが軍事面・外交面では戦後有数の転換点となった。クウェートが一年後に出した感謝広告に、日本の名前はなかったのである。
「カネを出すだけで汗を流さない国」という諸外国の認識と影響は、それが事実に基づくだけに、外務省や政府を中心に深刻なトラウマを植え付けた。
これが今に至る集団安保政策に舵を切るきっかけとなっており、今でも外務省の官僚は「アレは堪えた」とことある毎に語っている。

実際は日本が載っていなかった理由は「広告を発注した在米クウェート大使館のミス」「米国防総省に提供されたリストをそのまま使ったから」等とされている。実際、日本同様に戦地派兵しなかったドイツは載っていたり、逆に派兵した一部の国が載っていなかったりする。

ただ、事情を知らないことを差し引いても人々の印象そのものは「ミス」ではない。
「カネを出すだけで汗を流さない国」というのは実際に命を懸けて戦った諸国からすると至極まっとうな批判である。
アメリカやヨーロッパ、アラブ諸国でも、人の命が何より尊いという認識に変わりはない。しかし各国では、それを認めたうえで、その尊い命を社会のため・人々のために差し出す行為はさらに尊いとされるのだ。
そうした「社会に対する使命感」を見せる多国籍軍の横で、カネを投げつけてTV越しに戦争を眺める態度をとった日本が非難を浴びたのは当然といえる。
日本の軍事に対する姿勢が是非はさておき世界の常識から外れているということは、国際社会で孤立しないために、そして国際社会を理解するために、常に留意する必要があるだろう。


余談

『RPG伝説ヘポイ』にフセイン子(元スモウトリ)やキューピー鈴木なるパロディキャラが登場した事もある。当時は湾岸戦争が真っ最中だったので実にタイムリーなパロネタであった。

当時放送されていた『ふしぎの海のナディア』は湾岸戦争の影響で休止が多かったとされているが、実際戦争関係のニュースで休止となったのは1回のみである。
一方、テレビ東京のアニメ『楽しいムーミン一家』は放送時刻が開戦直後だったにも予定通り放送した。

ちなみに宍戸錠の愛犬の名前はサダム・フセイン子だったりする(現在は他界)。実に悪趣味なネーミングである。

爆撃された建物から外装が焼けただれたゲームボーイが見つかり、液晶を取り替えただけで再起動したという任天堂の凄さ・ゲームボーイの頑丈さを物語った逸話はあまりにも有名。湾岸戦争では米軍の兵士たちにゲームボーイが配られていた。

かの有名な漫才コンビ『夢路いとし・喜味こいし』の代表作とも言える演目の一つが、夫婦喧嘩をこれに見立てた『我が家の湾岸戦争』。
お椀がガンッでワンガン戦争」という入りからお察しの通り、最初から最後まで湾岸戦争のキーワードにかけたダジャレまみれの笑い話なのだが、太平洋戦争経験者であるご両人だからこそ許されて深みの出るネタでもある。

また『新機動戦記ガンダムW』にも影響を与えており、劇中に出てくるモビルドールは湾岸戦争で映しだされていた爆撃シーンの中継などを前述のモニター越しで見ていた視聴者に対する皮肉が込められており戦争の重たさを伝えている。

この湾岸戦争においてはベトナム戦争における陸軍と空軍のB-52に対する見解が大きく衝突した。総司令官のシュワルツコフは歩兵畑だったこともありB-52を無敵の存在と思っていた。
逆に空軍部隊司令官のホーナーはラインバッカーⅡ作戦で地対空ミサイル220発によってB-52が6機撃墜されたことを念頭に置いており、的になるだけだと考えていた。
なお、この地対空ミサイルはSA-2と呼ばれ、このようなレーダー誘導式地対空ミサイルの発射機をイラクは400基以上配備していた。

多国籍軍の機甲部隊は数千両、支援車両も含めば万に達した。この移動で最も苦労させたのは戦車である。米軍は1万両規模の戦車を
持っているにもかかわらず、戦車を運ぶ専用トレーラーはかき集めても750両しかなかったからだ。逆にイラク軍は3000両保有していた。
質の面でもイラクのトレーラーの主力はT-72を完全武装、しかも乗員も休めるものだが、アメリカのそれはM1戦車の装備品を外さないと重量オーバーになる代物だった。
インフラの乏しい砂漠戦で戦車を縦横無尽に動かすにはトレーラーは欠かせないのだが、アメリカは冷戦期ではヨーロッパで戦闘することを想定したので
トレーラーの数が少なかったのだ。中東ではイスラエルも全戦車を運べるだけのトレーラーを持っている。だからこそ第3次中東戦争で戦車戦で圧勝できた。

アメリカ軍が保有していた戦車にM1戦車があるが、この戦車は大きな欠陥を持っていた。
105mmライフル砲という貧弱な火力と、乗員が防護服を着て操縦することを強制する個人NBC防護装置という意味不明なNBC対策の2つだった。
後のM1A1戦車はそれらを改善したがM1は数年間量産され続けたため、大量のM1が残ってしまった。結局戦争に間に合わせるために
このM1戦車の改良のためサウジアラビアのダンマン港に改修工場を建設し、M1からM1A1への転換訓練を行うためのチームもサウジに派遣した。
多くの部隊は戦争前にM1A1に乗り換えられたが、第1歩兵師団など一部の部隊はM1のままだった。

空爆を耐えるイラク軍に対しアメリカは核攻撃のプランも検討したが、その内容は
1個戦車師団に重大な損害を与えるために戦術核を40発炸裂させる」というものだった。
なお共和国親衛隊は戦車師団だけで3個持っている。

ちなみに現状戦艦(ミズーリ・ウィスコンシン)が参加した最後の戦争である。この後2艦とも退役しており
イギリス軍のロイヤル・ソヴリン級(諸説あり)から始まった戦艦は(除籍年で言えば)第二次世界大戦中に建造されたアメリカ軍のアイオワ級によって終わった。

関連映画
  • ガルフ・ウォー
  • クライシス・オブ・アメリカ
  • ジャーヘッド
  • スリー・キングス
  • 戦火の勇気
  • ライブ・フロム・バグダッド 湾岸戦争最前線




追記・修正は油にまみれた水鳥を見てからお願いします。




この項目が面白かったなら……\ポチッと/

+ タグ編集
  • タグ:
  • 湾岸戦争
  • クウェート侵攻
  • 爆撃←兵器には効果なし、士気には効果あり
  • フセイン
  • ゲームボーイ
  • バブル期
  • 石油価格の高騰
  • 戦争
  • ペルシャ湾
  • 湾岸ミッドナイト
  • イラク
  • イラン
  • 海部俊樹
  • 1990年
  • スカッドミサイル
  • テレビゲーム戦争←そうでもない
  • 忘れてはいけない
  • 空爆
  • 半年間の戦争
  • ミサイルの乱舞
  • 武力制圧
  • 宍戸錠
  • アメリカが元凶
  • 所要時間30分以上の項目
  • 世界史
  • 近現代史
  • 現代史
  • 戦史
最終更新:2025年04月05日 22:57

*1 これだけで記事一本作れるレベル

*2 少数精鋭兵力で一気に敵を叩けば戦争は早く終わって安上がり、という「ラムズフェルド=ドクトリン」が大きな要因だった。確かに戦争を終わらせるまでなら正しいだろうが、その後の占領政策にはやはり頭数が必要だったのだ。そこを勘違いして兵力を出し渋った結果、早期に混乱を収めるチャンスを逃してしまったのである。