足利義教

登録日:2016/05/10(火) 03:22:58
更新日:2024/03/31 Sun 13:11:24
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足利義教(あしかがよしのり)とは室町幕府六代将軍である。
唯一無二の「籤引」で選ばれた最高権力者であり、苛烈な統治で中央集権化を目指した「暴君」であり、
比叡山延暦寺を焼き払った「魔王」である。



【生涯】

◆将軍就任まで

1394年(応永元年)6月、三代将軍足利義満と側室の藤原慶子の間に五男として生まれた。
幼名は春寅。後に四代将軍となる長男の義持、義満が偏愛していた(一説には皇位簒奪の際に皇太子候補にしていたとも言われる)四男義嗣が元気であり、
後継者レースにおいては生まれた時点から序列は低いものであった。

1403年6月には天台宗三大門跡寺院の青蓮院に入り、5年後には得度(出家)し青蓮院門跡を継ぎ、義圓と号した。
この年に義満が急死し、義持が征夷大将軍を継ぎ、義嗣が公卿としての後継者となった。
この時点では義圓には将軍位は回らないはずであった。
その後は僧として青蓮院門跡として実績を積み、1419年には第百五十三代天台座主として天台宗のトップに立った。
「天台開闢以来の逸材」とさえ謳われる才覚を誇り、一時期大僧正にも任じられた。

しかし1428年に五代将軍義量の夭折後も将軍代行的な立場で政治指揮をしていた義持が後継者を決めないまま危篤となる。
このことが、「天台開闢以来の逸材」を室町幕府のトップに引き出すことになる。

◆前代未聞の籤引将軍

さて、義持が六代将軍となる後継者を決めずに危篤となってしまったため、幕閣が困る事になった。

三代将軍の足利義満は、初代将軍である足利尊氏が大盤振る舞いしたり、その尻拭いに奔走した二代目の義詮が、南朝からの帰順者に領土を安堵せざるを得なかったり、室町幕府設立期から肥大化していた守護大名を、
時に戦争で叩き潰し、後継者問題に介入しシッチャカメッチャカにして自身の息の掛かった後継者を立てるなど次々になぎ倒し統制しようと試みていた。

しかし四代目の義持の治世では守護大名が徐々にまた勢力を伸長させていた。「将軍の後任」という大事となれば、幕閣の一存のみでは対立勢力の反発を招きかねず、さりとて早くに決めなければ統制が効かなくなる恐れがあり、対応に苦慮することとなった。
そのため、側近の僧満済*1が幕閣の依頼を受けて義持の意向を尋ねるが「自分は決めない、お前らやれよ、知らん」の一点張りであり
苦慮した幕閣は成人している義持の弟たちの中から梶井門跡義承(ぎしょう)、大覚寺門跡義昭(ぎしょう)、相国寺虎山永隆(えいりゅう)、そして青蓮院門跡義圓(ぎえん)
この四人の名を記した紙を封じた籤を作った上で、源氏と武家に縁の深い石清水八幡宮でそれを引くこととなった。

さて、籤引というとそんな無責任極まることで何故決めるの? やけっぱちすぎない? と思われるかもしれないが
神前で引く籤引は、神意の現れとして受け取る儀式であるというのはあの時代の一般的な認識に近かった。
そのため、決してやけっぱちで籤引で片付けたわけではないことは付記しておく。
要はファンタジーなどに登場する「神様のお告げ」をイメージすればピンとくるのではないだろうか。
もっとも、この方法で選ばれたためにより周囲から軽く見られてしまい権力構築に手間取ったのも事実ではあるのだが…

余談になるが、義持が頑なに後継者決定を渋ったのは義量死後に受けた「正室がもう一人男児を生む」という石清水八幡宮の神託を信じていたからである…とも言われる。
義量夭折時義持40歳、正室36歳なので当時の高齢出産リスクを考えるとかなり負担にはなるが、実際生まれないこともないという微妙な年齢であったため、養子など後継者施策を取らなかったがための混乱であった。
下手なタイミングで養子を取ると火種になるのは図らずも甥っ子の足利義政が証明してしまうのだが…


籤引こそ了承したが「自分が死んでから引け」と発言するなど*2
最後の最後まで後継者決めに対し無責任であった義持が1月18日に亡くなると、前日に引かれた籤が開封された。
そこには義圓の名前があった。こうして、比叡山を降りて還俗し武家に舞い戻ることとなったのであった。

◆将軍就任

さて、幕閣は早々に将軍位を朝廷から得るべく奏上するが、朝廷は即座に将軍位を与えることに難色を示した。
「そもそも武士として元服(成人)しないまま得度している、せめて元服なされよ。法体の者に官位を与えるのは罪人に官位を与えるに等しい」という理屈であった。
そのため髪を伸ばし結う事ができるのを待って、元服の儀式を待つ事となった。
その間の政治は御教書を発給して実質将軍として行おうとしたがこれも朝廷より反対を受け、管領の書状を代わりに発給して行うこととなった。さっそく躓いてしまった。
そんなこんなで1年待ち、その間に元服し足利義宣(よしのぶ)と名乗りまず官位を得、そこから徐々に位を上げてようやく将軍位を得た。ここで朝廷から義教の名を得た。
関東公方足利持氏(あしかがもちうじ)が良くないハッスルをしたか、あるいは反対勢力が流したかは定かではないが持氏が上京し新たな将軍になるという噂が洛中に流れた時期もあった。
このことが、持氏の運命を決めてしまうのだがそれはまた別の話である

◆政策

彼の政治スタンスの目指すところは、一言で言うと「将軍権威の復興」「父足利義満時代の再現」というものであった。
一定程度、石清水八幡宮の「神意」に選ばれた男という自負もあったことであろう。

・幕府改革

まずは管領や評定衆といった家柄が固定されて将軍より自身の家の事情に囚われやすくなった組織の追認を防ぐべく
管領や評定衆から上がってきた議題を自身の指名した腹心と共に協議する御前沙汰を政策決定機関とし、管領の権力を抑制。
一方で軍役供出のためには管領の名で書状を出すなど、配慮をしつつ親政体制を固めていった(供出された軍の総指揮官はもちろん義教であるため、名義のみを使う形である)。
法制度や裁判の方式も義満時代の形に戻したが、籤引という「神意」によって選ばれたという自負からか、土地の境界争いや朝廷沙汰の裁判には湯起請などを用いた。

軍事面では義満が自身の手足として用意した親衛部隊の奉公衆を再整備し一定の軍事力を担保。
さらには大内盛見・持世兄弟に独立性の強かった九州征伐を任せる。
盛見は激戦の中で戦死したが、後を引き継いだ持世の大活躍で、北九州の反足利氏勢力筆頭・少弐氏以下反抗勢力を次々に撃破し、九州を一旦は平定してみせた
義満は九州探題今川了俊を派遣し平定しようとしていたが、了俊が野心を露わにしたため解任し結局九州を平定できなかったため、父を越えた形となった。
関東でも後述するが事あるごとに反抗する関東公方・足利持氏を軍を起こし撃滅。一族を皆殺しにし自身の子を新たな関東公方にしようとするが、実子の関東下向による関東公方の完全制圧には失敗した。

外交では兄義持が停止した勘合貿易を復活させ再び明との貿易を再開。財政基盤を安定させつつ権威を向上させるように務めた。
義満時代同様に臣下ではあるが完全な臣下ではない守護大名たちの家督争いへの介入も強め、有力諸侯の後継者を自身のシンパにすげ替えようと様々なことを試みた。
意にそぐわぬ一色義貫や土岐持頼を誅殺するなど、実力行使も辞さなかった。
…このことが、彼の最期に関わってくる。

・対比叡山延暦寺

元々天台座主であり、開闢以来の逸材とまで謳われた義教は、比叡山延暦寺の脅威と利用価値をしっかり認識しており、
就任後は後継者候補であり、同じく門跡であった弟義承を天台座主に据えさせた。
延暦寺とのトラブルは将軍就任5年程度、1433年には起こってしまい、幕府の山門奉行に弾劾状が提出された。
当初は撥ね付けるつもりだったが、幕閣が融和を求めたため無碍にできず、要求を飲み罷免の上遠流とすることで解決となった。

しかし、延暦寺サイドは座主であった義教相手だったためこちらびいきになるとでも思っていたのか、この訴訟に同調しなかった宿敵園城寺を焼き討ちにする暴挙に出た。
ブチ切れた義教は幕府軍と園城寺僧兵で比叡山を包囲。延暦寺もこれには折れて和睦する。
翌年、関東公方足利持氏と共謀し義教を呪詛しているという噂が流れる。義教は再び怒り包囲陣を敷き物資の運び入れを妨げ、
さらに門前町の近江坂本を焼き討ち。町民が比叡山に逃げ込む騒ぎとなった。
延暦寺側は降伏を申し入れるが、二度目はないとばかりに撥ね付ける。
しかし、幕府の宿老たちが「そこまで強硬に撥ね付けるなら我々も屋敷を焼き払って領国に帰らせてもらいます!」と申し入れたため渋々講和する。

だが義教の怒りは収まっておらず、講和担当の山門使節4人を呼びつける。
あからさまに怪しいため拒絶されたが、管領の誓紙も送られたためしぶしぶ会見の場に出向くが
4人はその場で捕らえられ斬首された。
延暦寺側は激昂し根本中堂に火をかけ、24人が焼身自殺をするという苛烈な抗議で応じたものの、山門使節は親幕府の僧侶が据えられるなど、義教に完全に降伏した形となった。

かくして、根本中堂の他にも寺院がいくつか焼け落ち、坂本にも被害が出る程の苛烈な対応であったが、京の懸案事項の一つである半独立国・比叡山延暦寺をねじ伏せたのであった。

・対関東公方

関東公方は、北畠顕家や北条時行の中先代の乱で関東が乱れたため、南朝勢力を牽制すべく置かれた鎌倉府の「将軍」にあたり、関東管領など独自の統治機構を持っていた。

それ故か、義満の時代から鎌倉府を抑えこむことが一つの政治課題となっていた。
そして当代の関東公方・足利持氏は前述の通り、自身が将軍になるという噂が流れたり、義教が僧から還俗した存在であったということもあって非常に軽視しており、
自身が将軍として統治すべきという考えを持っていた。
そして、そのことは父を敬愛し、父の時代の幕府の姿を目指す「神意」によって選ばれたと自負する節のあった義教との対立を不可避のものとした。

中央の改元を無視(さすがに朝廷のメンツも立たないので持氏が折れたが)、1434年に起こった前述の延暦寺と共謀して呪詛を行ったとされる疑惑、
1438年に元服した持氏の嫡子に義教の偏諱「教」の字を与えるのが慣例にも関わらず無視して義久とする*3など
次々に義教を軽んじる姿勢を見せ対立を鮮明にする。
義教はいつか討伐するべく隙を見つけようとしていたが、中央との融和を図り諫言をしていた関東管領・上杉憲実が疎まれ領国の上野に逃げると、持氏が討伐軍を起こす事態となった。
降って湧いた好機にすかさず憲実を引き込み、関東公方討伐令を発し関東の諸侯による包囲網を構築。
さらに勅令を奉じて朝敵認定をした上で殲滅する体制を整えた。1439年のことであった。永享の乱である。
持氏は圧倒的不利の中戦うが惨敗。剃髪して恭順する姿勢を見せた。

…しかし、中央集権化を目指す義教がここまであからさまに反逆した者を許すはずもなく、持氏はもちろん一族をも成敗するという苛烈な処分をもって対応した。
実子の関東下向こそ阻止されたが、関東は平定された…かに見えたが、1440年に持氏の三人の遺児を奉じて結城氏朝が決起。結城合戦の始まりである*4
一年近くかけてこれも平定。三人の遺児の内年長二人を殺し、最後の一人は京都に護送され、関東の火種は消えた。

義教の時代は不安定で永享の乱以外にも反乱も多く、日本初の農民反乱である正長の土一揆が起きたり、
南朝勢力の成れの果てこと後南朝勢力が大和国で1429年から10年近く反乱を起こしたり、と不安定な時代でもあった。
正長の土一揆は就任してすぐの権力の空白下であったということもあり、結局農民側の勝利に終わったが
後南朝の反乱は10年かけたが鎮圧。その最中に逐電した弟の義昭をどさくさ紛れに後南朝に味方した扱いにして誅殺する*5などして権力基盤を固めた。
この結果、室町幕府の権力は義満期を上回るほどに安定したものとなった

◆最期

1441年、結城合戦の終結後に播磨守護・赤松満祐の嫡子教康より「戦いの慰労のために宴席を設けました。ぜひ我が屋敷に御成ください。」との要請があった。
義教は赤松家の家督争いに介入し、分家筋の赤松貞村を重用する姿勢を見せており、噂では満祐を一色や土岐のように誅殺するという風聞もあった。
そういう噂が流れ、意のままにするためには誅殺も辞さない義教に分家筋の貞村を重用される=自身を廃する動きをされれば、
家督や所領を奪われる、自身や嫡子の命すら失うと恐怖するのは当然といえば当然であり、幕府への出仕を辞めるなど対立を深めていた。
…満祐自体は傲岸不遜な質であり、義持時代から幕府とことごとく対立していた大問題人物で、温和で従順な庶家が重用された面もあったのだが。

そんな相手からの招請であり、警戒してもおかしくなかったのだが、関東平定という義満も果たせなかった大業を成した満足感が警戒を鈍らせたのか、
あるいは「御成」が重要な政治儀礼の一つであったことが、例え対立する者の屋敷とはいえ逃げずに向かわなければ権威に関わる、ということだったのか、
義教は腹心の大名たちや義兄の正親町三条実雅らと共に赤松満祐の屋敷に向かった。

案の定、というべきか出し物の猿楽見物中に赤松満祐配下の兵が屋敷に乱入し義教らを急襲
義教は赤松家屈指の剛勇を誇る武者に首を刎ねられ即死した
同行していた山名熙貴、京極高数がその場で死亡。九州平定に大功のあった大内持世も一ヶ月後にこの時の傷が元で死亡と大変なこととなったが、
幕府の全てを支配しようと強権的に支配したがためか、幕府は大混乱し赤松満祐らを討つ軍を起こすまでに一ヶ月以上掛かるという醜態を晒してしまった。
それでも、同行しながら生き延びた管領細川持之の必死の指揮で諸侯を動員し赤松満祐を討つ事はできた。

将軍暗殺から赤松討伐までの一連の事件を嘉吉の変と呼ぶが、この中で義教の作り上げた体制は崩壊。
守護大名の統制はまたしても難しくなり、室町幕府の崩壊、戦国時代へとつながっていくのであった。

◆評価

当時の評判は最悪であった。渾名はなんと「悪御所」
義教自身も癇癪持ちであった面も災いしたとはいえ、

  • 「義兄と仲が悪く、義教の長男が生まれた時に義兄のもとに祝賀に行った者を処罰した」
  • 「比叡山炎上の噂を流すのを禁じ、破った商人を斬首した」
  • 「身の回りの人間が少しでもミスをすると怒り狂い、殴る蹴るで済めば儲けもの、斬殺が普通」
  • 「闘鶏の見物客に自身の行列を邪魔されたため、闘鶏禁止の上ニワトリを洛内から追放」
  • 「彼に説法を試みた日親という僧は逆鱗に触れたか、熱した鍋をかぶらされた上で舌を切り取られた」*6

…など、かなり無茶なことをやっていたという記録が残されている。
この手の人物は誇張される面もあるのでなんとも言えないが、親王が日記に「万人恐怖」と書き残しているため、苛烈さに恐怖する者は多かったと思われる。
なんせ天皇の生母や関白にすら処罰した記録があるくらいだから、自分の前には何者も立てないくらいの意識はあったのかもしれない。
悪には負の意味だけでなく「苛烈な意志」を指す場合もあるが、義教の場合はやはり直球で「悪しき将軍」という意味合いもあるだろう。
…そもそもここまで苛烈にやっておいて道半ばで暗殺されたら評価は暴落するわな、という話ではあるが。
実際、赤松満祐は誅殺の恐怖にかられて暗殺を決行した面もある。

しかし、彼が復興した将軍権力や奉公衆は応仁の乱後も多少なりとも将軍権威を残すことに寄与した。
結局室町幕府は守護大名を統制できずに戦国時代に突入してしまったわけだが、義教の施策がなければもっと早くに戦国時代に突入していたかもしれない。

彼の政策には後継者がいなかったのも痛かった。
暗殺事件で有力者も失った上、その犯人追討の軍を出すだけに1ヶ月以上かかった点からもそれがうかがえる。
子孫としても数え年35歳で将軍になるまで僧侶であり、その後子をなしたものの義教没時には皆まだ幼かったのである。
息子のうち、義教のすぐ跡を継いだ七代将軍義勝は8歳での将軍就任から1年で夭折。
義勝の弟である八代将軍義政は当然さらに幼かった上、大人になってからも銀閣寺を建てるなど文化に没頭し、政治に余り興味を見せなかった…
と一般には言われているが実際はその方がマシだったってくらい斜め上のやる気で斜め下の政策を打ち出し続け、挙句に応仁の乱を招来するなどろくなもんじゃなかった。
義教ももうちょい長生きして完全な体制を作り上げていれば、最盛期を作り上げた毀誉褒貶ある君主として良い面も歴史に残っただろうに…
前述の親王の日記には彼の死について「犬死」と記載され、彼の仇討戦の意味合いもあった赤松討伐に朝廷からの綸旨がなかなか発給されないほどに恨みを買いながら進んだ道を全うできなかったのは痛恨事であった。

ちなみに、事績が似ており厳しい面もある織田信長も同じような話が喧伝されていたりするが、義教に比べるとマイルドだし若干優しいということは追記しておく。
信長も暗殺されたが、彼の子孫は現存したり、部下で血縁関係はなかったし孫を利用されたが彼の路線の後継者は存在したため良い話も残ったのかもしれないが。
明智光秀の反乱の原因も恐怖に求める説が割合多かったが、義教の最期が影響しているのかもしれない。

なお、歴代幕府の中で鎌倉幕府については源氏将軍時代は東国の地方政権どまり、承久の乱後の将軍は完全な傀儡。
江戸幕府は藩の権力が強く、天領以外には意外と幕府の支配権が及ばなかった上に、幕府自体が合議制で将軍の発言権はそこまででもない。
残る室町幕府については初期は南北朝カオス、後期は戦国カオスで、一般に最盛期と言われる義満の時代にも各地に反幕府勢力が残っていた。
よって、消去法くさくはあるが、反幕府勢力を一掃し幕府内でも独裁権力を握った義教こそが日本史上最強の将軍という声も大きい。


フィクションでの扱い

時代が時代なだけに地味。
NHK大河ドラマでも花の乱の前半で少し出番があるくらい。
一応山田風太郎が短編「室町の大予言」を書いている。




追記・修正は万人に恐怖されるくらい苛烈にお願いします。

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最終更新:2024年03月31日 13:11

*1 義教にも重用され、黒衣の宰相の渾名を取った

*2 権力の空白を避けたい幕閣の懇願により、生前に神前で引いておいて死亡した際に開封し、後継者決定となった

*3 持氏は義持から偏諱を頂いている

*4 ちなみに、南総里見八犬伝の始まりでもある。

*5 実際のところ逐電した理由は不明。殺されるのを予期して逃げたとも言われるし、実際反乱しようとしていたなど諸説紛々。

*6 鍋かぶり日親で知られる日蓮宗の過激派の僧であり、後に大弾圧を受ける日蓮宗不受不施派の元祖ともいえる。…日蓮宗の性質からして天台宗のトップだった義教に殺されなかっただけ儲けものだと思う。