花婿失踪事件(小説)

登録日:2021/06/18 Fri 14:29:19
更新日:2021/07/19 Mon 21:02:15
所要時間:約 5 分で読めます




Never trust to general impressions, my boy, but concentrate yourself upon details.
My first glance is always at a woman’s sleeve. In a man it is perhaps better first to take the knee of the trouser.

(全体的な印象に頼ってはいけないよ、君。もっと細部に集中するんだ。
僕が最初に注目するのは女性なら袖、男の場合はズボンの膝を見るのが良いだろう)



─── A.Conan Doyle「A Case of Identity」より引用




『花婿失踪事件/A Case of Identity』は、アーサー・コナン・ドイルの短編小説でシャーロック・ホームズが解決した事件の一つ。
『ストランド・マガジン』1891年9月号掲載。単行本では『シャーロック・ホームズの冒険』の3話目として収録されている。

物語の時期としては『ボヘミアの醜聞』の後、『赤毛組合』の前。

【あらすじ】

ある冬の日、ホームズはワトソンに最近関わっている事件はどれも面白いものがないと愚痴っていた。
そんな時、メアリ・サザーランドと名乗る女性が来訪し、人を探してほしいと言ってきた。
結婚式の直前に姿が消えたホズマー・エンジェルという婚約者を探しているらしい。
一通り彼女の身辺情報やホズマーについて聞いたホームズは、調査はするが彼のことは早く忘れるようにとアドバイスする。
ホームズにはすでに事件の全容が見えており、あとは2通の手紙を出すだけで解決できるというのだが…?


【登場人物】


シャーロック・ホームズ
以前の事件でボヘミア王から豪華な嗅ぎ煙草入れを貰っていた、ご存知名探偵。
興味を惹かれるような事件がなく、暇を持て余している模様。
事件よりもメアリー自身に興味を惹かれたらしく、以下のような推理をして見事に当てた。
  • 彼女が綺麗に身支度をしていながら指先に紫のインクが付いていたことから出かける前にメモをした
  • 左右別々のブーツを履き、しかもボタンを留め忘れていることから慌てて出てきた
  • 袖についた二本の線からタイプライターを使う仕事をしている
  • 顔に鼻眼鏡の跡があることから近視である
事件についてはいくつかの類例が存在するありふれた事件だと語る。

・ジョン・H・ワトソン
ご存知ホームズの相棒。
前回はホームズと疎遠になっていたが、またよく会うようになった様子。
ホームズが手紙を出した翌日、解決したか尋ねるとボケをかましてきたホームズにツッコミを入れた。

・メアリー・サザーランド
今回の依頼人。以前、ホームズに依頼した女性から紹介されて来た。
タイプライターを使う仕事をしており、それとは別にニュージーランドの債権の利子で年100ポンド*1の収入があるらしい。
父親が亡くなった後、母親が再婚したウィンディバンクとはあまり上手くいっていないようだが、親と一緒に暮らしているため、利子については親に全て渡している。
ウィンディバンクから外出を禁じられていたが、あるパーティーで出会ったホズマーと恋に落ち、彼以外を愛さないと聖書に誓いを立てた。
ホズマーを探す証拠として彼から貰った4通の手紙を提出した。
結婚に対して強い願望を持っている。

・ホズマー・エンジェル
メアリーの少し年上の婚約者。
結婚式の日に二人乗りの馬車でメアリー達を迎えに行き、二人をその馬車に乗せて自分だけ近くにいた馬車で教会に向かったが、馬車が教会に着いた時には忽然と姿が消えていた。
メアリーによれば善良な人間で恥ずかしがり屋らしく、彼女と会うのは夜だけでささやくように話すらしい。弱視のため色つきの眼鏡をかけている。
ウィンディバンクがフランスに行っている間以外は手紙でやりとりしているとの事。
レッドゥンホール・ストリートの事務所で働いているらしいが、メアリーは事務所の場所を知らないらしく、手紙は郵便局止めにして出しているという。

・ジェームズ・ウィンディバンク
メアリーの継父。メアリーの母より15歳近く年下で、メアリーとは5歳と2ヶ月しか違わない。
仕事は大きな赤ワインの輸入業者の外交員で、よくフランスに出張に行くらしい。



【真相】

+ホームズの推理と真相(ネタバレのため未読者要注意)
・ジェームズ・ウィンディバンク
今回の事件の犯人にしてホズマー・エンジェルの正体。
目的は単純に金欲しさで、金持ちの女性と結婚し、その女性の娘…つまりメアリーの金で楽をして暮らしていた。
彼にとっての問題はメアリーが結婚してしまうと、彼女から得られる多額の金が手に入らなくなってしまう事だった。
そこでメアリーが男に出会わないようパーティーへの出席を禁止したが、当然そんなことはいつまでも持たない。
現にメアリーはあるパーティーへの参加を頑なに主張し、それを聞いた彼はある策を思いついた。
そう、変装して彼女を自分に夢中にさせ、他の男に目移りしないよう貞節な誓いまで立てさせたのである。

しかし、悪ふざけ程度と考えていた彼の思惑に反し、メアリーはホズマーに熱を上げてしまった。
そこで彼はこの状況を利用し、彼女と婚約した直後に劇的に消えてみせることで彼女がいつまでもホズマーを思い続け、他の男と結婚するのを阻止するという計画を思いついた。
結婚式を挙げる教会に向かう馬車に乗る際、自分だけ別の馬車に乗り込むふりをしてそのまま反対のドアから外に出て、空っぽの馬車だけが教会に着いたというわけである。

ホームズの送った手紙で呼び出され、正体を指摘されると冷や汗をかいて崩れ落ちたが、すぐに持ちなおし、
残念ながら彼のやった罪を起訴する手段は存在せず、逆に自分を閉じ込めたホームズを拉致監禁で訴えると言い出す。
ホームズが個人的に彼を鞭打ちにすると脅すと、慌てて逃げていった。

・メアリー・サザーランド
非情に初心だったために初めての恋人に舞い上がってしまった。
果たして夢から醒める日は来るのだろうか……一刻も早く目を覚ましてほしいものである。

・シャーロック・ホームズ
メアリー譲から聞いたホズマーの人相から変装であることに気付き、一方がいない時にもう一方がいる事からその正体を見破った。
推理を裏付けるため、2通目の手紙をウィンディバンクの事務所に送り、変装以外の人相に該当する人物を照会し、彼本人であることを確認した。
残念ながら今回は法的に逮捕する手段がなく、脅すにとどまった。

ウィンディバンクに対しては、あの性格なら次々に罪を犯し、やがて絞首刑になるだろうと語るのみ。
メアリーのことは彼女から夢を奪おうとすれば自分たちも痛いしっぺ返しを食らうと語り、彼女のことはそっとしておくことにした。


【疑問点】

本作に限らずホームズ作品の多くに言えることだが、作者は細かい考証よりもアイディアと物語としての面白さを重視している節があり、そのため後世の読者からは様々な疑問が提唱されている。
以下はその一例である。

+ネタバレに付き注意
  • 依頼人は近眼であるといっても、タイピストとして仕事もしているし、外出時には眼鏡を常用もしていないのだから、明らかにそう重度ではない。それで一緒に暮らしている義父の素人変装を見抜けないというのは無理があるのではないか。
  • 依頼人はいくらなんでも、ホズマー・エンジェルと知り合ってから結婚するまでが早すぎないか(最初の散歩の後ですぐに婚約している)。
  • 婚約までしたのに相手の勤め先も知らず、義理とはいえ父親が不在の間に結婚をするなど、不自然すぎるのではないか。
  • これらの点から考えて、真相はホームズの表向きの推理とは違うのではないか(たとえば、実はメアリーは義父とできていて、母親をだまそうとしたのではないか、等)。
  • ホズマー・エンジェル(Hosmer Angel)という名前は、「ホームズの怒り」(Holmes Anger)のアナグラムなのではないか。


【余談】

  • 冒頭の台詞は名探偵コナンのエピソード「ホームズの黙示録」で引用されている。
  • ホームズの台詞として有名な「初歩だよ」(“Elementary.”)が初めて使われたのはこの作品である。
  • この作品のホームズは、珍しく女性(依頼人)の性格や容姿等に対して好意的な表現をしている。いわく、「やさしく気立てのよい人柄のうえ、それなりに愛情深く親切で、しかも容姿が美しく、収入も多少ある。世間がいつまでも独り身にさせておくはずのない女性」とのこと。対してワトソンの方は、「変な帽子に間の抜けた顔だが、敬意を表さざるを得ない気品のようなものがある」と、一応のフォローは入っているものの、あまり高評価とはいいがたい。
  • ホームズは本事件の犯人に向かって「あの娘に兄弟か男の友人がいたら、お前を鞭で打ちすえるに違いない」と辛辣に言い放ち、それに対する犯人のふてぶてしい態度に対しては感情をあらわにして怒っている。彼はまた、「ぶな屋敷」の依頼人ヴァイオレット・ハンターに対しても、「正直に言って、もし自分の妹だったら賛成はしませんね」と語っており、ホームズは妹という存在になにか思い入れがあるのか、あるいは実際に妹がいたのではないかという憶測をする読者もいる。



追記・修正は綺麗に身支度をしてからお願いします。


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最終更新:2021年07月19日 21:02

*1 現在の貨幣価値で約500万円