登録日:2010/09/03 Fri 13:31:59
更新日:2025/04/21 Mon 09:37:52
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「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」
藤原 道長(966-1027)
天皇家と強力な外戚関係を結び、摂関政治の最盛期を築いた
平安時代を代表する貴族政治家。
天皇すら凌ぐ権勢は
「帝王の如し」とまで畏れられた。
【日本史上最も幸運な男】
後の摂政・藤原兼家の五男として誕生、伯父に
藤原伊尹がいる。
父の引き立てで26歳の若さで権大納言(大臣に次ぐ地位)に昇進したものの、道隆、道兼ら兄の陰に隠れて目立たない存在だった。
……だが、道長30歳の時、歴史は大きく動き出す。
まず995年、兼家の後を継いでいた長兄の道隆が43歳で急死。
それと時を同じくして起こった麻疹の大流行により、次兄・道兼ら上級貴族たちが次々に倒れ、最終的には道長より高位の6人のうち5人がわずか数ヵ月の間に死亡するという事態が発生。
そして、その中で唯一生き残っていた藤原伊周(道隆の子)に勝利して内覧・左大臣となった道長は、朝廷最高権力者の座に上り詰める。
さらに長女・彰子と一条天皇の間に、のちに後一条天皇、後朱雀天皇となる外孫の皇子たちが産まれるなど、順調に権力基盤を固めていく。
もっとも、本当に恐ろしいのはここから。
道長に敵対する立場にあった人々は、皆もれなく不運に見舞われたのだ。
実際には自分の想い人の妹の下に通っていた花山法皇を恋敵と勘違いし、その素性を知らぬままに矢を射かけてしまったことが発端となり、自滅(長徳の変)。
失意のうちに37歳で病死。
一条天皇の皇后(中宮)にして、伊周の妹。
彼女に仕えた清少納言の『枕草子』でも垣間見られるように、一条天皇とはとても仲睦まじかったが、しばらく子宝には恵まれなかった上、兄(伊周)の失脚の影響で一度は自ら落飾(出家)するなどの心労が祟ったのか、一条天皇の二人目の子を出産した直後に崩御、25歳であった。
右大臣、道長の従兄。
道長に対抗して娘を天皇に嫁がせたが、妊娠したはずの娘は「水を産んで」赤っ恥をかく。
一条天皇の従兄、道長の次女の夫。
36歳という壮年で即位し、道長は娘を入内こそさせたが、不仲であったとされる。
持病の眼病が悪化して政務をとれなくなり、わずか5年で退位。
まさしく「持ってる」男。
1017年には嫡男である頼通に摂政と藤原氏長者の座を譲り、後継体制を固めると、その2年後には出家して政界から引退し、浄土信仰に傾倒。
寺社建立に情熱を注ぐが、息子・娘たちに相次いで先立たれる不幸に見舞われ、最期は自ら築いた法成寺阿弥陀堂でひたすら極楽往生を願いながら死去したとされる。
享年62。
【エピソード】
「平安時代の貴族」について、現代に生きる人の中にはナヨナヨしたイメージを持たれている方も多いと思われるが、道長はどちらかというとかなり豪胆で活発な――悪く言えばヤンチャな――男であったようだ。
例えば、花山天皇が「月明かりのない夜、真っ暗なままで殿に行ってこい」と
肝試しを命じた時のこと。
尻込みして逃げ帰る者が多い中、道長は堂々と真っ暗な殿の中に入っていき、やがて戻ってくると木屑を手渡し、
「これを明日、殿の柱の傷と合わせてください」と言ったという。
もちろん当時は現代のような煌々とした灯りなどなく、今よりも夜は非常に暗かったであろう上に、「闇には物の怪がいる」などの迷信も深く信じられていた時代だったから、こういった
肝試しは、度胸を示す手段としてはこの上ないものだった。
何しろ、「百鬼夜行」という言葉が説話に登場していたような時代である。
帝はその報告を受けて「
大したものだ」と笑ったという。
また弓馬に長け、特に競射では若い頃から名手と認められていた。
『大鏡』の『競べ弓』の段では、競射で兄弟を負かした上に、「自分の家から帝や后が立つならばこの矢よ当たれ!」と言いながら矢を放ったところ本当に当たったという描写がある。
道長は創作に熱心で、特に漢詩を好み詩作の宴をよく主催した。
『大鏡』「三船の誉の段」などからもこのことは窺い知れる。
道長の日記『御堂関白記』は直筆本が残っている極めて貴重な史料で、国宝に指定されている。
ただ大ざっぱな性格だったのか誤字脱字が多く、サボっている日も結構ある。
本項目冒頭にある有名な
「望月の歌」を詠んだのは陰暦の16日夜で、
実は満月が昇った日ではなかった。
このせいで和歌が下手なうえに傲慢というイメージがあるかもしれないが、この時道長は酔っ払っていた上に「
即興の作」と断っており、この歌は日記にも歌集にも入っていないことからも、本人的には
黒歴史、あるいは「酔った勢いで適当に言っただけ」のようだ。
しかし、道長に批判的だった
貴族・藤原実資が
「こいつこんな歌詠んでやがったよ」と記録したものが有名になってしまったのだ。
ちなみに実資はこの時、道長に「俺も詠んだんだからさ!」と返歌を振られたが、彼は返歌を断り、代わりに「いい歌だしみんなで繰り返そう」と皆で吟じることを提案している。
切り返し力パネェ。
結果として、死後およそ千年以上もの間、後世の人に自身の黒歴史の
晒し上げを食らった道長は浄土で何を思うだろうか……。
同時に道長は優れた文学者を保護するパトロンでもあった。
紫式部とは、彼女の雇い主であるだけでなく、一説には愛人関係にあったとも言われており、彼女が主役となる2024年の
NHK大河ドラマ『光る君へ』では、道長との関係が物語の軸の一つとなっている。
好物は「蘇蜜(古代の
チーズに、はちみつをかけたもの)」。
信仰上の理由で殺生を嫌い、肉食・魚食は避けた。
さらに平安時代のグルメというのはとにかく「普通の人が食わないもの(うまいとは言ってない)」が基本だったため、そもそも健康に悪い。
道長ほどの貴族となれば、そんなものが供される祝賀に呼ばれまくってるので健康を害すのは当然である。
それ故にか、晩年は「喉の渇き」「吹き出物」「倦怠感」「視力の低下」などに苦しみ、おまけに「狭心症」まで併発していたらしく、その症状がまさしく糖尿病のそれであるため、現代の糖尿病学会から「日本最初の糖尿病患者」に認定されており、学会のイメージキャラクターとして切手にもなっている。
【余談】
「摂関政治の象徴」と言われ、当時最も権勢をふるった人物として有名だが、意外なことに関白にはなっていない。
ここを読む時間で勉強した方がいいと思うがテストの引っかけ問題にたびたび出題されるので要注意。
確かに『御堂関白記』は書いているけどなったとは言ってない。
ここを読んで間違えたら赤っ恥だ。
道長自身、三十歳を過ぎてから病気がちだったことに加えて、
- 親政を志向する一条天皇や三条天皇との政治的軋轢
- 入内してもなかなか皇子を産めない娘達
と多くの困難が立ちふさがり、ようやく摂政の座を掴んだ時にはすでに五十歳。
さらには持病の糖尿病の諸症状が重くなりはじめたこともあって、嫡男の頼通に家督と摂政の座を譲って後継の筋道をかためると、さっさと隠居&出家してしまった。
名実ともに絶頂期だったのは、実際には非常に短い間でしかなかったのだ。
道長は孫にあたる後一条と後朱雀に自分の娘を嫁がせている、つまり叔母甥婚。
彼らの父親・一条天皇もその母は道長の姉である。
スペイン・ハプスブルク家もびっくり。
危険な配合ってレベルじゃねーぞ!
このwikiを 我が世とぞおもふ項目の かけたる箇所もなしと思へば
(追記・修正は、満月の夜じゃなくても自由にお願いします。)
- 道長以来、戦国、幕末、戦前戦後といつの間にか復活してるんだもんな〜
藤原氏 -- 松永さん (2013-03-26 20:50:24)
- まぁ晩年はツケが回ってきたのか、かなり祟られてたみたいだけどね -- 名無しさん (2013-06-19 14:55:53)
- 道長自身は、意外と政敵に厳しく当たっていない。伊周を許すよう天皇をとりなしたりもしている。政敵にきつく当たりすぎないのも、彼の一つの処世術なのかもしれない。 -- 名無しさん (2013-10-25 20:59:41)
- ↑3 戦後に藤原氏復活ってなにかあったっけ?? -- 名無しさん (2013-10-29 19:54:24)
- ↑確か 血族ではないが、戦後の政治家も色んな所と縁戚になるうち 藤原系になったって話は聞くな
あくまでも家系図上だけでも -- パキスタン (2013-10-29 20:03:28)
- 藤原氏か、三柱鳥居が社宅にあるから
秦氏って説きいたが
明治維新の時の番頭 三野村は 正に偉人 -- 松永さん (2013-11-04 19:56:44)
- ↑失礼
三井と間違えた -- 松永さん (2013-11-04 19:58:03)
- ↑ぶっちゃけそいつ等とも 婚姻関係だったし もう藤原関係ない日本人探すこと自体もう無理何じゃ -- パキスタン (2013-11-09 21:15:47)
- 伊藤とか佐藤とかの○藤は元をただせば藤原氏の関係者って話はよく聞くな。もちろん血縁者だけとは限らず荘園の農民とかも含めてだけどね。今の苗字の割合で考えたらどんだけの土地(権力)持ってたんだって話 -- 名無しさん (2013-11-10 19:17:31)
- タグの平安時代のスターリンに違和感が ヨシフおじさんより 長続きしてる気がする -- 松永さん (2013-11-11 11:33:02)
- そして彼もまた某エロゲーにて美少女キャラになりました -- 名無しさん (2013-11-11 12:19:44)
- 平将門の乱と平忠常の乱の間に生きており大変な幸運児。平忠常の乱が起きたのは死後半年後。 -- 名無しさん (2013-11-11 13:07:37)
- ↑↑↑御堂様とタワーリシチが萌え美少女化したら 許そう -- パキスタン (2013-11-11 22:47:03)
- スターリンほど苛烈では無い気が -- 名無しさん (2014-05-28 10:38:14)
- スターリンは言い過ぎだろう。政敵を追放はしたけど粛清はしてないんだし。 -- 名無しさん (2014-11-04 19:23:03)
- だよな -- 名無しさん (2015-10-24 16:55:20)
- 尚晒し上げた張本人は後に道長に助けて貰ったという -- 名無しさん (2016-01-18 11:11:53)
- ツイッターみたいだな>「こいつこんな歌詠んでやがるwwww」 -- 名無しさん (2016-08-04 15:47:33)
- 松永氏、戦後の藤原氏とはいかに?不勉強で申し訳ない -- 名無しさん (2016-08-04 17:40:36)
- 戦前で藤原氏といえば近衛文麿じゃね?戦後だと細川元総理(文麿の外孫)とか -- 名無しさん (2017-01-05 01:36:05)
- ただ政治的に立派な政令を作ったりとか悪政を敷いたとかは聞かないんだよな・・・ -- 名無しさん (2017-08-11 15:10:08)
- ↑平安貴族の代表格として現在まで有名になってるような気がしないでもない -- 名無しさん (2017-08-11 15:38:26)
- この世をば~ の歌は和歌としては出来が悪い方なのか 学習まんがではわが世の春で自信満々に詠み上げてる風に描かれがちだけど -- 名無しさん (2020-04-02 11:18:34)
- 御堂関白記を書いているが彼自身が鳴ったのは摂政だけで関白にはなっていない。学校の試験で道長が摂政・関白になったと書いて減点を食らうクラスメイトがうようよいた。(自分はトリビア本で知ってて難を逃れた) -- 名無しさん (2021-08-29 15:37:56)
- 冒頭の詩を日記に書いた人は後世の人に「こいつめっちゃ調子にのっております」と馬鹿にするために載せたのだっけ -- 名無しさん (2022-03-19 14:49:47)
- 『大鏡』だとまだ出家していない頃のエピソードでも語り手に「入道殿」と呼ばれているので、高校の古典の時間にアタマが混乱した学生諸君も多かろう。まあ『源氏物語』で出家後の藤壺様が「入道」と書かれているのよりはマシですが… -- 名無しさん (2022-03-19 18:11:13)
- すごい強運。文字通り桁違いの天運(もちろん実力も)を持って生まれてきた方。 -- 名無しさん (2022-03-19 19:49:09)
- ↑7 そう、悪政すら碌にしていない。それだけの権力持ってるのに酒池肉林もおとなしければ重税で民が苦しんだって話も(少なくとも道長が原因とするような話は)ない。地震とかの天災すらほぼ見舞われてない。本当に天運が凄まじい。 -- 名無しさん (2022-03-19 20:15:27)
- 昔の糖尿病は贅沢病だったらしいし、痛風も持ってそう -- 名無しさん (2022-03-19 20:43:03)
- こいつあれかなあ?案外、カメレオンの矢沢みたいに運と勢いで上り詰めちゃっただけで、中身的には当時の平々凡々とした平安貴族だったんじゃね? -- 名無しさん (2022-11-08 09:16:07)
- ここまで政敵が急死・失脚が相次ぐと暗殺なり仕組んでそうな気もするが「政治家としての評価の賛否すらないよう『生まれが一応貴族の身分だった以外は本当に幸運だっただけの(元の身分相応に)凡庸な人』なのか、自分に不利となる要素は徹底的に隠匿抹消し尽くした『あの時代の宮中への適応に特化した狡猾な謀略家』」だったのか…… -- 名無しさん (2022-11-17 19:59:03)
- 祖先の基経の時点で天皇を謝罪させるくらい権勢を築いてたからな。その流れの中で最盛の時(しかし同時に凋落の兆候でもある)に回って来た感じ。 -- 名無しさん (2023-03-11 00:58:24)
- 実は過去には摂関体制回帰一揆も何度も起きてて意外に農民層に慕われてんだよな藤原氏 -- 名無しさん (2023-05-28 10:37:19)
- この時代は長生きするのも権力を握るために割と必須だよなぁ -- 名無しさん (2023-12-12 11:36:44)
- 権力闘争ばかりで実際の政務は何もしていないように見えるけど実際は社会政策や物価対策にも積極的に取り組んでいて中世の公家法にも結構な影響を与えている。 -- 名無しさん (2024-01-10 12:10:37)
- ↑一説には藤原道長が「積極的に夜の朝廷会議に出て、政治を行った」最後の摂政・内覧と言われてるらしいよね。 -- 名無しさん (2024-04-18 00:01:50)
- 記事中で危惧されてるが実際近親婚させまくったせいか孫の代には皇子が全然生まれなくなってあっという間に実権を皇室に奪い返されて院政が開始したからなあ -- 名無しさん (2024-04-26 16:58:55)
- ↑4それが道長の一番の才能といえるかも。この当時の貴族の平均寿命って40前後らしいし、そんな中で42で末の娘を作って62まで生きた(しかも家康みたいな健康ヲタでもないのに)ってんだから相当丈夫。 -- 名無しさん (2024-10-28 22:29:02)
- やはり若いころに競射に励んで運動していたのが長生きの一因になったのだろうな。 -- 名無しさん (2025-04-20 14:46:08)
最終更新:2025年04月21日 09:37