ハイペリオン(競走馬)

登録日:2024/02/24(土) 17:37:48
更新日:2024/04/12 Fri 23:16:57
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互角の馬が競えば、常に大柄な方が勝つ。

——ただしハイペリオンは除く。


ハイペリオン(Hyperionとは、1930年生まれのイギリスの競走馬。
小柄な馬体に反した高みをゆくがごとき素質をもって「サラブレッドの芸術品」とまで評された、20世紀前半を代表するスーパーホースである。



概要


父ゲインズボロー母シリーン、母の父チョーサーという血統。

父は母系の4代前にあの大種牡馬セントサイモンを持つイギリス三冠馬。ただし普通の三冠馬ではなく、
第一次世界大戦中で三冠レースのことごとくが代替競馬場での開催となる中これを制したという変わり者。
おかげで当時は三冠馬と認めないという意地悪な風潮もあったそうだが、今となっては正統な三冠馬として広く認められている。
その評価を確たるものにした立役者こそ、当のハイペリオンである。

母はセントサイモン3代後の直系で、ナッソーSなど大レースを含め22戦16勝と大活躍した女傑。
母の父チョーサーは大した競走成績ではなかったものの、セントサイモンの直系子孫としては
ブルードメアサイアーとして顕著な成績を残した種牡馬である。

ここまででお分かりの通り、このハイペリオンはセントサイモンの3×4のクロスを持つ。
いわゆる「奇跡の血量」というやつである。
これはシリーン、チョーサーの馬主で馬産家でもある第17代ダービー伯爵エドワード・スタンリー卿が好んで多用した比率であった。

…のだが、セントサイモンが巨体で知られていたにもかかわらず、そのクロスを持って生まれてきた馬はやたらと小柄だった。
これは母シリーン(とその父チョーサー)の影響が強く、シリーン自身もあまりに小柄で1歳の調教を断念されかけたり、
小柄すぎて戦えないだろうとクラシック登録もされなかったほどだった。


しかしその仔馬はさらに小さく、この時代の標準的な体高が163cm程度なのに対し、
本馬の体高は成長してもたった153cmしかなかった。
あのドリームジャーニーでも158cmなのだからさらにそれ以上の小ささである。
当時は競走馬は大柄な方がレースで強いと信じられており、あまりにも小柄なので去勢すべきとの意見まであった。
良血なので種牡馬になれる可能性があるからとこれは流石に見送られたが、
もし実行されていたら世界の競馬の歴史がまったく違うものになっていただろう。

関係者を困惑させたのは体格だけではなく、当時不吉と信じられていた四白、すなわち4本の脚すべてが
白い靴下を履いている点もあった。

これらのことからほとんどの人から評価されていなかったのだが、
第17代ダービー伯爵の専属調教師だったジョージ・ラムトンだけはこの馬を高く評価。
「今まで見た中で最も美しい馬です。この馬はダービーを勝ちますよ」

かくして競走馬としての道を歩むことになった本馬は、母シリーンの名(ギリシア神話の月の女神セレーネ)からの連想で、
「高みをゆく者」の意を持つティターン神族の太陽神の名をとり「ハイペリオン」と名付けられた。


小柄な巨神の幼少期


こうしてラムトン厩舎に入ったハイペリオンだが、あまりにも小さすぎて飼い葉桶に首を届かせるのにも一苦労する有様だった。
ただし精神的には非常にスケールの大きさを感じさせるものがあり、鳥や飛行機など空を飛ぶものに強い興味を示して
見えなくなるまで目で追う癖があったという(普通の馬は上空のことにはほとんど注意を払わない)。
また気性難で知られるセントサイモンの血が濃いながら、性格は非常に温厚だった。

だが、どんな馬にも人間を困らせる特徴が一つはあるもの。
ハイペリオンも例外ではなく、性格は温厚ながら超がつくほどの頑固者だったのだ。
その頑固さは徹底しており、
  • たとえ調教中でも気に入らないことがあるとすぐ立ち止まる
  • 立ち止まったら気が変わるまでテコでも動かない
  • 風邪で発熱しているさなかでも歯を食いしばって投薬を断固拒否
あまりのことに、調教に参加した主戦騎手からは「全くの駄馬か、とんでもない怠け者のどちらかだ」と評される有様だった。

しかしこれまで数多の名馬を手掛けてきたラムトン師はハイペリオンの性格をよく理解し、その意志を極力尊重。
調教中に動かなくなってもまた動く気になるまで辛抱強く待った。おかげで朝食を食べ損ねることも。
その甲斐あってハイペリオンとラムトン師の間には強い絆が生まれ、ハイペリオンも調教中は真面目に走るようになったという。

2歳時


1932年5月にドンカスター競馬場のゼトランドメイドンプレート(芝5F)にてデビュー。
しかしここでのハイペリオンは見るもの全てが新しい競馬場の環境に興味津々でレースどころではなく、
18頭立ての4着に敗れた。

しかし6月のニューステークス(芝5F)を逃げたうえで3馬身ぶっちぎってコースレコードのおまけつきで勝利すると
そのたぐいまれな素質が開花。
3戦目も連勝し4戦目こそ凡走してしまったが、しめくくりのイギリス2歳馬最強決定戦デューハーストステークス(芝7F)では
道中最後尾を走りながら末脚だけの競馬で他馬をごぼう抜きして2馬身差で快勝してみせた。

2歳時は通算で5戦3勝、大レースも制しており立派な成績ではあったが、この年は牝馬の実力馬が充実していて
その割を食って全体での評価はそこまで高いわけではなかった。
まあ真価は翌年発揮されるわけなので間違いではないのだが…


3歳時


3歳を迎えた当初のハイペリオンは調教で軽く捻られるなどまるで調子が上がらなかったため、
クラシック第1冠の2000ギニーステークスに調整が間に合わなかった。
結局この年の初戦は5月のチェスターヴァーズステークス(芝12.5F)まで遅れてしまう。
しかしここまで時間をかけた甲斐あって、出遅れと重馬場をものともせず快勝。
揚々と、かつてラムトン師が「ハイペリオンが勝つ」と予言したダービーステークスに乗り込んだ。
シリーンの時の反省からちゃんとクラシック登録をしていた。

しかし相変わらず調教で走らないため、1番人気ながら単勝7倍台とそれほど支持されてはいなかった。
時代を考えると超小型馬が1番人気というだけですごいのだが。

この年のダービーは英国王ジョージ5世メアリー王妃が大観衆とともに観戦する天覧競馬だったのだが、
ハイペリオンは天覧にふさわしい完璧なレースを披露した。
道中は自陣営のペースメーカーを見つつインコースの好位を確保し、終盤が近づくのに合わせて前進。
最終コーナーを2番手で直線コースに突入すると、「ミサイルのような加速」で他馬を一瞬のうちに突き放し、
2着馬に4馬身差をつけて圧勝。名誉ある154代目のダービー馬となった。


ちなみに4馬身差というのは公式記録なのだが、実際には8馬身差はあったと言われ、
当時の映像を確認しても、どう見てもそれぐらいの着差である。
少なくとも断じて4馬身ではない。
また、勝ち時計の2分34秒0は当時のダービーレコードで、これは20世紀後半はおろか
現代のダービーステークスの勝ち時計と比べても優秀な部類である。
例えば2022年のデザートクラウンの勝ち時計が2分36秒38
2023年のオーギュストロダンの勝ち時計が2分33秒88であるといえばわかりやすいだろうか?

何度か先述の通り、当時の競馬界では巨体馬の方が強く、小柄な馬はそれだけ劣勢であるというのが常識であった。
そんな中にあってハンデを負いながら自分よりも大きな馬たちをことごとく蹴散らしたハイペリオンは賞賛の的となり、
イギリス競馬ファンのアイドルの地位をも確立したのだった。



次走のプリンスオブウェールズステークス(芝13F)では小柄な馬体に酷な131ポンド=59.4kg という古馬並みの斤量が課せられたが、
その程度で負けるかとばかりに16ポンドも有利をもらっていた2着馬に2馬身つけて圧勝。
しかしレース中に後ろ脚を痛めてしまう。負傷自体は大したダメージではなかったのだが3か月の休養となり、
クラシック3冠目のセントレジャーに向かうローテに狂いが生じた。
ラムトン師はハイペリオンに馬衣を着せて炎天下のもと調教を行うという強引すぎる荒技で馬体を絞り、
何とかセントレジャーステークス(芝14F)に間に合わせた。

そのセントレジャーでは終始馬なりのまま走り続けただけで2着に3馬身差の完勝。
難なくセントレジャーを制覇し、イギリスクラシック二冠馬となった。
そのあまりの強さにダービー伯爵は、
「2000ギニーも出れていたら三冠馬間違いなしだったのに…」
と残念がったとか。

このセントレジャーで再び脚を痛めたため、3歳シーズンはこれをもって終了。
この年は4戦4勝とまさに無敵であった。

4歳時


ハイペリオンが4歳を迎えたこの年、ラムトン師は高齢ゆえ体調を崩しがちになった。
ラムトン師と付き合いの長いダービー伯爵はラムトン師の体調に配慮して、彼との専属契約を解除。
新たにコリッジ・リーダー調教師と契約を結び、ハイペリオンもリーダー師のもとで走ることになった。

しかしこのリーダー師とハイペリオンはすこぶる相性が悪かった。
リーダー師はハイペリオンが調教で怠けていると考えてハードな調教を行い、
ハイペリオンもそれに対してへそを曲げることが増えていった。
双方の名誉のため付け加えるなら、これはリーダー師が短慮だったとかハイペリオンの気性が悪いとかではなく、
ハイペリオンとラムトン師との間の絆が誰にも真似できないほど強かったということであろう。
いずれにしても最大の理解者を失ったハイペリオンの競走生活は、ここから歯車がかみ合わなくなっていってしまう。

まずは5月のマーチステークス(芝10F)から始動し、138ポンド=62.6kgという過酷すぎる斤量を課される。何のいじめだ?
直線で大きくヨレながらもクビ差で辛勝。
ここから中12日で向かったバーウェルステークス(T12F)ではダービーで2着に下していたキングサーモンと同斤量ながら、
3/4馬身差まで詰め寄られるあわやのレース。
だんだん雲行きが怪しくなってきたなかでイギリス古馬中長距離路線の大一番であるアスコットゴールドカップ(芝20F)に
直行することになったが、ここで事件が起こる。

このレースにはハイペリオン最大の理解者であったラムトン師が観戦に訪れていた。
そしてレース直前、馬場入り口付近で車椅子に座っているラムトン師の姿を見つけたハイペリオンは、
ラムトン師をじっと見つめたまま動かなくなってしまったのである。

あせった厩務員が悪戦苦闘しどうにかパドックまで連れて行ったが、このレースは結局
勝ち馬から9馬身差以上ちぎられた3着に敗れてしまった。
この時の綱引きで体力を消耗したのか、折からの不良馬場が祟ったのか、20Fという距離が合わなかったか、
はたまたラムトン師との日々を思い出して現状に嫌気が差したのかは分からない。


この次走のタリンガムステークス(芝12F)では2頭立てのマッチレースとなったが、
ハイペリオンが142ポンド=64.4kgというトンデモ斤量を課されたのに対し対戦相手のケースネスは29ポンドも軽く、
この斤量が災いしたか直線の競り合いでアタマ差遅れ敗戦。
このレースを最後にターフを去ることとなった。



4歳時は4戦2勝、通算で13戦9勝。
4歳時に振るわなかったのは一般には調教師の交代とイカれた過酷な斤量が影響しているとされる。
しかしそれだけのハンデを小柄な馬体に負わされてなお勝っているのだから立派なものだろう。

何度も述べたように馬体は小柄だったのだが、極めてバランスがとれており、サイズ以外は良い馬体のお手本のような姿だったという。
また小柄ながら並外れた脚力を持ち、それがハイペリオンの素晴らしい競走能力を支えていた。
その脚力を活かした「後ろ脚で立ち上がったまま歩く」という芸当が得意で、牧場でもそれをやって周囲を驚かせて楽しんでいたという。
その活躍ゆえ、記事冒頭のように、以前からあった
「互角の馬が競えば、常に大柄な方が勝つ」
という格言に、「ただしハイペリオンは除く」の文言が追加されたという逸話は有名。


当時を知らない我々にしてみれば、13戦9勝という戦績やダービーで4馬身差という数字からは
なぜ競走だけでもそこまで高評価を受けているのかは到底知りえないが、 この馬のダービーでのレース映像は残っている。
「サラブレッドの芸術品」とまで謳われた走りを見て、ぜひとも当時の風を想像し、感じてみてほしいものである。


…だがハイペリオンの真の活躍は、ここからであった。


世界を席巻する巨神の血脈


引退後の1934年から、ダービー伯爵の領地でもある生まれ故郷のウッドランド牧場にて種牡馬入り。

そして種牡馬入り直後から活躍馬を怒涛の勢いで量産
1940~1942、1945、1946、1954年の6度にわたって英愛リーディングサイアーに輝いた。
有名どころでは、
  • ダービーを制覇、自身も種牡馬として成功しあのテューダーミンストレル等を輩出したオーエンテューダー
  • 英国王ジョージ6世の愛馬となってイギリス牝馬三冠を達成したサンチャリオット
  • アメリカに持ち込まれてケンタッキーダービープリークネスステークスを勝ち、父の世界進出を決定づけたペンシブ
などなど、イギリス一国にとどまらない活躍を見せた。
さらにカナダに持ち込まれた牝駒レディアンジェラはあのネアルコと交配しニアークティックを産んでいるなど、
母父としても大活躍する万能ぶり。
しかも「ハイペリオンの血を広く生産者に提供したい」というダービー伯爵の意向で、
種付け料は種牡馬入り当時の400ギニーのまま最後まで据え置かれた。

「えっ 誰でもハイペリオンをつけていいのか!!」
「ああ…しっかりつけろ」「おかわりもいいぞ!」

先述のオーエンテューダー以外にもオリオールロックフェラなどのように直系産駒が種牡馬として成功したこともあり、
かくしてハイペリオン系と呼ばれる一大血統を形成するまでに至ったのであった。
日本競馬に与えた影響も絶大なもので、ロックフェラの系統からは二冠馬メイズイや元祖アイドルホースのハイセイコーらが出ている他、
それ以外の直系子孫でもTTG時代を築いた緑の刺客グリーングラス芦毛の逃亡者セイウンスカイなど、枚挙に暇がない。

とはいえ盛者必衰が世の常で、1960年代半ばから興隆したノーザンダンサー系に対し次第に劣勢となっていき、
21世紀を迎える頃には世界的にほとんど壊滅状態となってしまっていた。
セイウンスカイなんてすっかりハイペリオン系が廃れた頃の生まれであり、父の出来が悪かったとはいえ雑草血統扱いされる始末であった。
現在は直系子孫はイギリスとオーストラリアに細々と残っている程度となっている。

もっとも、孫のフォルリの系統から出た繁殖牝馬スペシャルがノーザンダンサーとの間にヌレイエフを、
さらにスペシャルの娘のフェアリーブリッジがノーザンダンサーとの間にサドラーズウェルズフェアリーキング兄弟を輩出。
これらが一大勢力を築いたことで、直系こそ絶えたものの、ハイペリオンの血の存在感そのものは未だ絶大である。
そもそもノーザンダンサーの父ニアークティックにハイペリオンが入っているため、ヌレイエフにせよサドラーズウェルズ&フェアリーキングにせよ、
ハイペリオンのクロス持ちということになる(前者はハイペリオンの4×4、後者は4×5である)。
実際、現代日本のサラブレッドにおいても、ハイペリオンが入っていない馬は存在しないと言っていい。



種牡馬入り後もその温厚な性格は変わることなく、子供に頭を撫でられても噛みつかず、訪問客に対しても愛想よく対応していたという。
ファンサを欠かさない名馬の鑑。
第二次世界大戦中はドイツ軍の空襲を避けて疎開しなければならなくなるなどの混乱にも直面し、一時はアメリカへの避難の
申し出もあったのだが、ダービー伯爵は「たとえイギリスが灰燼に帰したとしても、ハイペリオンは決して出さない」と、
イギリスの地に踏みとどまり続けた。
戦後も29歳になるまで元気に種付けを行っていたが、ついに1959年に種牡馬を引退。
その翌年からだんだんと元気がなくなっていき、秋の寒波をきっかけに衰弱著しく、1960年12月9日に老衰で亡くなった。

ハイペリオンが亡くなった時、ダービー伯爵はかつてウィンストン・チャーチルが自身の邸宅を訪れた際の記念品であるブランデーを開け、
「我々の時代における最も偉大な古き友2名(ハイペリオンとチャーチル元首相のこと)のために乾杯」
と述べて友人たちとこれを飲み交わしたという。
チャーチルは当時まだ死んでないというツッコミは無粋である。

ハイペリオンの遺骨は保存されており、あちこち移動した末に現在はニューマーケット競馬博物館に展示されている。
もし競馬好きのアニヲタ諸氏が当地を訪れることがあったら、ぜひ詣でてみてほしい。










英国ジョッキークラブ(現BHA:英国競馬統括機構)は、近代競馬の母国イギリスにて1750年に創設された同国の競馬統括組織であり、
日本のJRAに相当する組織である。
そしてジョッキークラブの本部事務所は世界最大の競馬町ニューマーケットにあるのだが、その建物正面には1頭の小柄な馬の銅像が置かれている。
その銅像は、当時の英国の人々をその圧倒的な走りで魅了し、後に一大血統を成して未来の礎になったある名馬の功績を讃えるべく造られたものである。

その馬の名前こそ、ハイペリオンである。






追記・修正はサラブレッドの芸術品となってからお願いします。
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