フェデリコ・テシオ

登録日:2024/01/17 (水曜日) 01:52:01
更新日:2024/02/05 Mon 10:42:16
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フェデリコ・テシオ(Federico Tesio 1869年1月17日- 1954年5月1日)は、イタリアの生産者兼馬主(オーナーブリーダー)、騎手、調教師、上院議員、芸術家、画家、家具職人、ギャンブラー、イタリア陸軍士官である。兼任職業多すぎ

当時近代競馬が始まったばかりのイタリア*1で、年間生産数僅か10数頭の零細牧場から世界的名馬を生産した伝説の馬主。

同時代のライバルであるフランスのマジキチ成金実業家マルセル・ブサックやイギリスの貴族のボンボン17代目ダービー卿と覇権を争い、主な記録としてデルビーイタリアーノ(通称イタリアダービー)を通算22?!回、イタリアオークスを通算11回、ミラノ大賞典*2を通算22回、凱旋門賞は通算2回優勝等を筆頭に多数のG1を総なめした。

一般にハイリスク&ハイリターンとも言われる馬産で、零細牧場から名馬を大量に排出する魔法やチートを使ったような前代未聞の手法を人々は畏怖し、「ドルメロの魔術師(Il mago di dormello)」と異名された競馬界伝説の偉人。それがテシオである。

彼はなぜ前代未聞の偉大な栄光を築き上げだろうか?



テシオ誕生!

フェデリコ・テシオは1869年1月17日にイタリアのトリノで生まれた。
実家はかなり裕福な家庭だったが、不幸にもわずか6歳で両親を亡くし、両親の遺産は管理人に預けられてしまい、学業と軍役を終えるまで使うことが出来なかった。
モンカリエーリの寄宿学校*3とフィレンツェ大学で計13年間学んだ*4後、イタリア軍 第13騎馬砲兵隊に入隊*5
イタリア軍では騎馬砲兵隊の少尉として数年間軍務に励んだ*6が、就役期間が終わるとすぐに退役し両親の遺産を受け継ぐ。

退役して無職になったテシオは相続した遺産を貰うとまさかの豪遊っ・・・!
ある時はふらっと世界旅行に出掛け*7、ある時はスッカラカンになるまでギャンブルや酒に溺れたり、画家や芸術家に憧れて絵を描いたり家具を作ったり*8、アマチュア競馬で障害レースの騎手をしてみたりと、この時には「競走馬のブリーダーになりたい!」と漠然とした夢は持っていたものの、自由気ままなニート生活を楽しんでいた。

そんなテシオの転機はニート生活に飽きた1898年に、亡くなった父の親友であったセッラメッツァーナ侯爵の娘であるリディア・フィオーリ・ディ・セッラメッツァーナ(Lydia Fiori di Serramezzana)との結婚である。

リディア夫人はテシオと同じく馬に情熱を持っている方で、二人はすぐに意気投合し結婚。
同年、テシオはリディア夫人と一緒にミラノ北部ノヴァーラ州ドルメッレットにあるマッジョーレ湖の畔の近くにドルメロ牧場という小さな牧場を開いた。*9
彼はこの牧場を拠点として世界中を放浪したニート生活で培った独自の方針でもって、サラブレッドの生産を開始した。

伝説の偉大な馬主。しかも「魔術師」なんて中二なあだ名も付いているからここからチートみたいな手法でG1を勝ちまくり、誰もが拝むような伝説の一歩がスタート!

…となるかと思いきや、この時掲げた方針は・・・

「一流の繁殖牝馬に一流の種牡馬をかけ合わせる!これならダービーも余裕っしょ!」

という現代の社台やクールモアも唸らせるシンプル・イズ・ベストの方法論であった。

私の目的は、いかなる距離においても最短タイムで最高重量を負担しうる競走馬を生産・育成することであった。
この結果を勝ち得ることは困難だが、絶対に不可能ではないと私は思っていた。
なぜならば、私はニート生活で世界中の沢山の馬を見ていたし、沢山の本を読んでいたからだ。
私は自分がいろいろなことを知っていると思っていた。
フェデリコ・テシオ著 サラブレットの生産より抜粋

当時の心境を自書にてこう残すテシオは自信満々で競馬界に殴りこんだ。
このときテシオ29歳であった。



テシオ試行錯誤時代

だが、現実はそう甘くはなかった。
実際にテシオが周囲に認められる結果を出すには、なんと10年以上の歳月が必要だった。
その当時の心境をテシオは次のように語っている。

自負心は、間もなく失望に変わっていった。
成功に対する私の処方は、私の競争相手の永続的な成功に対しては全く役に立たなかった。
真相は、私がたくさん見たり読んだりしたにも関わらず、私はまだ反省することを・・・
つまり、なぜそうなるか?という理由について省みる事を学んでいなかったからだった。
フェデリコ・テシオ著 サラブレットの生産より抜粋

初めてテシオの所有馬が重賞を勝ったのは実に開業から7年後の1905年であり、牝馬ヴェネローザのエレナ王妃賞*10だった。
イタリア最大のレースにして初G1制覇であったミラノ大賞典を勝ったのが1909年。
イタリアダービーの初勝利が1911年である。
1898年に開業してから初G1制覇まで実に11年という長い年月をかけていたのだ。*11

当時のイタリアのサラブレッド生産頭数は年間約300頭前後だったので、生涯で最大でも年間20頭以下しか生産してないテシオであっても、もっと勝てそうなものである。
簡単に言えば、ニート生活終了直後のテシオの配合や方針は間違っていたのだ。


「一流の繁殖牝馬に、一流の種牡馬を」


この言葉は一見至極当然もっともらしく聞こえるが、いったい何をもって一流というのだろうか?
テシオは確かに裕福な両親から遺産を受け継いだが、後のライバルであるイギリス名門貴族出身のボンボン17代目ダービー卿やフランス有数の戦争成金大企業家であるブサックと比較すると正に雀の涙程度の金銭しかなかった。

ここで「何をもって一流とするか」という問いに立ち返ってみよう。血統?競走成績?確かにそれも「一流」を示すステータスである。だが、そうした「一流のサラブレッド」は総じて非常に高額なのだ。
そんな訳もあったし、仮に金銭があったとしても競馬後進国のイタリア人に良血馬を売ってくれる物好きな人物は皆無であった。
当然何年もニート生活していたテシオには手に入る可能性も極めて少なく、買えたとしても非常に高額な金額を吹っ掛けられてしまったのだ。

これにより、テシオは当初の方針を転換して「1流のサラブレットを1から作る」という方針へ変更する。
テシオ、及びドルメロ牧場の最初の20年間は理論の確立や結果を出す為の準備時期だったと言える。
だが、この試行錯誤によって後に「魔術師」と欧州から恐れられる馬主となるのだ。



猿でもわかるテシオ流馬産!

「血統だけでレースを勝つことはできない」これはテシオが実際に残した名言である。
だが同時に、「調教は素質を伸ばすことはできるが、新たに素質を創り出すことはできない」
という名言も残している。

後に説明する超一流馬を生産したテシオは、前述のとおり祖国イタリアのドルメロ牧場を本拠地とし、そこにはほとんど種牡馬を置かなかった事で知られている。
彼は生産馬を走らせた後、その内成功したごく一部の牝馬だけを牧場に戻してその他を全て売却していた。

その為、テシオは毎年わざわざ繁殖牝馬の約半数をイギリスやフランスへ持って行き、残りを本国イタリアの他牧場へ送ってそれぞれの種付けを行っていた。
こうした形態の生産者を、一般に「アウトサイド・ブリーダー」と呼ぶ。

だが、少し考えてみればこれは不思議な事だ。
普通の零細牧場ならともかく、数多くの超一流馬を生産した本人がそれらの種牡馬を何故か自身の牧場に繋養しなかったからだ。

実は、この不思議な点にこそテシオの偉大な成功への鍵である。と、世界中の競馬バカ多くの血統史家が指摘している。
テシオは主に牝系とインブリードに着目した配合論を持っていたが、その理論を実践する為にリスク覚悟で名馬を生産せず、むしろ逆に、


「失敗のリスクを徹底的に抑えながら、可能な限りの成功を目指す」


という手法で名馬を生産していたのだ。

そもそも、馬産とは投機・ギャンブル的な色が濃いハイリスク&ハイリターンな事業である。
夢のような成功がある反面、たった1つの失敗が多くの連鎖的不都合を招いて悲惨な状況に追い込まれるというこの人のような事態も充分にあるのだ。

その為永遠に成功し続ける事は奇跡に近く、Plan(計画)→ Do(実行)→ Check(確認)→ Act(改善)を*12回転し続けるためには、幾重もの危機管理が必要となる。

それこそ、自分なりの方法論を持ちながら常に自らの現状と世界の変動に目を光らし、起こった危機に対して適切な処置を取り得たものだけが競馬界で生き残れると言っても過言ではないのだ。

ここでは実際に彼の手法のうち、配合に関するものをいくつか挙げてみよう。
これで君もダビスタ・ウイポ初心者卒業だ!


こうしてテシオの配合論を見ると、そこにはリスク管理の徹底した馬産こそが成功の秘訣という真実である。
このようなリスク管理の徹底した手塩にかけた馬産を行う事でテシオは少しずつ、着実に結果を残すことに成功した。

また、徹底したリスク管理と同時並行で行った手法が繁殖牝馬の改良であった。


このように、彼の手法はそのほとんどすべてが予測不能の失敗から受けるダメージを最小限にとどめる機能が備わっており、それゆえにわずかな頭数の生産馬からコンスタントに一流馬を出し続ける事が出来たと考えられる*28

小さな牧場にとってはたった1つの失敗が致命的なものになりうるので、これらは特に初期のテシオにとって必須の手法であった。
が、裏を返せばこうした危機管理的な方法論さえ整備されていれば、血の入れ替え等の点で大牧場より非常に有利であると言えるのだ。

テシオの採った方法は、ただ目先の流行血統を追い続けて生産する場合*29と比較すると、必ず勝つ事は出来ないが圧倒的に安定し、リスクやコストの小さい戦い方だということは間違いないと思われる。

実際にテシオは、

ライバルたちが10のうち9の失敗をするならば、私は8の失敗で留めるように努力する

という名言を残している。




逆襲のテシオ

前述の馬産方法を編み出したテシオの生産者としての実績は、1910年代後半頃から明らかになってくる。
G1初勝利から10年が経過した1919年から23年にかけて、テシオはなんと5年連続でイタリアダービー優勝という大快挙を成し遂げる。
実際に1920年以降からはイタリア国内のダービーや他の大レースは出場したら勝って当たり前になり、実質テシオの運動会状態になっていた。

また、1932年からはテシオと共同でサラブレッド生産を行った盟友であるインサーチ侯爵が正式に共同経営者になったおかげで資金面のバックアップも完備!
牧場も新たに「ドルメロ・オルジアタ牧場会社」(Razza Dormello-Olgiata)となり生産規模も拡大。*32
金銭的負担が無くなった事で柔軟な経営と余裕が出来、テシオは海外の大レースへの遠征を決断する!*33

遂に1937年には当時世界有数の国際レースであったフランスのパリ大賞典*34に、後のテシオ3大名馬の一頭である不敗のイタリアダービー馬ドナテッロが参戦。
このレースは半馬身差で惜しくも敗北したが、これは欧州中にテシオの名声を広げる効果があった。
それまではいくら勝っても「所詮はイタリアのお山の大将」という扱いがせいぜいだったのが、ドナテッロが見せた驚異的なパフォーマンスのお陰でテシオは国際的な名声を得る事が出来たのだ。

しかし、実はその影で全世界の競馬を・・・サラブレットという種そのものに根幹から革命を起こした重要な馬が生産されていた。

ドナテッロが敗北した翌1938年。この年に伝説の世界的名馬ネアルコがパリ大賞典に参戦し、見事優勝!テシオは欧州競馬での絶対的な地位を確立したのだ。


前述のドナテッロやネアルコの大活躍によりテシオの名は瞬く間に世界中の馬産家達の間に広まっていた。
その名声の為か、1939年にはイタリアの上院議員に選ばれるほどである。

だが、ここからテシオにとって最大の悲劇が発生する。
「魔術」を編み出したテシオの全盛期に、よりにもよって人類史上最悪の戦争である第二次世界大戦が直撃してしまった事である。

実際に、それまでネアルコの売却に非常に冷淡だったテシオがパリ大賞典の4日後に突如として電撃的金銭トレードでイギリスへ売却したのは、当時の世界情勢がキナ臭くなっていた事と無関係では無かった。

1938年と言えば美大落ちチョビ髭がやらかす第二次世界大戦の前年であり、この売却はテシオにとって苦渋の決断だったと思われるが、そのままイタリアにいたら戦火に巻き込まれた可能性は高かった。*36
結果的にこの売却は後の競馬史にとって非常に良い判断だったと思われる。

また、イギリスに行く事で英国の一流繁殖牝馬を相手に配合がされたこともネアルコの幸運だった。
実際にネアルコは後述するが種牡馬としても無双する事になる。


やがて第二次世界大戦も終戦。テシオも数多くの名馬を失ってしまったが、不運な事に戦後以降はマルセル・ブサックの持ち馬が欧州競馬を席巻し、テシオは陰に隠れてしまう事になる。

しかしそれでも、英アスコットゴールドカップを制覇しイタリア最後のクラシック三冠馬ボッティチェッリやキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスや英グッドウッドカップ等に勝利したテネラニ等を生み出し、名馬を手塩にかけて作り上げるため毎年セリや牧場には彼の姿があったのだ。

生前、テシオに「あなたの秘密は?」と質問した者がいたが、その答えにこう答えている。

魔法が存在しないのと同様に秘密もありません。
忍耐強く、我慢強く繰り返すしかありません。そうすれば誰でも上手く行く事もあるだろう。
ほとんどの馬は失敗である。他にもあるかも知れないが、「水差し」の差なのだ。

と答えたという。



イル・ピッコロ

さて、テシオが自分の生産した馬の中で最高の名馬だと思っていたのは一体どの馬だろうか?

私が生産した中で最高の馬はカヴァリエレダルピーノだ。
ネアルコは確かに名馬だが真のステイヤー(最重要)ではない。
カヴァリエレダルピーノは僅か5戦だが無敗。間違いなくネアルコ以上だった。
マリオ・インチーサ(著) 天才テシオの横顔より抜粋

という逸話を残す通り、この当時は3000ⅿや4000ⅿを走りぬくスタミナを持ったステイヤーこそ真の名馬であるという価値観があった。
実際に、カヴァリエレダルピーノはイタリアのリーディングサイアーにもなっている名馬である。

さて、前述のとおりテシオは自身の生産した名馬(特に牡馬)を他国に売却し、牝馬も一定のサイクルで入れ替えていくという手法を取っていた。
一つの血統や自家生産馬にこだわらなかった事が、テシオの成功した理由かもしれない。
だが、何事にも例外はある。それがこのカヴァリエレダルピーノの血統である。

カヴァリエレダルピーノを父に生まれたのがベッリーニ
ベッリーニは通算23戦15勝を上げ、イタリアダービー制覇やミラノ大賞典を連覇。
そのままイタリアで1941年春から種牡馬生活を送っていたが、第二次世界大戦の戦況が悪化した影響で競馬が縮小・中止を余儀なくされる。
更にイタリア中のサラブレッドたちの飼料確保も困難になった影響もあり、2世代を残して1944年に他の名馬とセットでナチスドイツへ輸出された。*39
産駆が活躍した頃には、第二次世界大戦末期の大混乱により、ソ連のせいで行方不明となった悲劇の名馬の一頭だった。

第二次世界大戦中のテシオは敵国であるイギリスやフランス*40へ種付けに行く事ができず、従来であればしなかったテシオ自身の生産馬を使用せざるを得なかった。
その為、カヴァリエレダルピーノやベッリーニ等の自家生産種牡馬を「夢とロマンを求めて父系を伸ばす」為ではなく、「情勢的に仕方なく使わざるを得なかった」というのが真相だった。

そのベッリーニの数少ない仔が前項目で紹介したテネラニである。
テネラニは通算24戦17勝を上げ、二次大戦後という混沌の時代の中で父と同じくイタリアダービーに勝利。
更に1948年にはイギリスに遠征してクイーンエリザベスステークス*41にも勝利した名馬である。
この勝利は敗戦後から立ち直ろうともがいていたイタリア国民に多くの希望を与えただろう。
なお、当時ブサックらフランスに徹底的にボコされ、敗戦国イタリアにすら敗北した英国紳士らの尊厳は・・・お察しください。

「仕方なく使った種牡馬」に工夫を凝らして自国や英国の大レースに勝利するテシオの技法。
本当に、本当に第二次世界大戦がなければテシオの生産馬はどれだけ他国へ遠征し、どれだけの栄光を彼に与えただろうか・・・その最盛期に戦争が重なったのは真に不幸である。

さて、このテネラニは当初イタリアで3年間種牡馬生活を送っていたが、1952年にイギリスへ輸出。
他の種牡馬と同じくテシオの手を離れることとなった。
その年にロマネラという牝馬と交配して生まれたのが、イル・ピッコロという牡の仔馬である。

テシオは1951年にテネラニをロマネラに交配した後にイギリスに売却したが、翌1952年の春、もう一度ロマネラにテネラニを交配することを考え、*42ロマネラをわざわざイギリスに送ったという経緯がある。
このため両親・関係者共にほぼイタリアにもかかわらず、生産国はイギリスというややこしい状態なっている。*43

イギリスでの短い滞在の後、すぐにイタリアに渡ったこの仔馬はとても小柄で、牧場でのあだ名はイタリア語で「ちびっこ」の意を指すイル・ピッコロ(Il Piccolo) というものであった。
人懐っこく物を隠すなど悪戯好きな側面も見せていたという。

テシオはイル・ピッコロについて「将来ひとかどの名馬になるだろう」と予言していたが、晩年以降心臓の病に苦しんでいたテシオは、85歳になった春に遂に病状が悪化。
症状は改善する事が無く、死の床にあった。

親友のインサーチ侯爵や妻のリディアが見守る中、テシオは死の間際一言だけ親友と家族にこう伝えた。


「あの仔馬を…。イル・ピッコロを…。」


1954年5月1日土曜日の午前0時30分。フェデリコ・テシオは心不全で永眠。
イタリア競馬史の半世紀を支え続けた85年の大往生の生涯であった。
翌日、彼の死を知った友人・知人たちは病院に集まり、多くの人々が彼の死を悼んだ。
更には他のスポーツ界、政治家、財界人等々イタリアだけでなく海外からも無数の弔電が届いた。

そしてテシオの死からわずか2ヵ月後、イル・ピッコロはイタリアでデビューした。
彼はテシオの生涯でドナテッロやネアルコをも上回る史上最強馬であり、空前絶後の競争成績を残したイタリア史上最強のサラブレッドリボーであった。



テシオの死後とその後のイタリア競馬

テシオの死後、ドルメロ牧場は妻リディア・テシオとインチーサ侯爵家に引き継がれ、リディア夫人が1968年に死去してからはインチーサ家の単独経営となった。
ドルメロ・オルジアタ牧場会社は一度閉鎖の危機に直面したが21世紀現在でも馬産を続けており、当代のロケッタ侯爵の元今でもノガラやロマネッラ等の子孫たちが繋養され小規模ながら生産が続けられている。*44

しかし、テシオ亡き近年のイタリア競馬界はずさんな組織運営や売上の低迷から、度々開催がストップする事態となり、レベル低下に歯止めがかからない状態になっている。

実際、近年のイタリア産馬や調教馬で活躍したのは2001年にG1ヨークシャーオークスに勝利したスーパータッサ、2002年のジャパンカップ等G1を8勝したファルブラヴ、2004年のクイーンエリザベス2世ステークス等G1を6勝したラクティ、2006年度にドバイワールドカップ等に勝利したエレクトロキューショニスト以降、国際的な活躍を残した馬は20年近く出ていない。

また2009年にはずさんな組織運営を長年続けてきたことから、ヨーロッパ生産者基金(EBF)がイタリアを除名処分にすると発表。
これを受けて翌2010年には、サンシーロ競馬場及びカパネッレ競馬場での競馬開催を一時禁止とした。

更に2012年1月にはイタリア競馬統括機関ASSI(Agenzia per lo sviluppo del settore ippico)が、イタリア国内の全競走の賞金を一律40%もカットする方針を打ち出したが、これに反発する騎手・調教師・競馬場職員らがストライキを起こし、競馬の開催が全面ストップ。

なんとか競馬の開催は再開出来たが、2012年9月以降に開催された全レースについてイタリア農務省が「財政危機」という理由で賞金の支払いを差し止めして問題が再燃。
協議の結果「2013年3月末に賞金を支払う」と約束したが、同年4月以降も支払いは行われず、競馬開催の存続が危機的状況となる。

この現状に遂にブチ切れた欧州競馬の競走格付けを行う欧州格付委員会(European Pattern Committee: EPC)が、

「もし2014年3月までにASSIが全ての滞納金を支払わなかった場合、2014年末をもってイタリアをEPCから除名!更に国際セリ名簿基準書における格付けにおいてパート2国に格下げ*45するぞゴルァ!!!」

と怒りの表明。

しかし、それでも滞納金の支払いは行われ無かったので同年4月には遂に除名処分及びパート2国への降格が正式決定
その後、やっと仕事したASSIが同年10月に賞金支払いの条件を満たした為、どうにかイタリアの重賞レース格付けを維持することに合意し、2015年もEPCのメンバーに留まることになった。これで一安心!

…だったのならよかったが、その後もイタリア競馬界の凋落は歯止めがかからず、2019年には遂にEPCの準メンバーに正式に格下げ
追い打ちに国内で最後まで残っていたGI競走である「リディア・テシオ賞」がGIIに格下げとなり、国内のGI競走が全て消滅した。

2020年には国際セリ名簿基準書の格付けも正式にパート2国に下げられた事で、イタリア競馬の存廃問題が再度表面化。
このままではイタリアは重賞競走・・・下手したら競馬そのものが無くなりかねない姿態である。

このような危機的な状況が続くことに嫌気が差した競馬関係者が、イタリアを離れて国外に活路を求めるケースも多くなっており、世界No.1ジョッキーと称された「フランキー」ことランフランコ・デットーリ*46や、日本の通年騎手免許を取得して完全に関西人に染まっミルコ・デムーロ等も現れている。*47

しかし、2024年3月限りでの廃止が決定したマカオ競馬や同年10月限りでの廃止が決定したシンガポール競馬とは異なり、項目作成時点(2024年1月)ではイタリア競馬の廃止の計画は存在していない。

現在、様々な問題が山積みのイタリア競馬であるが、サンシーロ競馬場のスタンドにはテシオを記念するプレートが掲げられており、その碑文の最後はこう書かれてある。

世界中のサラブレッドの幸運のために、歴史が絶えずイタリア競馬にふさわしい未来を支持しますように
フェデリコ・テシオ

イタリア競馬の明日はどうなる!?


評価

交配論というのはかなり奥が深い。
専門的なものまで全部記載していたら個別記事がいくつあっても足りないため、このページには要点と簡略な理論しか言及していない。

一般的にG1はおろか1勝馬すら輩出することさえ難しい弱小零細牧場かつ競馬後進国だったイタリアから、数々の革新的なノウハウを編み出して欧州有数の馬主として名声を得た事。
また、その才能を欧州で爆発させた1930年代から死去する1954年まで当時に覇権を争った伝説の馬主マルセル・ブサックや17代目ダービー卿等に引けをとらない、あるいはそれ以上の天才だったこと。
そして、後世に様々な交配論・方法論を開拓したパイオニアであったことは語るに及ぶまい。

しかし、彼の天才的・魔術的なやり方については、真正の競馬バカしか見ない誰得項目作った作成者も混乱する程難解かつ複雑怪奇&オカルト的な方法論も多い為、ほんの一部の技法や逸話しか紹介していない。誰か追記して♡
真正の競馬バカ競馬に詳しい人物にしか理解されず、只々「凄い人」とだけ言われる風潮があるのは少し残念なところである。

様々な功績を残したテシオ夫妻にイタリアではその名誉を称えて、ローマのカパネッレ競馬場で11月頭にG2「フェデリコ・テシオ賞」が、10月末にG2「リディア・テシオ賞」が開催されている。



テシオの生産馬傑作選

余りにも名馬の数が多すぎて全て載せていたら個別記事が必要になるため、現役・繁殖で印象的な活躍をした馬を一部抜粋して紹介しよう。
ぶっちゃけテシオ三大名馬だけ抑えて置けばそこそこの競馬通にはなれるぞ!


ドナテッロ(Donatello)

生涯成績:9戦8勝
主な勝鞍:伊グランクリテリウム、伊ダービー、ミラノ大賞典

馬名の由来はルネサンス初期のイタリア人彫刻家ドナテッロことドナート・ディ・ニッコロ・ディ・ベット・バルディから取られたテシオ三大名馬の1頭であり、テシオの名声を急上昇させた立役者である。

この馬はネアルコと同様に在庫処分のたたき売りされていた名前が長い祖母ドゥッチャディブオニンセーニャから手塩にかけて育てられた名馬だった。
なお、祖母はわずか210ギニー(当時の価格で約1000万程度)で購入された模様。

実際に競走成績・種牡馬成績共にネアルコ、リボーに次ぐ優秀なもので、2歳時には伊クリテリウムナショナル、伊グランクリテリウム等に勝ち1936年イタリア最優秀2歳馬に選ばれた。

翌年もイタリア国内では無敗で、デルビーイタリアーノ、イタリア大賞、ミラノ大賞等に勝ち、フランスに遠征したパリ大賞典では惜しくも2着に入った。
パリ大賞典を最後に引退し、イタリア最優秀3歳馬に選ばれている。

本質はステイヤーだったが長距離一辺倒ではなく、伊グランクリテリウム(1500m)、伊ダービー(2400m)、ミラノ大賞典(3000m)と幅広い距離に対応できた万能の馬だった。

引退後は4万7500ポンドでイギリスに輸出されたが、種牡馬としても非常に優秀で、イギリスクラシック二冠馬クレペロ、イギリス長距離三冠馬アリシドン等の名馬を輩出した。
1953年にはイギリスのリーディングブルードメアサイアーにも輝いている。

直系子孫はネアルコやリボー程ではないがそれなりの広がりを見せ、日本では子孫の一頭リマンドが輸入され、アグネスフライト、アグネスポキタキオン兄弟の祖母アグネスレディーや日本ダービー優勝馬オペックホース、半兄にニッポーテイオーを持ち子孫にホエールキャプチャやパクスアメリカーナを輩出したエリザベス女王杯優勝馬タレンティドガールなどがドナテッロの子孫に当たる。



ネアルコ (Nearco)

生涯成績:14戦14勝
主な勝鞍:伊ダービー、ミラノ大賞典、パリ大賞典

馬名の由来は紀元前6世紀のギリシャの画家ネアルコス(イタリア語でネアルコ)に因んだとされる伝説の名馬であり種牡馬の父、「サイアーオブサイアーズ」である。

1937年にデビューしたネアルコはそこからなんと不敗の7連勝!満場一致でイタリアの最優秀2歳馬に選ばれた。
3歳になってもネアルコは国内を無双し、イタリアダービーも楽勝。古馬との混合戦ミラノ大賞典も楽勝した。ここまで13戦13勝という驚愕の成績である。

この結果に自信を付けたテシオは前年のドナテッロの仇討ちとして1938年もパリ大賞典に挑戦!
実はこの頃、無敵を誇るネアルコに対し欧米から購買の申し込みが殺到していたがテシオはそれに対し良い返答を与えず、自身の夢であるパリ大賞典に参戦したのである。

他の参戦した馬を見てみると、セントサイモンの直系であり英ダービーを制覇したボワルセル、仏ダービー馬シラ、仏オークス馬のフェリー等々の英仏が集結させた屈強な名馬が揃っていたが、この中でネアルコは一番人気だった。

1938年6月26日。ネアルコは生涯最後のレースに出走した。
ロンシャン競馬場の3000mのコースにてネアルコは好位置からレースを進め、直線で一気に加速。2着に1馬身半の差をつけて差し切り優勝!先頭でゴールした。
テシオは雄叫びをあげ、ついに自身の悲願は成就したのである。
前述のドナテッロで急上昇したテシオの名声はこのネアルコが不動のものとするのだ。

その4日後、ネアルコは6万ポンド(当時のレートで約30億円!)という当時史上最高価格で、イギリスの生産者に売却された。
僅か75ギニーの捨て値で買われ、半血馬とイギリスだけでバカにされた祖母から実に800倍もの価値となりネアルコは本場イギリスへ渡ったのである。

あれ?ジャージー規則によればネアルコは半血馬の子孫だからサラブレットでは無いので種付け出来ないのでは???
英国紳士「ネアルコの父はあのダービー卿の名馬ファロスだからノーカン!ノーカン!

種牡馬として供用が開始されたネアルコは大人気で、種付け申し込みを始めたところわずか2時間で3年分の枠が埋まってしまったというエピソードがある。
これはネアルコの競走成績もさることながら、イギリスの生産者がネアルコにセントサイモンの再来を!という夢を見たというのも大きかった。

ネアルコはその期待に見事に答え、15年連続でイギリスのリーディングサイアーベストテンに入り、1947~1949年の3年連続で英愛種牡馬リーディングサイアーに輝いた!

あれ?ジャージー規則によればネアルコはサラブレットでは無いからリーディングサイアーに輝くのはルール違反スよね???
英国紳士「『ジャージー規則』?そんな規則は…元々…ないではないか…(記憶改竄)

これだけでも大成功だが、ネアルコの真の恐ろしさは自身の直系子孫にあった。
信じられない事に彼の息子、孫、子孫はそれ以上の成績を残したのだ。

1940年産のナスルーラは後にアメリカに渡り、グレイソヴリンネバーセイダイプリンスリーギフトボールドルーラーレッドゴッドネヴァーベンド等々の大種牡馬を輩出し、競馬大国の座をイギリスから奪い取る原動力となる。

42年産のダンテはネアルコ産駒で初めて英ダービーに勝利し、後にダンテ系と言う父系を作る。43年産の全弟サヤジラオも愛ダービー、セントレジャーに勝利した。

ダンテと同期のロイヤルチャージャーはその子孫からロベルトヘイローサーゲイロードと分岐し、やがてアルゼンチンにサザンヘイロー、オーストラリアにサートリストラム、日本にサンデーサイレンスブライアンズタイム等といった名馬を輩出し血を拡大した。

そして1954年産のカナダへ渡ったニアークティックはその息子にアイスカペイド、20世紀史上最高の種牡馬ノーザンダンサーを出し、アイスカペイドからはワイルドアゲインを、ノーザンダンサーからはニジンスキーリファールノーザンテーストヌレイエフダンジグサドラーズウェルズ等々の名馬が誕生した。

これほどまでの大活躍を見せたネアルコだったが、父が代用種牡馬かつ自身が嫌う「2流のスピード馬」だったファロスだった為、テシオは活躍の裏腹に終始不満を持っていたらしい。
テシオが本当に種付けしたかったのは兄より優れた弟のフェアウェイであり、彼はテシオが理想とする馬体・実績を持つ真のステイヤーだった。
一方の兄ファロスは英G1チャンピオンステークスに勝利したが殆どの勝ち鞍がマイル~中距離の為人気が無く、フランスへ放逐された馬だったのだ。

国内で無敗を誇り、ドナテッロが敗北したパリ大賞に勝利してもその評価は変わらず、

「ネアルコは確かに良い馬さ。でもね・・・ステイヤーじゃない・・・」

という逸話が残る通り「画竜点睛を欠く」ではないが、「父がフェアウェイだったなら・・・」というもどかしさや理想と現実のギャップに苦しんだ馬でもあった*48

現在世界に存在する種牡馬の半分は、ネアルコの直系子孫であると言われている。



リボー(Ribot)

生涯成績:16戦16勝
主な勝鞍:凱旋門賞(連覇)、KG6世&QES、伊ジョッキークラブ大賞、ミラノ大賞典

馬名の由来はフランスの画家テオデュール=オーギュスタン・リボーから取ったとされる、幼名:イル・ピッコロとしても有名なイタリアサラブレッド史上最強馬

1954年にデビューしたリボーはこの年3連勝でシーズンを終えた。
しかし、かつてのセントサイモンや日本のオグリキャップと同じように彼はクラシック登録がされていなかった。
その為、3冠レースが走れないリボーは別の路線を走ることになる。

このクラシック登録がされていなかったのはテシオの珍しい失敗の一つとも言われているが、テシオ自身も「その資質と優れた馬格は凡馬ではない」と内に秘める素質を認める一方、ちびっ子(イル・ピッコロ)と名付けられるほど小柄だった為にクラシックには間に合わないと判断したテシオが登録しなかったとされる。

だが、クラシックレースに囚われない事により、リボーは国内外の古馬大レースへ自由に参加する事になる。その際たるものが、あの凱旋門賞である。

1955年の出走馬は前年の仏2歳代表馬ボウプリンス、仏セントレジャー馬マシップ、仏ダービー馬ラパス等地元フランスの名馬がズラリと揃っていたが、レースでは2番手を先行しつつ最終コーナーで先頭に立つとリボーはそのまま後続を引き離し、ゴールではボウプリンスに3馬身差をつけて余裕の勝利を決めた。

この凱旋門賞の勝利は亡きテシオの悲願でもあった。英ダービーや仏ダービーを除けば1923年の初参加以降、有力馬を何度も参戦させてもなかなか取れなかった夢のタイトルである凱旋門賞*49
その夢を自身最後の産駒で成し遂げたのだ。死してなお、テシオの影響は凄まじかった。

しかもこの僅か2週間後にイタリアの大レースG1ジョッキークラブ大賞で、前年の勝ち馬ノルマンを相手に15馬身差圧勝するオマケ付きである。
だが、この時点でのリボーの強さには?マークが付けられていた。

「英ダービー馬や英オークス馬が不参加だったからメンバー運に恵まれた」
「展開やレースレベルに恵まれたラキ珍」

と、ジョンブルの世迷い言で有名なイギリスから難癖を受けたリボーは凱旋門賞後も引退せず、もう一年現役を続けることが決定。
55年のメンバーも十分強い面子だが、どうもイタリア産馬は不当に評価が低く舐められる傾向にあるのだ。
だが、皆様安心して欲しい。




1956年になってもリボーはG1ミラノ大賞典を含む4連勝!もはやイタリアではG1ですらリボーの公開調教やウォーミングアップの場所と化していたのだ。
そして、その強さに疑問符をつけた難癖付けのジョンブル達がいるイギリスを分からせるべくキングジョージ6世&クイーンエリザベスへ参戦。
これを当時のレース最高着馬身差の5馬身の大楽勝!見事イギリスとジョンブルを分からせ自身の評価を覆した。

そして不敗の15連勝で迎えた2度目の凱旋門賞。
参戦した馬は前年の凱旋門賞にも出走した愛ダービー馬ザラズーストラや、マルセル・ブサックの名馬である仏オークス馬アポロニア等を筆頭に各国のクラシック勝ち馬が7頭も出走。
更には翌年の凱旋門賞馬オロソ、初めてアメリカから遠征したフィッシャーマンキャリアボーイ等も参加した歴代屈指のメンツが揃ったレースとなった。
リボー?この中で単勝1.6倍の圧倒的1番人気だったよ。

屈指の強敵が揃ったレースだったが、リボーはそれを物ともせず予定通りの勝ちパターンでレースを進めた。
リボーは第1集団の最後尾から、3番手を追走。そして第4コーナーを回って最後の直線へ!
この時、先頭集団は中々リボーが前に来なかったのでほんの一瞬勝ちを確信した者もいたが、リボーは馬なりからたった2完歩*50で超加速し、あっさりと先頭へ抜け出して各馬の希望を打ち砕くと、騎手のムチすら使わせずに直線でごぼう抜き!
およそ6馬身?!の差をつけて、楽々とゴールへ飛び込んだ。*51

今でもこの最大着差の記録は破られておらず、そのレースぶりは「発射台から打ち出されたミサイル」と形容される程の勝ち方であり、「今世紀最高の名馬」との名声を得たのだ。
このレースを最後にリボーは引退し、種牡馬となった。

種牡馬となったリボーはイギリスの18代目ダービー卿*52の元、リース契約で供用された。
が、先代が残した不採算部門整理と経費縮小の為わずか2年で祖国イタリアへ返却され故郷ドルメロ・オルジアタ牧場で供用された。

だが、故郷の種牡馬生活は僅か1年で終わりを迎える。
翌1960年には米国の事業家兼馬産家のジョン・W・ガルブレイス氏が組んだ種牡馬シンジケートに合意し、5年総額135万ドルのリース契約が締結。
リボーはガルブレイス氏が所持する米国ケンタッキー州ダービーダンファームに5年間輸出された。

しかし、5年間のリース期間が満了してもリボーは祖国には戻らなかった。
その理由は本馬の気性が祖先セントサイモンの血が暴走した為か米国に来てから極端に悪化した為である。
幼駒時代からいたずらっ子で現役時代も中々気性が激しかったが、アメリカの飯や水がマズかった為か環境の変化や加齢等の理由により現役時代以上に手が付けられない程気性難と化し*53、保険会社が保険契約を受け入れなかった事もあり、リース契約は延長された。

後に買い取られたリボーはそのままダービーダンファームに留まり、1972年4月に腸捻転を患って20歳で他界するまでアメリカで過ごした。

種牡馬時代は気性難発生というアクシデントはあったものの、欧州と米国のいずれでも優秀な種牡馬成績を収め、1963・67・68年の英愛首位種牡馬に輝いた。
産駒にはラグーサトムロルフグロースタークヒズマジェスティ等の名馬を輩出し、リボー系と言う父系を作るまでに発展した。

更にトムロルフからは孫にアレッジド、ヒズマジェスティからはプレザントコロニーと言った名馬も誕生し、日本でもグロースタークの孫バンブーアトラスとその息子バンブービギンや、プレサンドコロニーの孫タップダンスシチーがリボーの子孫にあたる。

なお20世紀イタリアの競走馬ランキングでは当然のごとく1位に輝き、なんとイタリア最大のスポーツ誌ガゼッタ・デッロ・スポルトが発表した20世紀イタリアのスポーツ選手では、多くの人間の選手を抜いてリボーはなんと第4位の位置にあった。

米国ダービーダンファームに埋葬された本馬の墓には、息子グロースタークやヒズマジェスティも共に埋葬されている。

追記・修正は自国のダービーを10回以上勝利してからお願いします。



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最終更新:2024年02月05日 10:42

*1 サラブレッドの輸入自体は1808年に行われていたが、正式な統括団体が出来たのが1880年、初めてのダービーが開始されたのが1884年と競馬先進国のイギリス・フランスから100年近く遅く始まった

*2 日本だと宝塚記念に相当するイタリア最大の大レース

*3 中世までは学校に通うのは貴族出身の子だけだったが、19世紀以降になると富裕層の学校が必要になり、そうして産まれたのが寄宿舎=パブリックスクールである

*4 主に人文学と社会科学の両方で教育を受け、芸術にも情熱を注いでいたそうな。また、当時最先端のイギリスの自然科学者であり、あの進化論で有名なチャールズ・ダーウィンにも多大な影響を受け、この思想が後の魔術的な馬産の源流になったらしい

*5 後に起こる第一次世界大戦にもイタリア陸軍に勤務するが、この頃には長らく軍から離れており、既に46歳であった為いわゆる名誉軍人であったと思われる。階級は陸軍大尉だった

*6 当時の砲兵は大砲を運ぶために馬が使われており、そこでテシオは馬を知り、後に情熱を持つようになった

*7 学生時代に憧れだったチャールズ・ダーウィンを追うように南米、中国、インド、アメリカ等に行った

*8 この時の経験で後に自分の所有馬や妻の肖像画を描き、牧場の家具を自作した

*9 なお、牧場は元々リディアの父であるセッラメッツァーナ侯爵の別荘地だった。余談だがドルメレットやマッジョーレ湖はローマ時代から観光地、別荘地であり今でも大きな家や別荘が点在している

*10 現伊1000ギニー

*11 一般的にダービーは生涯に一度取れるかどうかと言われる程難しいはずだが、いくら当時競馬後進国のイタリアであっても10年弱でダービー制覇はやっぱり天才だったのでは?

*12 いわゆるPDCAサイクル

*13 ただし、後の名馬兼名種牡馬リボーだけは例外で4代目の父まで自家生産馬である

*14 主にセール等で競走馬の売却や種牡馬の種付け料等で利益を得て運営される生産者の事

*15 直近の例で言うとスワーヴリチャードの例が分かりやすいだろう。2020年の併用開始から23年までは200万円だった種付け料が、産駒の出来や2歳戦の活躍によってなんと7.5倍の1500万円まで高騰した

*16 世界的な馬主であるアーガー・ハーン3世の持ち馬であり、自身は英ダービー等を制覇し名馬ブランドフォード最良の後継種牡馬となった競走馬。後にテシオ3大競走馬の一角であるドナテッロを筆頭にマームード、ワーラウェイ、ジェットパイロット等の名馬を輩出したやべーやつ

*17 テシオ自身が史上最高のステイヤーと評価した競走馬であり、世界各国のリーディングサイアーを4頭も生んだ伝説の母ちゃんプラッキーリエージュを筆頭に、後に説明するキャットニップや英ダービー馬スピオンコップ等を輩出したやべーやつ

*18 テシオは個人的な道楽や趣味では無く、サラブレッドのビジネスだけで生活しようとした最初期の人物でもあった。また、家族やスタッフを養いつつ大資本家や貴族らと競ってサラブレッドの研究や生産を続けるためには、素早く生産馬に大レースで優勝して貰って賞金を稼ぎ、生産馬を売買して資金を得る必要性があったという世知辛い理由もあった

*19 この理論が浸透しているのかは定かではないが、欧米のスターホースは日本と比べると「神経的エネルギー」を消費させないよう引退するスピードが速い・・・のかもしれない

*20 三代、四代、五代内等で同じ祖先を持つ雄・雌による交配を差し、「系統繁殖」とも呼ばれる方法。インブリードと比べると効果の大きさや即効性は劣るが、安全に優秀な遺伝子を受け継ぐ可能性が高く、現代でもドイツ競馬で盛んに行われている手法

*21 実際に名馬ネアルコの母であるノガラの父アヴレサックはセントサイモンの2×3という強いインブリードを持っている

*22 簡単に言うとレキシントン等の「由緒の怪しい」アメリカの血を引いているサラブレッドはルールでサラブレットとは認めない!という「英国独自の」ルール

*23 当時の1ギニーは約5万円相当

*24 当時はセントサイモン系が大流行しており、余りにも短期間かつ爆発的に増えすぎてしまったせいで交配相手に窮する事になってしまった程勢力を拡大させていた

*25 キャットニップと同じ父を持ち、世界各国のリーディングサイアーを4頭も生んだ伝説の母ちゃん

*26 ネアルコの半弟で伊ダービーを20馬身?!差で圧勝した名馬

*27 テシオは生産馬の命名に際して、ドイツのように母馬の頭文字を次代に受け継ぐ手法「イニシャルライン」を好んだ。また、彼は美術愛好家でもあったため歴史上の芸術家の名を借りてくる事もあった。あのネアルコもリボーも芸術家の名前が由来である

*28 その成功率は実に一般生産者の20倍とも言われている

*29 いわゆる現代の社台ファームやクールモアグループのような「ベスト・トゥ・ベスト」なやり方

*30 実際にメジロ牧場の天皇賞馬も父子制覇は3代目のマックイーンで途絶えてしまった。4代連続父子GⅠ制覇でも、グレード制導入後は2021年のスプリンターズステークスを制したピクシーナイト(グラスワンダー→スクリーンヒーロー→モーリス→ピクシーナイト)が初である。それほど難しいのだ。

*31 日本語では「高原状態」と訳され、高い水準が恒常的に続く事を言う経済学用語。以下の例は多少の違いはあるが、いずれも「最高の馬は最高の馬から生まれる」という信念に基づいて配合を行った生産者たちを指している

*32 これにより、冬の間はドルメロ牧場から温暖なオルジアタ牧場に生産馬を移す、いわゆる二元育成と言われる現代の牧場がやっている近代的な馬産方式を導入出来た

*33 遠征自体はその前から行っていたが、結果を残したのは独バーデン大賞に勝ったスコーパスや仏クリテリウムメゾンラフィットに勝利したアペッレぐらいしかいなかった

*34 当時は凱旋門賞よりこちらが欧州最大のレースだったのだ

*35 ライバルである17代目ダービー卿の生産馬であり、かつてはイギリスのリーディングサイアーになったほどのやべーやつだったが、全弟にこれまた伝説の名馬であり競争実績は自身を遥かに上回るフェアウェイが出た事でこの当時フランスにドナドナ・・・輸出されていた

*36 実際にイタリアは戦火に見舞われ、第二次世界大戦で敗北した

*37 少なくともテシオがムッソリーニのファシズムに共感したという事実は無い

*38 実際にかつてのロシア帝国は、当時全世界の1/3の馬を所有していた馬産大国だったが、ソビエト連邦に政体が変わって以降競馬のレベルは飛ぶ鳥を落とす勢いで低下し、伝説の名馬シーバードが世界一の評価を受けた第44回凱旋門賞で5着に入賞したアニリンぐらいしか欧州で結果を残す馬を生み出すことは出来なかった

*39 この時にナチスと交渉し、イタリア競馬関係者の徴兵の免除やサラブレットの飼料提供等を約束させた

*40 ナチスドイツに敗戦して大戦末期まではドイツの衛星国ヴィシーフランス政府

*41 現キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス

*42 全兄弟馬を作る事に否定的だったテシオもカヴァリエレダルピーノの血統だけは例外なのだ

*43 テシオは種牡馬を自らの手元に置かない主義であった為、このような面倒くさいケースは他のテシオの生産馬にも結構見られる

*44 2019年にイタリアオークスを制したラメールは同社の生産馬である

*45 格付けが下がった場合、イタリアの重賞及びG1の価値が低下や、種牡馬・繁殖牝馬の価値の下落など様々な悪影響を及ぼす。なおパート1から2への降格はウルグアイ以来の2例目であり欧州では初の事態であった

*46 1970年生まれで、50代を越えた今なお第一線で活躍するベテラン騎手。その騎乗技術は社台ファームの吉田照哉氏が「デットーリが乗ると5馬身違う」と評するほどで、ラムタラや本記事でチラッと触れたエレクトロキューショニストやドバイミレニアム、ステイゴールドとの因縁で知られるファンタスティックライト、凱旋門賞2連覇を含むGⅠ11勝を挙げた女傑エネイブルなど数々の名馬に騎乗してきた。一旦は2023年を以って引退予定だったが年末にそれを撤回し、2024年からはアメリカ・カリフォルニア州を拠点に現役生活を続ける予定である。

*47 デムーロ曰く「現在のイタリアでは賞金の支払いが半年以上も遅れていて、みんなどうやって生きているのか心配になる。昔からイタリアは賞金が遅配していて、僕がいたころは2カ月遅れていた」「賞金が未払いなのにその賞金にかかる税金の請求が先に来た」との事。因みに日本ではレースの翌日に賞金が振り込まれる。

*48 なお、理想の父のはずだったフェアウェイの父系は昨今の競馬に適応できず、現代ではアルゼンチンやオーストラリアにわずかに残る程度と滅亡まで風前の灯火なのを見ると本当に逆だったかもしれねェ…

*49 特に1948年の凱旋門賞にはイタリア大賞等に勝利したトレビサーナ、イタリアオークス等に勝利したアストルフィーナの当時の傑作馬二頭で挑戦したが、トレビサーナは最下位14着、アストルフィーナは13着とまさかの大惨敗。凱旋門賞は当時79歳のテシオに最後の情熱、夢を勝ち取る為に人生を燃え上がらせたレースだったのだ

*50 完歩とは馬の歩幅の単位。1完歩=約7メートルから8メートルといわれている。なお、サラブレッドは平均で1ハロン(200メートル)を28から30完歩で走破できる

*51 なお、写真では明らかに6馬身より大きい為、実際に付けた着差は8馬身半差以上ともされる

*52 名馬産家でありテシオのライバルであった17代ダービー卿の孫エドワード・ジョン・スタンレー卿である

*53 他の種牡馬が視界に入ると嫌がって暴れる。近場を牛の群れが通過した際に大暴れして群れが視界から消えるまで決して落ち着かなかった。等の逸話が伝わっている