登録日:2024/01/17 (水曜日) 01:52:01
更新日:2025/04/03 Thu 00:15:38
所要時間:約 60 分で読めます
フェデリコ・テシオ(Federico Tesio 1869年1月17日- 1954年5月1日)は、イタリアの生産者兼馬主(オーナーブリーダー)、騎手、調教師、上院議員、芸術家、画家、家具職人、ギャンブラー、イタリア陸軍士官である。兼任職業多すぎ
当時近代競馬が始まったばかりのイタリアで、年間生産数僅か10数頭の零細牧場から世界的名馬を生産した伝説の馬主。
同時代のライバルであるフランスの
マジキチ成金実業家
マルセル・ブサックやイギリスの貴族の
ボンボン17代目ダービー卿と覇権を争い、主な記録としてデルビーイタリアーノ(通称イタリアダービー)を通算
22?!回、イタリアオークスを通算
11回、ミラノ大賞典を通算
22回、凱旋門賞は通算
2回優勝等を筆頭に多数のG1を総なめした。
一般にハイリスク&ハイリターンとも言われる馬産で、零細牧場から名馬を大量に排出する魔法やチートを使ったような前代未聞の手法を人々は畏怖し、「ドルメロの魔術師(Il mago di dormello)」と異名された競馬界伝説の偉人。それがテシオである。
彼はなぜ前代未聞の偉大な栄光を築き上げだろうか?
フェデリコ・テシオは1869年1月17日にイタリアのトリノで生まれた。
実家はかなり裕福な家庭だったが、不幸にもわずか6歳で両親を亡くし、両親の遺産は
管理人に預けられてしまい、学業と軍役を終えるまで使うことが出来なかった。
モンカリエーリの寄宿学校とフィレンツェ大学で計13年間学んだ後、
イタリア軍 第13騎馬砲兵隊に入隊。
イタリア軍では騎馬砲兵隊の少尉として数年間軍務に励んだが、就役期間が終わるとすぐに退役し両親の遺産を受け継ぐ。
退役して無職になったテシオは相続した遺産を貰うとまさかの
豪遊っ・・・!
ある時はふらっと世界旅行に出掛け、ある時はスッカラカンになるまでギャンブルや酒に溺れたり、画家や芸術家に憧れて絵を描いたり家具を作ったり、アマチュア競馬で障害レースの騎手をしてみたりと、この時には「競走馬のブリーダーになりたい!」と漠然とした夢は持っていたものの、自由気ままな
ニート生活を楽しんでいた。
そんなテシオの転機はニート生活に飽きた1898年に、亡くなった父の親友であったセッラメッツァーナ侯爵の娘であるリディア・フィオーリ・ディ・セッラメッツァーナ(Lydia Fiori di Serramezzana)との結婚である。
リディア夫人はテシオと同じく馬に情熱を持っている方で、二人はすぐに意気投合し結婚。
同年、テシオはリディア夫人と一緒にミラノ北部ノヴァーラ州ドルメッレットにあるマッジョーレ湖の畔の近くにドルメロ牧場という小さな牧場を開いた。
彼はこの牧場を拠点として世界中を放浪したニート生活で培った独自の方針でもって、サラブレッドの生産を開始した。
伝説の偉大な馬主。しかも「魔術師」なんて
中二なあだ名も付いているからここから
チートみたいな手法でG1を勝ちまくり、誰もが拝むような伝説の一歩がスタート!
…となるかと思いきや、この時掲げた方針は・・・
「一流の繁殖牝馬に一流の種牡馬をかけ合わせる!これならダービーも余裕っしょ!」
という現代の社台やクールモアも唸らせるシンプル・イズ・ベストの方法論であった。
私の目的は、いかなる距離においても最短タイムで最高重量を負担しうる競走馬を生産・育成することであった。
この結果を勝ち得ることは困難だが、絶対に不可能ではないと私は思っていた。
なぜならば、私はニート生活で世界中の沢山の馬を見ていたし、沢山の本を読んでいたからだ。
私は自分がいろいろなことを知っていると思っていた。
当時の心境を自書にてこう残すテシオは自信満々で競馬界に殴りこんだ。
このときテシオ29歳であった。
だが、現実はそう甘くはなかった。
実際にテシオが周囲に認められる結果を出すには、なんと10年以上の歳月が必要だった。
その当時の心境をテシオは次のように語っている。
自負心は、間もなく失望に変わっていった。
成功に対する私の処方は、私の競争相手の永続的な成功に対しては全く役に立たなかった。
真相は、私がたくさん見たり読んだりしたにも関わらず、私はまだ反省することを・・・
つまり、なぜそうなるか?という理由について省みる事を学んでいなかったからだった。
初めてテシオの所有馬が重賞を勝ったのは実に開業から7年後の1905年であり、牝馬ヴェネローザのエレナ王妃賞だった。
イタリア最大のレースにして初G1制覇であったミラノ大賞典を勝ったのが1909年。
イタリアダービーの初勝利が1911年である。
1898年に開業してから初G1制覇まで実に11年という長い年月をかけていたのだ。
当時のイタリアの
サラブレッド生産頭数は年間約300頭前後だったので、生涯で最大でも年間20頭以下しか生産してないテシオであっても、もっと勝てそうなものである。
簡単に言えば、
ニート生活終了直後のテシオの配合や方針は間違っていたのだ。
この言葉は一見至極当然もっともらしく聞こえるが、いったい何をもって一流というのだろうか?
テシオは確かに裕福な両親から遺産を受け継いだが、後のライバルであるイギリス名門貴族出身のボンボン17代目ダービー卿やフランス有数の戦争成金大企業家であるブサックと比較すると正に雀の涙程度の金銭しかなかった。
ここで「何をもって一流とするか」という問いに立ち返ってみよう。血統?競走成績?確かにそれも「一流」を示すステータスである。だが、そうした「一流のサラブレッド」は総じて非常に高額なのだ。
そんな訳もあったし、仮に金銭があったとしても競馬後進国のイタリア人に良血馬を売ってくれる物好きな人物は皆無であった。
当然何年もニート生活していたテシオには手に入る可能性も極めて少なく、買えたとしても非常に高額な金額を吹っ掛けられてしまったのだ。
これにより、テシオは当初の方針を転換して「1流のサラブレットを1から作る」という方針へ変更する。
テシオ、及びドルメロ牧場の最初の20年間は理論の確立や結果を出す為の準備時期だったと言える。
だが、この試行錯誤によって後に「魔術師」と欧州から恐れられる馬主となるのだ。
「血統だけでレースを勝つことはできない」これはテシオが実際に残した名言である。
だが同時に、「調教は素質を伸ばすことはできるが、新たに素質を創り出すことはできない」
という名言も残している。
後に説明する超一流馬を生産したテシオは、前述のとおり祖国イタリアのドルメロ牧場を本拠地とし、そこにはほとんど種牡馬を置かなかった事で知られている。
彼は生産馬を走らせた後、その内成功したごく一部の牝馬だけを牧場に戻してその他を全て売却していた。
その為、テシオは毎年わざわざ繁殖牝馬の約半数を
イギリスやフランスへ持って行き、残りを本国イタリアの他牧場へ送ってそれぞれの種付けを行っていた。
こうした形態の生産者を、一般に「
アウトサイド・ブリーダー」と呼ぶ。
だが、少し考えてみればこれは不思議な事だ。
普通の零細牧場ならともかく、数多くの超一流馬を生産した本人がそれらの種牡馬を何故か自身の牧場に繋養しなかったからだ。
実は、この不思議な点にこそテシオの偉大な成功への鍵である。と、世界中の競馬バカ多くの血統史家が指摘している。
テシオは主に牝系とインブリードに着目した配合論を持っていたが、その理論を実践する為にリスク覚悟で名馬を生産せず、むしろ逆に、
「失敗のリスクを徹底的に抑えながら、可能な限りの成功を目指す」
という手法で名馬を生産していたのだ。
そもそも、馬産とは投機・ギャンブル的な色が濃いハイリスク&ハイリターンな事業である。
夢のような成功がある反面、たった1つの失敗が多くの連鎖的不都合を招いて悲惨な状況に追い込まれるという
この人のような事態も充分にあるのだ。
その為永遠に成功し続ける事は奇跡に近く、Plan(計画)→ Do(実行)→ Check(確認)→ Act(改善)を回転し続けるためには、幾重もの危機管理が必要となる。
それこそ、自分なりの方法論を持ちながら常に自らの現状と世界の変動に目を光らし、起こった危機に対して適切な処置を取り得たものだけが競馬界で生き残れると言っても過言ではないのだ。
ここでは実際に彼の手法のうち、配合に関するものをいくつか挙げてみよう。
これで君もダビスタ・ウイポ初心者卒業だ!
①牧場に自家生産種牡馬を置かない
せっかく大活躍した自家製種牡馬を他所に売るなんて!と思うだろうが、テシオは「身贔屓して判断を狂わせる」リスクを事前に無くし、冷静・客観的に配合する事が重要だと説いている。
自家生産種牡馬を置かない方法は他所から種付け料を貰う等の恩恵を独占できないデメリットがあるが、配合において可能な限り幅広い選択を可能に出来る上、所有種牡馬の急死や病気、生殖能力の不備等々の不測の事態も回避できる。
つまりは「こだわりを捨てる」事を最重要視しているのだ。
さらに柔軟な方法として、自家製の牝系にも必要以上にこだわらない事。
なんなら適度に売却して新しい牝系の導入も積極的に行う事も推奨している。
②人気種牡馬・流行系統にこだわらない
社台ファームやクールモアグループのようなマーケット生産者ではない事が前提であるが、テシオは人気の種牡馬・流行系統「だけ」にこだわらない馬産をする必要性を説いている。
テシオにとって流行血統とは「虚像」であり、「流行血統に大金を出して買いあさるのは愚かな事だ」という名言も実際に残している。
特に種牡馬はちょっと活躍馬が出たらすぐに価格が高騰しがちな為、それに惑わされず自分の信念に沿った馬産をする事が重要である。
逆に不人気、零細系統種牡馬は種付け料も安く、馬のポテンシャルや配合次第では大物も十分期待できるので、可能性を絞らずに柔軟な馬産を行う事を推奨している。
③スプリンター種牡馬ばかり使わない(特定の能力に特化した種牡馬だけを使わない)
(テシオ自身がダービーやクラシックレースに並々ならぬこだわりがあり、存命だった当時は急激なスピード化や長距離レースの距離短縮や減少が進行中といった事情もあったが)
テシオ曰く、「強い馬を作る為にはスピードの導入も絶対に必要だが、馬産の基礎基本は「スタミナ」である」と述べるようにスピード特化の配合は絶対に行わなかった。
他にテシオは「一流馬の血統には近い祖先に必ず一流のスピード馬がいる」と言う名言を残し、スピードの導入は祖先からのインブリードで補う配合で成功した為、持久力のないスプリンター種牡馬は絶対に配合しなかったのだ。
ただし、
連続して勝利するためには、血統における『持久力』には1200m~1600mの距離を得意とする一流スプリンターの血の活力が必要である。
偉大な馬を生産しようと思うのなら、(中略)その血統表に1600m以下の距離に優れた血を持っていなければ、卓越した素質を持った馬を生産することは困難である。
という発言から分かるように、決して「スタミナ偏重」の配合では無かった事も留意すべきである。
要するに、尖った能力を持つ種牡馬「ばかり」使う事は結果的に一流の名馬作りから遠回りになる事や急な環境変化に適応し辛い(レース距離の変更や馬場の変更等)為なるべく避けて、「バランスの良い能力を持つ馬の生産」を行う事の重要性を説いている。
実際に彼が理想とした馬は、豊かなスピード・スタミナ・精神力(底力)を有した
セントサイモンや
ブレニム、
スペアミント等のような万能型の馬だった。
④2歳時から活躍出来る種牡馬・繁殖牝馬を用いる
特にテシオのような少頭数・零細な規模で運営される軍団には、持っている馬の成長を待つ余裕は(金銭的も含めて)殆ど無い。
その為、資金の回転をスムーズにする為にもすぐにレースに出して賞金を稼ぎ、種牡馬・繁殖牝馬として繋養・売却する等にも早熟性は絶対に欠かせないのだ。
また、これは若干オカルトスピリチュアルな話題だがテシオはサラブレッドの「神経的エネルギー」を高める事にも力を入れた。
これは「競走馬としての現役が長く、沢山レースに出た馬の仔 (特に種牡馬) は仮に欠点もなく発達した能力を持っていても、その子孫は「神経的エネルギー」が不足している為レースに勝つことは出来ない」という発言もあり、理想は3歳限り、どんなに長くても4歳までには現役を引退させて繁殖に回す事を推奨している。
⑤生産馬に極端なインブリード馬を作らない
インブリードは確かに一定の効果があるが、デメリットも多い。
よって、インブリードゆえの虚弱体質・気性悪化・繁殖能力不全等々のリスクは最初の段階から回避する。
その代わりに血統の後半(4代目以降)に多数少種のラインブリードを配置する事を心掛ける。
ただし、極端なインブリードを持つ種牡馬でも馬体や気性に異常がなく繁殖能力もあれば種牡馬自体に問題はないので利用する。
⑥全兄弟や全姉妹はつくらない
仮に「
完璧で無敵の馬」が輩出できる確信があっても、一つの配合だけにはこだわらない。
色んな種牡馬・繁殖牝馬を試してみよう!
こうしてテシオの配合論を見ると、そこにはリスク管理の徹底した馬産こそが成功の秘訣という真実である。
このようなリスク管理の徹底した手塩にかけた馬産を行う事でテシオは少しずつ、着実に結果を残すことに成功した。
また、徹底したリスク管理と同時並行で行った手法が繁殖牝馬の改良であった。
前述の通り、テシオの資金は名門貴族のボンボンや成金と比べると非常に限られていた。
その範囲で良血かつ優秀な繁殖牝馬を揃えるというのは、普通に考えれば
どう考えても絶望である。
ではそれにテシオはどう対処したのか?
「買うのが難しい?ならつくって
あそぼしまえばいいじゃない!」
という解決策だった。
実例を挙げると、テシオは1915年のイギリスの繁殖牝馬セールでキャットニップという繁殖牝馬を購入した。
父は英ダービー馬のスペアミント。母は英1000ギニーに勝ち、英オークス2着のシボラという中々の良血だったが、自身の成績は10戦して1勝という冴えない成績でおまけに馬体もガリガリに痩せ細っていた馬だった。
が、それよりも特徴的だったのは母シボラから続く母系がいわゆるアメリカ土着血統出身だった事。
しかも彼女はアメリカの伝説的種牡馬レキシントンの血を引いていたのだ。
だが、当時のイギリスでは「
ヤンキーの三流血統出身とかwww」というほど馬鹿にされていた事。
おまけに1913年に制定された
伝説の無能規則ジャージー規則の適用もあり、彼女はイギリスだけではサラブレットとして認められず、ひたすら冷遇された馬だった。
その為、付けられた値段は僅か75ギニー(現代の日本円にして約375万円)という捨て値同然のたたき売りで売られていた在庫処分品だったのだ。
だが、テシオはアメリカ母系を持つキャットニップを違う面から評価していた。
最も評価されたのは、キャットニップが当時大流行していた
セントサイモンの血を
一滴も引いていなかった事や、伝説の名繁殖牝馬
プラッキーリエージュと血統上に似た特徴を持っていた事を見出した事だった。
テシオも後のライバルであるブサックと同様に早い段階からアメリカ土着血統に着目しており、実際に最初にG1ミラノ大賞典を勝ったフィディアという馬もやはりアメリカ血統の母から生まれている。
テシオは欠点の無いような馬を買う一方で、キャットニップのような可能性を秘めたお買い得な馬も見逃さないよう毎年のように(なんと自身の死の寸前まで?!)欧州のセールに参加していたのだ。
こうしてイギリスの生産者たちから、「イタリア人ブリーダーが走りそうもない半血母系から生まれたガリガリの安馬を買っていった」と
後の運命に噛みついた馬のように大笑いされながらキャットニップはイタリアへ輸入された。
フラグかな?
イタリアに来たキャットニップは前述のリスク管理方法に沿って少しずつ強化され、ネラディビッチ、ノメリーナ、ネシオテス、そしてネアルコとニコロデラルカの母ノガラと立て続けに活躍馬を送り出した。フラグ回収早すぎぃ!
やがてキャットニップから始まる牝系は通称「
テシオのNライン」と呼ばれ、その血はネアルコを通じて世界中に広がり、牝系は後にドイツに渡り10戦不敗の伝説的名牝
ネレイデや、
スーパークリークの父
ノーアテンション等々を輩出する名門血統に
手塩に掛けて育て上げたのだ。
このように、彼の手法はそのほとんどすべてが予測不能の失敗から受けるダメージを最小限にとどめる機能が備わっており、それゆえにわずかな頭数の生産馬からコンスタントに一流馬を出し続ける事が出来たと考えられる。
小さな牧場にとってはたった1つの失敗が致命的なものになりうるので、これらは特に初期のテシオにとって必須の手法であった。
が、裏を返せばこうした危機管理的な方法論さえ整備されていれば、血の入れ替え等の点で大牧場より非常に有利であると言えるのだ。
テシオの採った方法は、ただ目先の流行血統を追い続けて生産する場合と比較すると、必ず勝つ事は出来ないが圧倒的に安定し、リスクやコストの小さい戦い方だということは間違いないと思われる。
実際にテシオは、
ライバルたちが10のうち9の失敗をするならば、私は8の失敗で留めるように努力する
という名言を残している。
テシオはいわゆる2流・3流と低い評価をされた安価な種牡馬や繁殖牝馬から、驚くような名馬を生産した。
それは金銭的な余裕等も理由にあったが、1つの興味深い事実があったからだ。
イギリスにもアメリカにも(そして日本にも)父から子というつながりで、ダービー馬が3代を越えて続いた記録はない。
また、どんな国にも母から娘へという関係でオークス馬が3代を越えて続いた記録はない。
サラブレッドにおいて名馬とは、牡馬にせよ牝馬にせよこのパターンから外れている。
遺伝的優性が固定され、その遺伝が「確実になったに違いない!」と思われたまさにその時それは姿を消してしまう。
エイブラム S.ヒューイット著 名馬の生産―世界の名生産者とその方式より抜粋
この事実はテシオ自身も著書で言及しており、競馬界には3代までなら続くが「
4代目以降は続かない」という法則がある。
ドバイミレニアム系? あいつらも一応ジャック・ル・マロワ賞制覇は3代目までだったから……。
この他にも、
歴史的に見ると、プラトー的(高原的)な牧場は偶然とみなすにはあまりに一様に失墜している。
例を挙げるとフランスの
マルセル・ブサック、1960年以降のカルメットファーム等の名を付け加えることができる。
「高原的」生産者とは対照的に、17代目ダービー卿やフェデリコ・テシオといった「改良(ウェーヴ)的」生産者、もしくは「弾力(モメンタム)的」生産者というものがある。
彼らが大きな成功を収めたのは、クラシック級の成績と血統を持った牝馬をクラシック級の成績と血統を持つ種牡馬と配合する事(ベスト・トゥ・ベスト)に基礎を置いたためではなかった。
高原的生産者の牧場はいずれ失墜するが、彼らの牧場(ダービー卿、テシオ)は改良パターンそのままに、最後まで失墜することはなかった。
エイブラム S.ヒューイット著 名馬の生産―世界の名生産者とその方式より抜粋
要するに最初期のテシオやブサック、現代の社台、クールモアのような名馬に名馬を掛け合わせるストロングスタイルは結果が出ている内は強いが、一度コケると立て直しが非常にし辛いという事実である。
この事例をニート生活で勉強していたテシオは、後にパトロンを見つけて金銭的に余裕が出来た時期でさえもリボーなどのごくわずかな例外を除いて「一流」の血統は配合しなかった。
縛りプレイがしたかったのではなく、「実例があったからしなかった」のだ。
前述の馬産方法を編み出したテシオの生産者としての実績は、1910年代後半頃から明らかになってくる。
G1初勝利から10年が経過した1919年から23年にかけて、テシオはなんと5年連続でイタリアダービー優勝という大快挙を成し遂げる。
実際に1920年以降からはイタリア国内のダービーや他の大レースは出場したら勝って当たり前になり、実質テシオの運動会状態になっていた。
また、1932年からはテシオと共同で
サラブレッド生産を行った盟友であるインサーチ侯爵が正式に共同経営者になったおかげで資金面のバックアップも完備!
牧場も新たに「
ドルメロ・オルジアタ牧場会社」(Razza Dormello-Olgiata)となり生産規模も拡大。
金銭的負担が無くなった事で柔軟な経営と余裕が出来、テシオは海外の大レースへの遠征を決断する!
遂に1937年には当時世界有数の国際レースであったフランスのパリ大賞典に、後のテシオ3大名馬の一頭である不敗のイタリアダービー馬ドナテッロが参戦。
このレースは半馬身差で惜しくも敗北したが、これは欧州中にテシオの名声を広げる効果があった。
それまではいくら勝っても「所詮はイタリアのお山の大将」という扱いがせいぜいだったのが、ドナテッロが見せた驚異的なパフォーマンスのお陰でテシオは国際的な名声を得る事が出来たのだ。
しかし、実はその影で全世界の競馬を・・・サラブレットという種そのものに根幹から革命を起こした重要な馬が生産されていた。
ドナテッロが敗北した翌1938年。この年に伝説の世界的名馬ネアルコがパリ大賞典に参戦し、見事優勝!テシオは欧州競馬での絶対的な地位を確立したのだ。
テシオは1927年に17歳になったキャットニップに、
セントサイモンの
2×3という強い近親配合で生まれた
アヴルザックを配合し、
ノガラという牝馬が誕生した。
テシオは当初、「ノガラにあと何回かいい種牡馬を付ければ凄い馬が生まれるかも!」
と後継の繁殖牝馬として期待していたが、ノガラは彼の予想を上回る名馬に成長する。
1930年にデビューしたノガラは1931年にイタリア2000ギニーと1000ギニーに勝利!
引退するまでに16戦14勝という圧倒的な成績を残し、女傑と呼ばれる名馬となった。
引退したノガラは繁殖牝馬として最初の仔を産んだ後、一年の不受胎を経て弟のフェアウェイが種付け予約満了で代用として弟より劣った兄のファロスという種牡馬の子を産んだ。
この馬がネアルコである。
ネアルコの血統は
猫殺しの蒸気機関車セントサイモンの血を色濃く受け継いでいた。
ノガラの父が
セントサイモンの2×3のインブリード馬であることは前述の通りだが、その夫となったファロスもまた、
セントサイモンの4×3のインブリードで生まれていた名馬だった。
インブリード総量は
セントサイモンの「5 x 4 x 4 x 5=18.75%」という、いわゆる
奇跡の血量をもった馬である。
「魔術」に例えられるテシオの技だが、その本質は前述のリスク管理方法とネアルコの配合のように、
「明確な意志と計画をもちながら、インブリードやラインブリードをできるだけ効果的かつ安全に用いて配合を構築する」
事にあると思われる。
また、血統表全体を見ると、実にほとんどの祖先がインブリード馬とアウトブリード馬の組み合わせというサラブレッド配合の基礎基本である「基準交配」と呼ばれる手法であり、堅実に一歩一歩資質を伝えていく正に手塩にかけた見事な配合である。
なお、ネアルコの事をテシオは、
美しく均整のとれた完璧な馬格、偉大な資質を持つ。3000メートルで2勝。
ただし真の長距離馬とは言えない(重要)。
彼はこれらのレースに雄渾の力を絞り、鮮やかなスピードを出した事を特記する。
と、評価している。
前述のドナテッロやネアルコの大活躍によりテシオの名は瞬く間に世界中の馬産家達の間に広まっていた。
その名声の為か、1939年にはイタリアの上院議員に選ばれるほどである。
だが、ここからテシオにとって最大の悲劇が発生する。
「魔術」を編み出したテシオの全盛期に、よりにもよって人類史上最悪の戦争である第二次世界大戦が直撃してしまった事である。
実際に、それまでネアルコの売却に非常に冷淡だったテシオがパリ大賞典の4日後に突如として電撃的金銭トレードで
イギリスへ売却したのは、当時の世界情勢がキナ臭くなっていた事と無関係では無かった。
1938年と言えば
美大落ちチョビ髭がやらかす第二次世界大戦の前年であり、この売却はテシオにとって苦渋の決断だったと思われるが、そのままイタリアにいたら戦火に巻き込まれた可能性は高かった。
結果的にこの売却は後の競馬史にとって非常に良い判断だったと思われる。
また、
イギリスに行く事で英国の一流繁殖牝馬を相手に配合がされたこともネアルコの幸運だった。
実際にネアルコは後述するが種牡馬としても無双する事になる。
1922年から第二次世界大戦期のイタリアは、独裁者ムッソリーニが率いる「ファシスト党」による一党独裁で支配されていた。
1939年に議員になったテシオは当然ムッソリーニ独裁政権のファシスト党議員になったが、当時のイタリア貴族としての務めに「政治活動をする義務」があり、またこの当時世界中に伝播していた共産主義、引いてはソビエト連邦やボリシェヴィキに対抗する為にはムッソリーニを支援・支持する事が当時の最良な判断であるとイタリア貴族・富裕層の支配的な考えであった。
富裕層らがファシスト政権を支持した理由は、仮に社会主義国になると土地が全て国家の帰属=国営になる為、土地代の賃料等で生計を立てている地方領主や富裕層は土地を全て国に取られ、収入が文字通りの無一文になってしまうのだ。
当然ドルメレ牧場を展開するテシオも例外でなく、仮に社会主義国になった場合、今まで育て上げた牧場・馬たち(サラブレッドは家畜と同様なので資産である)が全て国に取り上げられてしまう恐れがあったのだ。
これは人生を賭けてやっと軌道に乗ってきたサラブレッド生産が全てご破算になるかもしれない危機であり、テシオは主義主張の前に自分の馬や資産を守る為にムッソリーニを支援した可能性が高いのは留意すべきである。
また、1938年にネアルコをイギリスへ売り払った後、イタリアの至宝をあっさり売却した事に激怒したムッソリーニはイタリア議会にテシオを呼び「なぜネアルコを売った!?」と問い詰めるが、
今のイタリアに6万£(ポンド)の価値があるものがありますか?
これで世界は後に、「イタリアはこんな馬を作り出せるのか!」と驚く事でしょう。
と返したそうな。
やがて第二次世界大戦も終戦。テシオも数多くの名馬を失ってしまったが、不運な事に戦後以降は
マルセル・ブサックの持ち馬が欧州競馬を席巻し、テシオは陰に隠れてしまう事になる。
しかしそれでも、英アスコットゴールドカップを制覇しイタリア最後のクラシック三冠馬ボッティチェッリやキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスや英グッドウッドカップ等に勝利したテネラニ等を生み出し、名馬を手塩にかけて作り上げるため毎年セリや牧場には彼の姿があったのだ。
生前、テシオに「あなたの秘密は?」と質問した者がいたが、その答えにこう答えている。
魔法が存在しないのと同様に秘密もありません。
忍耐強く、我慢強く繰り返すしかありません。そうすれば誰でも上手く行く事もあるだろう。
ほとんどの馬は失敗である。他にもあるかも知れないが、「水差し」の差なのだ。
と答えたという。
さて、テシオが自分の生産した馬の中で最高の名馬だと思っていたのは一体どの馬だろうか?
私が生産した中で最高の馬はカヴァリエレダルピーノだ。
ネアルコは確かに名馬だが真のステイヤー(最重要)ではない。
カヴァリエレダルピーノは僅か5戦だが無敗。間違いなくネアルコ以上だった。
マリオ・インチーサ(著) 天才テシオの横顔より抜粋
という逸話を残す通り、この当時は3000ⅿや4000ⅿを走りぬくスタミナを持ったステイヤーこそ真の名馬であるという価値観があった。
実際に、カヴァリエレダルピーノはイタリアのリーディングサイアーにもなっている名馬である。
さて、前述のとおりテシオは自身の生産した名馬(特に牡馬)を他国に売却し、牝馬も一定のサイクルで入れ替えていくという手法を取っていた。
一つの血統や自家生産馬にこだわらなかった事が、テシオの成功した理由かもしれない。
だが、何事にも例外はある。それがこのカヴァリエレダルピーノの血統である。
カヴァリエレダルピーノを父に生まれたのがベッリーニ。
ベッリーニは通算23戦15勝を上げ、イタリアダービー制覇やミラノ大賞典を連覇。
そのままイタリアで1941年春から種牡馬生活を送っていたが、第二次世界大戦の戦況が悪化した影響で競馬が縮小・中止を余儀なくされる。
更にイタリア中のサラブレッドたちの飼料確保も困難になった影響もあり、2世代を残して1944年に他の名馬とセットでナチスドイツへ輸出された。
産駆が活躍した頃には、第二次世界大戦末期の大混乱により、ソ連のせいで行方不明となった悲劇の名馬の一頭だった。
第二次世界大戦中のテシオは敵国であるイギリスやフランスへ種付けに行く事ができず、従来であればしなかったテシオ自身の生産馬を使用せざるを得なかった。
その為、カヴァリエレダルピーノやベッリーニ等の自家生産種牡馬を「夢と
ロマンを求めて父系を伸ばす」為ではなく、「情勢的に仕方なく使わざるを得なかった」というのが真相だった。
そのベッリーニの数少ない仔が前項目で紹介した
テネラニである。
テネラニは通算24戦17勝を上げ、二次大戦後という混沌の時代の中で父と同じくイタリアダービーに勝利。
更に1948年にはイギリスに遠征してクイーンエリザベスステークスにも勝利した名馬である。
この勝利は敗戦後から立ち直ろうともがいていたイタリア国民に多くの希望を与えただろう。
なお、当時
ブサックらフランスに徹底的にボコされ、敗戦国イタリアにすら敗北した英国紳士らの尊厳は・・・お察しください。
「仕方なく使った種牡馬」に工夫を凝らして自国や英国の大レースに勝利するテシオの技法。
本当に、本当に第二次世界大戦がなければテシオの生産馬はどれだけ他国へ遠征し、どれだけの栄光を彼に与えただろうか・・・その最盛期に戦争が重なったのは真に不幸である。
さて、このテネラニは当初イタリアで3年間種牡馬生活を送っていたが、1952年に
イギリスへ輸出。
他の種牡馬と同じくテシオの手を離れることとなった。
その年にロマネラという牝馬と交配して生まれたのが、
イル・ピッコロという牡の仔馬である。
テシオは1951年にテネラニをロマネラに交配した後にイギリスに売却したが、翌1952年の春にもう一度ロマネラにテネラニを交配することを考え、ロマネラをわざわざイギリスに送ったという経緯がある。
このため両親・関係者共にほぼイタリアにもかかわらず、生産国はイギリスというややこしい状態なっている。
イギリスでの短い滞在の後、すぐにイタリアに渡ったこの仔馬はとても小柄で、牧場でのあだ名はイタリア語で「ちびっこ」の意を指すイル・ピッコロ(Il Piccolo) というものであった。
人懐っこく物を隠すなど悪戯好きな側面も見せていたという。
テシオはイル・ピッコロについて「将来ひとかどの名馬になるだろう」と予言していたが、晩年以降心臓の病に苦しんでいたテシオは、85歳になった春に遂に病状が悪化。
症状は改善する事が無く、死の床にあった。
親友のインサーチ侯爵や妻のリディアが見守る中、テシオは死の間際一言だけ親友と家族にこう伝えた。
1954年5月1日
土曜日の午前0時30分。フェデリコ・テシオは心不全で永眠。
イタリア競馬史の半世紀を支え続けた85年の大往生の生涯であった。
翌日、彼の死を知った友人・知人たちは病院に集まり、多くの人々が彼の死を悼んだ。
更には他のスポーツ界、政治家、財界人等々イタリアだけでなく海外からも無数の弔電が届いた。
そしてテシオの死からわずか2ヵ月後、イル・ピッコロはイタリアでデビューした。
彼はテシオの生涯でドナテッロやネアルコをも上回る史上最強馬であり、空前絶後の競争成績を残したイタリア史上最強のサラブレッドリボーであった。
テシオの死後、ドルメロ牧場は妻リディア・テシオとインチーサ侯爵家に引き継がれ、リディア夫人が1968年に死去してからはインチーサ家の単独経営となった。
ドルメロ・オルジアタ牧場会社は一度閉鎖の危機に直面したが21世紀現在でも馬産を続けており、当代のロケッタ侯爵の元今でもノガラやロマネッラ等の子孫たちが繋養され小規模ながら生産が続けられている。
しかし、テシオ亡き近年のイタリア競馬界はずさんな組織運営や売上の低迷から、度々開催がストップする事態となり、レベル低下に歯止めがかからない状態になっている。
実際、近年のイタリア産馬や調教馬で活躍したのは2001年にG1ヨークシャーオークスに勝利したスーパータッサ、2002年のジャパンカップ等G1を8勝したファルブラヴ、2004年のクイーンエリザベス2世ステークス等G1を6勝したラクティ、2006年度にドバイワールドカップ等に勝利したエレクトロキューショニスト以降、国際的な活躍を残した馬は20年近く出ていない。
また2009年にはずさんな組織運営を長年続けてきたことから、ヨーロッパ生産者基金(EBF)がイタリアを除名処分にすると発表。
これを受けて翌2010年には、サンシーロ競馬場及びカパネッレ競馬場での競馬開催を一時禁止とした。
更に2012年1月にはイタリア競馬統括機関ASSI(Agenzia per lo sviluppo del settore ippico)が、イタリア国内の全競走の賞金を一律40%もカットする方針を打ち出したが、これに反発する騎手・調教師・競馬場職員らがストライキを起こし、競馬の開催が全面ストップ。
なんとか競馬の開催は再開出来たが、2012年9月以降に開催された全レースについてイタリア農務省が「財政危機」という理由で賞金の支払いを差し止めして問題が再燃。
協議の結果「2013年3月末に賞金を支払う」と約束したが、同年4月以降も支払いは行われず、競馬開催の存続が危機的状況となる。
この現状に遂にブチ切れた欧州競馬の競走格付けを行う欧州格付委員会(European Pattern Committee: EPC)が、
「もし2014年3月までにASSIが全ての滞納金を支払わなかった場合、2014年末をもってイタリアをEPCから除名!」
「更に国際セリ名簿基準書における格付けにおいてパート2国に格下げするぞゴルァ!!!」
と怒りの表明。
しかし、それでも滞納金の支払いは行われ無かったので同年4月には遂に除名処分及びパート2国への降格が正式決定。
その後、やっと仕事したASSIが同年10月に賞金支払いの条件を満たした為、どうにかイタリアの重賞レース格付けを維持することに合意し、2015年もEPCのメンバーに留まることになった。これで一安心!
…だったのならよかったが、その後もイタリア競馬界の凋落は歯止めがかからず、2019年には遂にEPCの準メンバーに正式に格下げ。
追い打ちに国内で最後まで残っていたGI競走である「リディア・テシオ賞」がGIIに格下げとなり、国内のGI競走が全て消滅した。
2020年には国際セリ名簿基準書の格付けも正式にパート2国に下げられた事で、イタリア競馬の存廃問題が再度表面化。
このままではイタリアは重賞競走・・・下手したら競馬そのものが無くなりかねない姿態である。
このような危機的な状況が続くことに嫌気が差した競馬関係者が、イタリアを離れて国外に活路を求めるケースも多くなっており、世界No.1ジョッキーと称された「フランキー」こと
ランフランコ・デットーリや、日本の通年騎手免許を取得し
て完全に関西人に染まった
ミルコ・デムーロ等も現れている。
しかし、2024年3月限りでの廃止が決定したマカオ競馬や同年10月限りでの廃止が決定したシンガポール競馬とは異なり、項目作成時点(2024年1月)ではイタリア競馬の廃止の計画は存在していない。
現在、様々な問題が山積みのイタリア競馬であるが、サンシーロ競馬場のスタンドにはテシオを記念するプレートが掲げられており、その碑文の最後はこう書かれてある。
世界中の
サラブレッドの幸運のために、歴史が絶えずイタリア競馬にふさわしい未来を支持しますように
イタリア競馬の明日はどうなる!?
交配論というのはかなり奥が深い。
専門的なものまで全部記載していたら個別記事がいくつあっても足りないため、このページには要点と簡略な理論しか言及していない。
一般的にG1はおろか1勝馬すら輩出することさえ難しい弱小零細牧場かつ競馬後進国だったイタリアから、数々の革新的なノウハウを編み出して欧州有数の馬主として名声を得た事。
また、その才能を欧州で爆発させた1930年代から死去する1954年まで当時覇権を争った伝説の馬主
マルセル・ブサックや17代目ダービー卿等に引けをとらない、あるいはそれ以上の天才だったこと。
そして、後世に様々な交配論・方法論を開拓したパイオニアであったことは語るに及ぶまい。
しかし、彼の天才的・魔術的なやり方については、真正の競馬バカしか見ない誰得項目作った作成者も混乱する程難解かつ複雑怪奇&オカルト的な方法論も多い為、ほんの一部の技法や逸話しか紹介していない。誰か追記して♡
真正の競馬バカ競馬に詳しい人物にしか理解されず、只々「凄い人」とだけ言われる風潮があるのは少し残念なところである。
様々な功績を残したテシオ夫妻にイタリアではその名誉を称えて、ローマのカパネッレ競馬場で11月頭にG2「フェデリコ・テシオ賞」が、10月末にG2「リディア・テシオ賞」が開催されている。
余りにも名馬の数が多すぎて全て載せていたら個別記事が必要になるため、現役・繁殖で印象的な活躍をした馬を一部抜粋して紹介しよう。
ぶっちゃけテシオ三大名馬だけ抑えて置けばそこそこの競馬通にはなれるぞ!
カヴァリエレダルピーノ(Cavaliere d'Arpino)
生涯成績:5戦5勝
主な勝鞍:ミラノ大賞典、オムニウム賞(現:イタリア共和国大統領賞)(連覇)
馬名の由来は馬名は17世紀のイタリアの画家、ジュゼッペ・チェーザリの通称「カヴァリエール・ダルピーノ (Cavalier d'Arpino) 」(アルピーノの騎士)より取られた、生前のテシオが最高傑作と称した馬である。
父馬はネアルコの母ノガラと同様にアヴルザック、母は既にクラナッハという名馬を生み、イギリスから6,000ギニーという大金で購入したシュエットという当時の自身最高の名馬と名牝を掛け合わせた、最高傑作と呼ぶにふさわしい血統である。
テシオの期待とは裏腹に、カヴァリエレダルピーノは現役時代から常に健康状態が思わしくなく、度重なる跛行によって競走馬キャリアが大きく混乱した。
どうにかテシオの手塩にかけた看病のお陰で3歳で1度だけ体調が回復し、デビュー戦で優勝!
その後は翌年の春まで体調を崩したが、2戦目も余裕の勝利を挙げると5月のオムニウム賞、6月のミラノ大賞典と二つのG1を連勝!
特にミラノ大賞典では、2着のフィラレーテに6馬身差の圧勝でテシオの脳を焼き見事勝利した!
しかし、またしても体調を崩してしまい、再びレースに出走したのは翌年のオムニウム賞だった。
このレースには厩舎仲間であり、後にネアルコ(後述)の母となるイタリア最強牝馬ノガラも出走していたが、「まるで赤子の手をひねるように」簡単にレースを支配して優勝し、再びテシオの脳を焼いた。
だが、レースに参加できたのはこの1回だけで、度重なる体調不良によりカヴァリエレダルピーノは現役を引退。
「体質さえまともなら・・・」とテシオがその虚弱体質を後悔する程、レースにさえ出たら常に圧勝していた為、タラレバが絶えない馬だった。
引退後は種牡馬となり当初はその虚弱体質が疑問視されていたが、イタリアダービー、ミラノ大賞典を連覇したベッリーニや後にイタリアリーディングサイヤーになるダービー馬トラゲット等を輩出。
1941年にはイタリアリーディングサイヤーとなり、テシオにとって大きな価値のある種牡馬であることが証明された。
産駒はテシオ産以外の馬は広げる事は叶わなかったが、後述するひ孫のリボーがその血を世界中に広げた。
ドナテッロ(Donatello)
生涯成績:9戦8勝
主な勝鞍:伊グランクリテリウム、伊ダービー、ミラノ大賞典
馬名の由来はルネサンス初期のイタリア人彫刻家ドナテッロことドナート・ディ・ニッコロ・ディ・ベット・バルディから取られたテシオ三大名馬の1頭であり、テシオの名声を急上昇させた立役者である。
この馬はネアルコと同様に在庫処分のたたき売りされていた名前が長い祖母ドゥッチャディブオニンセーニャから手塩にかけて育てられた名馬だった。
なお、祖母はわずか210ギニー(当時の価格で約1000万程度)で購入された模様。
実際に競走成績・種牡馬成績共にネアルコ、リボーに次ぐ優秀なもので、2歳時には伊クリテリウムナショナル、伊グランクリテリウム等に勝ち1936年イタリア最優秀2歳馬に選ばれた。
翌年もイタリア国内では無敗で、デルビーイタリアーノ、イタリア大賞、ミラノ大賞等に勝ち、フランスに遠征したパリ大賞典では惜しくも2着に入った。
パリ大賞典を最後に引退し、イタリア最優秀3歳馬に選ばれている。
本質はステイヤーだったが長距離一辺倒ではなく、伊グランクリテリウム(1500m)、伊ダービー(2400m)、ミラノ大賞典(3000m)と幅広い距離に対応できた万能の馬だった。
引退後は4万7500ポンドでイギリスに輸出されたが、種牡馬としても非常に優秀で、イギリスクラシック二冠馬
クレペロ、イギリス長距離三冠馬
アリシドン等の名馬を輩出した。
1953年には
イギリスのリーディングブルードメアサイアーにも輝いている。
直系子孫はネアルコやリボー程ではないがそれなりの広がりを見せ、日本では子孫の一頭
リマンドが輸入され、
アグネスフライト、
アグネスタキオン兄弟の祖母
アグネスレディーや日本ダービー優勝馬
オペックホース、半兄にニッポーテイオーを持ち子孫にホエールキャプチャやパクスアメリカーナを輩出したエリザベス女王杯優勝馬
タレンティドガールなどがドナテッロの子孫に当たる。
ネアルコ (Nearco)
生涯成績:14戦14勝
主な勝鞍:伊ダービー、ミラノ大賞典、パリ大賞典
馬名の由来は紀元前6世紀のギリシャの画家ネアルコス(イタリア語でネアルコ)に因んだとされる伝説の名馬であり種牡馬の父、「サイアーオブサイアーズ」である。
1937年にデビューしたネアルコはそこからなんと不敗の7連勝!満場一致でイタリアの最優秀2歳馬に選ばれた。
3歳になってもネアルコは国内を無双し、イタリアダービーも楽勝。古馬との混合戦ミラノ大賞典も楽勝した。ここまで13戦13勝という驚愕の成績である。
この結果に自信を付けたテシオは前年のドナテッロの仇討ちとして1938年もパリ大賞典に挑戦!
実はこの頃、無敵を誇るネアルコに対し欧米から購買の申し込みが殺到していたがテシオはそれに対し良い返答を与えず、自身の夢であるパリ大賞典に参戦したのである。
他の参戦した馬を見てみると、
セントサイモンの直系であり英ダービーを制覇した
ボワルセル、仏ダービー馬
シラ、仏オークス馬の
フェリー等々の英仏が集結させた屈強な名馬が揃っていたが、この中でネアルコは一番人気だった。
1938年6月26日。ネアルコは生涯最後のレースに出走した。
ロンシャン競馬場の3000mのコースにてネアルコは好位置からレースを進め、直線で一気に加速。2着に1馬身半の差をつけて差し切り優勝!先頭でゴールした。
テシオは雄叫びをあげ、ついに自身の悲願は成就したのである。
前述のドナテッロで急上昇したテシオの名声はこのネアルコが不動のものとするのだ。
その4日後、ネアルコは6万ポンド(当時のレートで約30億円!)という当時史上最高価格で、
イギリスの生産者に売却された。
僅か75ギニーの捨て値で買われ、
半血馬とイギリスだけでバカにされた祖母から実に800倍もの価値となりネアルコは本場イギリスへ渡ったのである。
あれ?ジャージー規則によればネアルコは半血馬の子孫だからサラブレットでは無いので種付け出来ないのでは???
英国紳士「ネアルコの父はあのダービー卿の名馬ファロスだからノーカン!ノーカン!」
種牡馬として供用が開始されたネアルコは大人気で、種付け申し込みを始めたところ
わずか2時間で3年分の枠が埋まってしまったというエピソードがある。
これはネアルコの競走成績もさることながら、
イギリスの生産者がネアルコにセントサイモンの再来を!という夢を見たというのも大きかった。
ネアルコはその期待に見事に答え、15年連続でイギリスのリーディングサイアーベストテンに入り、1947~1949年の3年連続で英愛種牡馬リーディングサイアーに輝いた!
これだけでも大成功だが、ネアルコの真の恐ろしさは自身の直系子孫にあった。
信じられない事に彼の息子、孫、子孫はそれ以上の成績を残したのだ。
1940年産の
ナスルーラは後にアメリカに渡り、
グレイソヴリン、
ネバーセイダイ、
プリンスリーギフト、
ボールドルーラー、
レッドゴッド、
ネヴァーベンド等々の大種牡馬を輩出し、競馬大国の座をイギリスから奪い取る原動力となる。
42年産のダンテはネアルコ産駒で初めて英ダービーに勝利し、後にダンテ系と言う父系を作る。43年産の全弟サヤジラオも愛ダービー、セントレジャーに勝利した。
ダンテと同期の
ロイヤルチャージャーはその子孫から
ロベルト、
ヘイロー、
サーゲイロードと分岐し、やがてアルゼンチンに
サザンヘイロー、オーストラリアに
サートリストラム、日本に
サンデーサイレンス、
ブライアンズタイム等といった名馬を輩出し血を拡大した。
そして1954年産のカナダへ渡った
ニアークティックはその息子に
アイスカペイド、20世紀史上最高の種牡馬
ノーザンダンサーを出し、アイスカペイドからは
ワイルドアゲインを、ノーザンダンサーからは
ニジンスキー、
リファール、
ノーザンテースト、
ヌレイエフ、
ダンジグ、
サドラーズウェルズ等々の名馬が誕生した。
これほどまでの大活躍を見せたネアルコだったが、父が代用種牡馬かつ自身が嫌う「2流のスピード馬」だったファロスだった為、テシオは活躍の裏腹に終始不満を持っていたらしい。
テシオが本当に種付けしたかったのは兄より優れた弟のフェアウェイであり、彼はテシオが理想とする馬体・実績を持つ真のステイヤーだった。
一方の兄ファロスは英G1チャンピオンステークスに勝利したが殆どの勝ち鞍がマイル~中距離の為人気が無く、フランスへ放逐された馬だったのだ。
国内で無敗を誇り、ドナテッロが敗北したパリ大賞に勝利してもその評価は変わらず、
「ネアルコは確かに良い馬さ。でもね・・・ステイヤーじゃない・・・」
という逸話が残る通り「画竜点睛を欠く」ではないが、「父がフェアウェイだったなら・・・」というもどかしさや理想と現実のギャップに苦しんだ馬でもあった。
現在世界に存在する種牡馬の半分は、ネアルコの直系子孫であると言われている。
リボー(Ribot)
生涯成績:
16戦16勝
主な勝鞍:
凱旋門賞(連覇)、KG6世&QES、伊ジョッキークラブ大賞、ミラノ大賞典
馬名の由来はフランスの画家テオデュール=オーギュスタン・リボーから取ったとされる、幼名:イル・ピッコロとしても有名なイタリアサラブレッド史上最強馬。
1954年にデビューしたリボーはこの年3連勝でシーズンを終えた。
しかし、かつての
セントサイモンや日本の
オグリキャップと同じように彼は
クラシック登録がされていなかった。
その為、3冠レースが走れないリボーは別の路線を走ることになる。
このクラシック登録がされていなかったのはテシオの珍しい失敗の一つとも言われているが、テシオ自身も「その資質と優れた馬格は凡馬ではない」と内に秘める素質を認める一方、ちびっ子(イル・ピッコロ)と名付けられるほど小柄だった為にクラシックには間に合わないと判断したテシオが登録しなかったとされる。
だが、クラシックレースに囚われない事により、リボーは国内外の古馬大レースへ自由に参加する事になる。その際たるものが、あの
凱旋門賞である。
1955年の出走馬は前年の仏2歳代表馬ボウプリンス、仏セントレジャー馬マシップ、仏ダービー馬ラパス等地元フランスの名馬がズラリと揃っていたが、レースでは2番手を先行しつつ最終コーナーで先頭に立つとリボーはそのまま後続を引き離し、ゴールではボウプリンスに3馬身差をつけて余裕の勝利を決めた。
この凱旋門賞の勝利は亡きテシオの悲願でもあった。英ダービーや仏ダービーを除けば1923年の初参加以降、有力馬を何度も参戦させてもなかなか取れなかった夢のタイトルである凱旋門賞。
その夢を自身最後の産駒で成し遂げたのだ。死してなお、テシオの影響は凄まじかった。
しかもこの僅か2週間後にイタリアの大レースG1ジョッキークラブ大賞で、前年の勝ち馬ノルマンを相手に15馬身差圧勝するオマケ付きである。
だが、この時点でのリボーの強さには?マークが付けられていた。
「英ダービー馬や英オークス馬が不参加だったからメンバー運に恵まれた」
「展開やレースレベルに恵まれたラキ珍」
と、ジョンブルの世迷い言で有名なイギリスから難癖を受けたリボーは凱旋門賞後も引退せず、もう一年現役を続けることが決定。
55年のメンバーも十分強い面子だが、どうもイタリア産馬は不当に評価が低く舐められる傾向にあるのだ。
だが、皆様安心して欲しい。
1956年になってもリボーはG1ミラノ大賞典を含む4連勝!もはやイタリアではG1ですらリボーの公開調教やウォーミングアップの場所と化していたのだ。
そして、その強さに疑問符をつけた難癖付けのジョンブル達がいるイギリスを分からせるべくキングジョージ6世&クイーンエリザベスへ参戦。
これを当時のレース最高着馬身差の5馬身の大楽勝!見事イギリスとジョンブルを分からせ自身の評価を覆した。
そして不敗の15連勝で迎えた2度目の
凱旋門賞。
参戦した馬は前年の凱旋門賞にも出走した愛ダービー馬
ザラズーストラや、
マルセル・ブサックの名馬である仏オークス馬
アポロニア等を筆頭に各国のクラシック勝ち馬が7頭も出走。
更には翌年の凱旋門賞馬
オロソ、初めてアメリカから遠征した
フィッシャーマン、
キャリアボーイ等も参加した歴代屈指のメンツが揃ったレースとなった。
リボー?この中で単勝1.6倍の圧倒的1番人気だったよ。
屈指の強敵が揃ったレースだったが、リボーはそれを物ともせず予定通りの勝ちパターンでレースを進めた。
リボーは第1集団の最後尾から、3番手を追走。そして第4コーナーを回って最後の直線へ!
この時、先頭集団は中々リボーが前に来なかったのでほんの一瞬勝ちを確信した者もいたが、リボーは馬なりからたった2完歩で超加速し、あっさりと先頭へ抜け出して各馬の希望を打ち砕くと、騎手のムチすら使わせずに直線でごぼう抜き!
およそ6馬身?!の差をつけて、楽々とゴールへ飛び込んだ。
今でもこの最大着差の記録は破られておらず、そのレースぶりは「発射台から打ち出されたミサイル」と形容される程の勝ち方であり、「今世紀最高の名馬」との名声を得たのだ。
このレースを最後にリボーは引退し、種牡馬となった。
種牡馬となったリボーはイギリスの18代目ダービー卿の元、リース契約で供用された。
が、先代が残した不採算部門整理と経費縮小の為わずか2年で祖国イタリアへ返却され故郷ドルメロ・オルジアタ牧場で供用された。
だが、故郷の種牡馬生活は僅か1年で終わりを迎える。
翌1960年には米国の事業家兼馬産家のジョン・W・ガルブレイス氏が組んだ種牡馬シンジケートに合意し、5年総額135万ドルのリース契約が締結。
リボーはガルブレイス氏が所持する米国ケンタッキー州ダービーダンファームに5年間輸出された。
しかし、5年間のリース期間が満了してもリボーは祖国には戻らなかった。
その理由は本馬の気性が祖先セントサイモンの血が暴走した為か米国に来てから極端に悪化した為である。
幼駒時代からいたずらっ子で現役時代も中々気性が激しかったが、アメリカの飯や水がマズかった為か環境の変化や加齢等の理由により現役時代以上に手が付けられない程気性難と化し、保険会社が保険契約を受け入れなかった事もあり、リース契約は延長された。
後に買い取られたリボーはそのままダービーダンファームに留まり、1972年4月に腸捻転を患って20歳で他界するまでアメリカで過ごした。
種牡馬時代は気性難発生というアクシデントはあったものの、欧州と米国のいずれでも優秀な種牡馬成績を収め、1963・67・68年の英愛首位種牡馬に輝いた。
産駒にはラグーサ、トムロルフ、グロースターク、ヒズマジェスティ等の名馬を輩出し、リボー系と言う父系を作るまでに発展した。
更にトムロルフからは孫に
アレッジド、ヒズマジェスティからは
プレザントコロニーと言った名馬も誕生し、日本でもグロースタークの孫
バンブーアトラスとその息子
バンブービギンや、プレサンドコロニーの孫
タップダンスシチーがリボーの子孫にあたる。
なお20世紀イタリアの競走馬ランキングでは当然のごとく1位に輝き、なんとイタリア最大のスポーツ誌ガゼッタ・デッロ・スポルトが発表した20世紀イタリアのスポーツ選手では、多くの人間の選手を抜いてリボーはなんと第4位の位置にあった。
米国ダービーダンファームに埋葬された本馬の墓には、息子グロースタークやヒズマジェスティも共に埋葬されている。
追記・修正は自国のダービーを10回以上勝利してからお願いします。
『日本サラブレッド配合史―日本百名馬と世界の名血の探究 (1984年)』 らんぐる社 著:笠雄二郎
『名馬の生産―世界の名生産者とその方式(1985年)』サラブレッド血統センター エイブラム・S・ヒューイット (著), 佐藤 正人 (訳)
『サラブレッドの生産』フェデリコ・テシオ (著), 佐藤 正人 (訳)
『天才テシオの横顔』日本中央競馬会馬事部馬事課 マリオ・インチーサ(著)、原田俊治(訳)
- 素晴らしい記事だ -- 名無しさん (2024-01-17 13:58:31)
- 細かいところまで書かれてるいい記事なんだけど、いくらなんでも打消し線ネタがちょっと多すぎないかい -- 名無しさん (2024-01-17 17:49:39)
- これは手塩に掛けた力作ですねぇ! -- 名無しさん (2024-01-18 00:51:17)
- 素材として意外と優秀なんだなセントサイモン -- 名無しさん (2024-01-18 21:31:12)
- シラユキヒメ牝系もこの人の馬の直系子孫だったりするし、後世の日本競馬への影響力物凄いなぁ… -- 名無しさん (2024-08-24 14:03:20)
- テシオの神経的エネルギー理論は最近のエピジェネティクス研究に照らして正しいんじゃないか?って気がするんだよな。つまり親が活力に満ちている方が子にもそれが受け継がれる可能性が高いっていう -- 名無しさん (2024-09-19 20:16:49)
- あとは「血の袋小路」を作らないように繁殖牝馬に非常に気を使い、定期的に血の刷新を行っていたことも書いたほうがいいかな?まあ、テシオだけがやった手法ではないと思うが。 -- 名無しさん (2024-11-05 02:51:46)
最終更新:2025年04月03日 00:15