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更新日:2025/04/10 Thu 12:48:44
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吉田 松陰とは、幕末の人物である。
生没年:文政13年8月4日〈1830年9月20日〉- 安政6年10月27日〈1859年11月21日〉
諱は矩方。字は義敬。
享年30歳。
生涯
長州藩士・杉百合之助の次男。幼少期や青年期は「杉寅之助」と名乗った。
きょうだいは兄で杉家を継いだ杉民治(梅太郎)の他妹4人・弟がおり、2番目の妹寿(久子)は長州藩士小田村伊之助(後の楫取素彦)と結婚。末の妹文(美和子)は松陰の教え子久坂玄瑞と結婚するも夫に先立たれ、明治時代に妻である姉を喪った楫取素彦と再婚した。
誕生後ほどなくして
天然痘に罹患し、一時生死の境をさまよう。幸い一命をとりとめたが、顔に後遺症のあばたが残り終生消えなかったという。
数えで4歳のころ、叔父の山鹿流兵学師範・吉田大助の養子となり兵学を学ぶが、大助はこのころ
結核を患っており、寅之助の養子入りから1年後、
講義中に吐血して壮絶な最期を遂げた。
大助亡き後はもう一人の叔父・玉木文之進が開いた萩の松下村塾でスパルタ英才教育を受けた。
文之進は甥に講義の場では自らを「叔父上」ではなく「先生」と呼ぶことを強い、寅之助は頬に蚊に刺され、少し掻いただけでも「人の講義中に頬を掻くのは私事の愉しみだ!」と怒鳴りつけられ、「教科書の頁の開き方が悪い」という些末な理由で顔が変形するほど殴りつけられることもしばしばあった。
あまりの教育の苛烈さに、「女性である」ということで口出しを一切許されなかった松陰の母・タキは、寅之助が死んで楽になることさえ願ったほどであったという。
寅之助も長じてのちは「死ななかったのが不思議なくらい、それはそれは厳しいものでした」と述懐している。
しかし、ひとたび講義の場を離れれば、文之進は松陰をこの上なくかわいがったといい、前述の教育の苛烈さは文之進の嗜虐性に基づくものではなく、愛情ゆえのものであった。
それを寅之助は理解していたから、叔父に従いこそすれ、反抗はしなかったのだ。まあ、そんなことしたらその日が寅之助少年の命日になっていただろうが。
ただし、松陰の教育方針と、松陰より時期は遅いものの玉木から教えを受けていた後の陸軍大将・乃木希典の教育方針の共通事項には「体罰厳禁」というモットーがあり、松陰にも乃木にも、玉木に対して多少なりとも思うところがあったのではないかと推測される。
6歳になってからは吉田家を継ぎ、吉田大次郎のち「吉田寅次郎」と名乗り、文之進の教えを得て兵学や史学を修めた。
その神童ぶりから、藩主・毛利敬親に抜擢され、9歳の時には藩校・明倫館の教授に就任し、弱冠11歳で藩主に御進講を行い、13歳で西洋艦隊撃滅演習などを講義した。
15歳で山田亦介より長沼流兵学の講義を受け、山鹿流と長沼流を修めた。
だがやがて、
アヘン戦争で清が
イギリスに大敗したというニュースを耳にし、自身の学んできた兵学が時代に追い付いていないことを痛感した寅次郎は、平戸や江戸に遊学した。
平戸では葉山左内に、江戸では
佐久間象山に出会い、西洋の兵学や蘭学を学んだ。
嘉永5(1852)年には同志の熊本藩士・
宮部鼎蔵と東北旅行を計画するが、寅次郎は「藩の制度よりも友人との約束の方が大事です」とばかりに藩庁から通行手形が発行・支給されるのを待たずに
脱藩し、東北遊学に赴いた。
しかし、藩の制度を破っておいて許されるはずもなく、江戸で拘束され、長州に強制送還されたのちに脱藩の罪で軍学師範を解雇させられ、寅次郎は武家社会では死人同然の身分となった。
しかし、藩主・毛利敬親は寅次郎の才能を気に入っていたため、「父親の育み(正武士の部下)に降格」という名目で寅次郎の罪を許した。
それでええんかい
安政元(1854)年、前年のペリー来航のニュースに触発されてから抱いていた海外密航の計画を実行するため、漁師の船を盗んで同志の金子重之輔とともに下田港のアメリカ軍艦ポーハタン号に乗り込もうとした。
が、なんとか軍艦に拾っては貰うも、(万が一に備え相手側に偽名を名乗っての)密航の件はあえなく拒絶され、陸に帰された後一時的に金子とともに伝馬町に投獄。
その時叫んだ「我、メリケンに行かんと欲す!」という言葉は有名である。
そうして、ほどなくして長州に強制的に帰され、萩の野山獄に入獄となった。
なお、金子は伝馬町の牢獄の劣悪な環境により体調を崩し、野山獄に護送されてからほどなくしてこの世を去っている。
師の佐久間象山も「寅次郎の荷物に密航を応援する象山の手紙が入っていた」という理由で一時投獄されている。金子も佐久間もとんだとばっちりである
ここで
富永有隣や、
高須久子と知り合い、寅次郎は囚人たちや牢番に対して
論語などの講義を行った。
牢番の方も寅次郎がかつて藩の兵学師範だったことを知っており、罪人であるにもかかわらず寅次郎を丁重に扱い、また師匠として寅次郎を尊敬していた。
寅次郎はただ教える立場にのみ立っていたわけではない。本草学に精通していた囚人からは薬草と毒草の見分け方や薬としての処方の仕方を教わり、久子からは日本各地の民話について教わった。
この「一方的に教えるのではなく、皆で一緒に考えて学ぶ」という姿勢は、のちの「松下村塾」にも受け継がれている。
出獄後は藩庁の勧めから、「寅次郎」名義で大っぴらに私塾の開設などを行うことを憚って「
松陰」を名乗り、かつて自身も幼少期に学び、閉業状態にあった「
松下村塾」を復活させた。
この「松下村塾」からは
久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤俊輔(博文)、吉田稔麿、寺島忠三郎、入江九一・野村靖兄弟、佐世八十郎(前原一誠)、赤根武人、品川弥二郎、山田顕義、山縣有朋など、幕末という時代の転換点を走り抜いたそうそうたる顔ぶれを輩出している。
しばしば誤解されるが、
桂小五郎(木戸孝允)や志道聞多(井上馨)はいずれも明倫館時代の松陰の生徒で、松下村塾出身者ではない。
また、山縣有朋に至っては、青年期は「中間」の身分で、士分専門の明倫館にすら入学できるような身分ではなかった。本人は「久坂玄瑞の紹介で松下村塾に在籍した」と話しているが、在籍1ヶ月で松陰が謹慎、獄中、斬首になったので、松陰との面識はかなり薄い。
にもかかわらず、山縣は死去前の大正11年(1922)に松蔭の生誕地に設置された記念碑の表面に、「吉田松陰先生誕生之地碑 門下生 山縣有朋」とヌケヌケと揮毫している。
安政4(1858)年、江戸幕府が外国との不平等条約を無勅許で締結したことに激怒し、老中・間部詮勝を条約締結の首謀者とみなし、「間部に条約の破棄を迫り、もし間部がこれを拒絶すればすぐにでも間部を討ち取る」という計画を考えるようになる。
そのために藩に武器や弾薬の貸し出しを要請するが、藩からは拒否された。はいそこ、「そりゃそうだ」とか言わない
腹の虫がおさまらない松陰は、次に伏見にて、勅使・大原重徳と参勤交代で伏見を通る毛利敬親を待ち受け、京に入る伏見要駕策への参加を計画した。
自分の提案について消極的な態度しかとらない藩に業を煮やしていた松陰は、幕府こそが自身の提案の障害であると考え、豪農・豪商・郷士など、当時社会的な身分が格下であるとされた人々が団結し、政治形態の転換を図るという、いわゆる「草莽崛起論」を声高に唱えた。
どう考えても計画があまりに壮大かつ杜撰すぎて失敗する未来しか見えない伏見要駕策に関しては久坂玄瑞や高杉晋作、桂小五郎が手紙で説得し、思いとどまらせようとしたが、松陰は
「危険が去ってから動こうというのか? それで手柄を得ようという考えか? 僕は忠義をする積り! 諸君は功業をなす積り!」と逆ギレをかまし、久坂と高杉を破門している。
とはいえ、破門宣言は一時的なものにすぎず、翌日久坂が桂と面会に来た際には、快く迎え入れている。
徐々に過激化していく松陰の思想に閉口して、長州藩は松陰を再び野山獄に投獄した。安政6年(1859年)、「
安政の大獄」の手が松陰にも及んだ。
かつて萩を訪れて松陰と語らったことのある梅田雲浜が幕府に捕縛されると、松陰もこれに連座して江戸の伝馬町に贈られることとなった。
評定所にて松陰は、かつて萩で梅田と松陰が語った内容について問いただされたが、松陰は白熱するあまり、
聞かれてもいないのにうっかりかつての老中・間部詮勝の暗殺計画を自白してしまう。うっかりってレベルじゃねーぞ!
これにより、
松陰は死罪を宣告された。
安政6年10月27日(1859年11月21日)、伝馬町牢屋敷の外で松陰は斬首された。享年30歳。
「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留めおかまし 大和魂」(「留魂録」の冒頭)
「親思ふ 心にまさる 親心 けふのおとずれ 何ときくらん」(家族あての遺書)
「このほどに 思い定めし 出立は けふきくこそ うれしかりける」(字余りを継ぎ足そうとした墨の点が、松陰の絶筆となった)
いずれも松陰の辞世の句である。
松陰の刑死から二日後、桂小五郎や伊藤俊輔、松下村塾生の飯田正伯と尾寺新之丞が小塚原に松陰の遺骸を引き取りに赴いたが、罪人ということで引き取りは許されず、回向院の墓地に埋葬した.この時の4人の中でも最年少(17歳)であった伊藤俊輔少年(後年の伊藤博文)は引き取り作業の最中に号泣し、作業を手伝うことができなかったが、他のメンバーも伊藤の心情を理解していたからか、伊藤を叱ることはなかったという。
逸話
号の「二十一回猛士」は、いわゆるアナグラムである。
まず、本姓の「杉」を分解すると、「十」「八」「三」となり、合計すると「二十一」。
そして、一般に名乗った姓の「吉田」の「吉」を分解すると、「士」(十一)と「十」で「二十一」、「口」と「口」で「回」。
これと幼名の「寅次郎」の「寅」=「猛獣」ということで、「二十一回猛士」の由来となった。
人物を論評するにあたっては公正であった。
安政の大獄により、自身が捕縛されるきっかけを作った井伊直弼については彦根藩の統治だけなら「名君」と評価しており、直弼のシンパであった水野忠央についても「奸にして才あり」と才能を評価していた。
自身の愛弟子たちに「狂愚まことに愛すべし、才良まことに虞るべし。諸君、狂いたまえ」と常日頃説いた。この言葉は松陰の一生を代弁するものとして知られる。
尊王攘夷派ではありながらも、その思想はすぐに外国を追い出そうとする「小攘夷」ではなく、一旦開国を認めて国力を高めた後に外国と渡り合おうとする「大攘夷」に近い。
アメリカへの密航を企てたことからわかるように、むしろ積極的に西洋の知識を吸収しようとしていた。
井伊直弼の条約締結にブチギレたのも「無勅許」ゆえであり、攘夷よりも尊王由来の怒りである。
最大のライバルとされるのは同じ長州藩の尊王開国派・長井雅樂。
優れた歴史家であった長井は「鎖国は島原の乱以来の300年にも満たない慣習で、それ以前は開国していた。その証拠に古典に京都の外国使節の迎賓館が出てきているではないか。寧ろ、開国して海外の国々と堂々と付き合うのが祖法ではないか」と主張して、幕府や朝廷にも一目置かれていた。
ただし「幕府主導の国内体制を早急かつ根本的に変革するのは国内の混乱を起こしかねない」と佐幕派に近い内政論だったので、松陰には嫌われており、長井も松陰を「才能は素晴らしいが意見が過激だ」と悩みの種であった。
松陰が安政の大獄で江戸に送られた際の責任者が長井であったが、長井は松陰を粛清する気は毛頭なく、「梅田雲浜との共謀は潔白なのだから、私が君のアリバイの証拠を纏めて幕府に提出するまで、正直に共謀していないとだけ言い続けなさい」と松陰に念押ししたが、結果は上記の通り。
長井は死ぬまで松陰を助けられなかった事を悔やんでいたと言われている。
因みに、高杉晋作の父の小忠太は長井から「自分の死後に残される娘の後見を頼む」と遺書で頼まれる程の親友で、高杉父子によって長井の娘は無事に保護された。
佐久間象山が江戸木挽町に私塾「五月塾」を開いていた頃、松陰か入門を願って国許から直接やって来た。
松陰は髷が解けてザンバラ髪、ヒゲは生やしたい放題、着物は垢と埃で真っ黒、大小の鞘は色が剥げて、落ち武者同然の格好だった。
当時、応対を担当したのは小林虎三郎。
小林は松陰がただ者ではないと見抜くも、師匠の象山もクセが強い人である事を理解していた。
このまま面会したら互いに不幸になると思い、松陰を説得して長州の江戸屋敷に戻らせ、身だしなみを調えてから、再度、象山と面会するように手配した。
結果は象山は松陰を気に入り一発採用。
たちまち頭角を現し、佐久間象山は
「天下、国の政治を行う者は、吉田であるが、わが子を託して教育してもらう者は小林のみである」
と評し、同時代人から
『象門の二虎』
と呼ばれた。
松陰は初対面での小林に
「私が先生(象山)に初めて会ったとき、虎三郎が紹介してくれた。
虎三郎は天然痘で顔にあばたがあり私と同類。
年齢も同じくらいで、名前も偶然「虎」で同じである。
ただ違うのは虎三郎には才能があるが私にはないことだ。
虎三郎は先生との関わりで罪を負うことになったが、私は罪を犯して先生に迷惑をかけてしまった。」
と感謝を記している。
インターネット上で『吉田松陰』と画像検索すると、たいてい古写真のようなタッチの面長で目が大きく描かれている画像と、やや老け顔で糸目に描かれている肖像画がヒットする。
前者は松下村塾生の最後の生き残りである渡辺蒿蔵が、「松陰先生の写真といわれるものが私のもとに持ち込まれ、鑑定を依頼されたが、あれは松陰先生の写真ではない」と否定しているものである。
この画像はおそらく国立国会図書館所蔵の『近世名士写真 其2』に収録されているもので、松陰が活躍した時代はまだ写真技術が浸透していなかったので、写真に似せたタッチで肖像画を描き、写真に撮影して複製したものを同書に収録したのではないかと推測される。
また、後者の肖像画は松下村塾生の一人であった松浦亀太郎が松陰の江戸護送が決まった際に、野山獄に赴いて実際の松陰の姿をモデルとして普段着姿と正装姿と複数枚描いたものである。
江戸護送が決定した松陰はこのころ、やつれて髪は伸び放題であったが、松浦はそうした姿を残すのではなく、いつも通り生徒たちに講義している姿を残そうとしていた。
一説には、亀太郎が松陰の肖像画を描く最中、松陰が自らアドバイスしていたといわれる。
参考文献
- 奈良本辰也『幕末維新人名辞典』
- みなもと太郎『風雲児たち』
余談
日本のシンガーソングライターである、つボイノリオは、彼をテーマとした楽曲『吉田松陰物語』という楽曲を作成している。
が…その内容は……。
これとか、
この項目を読んで察してください。
追記、修正は「松下村塾」を再興してからお願いします。
- 吉田松陰物語を山口県民の前で歌うとどんな目に遭う事か -- 名無しさん (2024-07-07 04:01:57)
- ↑別になんもならんよ。幕末のキーパーソンを多数輩出したけど、項目中にあるように松陰自身はだいぶアレだから…。下手にしっかり教わる分山口県民としてもうん…って感じの人は多い。 -- 名無しさん (2024-07-07 06:03:59)
- 何と言うか…ロックなお方だったんだねぇあ -- 名無しさん (2024-07-07 08:26:25)
- 吉田松陰死んじゃいや -- 名無しさん (2024-07-07 08:42:43)
- 誰が言ったかテロリスト塾 -- 名無しさん (2024-07-07 09:02:03)
- 早速つボイノリオがわいてて草 -- 名無しさん (2024-07-07 09:53:11)
- 人格者のイメージあったがやべーやつだったわ -- 名無しさん (2024-07-07 11:28:32)
- 山縣有朋は友人から松下村塾への入塾を勧められたけどその時は文学の士じゃないからって理由で断っている。 -- 名無しさん (2024-07-07 11:34:18)
- 意外とドラマや映画など映像化作品の主人公は少ないんだよな、この人。波乱万丈な人生の割に。関テレがゴールデンタイムにドラマ化して平均視聴率1.8%と大爆死。それ以降、黒歴史扱いされたとか。 -- 名無しさん (2024-07-07 11:46:25)
- 長州のやべーやつ。 -- 名無しさん (2024-07-07 11:54:32)
- この人に限らず、幕末の長州を映像作品での主役で描くのが難しすぎる。藩の姿勢があっち行ったりこっち行ったりなもんだから… -- 名無しさん (2024-07-07 14:38:51)
- どうしようもないお人好しなんだろうけどそれが魅力 -- 名無しさん (2024-07-07 16:30:16)
- 物凄いインテリなのに直情家で行動派と言う典型的な過激派なんだけど、そんな一言で切って捨てられる人物でもないし、創作で描く際の難易度が高すぎるせいか美化するかナレ死が多い気がする。 -- 名無しさん (2024-07-07 17:04:01)
- ↑3一番は禁門の変で孝明天皇の住まいに直接砲弾ブチ込んだ連中で、明治の帝国議会でも問題視されていたから。島田三郎という旧幕臣あがりの代議士が、御所に砲弾ブチ込んだテロリストが靖国神社に埋葬され、孝明天皇を守護して戦死した会津武士が埋葬されないのはどうして?教えて山縣さん?と訊ねた。結局、禁門の変で亡くなった会津武士31名は靖国神社に埋葬された。長州は孝明天皇から陣羽織を下賜されて官軍だったし、会津も孝明天皇の宸翰で徳川の社会秩序や体制を守ってほしいとお願いされたのが、あの結果。孝明天皇が権利は行使するが責任は他人に擦り付ける他責思考の人。今まで徳川幕府が責任を被ってくれたのを急に責任取れってのも無茶苦茶な話ではある。孝明天皇が最後まで政治の責任を誰かに被せようとあがき続けたのが幕末。実際、明治天皇が少年というのもあるが、全部物事進んだからね。 -- 名無しさん (2024-07-07 18:47:59)
- インテリで無私の人、極度の理想主義者で俗世など理解できずする気も無いってイメージで何となくゲバラと重なる。仮に明治まで生き延びたとしてもゲバラと同じで役人や政治家の様な生き方は出来なかったんじゃないか? -- 名無しさん (2024-07-07 23:35:14)
- ↑師匠の玉木文之進が明治9年(1876)の萩の乱で割腹自殺している。弟子や養子が前原一誠の「殉国軍」に参加して、敗北。塾もテロリスト養成所と見なされて閉鎖された。玉木的に御一新はこんなはずでは無かったのに、どうしてこうなった感が強かった。身も蓋もない言い方をすれば、俗物を理解出来なかった、の一言に尽きるけど。 -- 名無しさん (2024-07-08 00:58:38)
- ↑3 長州側の理解が高かった大河ドラマが長州メインの花燃ゆではなく、敵側から描かれた八重の桜なのは皮肉だよね -- 名無しさん (2024-07-08 06:35:24)
- ↑長州人も山本覚馬、日下義雄、石塚英蔵と使えるなら抜擢して重用したからね。山本覚馬は槇村正直の政治顧問みたいな立場だったし、日下は旧姓石田。弟は飯盛山で自刃した白虎隊士の和助。本人は箱館戦争まで戦い抜き、釈放後、井上馨に弟子入り。アメリカ留学後、長崎県や福島県の知事を務めたり、衆議院議員を務めた。石塚は、帝国大学法科大学政治学科を首席で卒業。法制局参事官、台湾総督府勅任参事官、貴族院勅選議員、台湾総督、枢密顧問官まで登り詰めた。そうした人達の方が長州を良く理解かも。 -- 名無しさん (2024-07-08 12:04:09)
- 松陰の他に玉木文之進から学んだ有名人として他に乃木希典がいる。二人とも後に教育者となるが共通点が「体罰厳禁」な辺りかつての師匠に思う所はあったんじゃなかろうか。 -- 名無しさん (2024-07-08 12:22:19)
- 平田弘史の伝記劇画でも真っ直ぐ過ぎてエキセントリックな激情家という描き方だった -- 名無しさん (2024-07-08 22:43:58)
- 今の時代なら絶対に受け入れられない人間だとは思う。けど凄い人だ。そうとしか言えない -- 名無しさん (2024-07-11 17:49:27)
- 自分の教え子には伯父のような教え方をやらなかったあたり伯父には感謝してるがそれはそれとして内心あの教え方はクソだったなって思ってたんだろうな -- 名無しさん (2024-07-19 23:35:21)
- 吉田松陰の思想を紹介した超訳版みたいな本を読んだことがあったが、とにかく一切の妥協を許さないし、言ってることは富野由悠季より過激。でも、「たまにこういう人現れるんだよなぁ」というのは理解できる。 -- 名無しさん (2024-07-20 12:38:50)
- 山県を明倫館時代の弟子と記していますが、松下村塾を主宰していた頃の山県の身分は仲間なので明倫館には入学出来ません。あの学校は士分専用の学問所です。山県が士分に採用されたのは文久3年1月3日です。本人は久坂玄瑞の紹介で松下村塾に在籍したと話しているけど、在籍1ヶ月で吉田松陰が謹慎、獄中、斬首になった。大正11年(1922)に松蔭の生誕地に設置された記念碑の表面に、「吉田松陰先生誕生之地碑 門下生 山縣有朋」と揮毫している。松陰本人は山県を「気」の人と入江九一宛の手紙に書いているが、入塾までは一度も接点がないから他人に山県って誰?と手紙で尋ねている。伊藤博文は来原来蔵の紹介で松下村塾に入ったけど、在籍期間は短いとか、身分が低いため塾の敷居をまたぐことは許されず、戸外で立ったままの聴講に甘んじていたとか、「今は大した事ないけど、伸びしろは計り知れないと」と伊藤を松陰が評していたと、昭和まで生き残っていた渡辺蒿蔵(わたなべこうぞう)が証言している。 -- 名無しさん (2024-07-20 13:44:48)
- こんくらい狂った考えを持ってないと時代は動かせねぇ!!…っていうのはわかるが、正直身内には欲しくないタイプ -- 名無しさん (2024-07-25 21:58:41)
- 吉田松陰が伝馬町の牢に入獄した時、佐久間象山の同門で長州毛利家重臣•浦家の家臣•白井小助(しらいこすけ)だけが自分の私財を投げ売って松陰の生活を援助した。松陰門下生は松陰を見て見ぬ振り。松陰が処刑された後、幕府の悪口を言い始めた。本当の友人や弟子なら危ない時こそ手を差し伸べるべきを、松陰を見殺しにして我が世の春を謳歌している姿勢に白井は腹を立て、品川弥二郎(しながわやじろう)、山県有朋(やまがたありとも)らに説教をしに行った。今なら吉本興業の売れない先輩芸人が売れている後輩芸人にリスペクトがないと、説教している感じ。白井以外の長州系維新志士は松陰を見殺しにした事に後ろめたさがあるのか、白井の説教を一通り聞いてから帰って貰うのが通例になっていた。山県は特に白井に可愛がりを受けていて、夫人が衣類を身に纏ったまま酒樽に漬けられたり、大便が終わった後の尻を拭けとか言われ、夫人が山県にブチ切れると、山県は白井に頭が上がらないと言い、夫人に平謝りだった。白井が1902年に亡くなると、例の碑文を書いている。白井存命中なら絶対に出来ない。ちなみに松陰の小助に対する評価は「器用で何でもこなすけど、飽きっぽいから、長続きしないのが玉にキズ。我慢して一つの物事を達成して下さい。そうすれば世間のアナタを見る目は変わります」との事。 -- 名無しさん (2024-07-31 07:11:46)
- ↑↑マキアヴェッリが「狂った時代に何かやれるのは狂った奴だけ。あなたが何かやれていたら、私はそのほうが心配だ」と友人あての手紙に書いたという話を思い出した。 -- 名無しさん (2024-08-16 23:29:13)
- 吉田松陰の死因は自業自得だからな。それで徳川幕府を恨むのも筋違いという気はする。遠島だったのが死罪になったのは徳川幕府のせいかも知れんが。長井の言う通り、黙秘を貫いていたら、禁錮30日、国許に戻り蟄居で済んだと思う。 -- 名無しさん (2024-09-15 07:05:19)
- SNSやらせたら毎秒炎上する幕末偉人筆頭 -- 名無しさん (2025-04-02 16:09:54)
- やってることがすごすぎるし教え子もいっぱいいるせいで忘れるけど享年30歳なんだよな・・・ -- 名無しさん (2025-04-02 17:08:17)
- 教えを受けた幕末の志士たちが維新回天を成し遂げ新時代を開いたが、ある意味でこの人も維新の志士だった。 -- 名無しさん (2025-04-03 21:18:33)
最終更新:2025年04月10日 12:48