吉田松陰

登録日:2024/07/06 Sat 23:21:30
更新日:2025/04/10 Thu 12:48:44
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(よし)() (しょう)(いん)とは、幕末の人物である。
生没年:文政13年8月4日〈1830年9月20日〉- 安政6年10月27日〈1859年11月21日〉
諱は矩方(のりかた)。字は義敬。
享年30歳。


弟子の松浦亀太郎(松洞)による吉田松陰の肖像画。画像出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E6%9D%BE%E9%99%B0 ウィキペディア『吉田松陰』のページから引用。

生涯

長州藩士・杉百合之助の次男。幼少期や青年期は「杉寅之助」と名乗った。
きょうだいは兄で杉家を継いだ杉民治(梅太郎)の他妹4人・弟がおり、2番目の妹寿(久子)は長州藩士小田村伊之助(後の楫取素彦)と結婚。末の妹文(美和子)は松陰の教え子久坂玄瑞と結婚するも夫に先立たれ、明治時代に妻である姉を喪った楫取素彦と再婚した。

誕生後ほどなくして天然痘に罹患し、一時生死の境をさまよう。幸い一命をとりとめたが、顔に後遺症のあばたが残り終生消えなかったという*1
数えで4歳のころ、叔父の山鹿流兵学師範・吉田大助の養子となり兵学を学ぶが、大助はこのころ結核を患っており、寅之助の養子入りから1年後、講義中に吐血して壮絶な最期を遂げた。

大助亡き後はもう一人の叔父・玉木文之進が開いた萩の松下村塾でスパルタ英才教育を受けた。
文之進は甥に講義の場では自らを「叔父上」ではなく「先生」と呼ぶことを強い、寅之助は頬に蚊に刺され、少し掻いただけでも「人の講義中に頬を掻くのは私事の愉しみだ!」と怒鳴りつけられ*2「教科書の頁の開き方が悪い」という些末な理由で顔が変形するほど殴りつけられることもしばしばあった。
あまりの教育の苛烈さに、「女性である」ということで口出しを一切許されなかった松陰の母・タキは、寅之助が死んで楽になることさえ願ったほどであったという。
寅之助も長じてのちは「死ななかったのが不思議なくらい、それはそれは厳しいものでした」と述懐している。
しかし、ひとたび講義の場を離れれば、文之進は松陰をこの上なくかわいがったといい、前述の教育の苛烈さは文之進の嗜虐性に基づくものではなく、愛情ゆえのものであった。
それを寅之助は理解していたから、叔父に従いこそすれ、反抗はしなかったのだ。まあ、そんなことしたらその日が寅之助少年の命日になっていただろうが。
ただし、松陰の教育方針と、松陰より時期は遅いものの玉木から教えを受けていた後の陸軍大将・乃木希典の教育方針の共通事項には「体罰厳禁」というモットーがあり、松陰にも乃木にも、玉木に対して多少なりとも思うところがあったのではないかと推測される。

6歳になってからは吉田家を継ぎ、吉田大次郎のち「吉田寅次郎」と名乗り、文之進の教えを得て兵学や史学を修めた。
その神童ぶりから、藩主・(もう)()敬親(たかちか)に抜擢され、9歳の時には藩校・明倫館*3の教授に就任し、弱冠11歳で藩主に御進講を行い、13歳で西洋艦隊撃滅演習などを講義した。
15歳で山田亦介(またすけ)*4より長沼流兵学の講義を受け、山鹿流と長沼流を修めた。

だがやがて、アヘン戦争で清がイギリスに大敗したというニュースを耳にし、自身の学んできた兵学が時代に追い付いていないことを痛感した寅次郎は、平戸や江戸に遊学した。
平戸では葉山左内に、江戸では佐久間象山に出会い、西洋の兵学や蘭学を学んだ。
嘉永5(1852)年には同志の熊本藩士・宮部鼎蔵*5と東北旅行を計画するが*6、寅次郎は「藩の制度よりも友人との約束の方が大事です」とばかりに藩庁から通行手形が発行・支給されるのを待たずに脱藩し、東北遊学に赴いた。
しかし、藩の制度を破っておいて許されるはずもなく、江戸で拘束され、長州に強制送還されたのちに脱藩の罪で軍学師範を解雇させられ、寅次郎は武家社会では死人同然の身分となった。
しかし、藩主・毛利敬親は寅次郎の才能を気に入っていたため、「父親の育み(正武士の部下)に降格」という名目で寅次郎の罪を許した。それでええんかい


安政元(1854)年、前年のペリー来航のニュースに触発されてから抱いていた海外密航の計画を実行するため、漁師の船を盗んで同志の金子重之輔とともに下田港のアメリカ軍艦ポーハタン号に乗り込もうとした。
が、なんとか軍艦に拾っては貰うも、(万が一に備え相手側に偽名を名乗っての)密航の件はあえなく拒絶され、陸に帰された後一時的に金子とともに伝馬町に投獄。
その時*7叫んだ「我、メリケンに行かんと欲す!」という言葉は有名である。
そうして、ほどなくして長州に強制的に帰され、萩の野山獄に入獄となった。
なお、金子は伝馬町の牢獄の劣悪な環境により体調を崩し、野山獄に護送されてからほどなくしてこの世を去っている。
師の佐久間象山も「寅次郎の荷物に密航を応援する象山の手紙が入っていた」という理由で一時投獄されている。金子も佐久間もとんだとばっちりである


ここで富永有隣*8や、高須久子*9と知り合い、寅次郎は囚人たちや牢番に対して論語などの講義を行った。
牢番の方も寅次郎がかつて藩の兵学師範だったことを知っており、罪人であるにもかかわらず寅次郎を丁重に扱い、また師匠として寅次郎を尊敬していた。
寅次郎はただ教える立場にのみ立っていたわけではない。本草学*10に精通していた囚人からは薬草と毒草の見分け方や薬としての処方の仕方を教わり、久子からは日本各地の民話*11について教わった。
この「一方的に教えるのではなく、皆で一緒に考えて学ぶ」という姿勢は、のちの「松下村塾」にも受け継がれている。


 出獄後は藩庁の勧めから、「寅次郎」名義で大っぴらに私塾の開設などを行うことを憚って「松陰」を名乗り、かつて自身も幼少期に学び、閉業状態にあった「松下村塾」を復活させた。
この「松下村塾」からは久坂玄瑞高杉晋作伊藤俊輔(博文)*12吉田稔麿寺島忠三郎入江九一野村靖兄弟、佐世八十郎(前原一誠)、赤根武人品川弥二郎山田顕義山縣有朋など、幕末という時代の転換点を走り抜いたそうそうたる顔ぶれを輩出している。
しばしば誤解されるが、桂小五郎(木戸孝允)志道聞多(井上馨)はいずれも明倫館時代の松陰の生徒で、松下村塾出身者ではない。
また、山縣有朋に至っては、青年期は「中間」の身分で、士分専門の明倫館にすら入学できるような身分ではなかった*13。本人は「久坂玄瑞の紹介で松下村塾に在籍した」と話しているが*14、在籍1ヶ月で松陰が謹慎、獄中、斬首になったので、松陰との面識はかなり薄い*15
にもかかわらず、山縣は死去前の大正11年(1922)に松蔭の生誕地に設置された記念碑の表面に、「吉田松陰先生誕生之地碑 門下生 山縣有朋」とヌケヌケと揮毫している。


 安政4(1858)年、江戸幕府が外国との不平等条約*16を無勅許で締結したことに激怒し、老中・間部詮勝を条約締結の首謀者とみなし、「間部に条約の破棄を迫り、もし間部がこれを拒絶すればすぐにでも間部を討ち取る」という計画を考えるようになる。
そのために藩に武器や弾薬の貸し出しを要請するが、藩からは拒否された。はいそこ、「そりゃそうだ」とか言わない

腹の虫がおさまらない松陰は、次に伏見にて、勅使・大原重徳と参勤交代で伏見を通る毛利敬親を待ち受け、京に入る伏見要駕策への参加を計画した。
自分の提案について消極的な態度しかとらない藩に業を煮やしていた松陰は、幕府こそが自身の提案の障害であると考え、豪農・豪商・郷士など、当時社会的な身分が格下であるとされた人々が団結し、政治形態の転換を図るという、いわゆる「草莽崛起論」を声高に唱えた。
どう考えても計画があまりに壮大かつ杜撰すぎて失敗する未来しか見えない伏見要駕策に関しては久坂玄瑞や高杉晋作、桂小五郎が手紙で説得し、思いとどまらせようとしたが、松陰は
「危険が去ってから動こうというのか? それで手柄を得ようという考えか? 僕は忠義をする積り! 諸君は功業をなす積り!」と逆ギレをかまし、久坂と高杉を破門している。
とはいえ、破門宣言は一時的なものにすぎず、翌日久坂が桂と面会に来た際には、快く迎え入れている。


徐々に過激化していく松陰の思想に閉口して、長州藩は松陰を再び野山獄に投獄した。安政6年(1859年)、「安政の大獄」の手が松陰にも及んだ。
かつて萩を訪れて松陰と語らったことのある梅田雲浜が幕府に捕縛されると、松陰もこれに連座して江戸の伝馬町に贈られることとなった。
評定所にて松陰は、かつて萩で梅田と松陰が語った内容について問いただされたが、松陰は白熱するあまり、聞かれてもいないのにうっかりかつての老中・間部詮勝の暗殺計画を自白してしまう。うっかりってレベルじゃねーぞ!
これにより、松陰は死罪を宣告された。
安政6年10月27日(1859年11月21日)、伝馬町牢屋敷の外で松陰は斬首された。享年30歳。
「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留めおかまし 大和魂」(「留魂録」の冒頭)
「親思ふ 心にまさる 親心 けふのおとずれ 何ときくらん」(家族あての遺書)
「このほどに 思い定めし 出立は けふきくこそ うれしかりける」(字余りを継ぎ足そうとした墨の点が、松陰の絶筆となった)

いずれも松陰の辞世の句である。

松陰の刑死から二日後、桂小五郎や伊藤俊輔、松下村塾生の飯田正伯と尾寺新之丞が小塚原に松陰の遺骸を引き取りに赴いたが、罪人ということで引き取りは許されず、回向院の墓地に埋葬した.この時の4人の中でも最年少(17歳)であった伊藤俊輔少年(後年の伊藤博文)は引き取り作業の最中に号泣し、作業を手伝うことができなかったが、他のメンバーも伊藤の心情を理解していたからか、伊藤を叱ることはなかったという。


松陰の激烈な遺志は、松下村塾生や明倫館生に引き継がれた。そのうち数名乱世斃れたが、*17により徳川幕府が倒され、明治新政府が樹立されるのである。



逸話

  • 雅号
号の「二十一回猛士」は、いわゆるアナグラムである。
まず、本姓の「」を分解すると、「」「」「」となり、合計すると「二十一」。
そして、一般に名乗った姓の「吉田」の「」を分解すると、「」(十一)と「」で「二十一」、「」と「」で「」。
これと幼名の「寅次郎」の「」=「獣」ということで、「二十一回猛士」の由来となった。

  • 人物評
人物を論評するにあたっては公正であった。
安政の大獄により、自身が捕縛されるきっかけを作った井伊直弼については彦根藩の統治だけなら「名君」と評価しており、直弼のシンパであった水野忠央についても「奸にして才あり」と才能を評価していた。

  • 教え
自身の愛弟子たちに「狂愚まことに愛すべし、才良まことに虞るべし。諸君、狂いたまえ」と常日頃説いた。この言葉は松陰の一生を代弁するものとして知られる。

  • 大攘夷と小攘夷
尊王攘夷派ではありながらも、その思想はすぐに外国を追い出そうとする「小攘夷」ではなく、一旦開国を認めて国力を高めた後に外国と渡り合おうとする「大攘夷」に近い。
アメリカへの密航を企てたことからわかるように、むしろ積極的に西洋の知識を吸収しようとしていた。
井伊直弼の条約締結にブチギレたのも「無勅許」ゆえであり、攘夷よりも尊王由来の怒りである。

  • ライバル・長井雅樂
最大のライバルとされるのは同じ長州藩の尊王開国派・長井雅樂
優れた歴史家であった長井は「鎖国は島原の乱以来の300年にも満たない慣習で、それ以前は開国していた。その証拠に古典に京都の外国使節の迎賓館が出てきているではないか。寧ろ、開国して海外の国々と堂々と付き合うのが祖法ではないか」と主張して、幕府や朝廷にも一目置かれていた。
ただし「幕府主導の国内体制を早急かつ根本的に変革するのは国内の混乱を起こしかねない」と佐幕派に近い内政論だったので、松陰には嫌われており、長井も松陰を「才能は素晴らしいが意見が過激だ」と悩みの種であった。
松陰が安政の大獄で江戸に送られた際の責任者が長井であったが、長井は松陰を粛清する気は毛頭なく、「梅田雲浜との共謀は潔白なのだから、私が君のアリバイの証拠を纏めて幕府に提出するまで、正直に共謀していないとだけ言い続けなさい」と松陰に念押ししたが、結果は上記の通り。
長井は死ぬまで松陰を助けられなかった事を悔やんでいたと言われている。
因みに、高杉晋作の父の小忠太は長井から「自分の死後に残される娘の後見を頼む」と遺書で頼まれる程の親友で、高杉父子によって長井の娘は無事に保護された。

  • 佐久間象山への入門経緯
佐久間象山が江戸木挽町に私塾「五月塾」を開いていた頃、松陰か入門を願って国許から直接やって来た。
松陰は髷が解けてザンバラ髪、ヒゲは生やしたい放題、着物は垢と埃で真っ黒、大小の鞘は色が剥げて、落ち武者同然の格好だった。
当時、応対を担当したのは小林虎三郎(こばやしとらさぶろう)*18
小林は松陰がただ者ではないと見抜くも、師匠の象山もクセが強い人である事を理解していた。
このまま面会したら互いに不幸になると思い、松陰を説得して長州の江戸屋敷に戻らせ、身だしなみを調えてから、再度、象山と面会するように手配した。
結果は象山は松陰を気に入り一発採用。
たちまち頭角を現し、佐久間象山は
「天下、国の政治を行う者は、吉田であるが、わが子を託して教育してもらう者は小林のみである」
と評し、同時代人から
『象門の二虎』
と呼ばれた。
松陰は初対面での小林に
「私が先生(象山)に初めて会ったとき、虎三郎が紹介してくれた。
虎三郎は天然痘で顔にあばたがあり私と同類。
年齢も同じくらいで、名前も偶然「虎」で同じである。
ただ違うのは虎三郎には才能があるが私にはないことだ。
虎三郎は先生との関わりで罪を負うこと*19になったが、私は罪を犯して先生に迷惑をかけてしまった。」
と感謝を記している。

  • 肖像
インターネット上で『吉田松陰』と画像検索すると、たいてい古写真のようなタッチの面長で目が大きく描かれている画像と、やや老け顔で糸目に描かれている肖像画がヒットする。
前者は松下村塾生の最後の生き残りである渡辺蒿蔵が、「松陰先生の写真といわれるものが私のもとに持ち込まれ、鑑定を依頼されたが、あれは松陰先生の写真ではない」と否定しているものである。
この画像はおそらく国立国会図書館所蔵の『近世名士写真 其2』に収録されているもので、松陰が活躍した時代はまだ写真技術が浸透していなかったので、写真に似せたタッチで肖像画を描き、写真に撮影して複製したものを同書に収録したのではないかと推測される。

また、後者の肖像画は松下村塾生の一人であった松浦亀太郎*20が松陰の江戸護送が決まった際に、野山獄に赴いて実際の松陰の姿をモデルとして普段着姿と正装姿と複数枚描いたものである。
江戸護送が決定した松陰はこのころ、やつれて髪は伸び放題であったが、松浦はそうした姿を残すのではなく、いつも通り生徒たちに講義している姿を残そうとしていた。
一説には、亀太郎が松陰の肖像画を描く最中、松陰が自らアドバイスしていたといわれる。

参考文献

  • 奈良本辰也『幕末維新人名辞典』
  • みなもと太郎『風雲児たち』


余談

日本のシンガーソングライターである、つボイノリオは、彼をテーマとした楽曲『吉田松陰物語』という楽曲を作成している。
が…その内容は……。これとか、この項目を読んで察してください。




追記、修正は「松下村塾」を再興してからお願いします。

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最終更新:2025年04月10日 12:48
添付ファイル

*1 みなもと太郎の著作『風雲児たち』ではこのあばたがしっかり描かれている。

*2 一説には家の外まで引きずり出され、家の近くにある崖から投げ落とされたという……。

*3 入学資格は士分以上の身分で年齢は14歳以上。松陰は飛び級入学である。原則、足軽の品川弥二郎、仲間の山県有朋、農民の伊藤博文は入学を許されない。例外として、育みという士分が身元引受人ならば、足軽、仲間、農民でも入学は可能な制度はあった。

*4 のちに松下村塾で松陰が教えを授けることになる、山田顕義(陸軍少将)の叔父にあたる人物

*5 松陰刑死から5年後、京都・池田屋にて松陰の愛弟子であった吉田稔麿とともに新選組に斬られて死ぬ

*6 ちなみにこの時の目的には「兄を死に追いやった南部藩の悪臣を兄の仇として討ちたい」と告白した南部藩士江帾五郎(後の那珂通高)の決死行を見送るなんて目的があったのだが(なので仇討に縁起のいい元禄赤穂事件の決行翌日と同じ日に旅立とうとしたのもあり脱藩した)、結局江帾は機会を待ちすぎたせいで標的が失脚ししばらく後に他界。目的を無くし計画を断念したというオチがついた。

*7 なおアメリカ側には二度目の来訪という事もあり日本で通じる漢文を解する人が同行しており、実際の交流は主に漢文筆談によって行われたという。

*8 同僚との些細ないさかいがもとで投獄されていた。出獄後、松下村塾の教員として松陰に協力

*9 道端に倒れていた旅芸人(※当時、旅芸人は被差別部落民の職業の一つとされていた)を介抱し自宅で手厚くもてなしたことが「身分制度を犯した罪」とされ、久子は「困っている人を助けるのに、身分の違いはどこにもない」と反論したが、親族が久子の釈放を反対し続けたため、釈放されたのは明治になってのことであった

*10 現在の生物学。植物や動物、鉱物の薬効や毒性の有無、適切な利用法について研究する学問である

*11 現在でいうなら「民俗学」に該当する

*12 昭和時代(戦前)まで生きた最後の松下村塾門下生・渡辺蒿蔵(わたなべこうぞう。幕末期は「天野清三郎」を名乗った)の証言によれば、伊藤の家の身分は高いとは言えなかったので、塾の敷居をまたぐことは許されず、戸外で立ったまま講義を聴くことを余儀なくされていたという。これも渡辺の証言に基づく逸話だが、そうした伊藤の姿勢に感銘を覚えた松陰は、「今は大した事ないが、地頭はよく、伸びしろは計り知れない。いずれ大事を為すだろう」と評価した

*13 本人の伝記では住み込みで明倫館の用務員として働き、備品の管理を行っていた。

*14 入塾前の面識が無く、松陰は「こいつ、誰?」と手紙で問い合わせている

*15 入塾後は入江九一に「根性だけはある」と話している

*16 後世、叩かれた安政の五カ国条約だが、元アメリカ公使のハリスは維新後、ワシントンに来た岩倉具視使節団に、あの通商条約、本当は不平等条約のフルコースにしようと思っていたが、日本側が外国人の国内自由通行権不可を強硬に言い出し、引き換えに治外法権を認めさせた。関税自主権も外国人自由通行権を認めるよりマシという考えで妥協していたなど、日本側に配慮した条約だったと話している。

*17 高杉晋作は倒幕に大きな役割を果たしたが、肺結核により大政奉還以前に夭折

*18 長岡藩士。戊辰戦争後、米百俵の逸話を残す

*19 小林の主君が老中の牧野忠雅である事に目を付けた象山が下田開港反対、横浜開港を主張する建白書を小林に書かせて提出、幕府筆頭老中・阿部正弘を動かそうとしたのである。ところが小林は一書生の身でありながら国政に口をだしたということで、藩から帰郷謹慎を命じられた。

*20 号は松洞。師の吉田松陰と同じくアメリカに渡ろうと試みるなど、町人でありながら尊王攘夷の志を持っていた。渡米に関しては松陰から「今は勤皇倒幕のために行動を起こさなければならない時期なのだから、海外に渡るのはもう少し待ちなさい」と説かれ、これを断念している。松陰の死後、久坂玄瑞や前原一誠が尊王開国派・長井雅楽の暗殺計画を立てるとこれに賛同し京に赴くが、仲間のうちの穏健派から長井暗殺の無謀さを説かれ、考え直すよう説得されたことにたいして抗議するため割腹自殺を遂げた