立花道雪

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更新日:2025/03/21 Fri 22:34:49
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立花道雪(たちばなどうせつ)とは、戦国時代の武将の一人である。
大友宗麟に仕え、数々の戦に出陣した。
前名の「戸次鑑連(べっきあきつら)」でも知られている。

【生没年】永正10年3月17日(1513年4月22日)~天正13年9月11日(1585年11月2日)
【出身地】豊後国

生涯

大友家の庶流で豊後鎧岳城主の戸次親家の子として生まれる。
幼いころに母親を病で失い、父親も病弱であったため、父の後妻に育てられた。
大永六(1526)年、14歳(以下、数え年)のときに父親が亡くなり、元服して戸次氏の家督を相続した。
家督相続後は大友義鑑(おおともよしあき)に仕え、初陣で敵将を捕縛するという武功を挙げて義鑑に賞賛された。
わずか14歳と、現在でいえば中学一~二年生の頃から、「戦の天才」としての片鱗を見せていたのである。

天文十九(1550)年、義鑑は長男・義鎮(よししげ)を廃嫡し、溺愛していた三男の塩市丸(しおいちまる)を次期当主に任命しようとしていた。
義鎮を次期当主に推薦する派閥はこの処置に反発し、義鑑の館を襲撃した。これが『二階崩れの変』である。
義鑑はこの時受けた傷がもとで死亡。この襲撃で、義鑑と同じく塩市丸派であった義鑑の妻(宗麟から見て継母にあたる)や塩市丸も死亡している。
鑑連は義鎮の家督継承のため尽力した。
「二階崩れの変」の直後、阿蘇氏を頼って肥後国に逐電した塩市丸派の入田親誠を追討、さらに肥後において菊池義武を討伐し、隈本城を攻め落とした。
この時、義鎮の廃嫡を義鑑とともに画策した舅の入田親誠を成敗し、けじめをつける為に妻とも離縁した。
こうして、道雪は義鎮の大友家の家督継承を成功させたのである。

天文二十二(1553)年、41歳となった鑑連は異母弟の鑑方の子・鎮連を養子に迎え、戸次氏の家督を譲って隠居している。
とはいえ、この隠居はあくまでも名目上であったようで、その翌年には肥後に侵攻し、菊池義武を滅ぼしている。
以降も実質上は現役の大友家臣として働き続け、筑前への進攻を目論む毛利元就との抗争に尽力する。
元就の外堀を埋めるため、弘治三(1557)年には元就の同盟者であった秋月文種を攻めて自害に追い込み、
その直後義鎮の異母弟・大内義長が元就に討たれた際には、旧大内領の確保にも努めた。
そうして、永禄4年(1561)年には豊前に出陣し、元就と戦った。
毛利氏との戦闘は永禄六(1563)年、室町幕府第13代将軍・足利義輝の仲介により毛利・大友両氏の間で一時的に休戦協定が締結されるまで続いた。
この元就との戦闘の功績により、義鎮の補佐役である加判衆に任じられた。
翌年には出家して「宗麟」と名乗った義鎮(以下、「宗麟」と表記する)に倣い、自らも剃髪し、「道雪」と名乗った(以下、「道雪」と表記する)。

永禄十(1567)年、秋月文種の遺児・種実が毛利氏の援助を得てひそかに筑前に入り、秋月氏再興のため挙兵した。
種実に呼応して、大友家重臣・高橋鑑種が反旗を翻した。さらに、筑後国衆・筑紫広門も反旗を翻した。
同年七月、宗麟は秋月・高橋両氏の討伐のため挙兵する。
当初は家臣・斎藤鑑実が広門を打ち破り、大友方に有利であったが、思いのほか秋月氏の抵抗がしぶとく、
同年九月には道雪も陣頭に立って戦うことを強いられ、休松の戦いでは種実の夜襲により、異母弟の戸次鑑方や従兄弟の戸次鎮方が死亡している。
大友勢が押される状況の最中、筑前国衆の中から原田隆種や宗像氏貞などの離反者が相次ぎ、
更に毛利元就の調略にかかり、宗麟の重臣で大友方の重要拠点である立花山城主・立花鑑載が毛利方に寝返って立花山城が毛利方の手に落ちた。
そしてさらに悪いことに、肥前の龍造寺隆信が宣戦布告し大友氏攻略に乗り出したことで筑前戦線は崩壊の危機を迎えていた。
もはや立花山城の奪還以外に戦局を好転させる方法はない
と踏んだ道雪は、翌永禄十一(1568)年の春から立花山城を包囲。
3ヶ月間の攻城戦の結果、七月に立花山城の奪還に成功し、鑑載は自害。
鑑載の死により、後ろ盾を失った秋月・宗像両氏は降伏。これにより、筑前戦線は崩壊の危機を免れた。
しかし、大友氏の目前には「毛利」という巨大な壁が立ちはだかっていた。
この翌年の永禄十二(1569)年4月、吉川元春・小早川隆景の軍勢が筑前を攻略し、
その一か月後には立花山城が再び毛利方の手に落ちるなど、大友vs毛利の戦闘は終わりを迎える気配を見せなかった。

多々良浜の戦いでは道雪自ら陣頭に立って毛利方の主力である小早川隆景勢を撃破したが、一方で戦況は膠着状態となった。
宗麟は事態の打破のため、食客として大友家にいた大内輝弘*1に兵を与えて周防に送り込み*2、大内氏を再興させた。
そうして輝弘は近隣地域に潜伏していた旧大内家臣を呼び寄せ、毛利方の周防における重要拠点である高嶺城を攻略。
一方そのころ、尼子家家臣・山中鹿之助が尼子勝久*3を奉じて尼子家再興のため出雲へ攻め込んでいた。
大内・尼子の勢力が動き出したことで毛利氏は戦線の維持が困難になり、同年11月に筑前から撤退し、大友vs毛利の戦闘はようやく終結した。

筑前での戦いで、道雪は大友家主将として戦った功績を認められ、元亀二(1571)年に立花氏の名跡を継承し立花山城主となった。
しかし、道雪は「立花の姓は縁起が悪い」として生涯「戸次」の姓を名乗り続けていた。
この時から道雪は城督として筑前の軍権を握ることとなり、長年勤めてきた加判衆を引退している。
天正三(1575)年、戸次家の家督を継いでいた甥・鎮連の子統連に立花氏の家督を譲るよう命ぜられたが、道雪は拒絶して重臣の薦野増時を養子に迎えようとした。
しかし、増時が養子となることを辞退したため、道雪はただ1人の実子である「ぎん千代」*4に家督を譲り、立花山城主としている。
その6年後には道雪と同じく大友家重臣であった高橋紹運の長子・統虎を婿養子として迎え*5、統虎が長じて「宗茂」と名乗ってからは彼に家督を譲った。

天正6(1578)年、宗麟は筑前戦線の崩壊の危機から逃れて調子に乗ったのか、よりにもよって島津氏の征伐を計画する*6
島津氏の強さを見抜いていた道雪はこれに反対するが、宗麟は道雪の反対を押し切り日向進攻を決定。
しかし、この判断が後に大友家に最悪の事態を招くことになる。
こうして行われた日向進攻だったが、その進攻で起こった耳川の戦いで大友軍は惨敗。
参謀役の角隈石宗(つのくませきそう)や重臣の吉弘鎮信*7・斎藤鎮実・佐伯惟教・田北鎮周が戦死したことで、宗麟は大友家の勢力を大いに落としてしまった。
これ以降も道雪は対島津戦に出陣し続けたが、天正12年(1584)年の沖田畷の戦いで島津義久が肥前の龍造寺隆信を滅ぼしてから、島津氏は一層勢力を増強しており、
これを受けて道雪は筑後の守備にあたっていたが、寄る年波には勝てなかった。
天正十三(1585)年、筑後国において猫尾城などの諸城を攻落したあと、柳川城攻めの最中、高良山の陣中にて病気にかかった。
この時一緒に参陣していた高橋紹運は必死に看病し、高良大社にて道雪の病気平癒を祈ったが、紹運の祈りもむなしく同年9月11日、この世を去った。
自身の一生を戦に捧げた道雪は、享年七十三歳、陣中にてその人生の幕を閉じたのである。
なお、道雪の遺体は戦場から運ばれることとなったが、島津の兵たちは本来敵である道雪の遺体を運ぶ者たちに一切攻撃を仕掛けず、ただ敵将の死を悼んだという。
もちろん、宗麟も重臣の死を深く悲しみ、道雪の後妻に書状を送った。
その書状には道雪への弔意、生前の道雪の功績への感謝、さらに夫が戦場に出る中、家を守り抜いた妻への感謝がつづられていたという。
福岡県新宮町の梅岳寺と福岡県柳川市の福厳寺に道雪の墓がある。

道雪亡き後、彼の立花家を受け継いだ婿養子の宗茂は豊臣秀吉の九州征伐に従い、秀吉の重臣となり、秀吉に厚遇された。
その秀吉の死後発生した関ヶ原の戦いでは、自身を厚遇してくれた秀吉への恩義を忘れがたく、西軍につくが、結果は西軍の惨敗。
これによって改易となり、浪人生活を送ることになるが、大坂の陣直前には徳川家康の誘いを受けて陸奥国棚倉藩主として大名に復帰。
その後発生した大坂の陣では自身を大名に復帰させてくれた家康への恩義に報いるため、徳川軍に与した。
さらに幸運なことに、元和六(1620)年に柳川藩主・田中忠政の無嗣改易により柳河藩主に就任し、めでたく旧領を回復する。
関ヶ原の戦いで西軍につき、改易の憂き目に遭った大名の中では、その後旧領を回復した珍しい例である。
寛永十四(1637)年には70歳と高齢ながらも島原の乱に参戦し、若者に劣らぬ槍働きで周囲を驚嘆させたという。
以降、柳河藩の血筋は宗茂の弟の子孫によって連綿と継がれていき、明治まで命脈を保つこととなった。



逸話

  • 若い頃に落雷を受けて負傷し、半身不随となって以降は輿に乗って戦場を駆け巡ったといわれる。
    落雷を受けた際に雷の中にいた雷神を斬っており、この時に雷神を斬った刀を「雷切」として傍らに置いていたという伝説すらある。
    しかし、秋月氏との合戦においては「自ら太刀をふるって敵の武将七人を斬り倒した」という記述があるが、
    そこに「輿に乗って」という記述は見られないことから、「落雷で半身不随」というのは後世のフィクションではないかといわれる。
    とはいえ、そういう風に多少なりともフィクションを入れないと説明できないほどの強さを持っていたのであろうと思われる。

  • 主君・大友宗麟に忠実に仕えていたものの、ただのイエスマンではなく、しっかり意見するべき時には意見していた。
    例えば、宗麟が「自身のペットの猿を家臣に飛びかからせ、困っている家臣を見て爆笑する」という、いい年こいてしょうもないいたずらにハマっていた時。小学生かな?
    宗麟は調子に乗って道雪にも猿をけしかけたが、道雪は持っていたいた鉄扇で猿の頭をシバき、
    こんなしょうもないことやってたら、いつか家臣が殿のもとから離れていきますよ
    と宗麟を説教した。
    また、宗麟が毎回酒宴を開いていたため、「このままじゃ政務に支障が出る」と判断した道雪は嘘の酒宴を開いて宗麟を招き、それを信じてホイホイやってきた宗麟を長時間説教した。
    耳川の戦いで大敗を喫した際にも「殿のなさっていることは間違っています」という内容の書状を宗麟に送っている。
    道雪は宗麟より17歳年上で、当時の感覚でいえば親子ほど年が離れていた。
    また、なかなか子供に恵まれず、56歳にしてようやく実の子供である「ぎん千代」が生まれているのである。
    前述したとおり、道雪は宗麟の家督継承のため尽力していたことも大きく、道雪にとって宗麟は自分の子供のようなかけがえのない存在であっただろう。
    だからこそ、言うべき時にはしっかりと物言いをし、宗麟に反省を促していたのである。
    宗麟も道雪からの諫言をしっかり受け止め、喉元過ぎて熱さを忘れることは多少はあったが反省していた。

  • いわゆる「理想の上司」とも言うべき人物で、家臣を大事にしていた。
    家臣の中で戦績が振るわず、落ち込む者がいれば
    戦には運がつきものじゃ。お前さんが頑張ってくれてることはわしゃよく知っとるよ。」
    「じゃからこそ、手柄を立てるために無理をして焦って死んでしまってはいかん。お前さんが頑張ってくれるからこそ、わしゃ安心して戦場に出られるというもんじゃ

    と慰め、武具を与えた。
    また、酒の席で客に粗相をした家臣を
    わしの部下が失礼を働き、申し訳ありません。ですが、この者は戦場では何人分もの働きをしてくれます
    と庇い、客の怒りをうまくそらした。

  • 家臣を大事にした道雪だが、一方で戦場においてナメた真似をする人物にはヒジョーに厳しかった。
    例えば、筑前川原崎で蒲池氏と対陣中、年を越すことになった際、一部の家臣が無断で持ち場を離れ、実家に帰ってしまった。
    これを知った道雪は激怒して持ち場を離れた家臣に追っ手を差し向け、その時追っ手に、
    勝手に家へ帰った家臣のみならず、その親も殺せ
    と命じた。
    家老たちは「道雪殿、さすがに親まで殺すのはやりすぎでは?」と諫めたが、道雪は、
    守るべき戦場の持ち場から勝手に抜けだして実家に帰るような奴は武士としての自覚がない。それを叱って追い返さないどころか、温かく迎え入れる親もまた、武士としての自覚がないんじゃよ
    と言い、処分を取り下げることはなかった。
    道雪はこうして優しさと厳しさ、いわば飴と鞭を使い分け、家臣を統率したのである。

創作

残念ながらほとんどない。
というのも、大友家が中央から離れている&島津への噛ませとして描かれがちなマイナー寄りな大名であり、彼自身の知名度も致命的に低いからであろう。
実際に彼と縁が深い大分県や福岡県でも彼を知る者はほとんどいない。
また、娘であるぎん千代に出番を奪われがちなのも彼が不遇がちな要因の一つだろう。
ただし、大友家を舞台とした作品ではほぼ必ず登場し、例外なしに大友家の最強人物となる。
また、戸次の読み方が「べっき」なことからファンからは「ベッキー」と呼ばれる。

大友家の家臣として登場。ドラマCDでは杉野博臣氏が声を担当している。
冗談が通じない生真面目な初老の男性で、主君である大友宗麟がしょうもないことをする度に真顔で諫めたり、
凍てつくような視線や正論パンチを叩き込んで凹ませたりと、大友家におけるツッコミポジション。
また、「雷切」のエピソードから、怒ると放電するという特異体質になっており、時折宗麟も電撃を喰らっている。
自他共に厳しい性格で、敵国に厳しい対応を取るだけでなく家臣や同僚に対しても容赦なく鉄拳制裁を加えたり、
まだ幼い娘のぎん千代に対しても不始末の責任として切腹を命じたりと、飴と鞭を使い分けた史実と異なり、劇中では鞭ばかりを振るっている。
一応、ぎん千代の結婚話に動揺したり、同僚の高橋紹運を気に入っていて、彼の息子を自身の跡取りとして養子に迎えたりと、人間味がないわけではない。

  • 信長の野望
大友家の武将として登場。
九州どころか全国でも屈指の戦闘ステータスを誇り、適性の概念がある作品では足軽としての戦闘能力は全武将でもナンバーワンを誇ることが多い。
非常に長寿でもあり、信長が誕生するシナリオから死ぬシナリオまで約50年間ずっと第一線で活躍してくれる。
余談だが、ぎん千代は何故か内部AIデータが三英傑や信玄謙信といった全国レベルの大大名にしか与えられないSになっていたり*8、父と専用の戦法を共有していることが多いなど、非常に優遇される。

  • 戦国乙女
パチンコ・パチスロで展開されている美少女化した戦国武将が登場するシリーズ。
本作では南蛮で開発されたアンドロイド(絡繰人形)「立花ドウセツ」という設定。
主人である大友ソウリンとは時々毒舌を交えたツッコミを入れながらも強い絆で結ばれている。
詳細は個別項目にて。

追記・修正は雷に打たれてからお願いします。


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最終更新:2025年03月21日 22:34

*1 彼の父親が大内市内で反乱を起こし、大友氏のもとに逃れて食客となっていた

*2 これは大友家の参謀・吉岡長増の献策による

*3 尼子氏滅亡後に僧侶となって生き延びていた

*4 道雪が57歳の時の、後妻との間の子供で、この時わずか7歳である。本来「ぎん」は「もんがまえに言」という漢字なのだが、環境依存文字であるため本稿では「ぎん」と表記する

*5 当初は紹運は統虎を自身の跡継ぎにしたいと考えていたため、道雪からの要請を拒否していたが、度重なる道雪の要請に根負けして養子入りさせた。統虎の立花家養子入りの際、紹運が宗茂に短刀を渡して、「もし俺たち親子が敵味方に分かれて争うことがあれば、お前はこれで父を殺せ。それに道雪殿はふがいない振る舞いが大嫌いだ。だからもしふがいない真似をすれば、道雪殿はお前を絶縁するかもしれない。そんな時には俺のところに帰ってくるな。武士らしく、これで腹掻っ捌いて死ね」と言ったというのは有名

*6 一説にはこの時宗麟はすでに隠居状態にあり、家督を継承していた義統が主導で島津征伐を計画したといわれる。とはいえこの義統、はっきり言ってしまえば「暗愚な二代目」を地で行く男であったため、実験は宗麟が有しており、実質上は宗麟・義統の二頭体制で大友家の家政を担当する運びであった。本稿では通説の「宗麟がイケイケで島津氏征伐を計画した」という説を取り入れて話を進める

*7 高橋紹運の実兄

*8 参考として道雪と宗茂と宗麟はA