島津四兄弟

登録日:2021/06/22 Tue 13:08:24
更新日:2024/03/12 Tue 15:54:38
所要時間:約 6 分で読めます



島津四兄弟は戦国時代の大名島津氏の一族。
いずれも祖父の島津日新斎から個性ある高評価を受け、薩摩一州と大隅の半ばを領するに留まっていた島津氏を九州ほぼ統一まで飛躍せしめた英傑たちである。

島津義久

「義久は三州の総大将たるの材徳自ら備わり」

島津四兄弟の長男であり第16代当主。1533年出生、1611年没。
戦国時代に詳しくない人からは、当時の島津氏当主=島津義弘とだいたい思われてるかわいそうな兄。

耳川の戦い*1のような大戦には自ら出陣しているが、その本領は武働きより家を守ることにある。
ほぼ統一した九州こそ天下人となった豊臣秀吉の征伐で失陥するものの、精強な薩摩隼人の抵抗と講和交渉の硬軟織り交ぜた対応により薩摩・大隅二州と日向の一部を安堵、首脳陣もお咎めなし。
関ヶ原の戦いでも負け組の西軍から弟がダイナミック帰国したにもかかわらず、勝者である徳川家康からの「ちょっとツラ出せ」という要求を跳ね除け続け、最終的に家康が折れる形で所領を安堵する辣腕を見せつけた*2
こうして島津氏は秀吉・家康の二代に渡る天下人の目を掻い潜り、幕末まで着々と力を蓄え続ける。
薩摩隼人が遺憾なく戦えたのも、当主である義久が盤石で控えているからこそ、と言えるだろう。

あまり出陣しなかったことから最強の引きこもりと呼ばれているとかいないとか。というか幼少期は引っ込み思案だったようで、薩摩隼人の風土と致命的に相性が悪かったため、出来の良い弟二人*3と何かと比較されては「賢弟愚兄」と周りからなじられていたようである。毛利隆元・北条氏政「同情するぜ」


島津義弘

「義弘は雄武英略を以て傑出し」

島津四兄弟の次男。1535年出生、1619年没。
息子忠恒(家久)が義久の婿養子として島津家の次代当主になったこともあり、戦国時代に詳しくない人からは当時の当主と思われてる人。
もっともこれは一概に間違いとも言い難く、秀吉政権時代にいやがらせ離間策として義弘に主要地を宛がったことから始まる義久と義弘の「両殿体制」による向きもある。

まだ小勢力に過ぎなかったころから最前線で武を奮い、何度重傷を負っても立ち上がる島津の立役者。
文禄・慶長の役での朝鮮半島侵攻でその武名は頂点に達し、この無双のせいで島津四兄弟は大河ドラマ化されたことがない……と一部ではまことしやかに囁かれていたりする。
朝鮮出兵中に時間を計るためを7匹連れて行った*4なんてほのぼのエピソードも。しかしゆるふわケモノ義弘がいる世界はあっても、ネコミミで女体化した義弘は寡聞にして見たことが無い。何故だ。

その他詳しいエピソードは個別項目を参照。

島津歳久

「歳久は始終の利害を察するの智計並びなく」

島津四兄弟の三男。1537年出生、1592年没。
島津の知力担当。もっとも竹中半兵衛(戦国武将)のようなチートじみた講談があるわけではなく、主な役割は領内統治などの落ち着いたものだった。
しかしながら秀吉の九州征伐に際して唯一開戦前の和平を唱えた一方、開戦後は弱腰な和睦案に断固反対し秀吉暗殺を計画したことからも、その優れた状況判断力がうかがえる*5

だがその代償は大きく、戦後発生した梅北一揆など九州内の反秀吉勢力の責を一身に受け、兄である義久自らが追討軍を派遣する事態に。
最期は島津家安泰のため切腹。家内では多くの者に慕われており、従者二十七人が殉死した。
辞世の句は涙腺崩壊物であり、その生涯から多くの薩摩藩士がファンだったことでも知られている。
その時は病のため体を動かせず、「女の出産も同じくらい厳しく難しいものなんだろうな」と言い残したために安産祈願の神として祀られるようになる。

島津家久

「家久は軍法戦術に妙を得たり」

島津四兄弟の四男。1547年出生、1587年没。
島津四兄弟で一番やべーやつ。大将首ハンターにして薩人マシーン。
戦国時代に詳しくない人からは次男の義弘が一番強いやつと思われがち*6だが、島津氏の戦で龍造寺隆信や長宗我部信親といった大物を次々ぶち殺したのはこいつである。
囮部隊が後退しながら湿地や川など足場の悪い場所へ誘い込み、鉄砲を用いた両面からの伏兵と囮部隊の逆撃で徹底的に殲滅する「釣り野伏」を得意としており、義弘のウリがタフさによる武勇なら、家久はまさしく戦術の天才と言える。
また、1575年には薩摩・大隅・日向三州平定の神仏祈願のため上洛しており、『家久君上京日記』という旅日記も記している。明智光秀に招待されたり馬上で居眠りしてる織田信長を見かけたりしたらしい。

秀吉の九州征伐に際しては四兄弟の中でもっとも早く講和。戦後に秀吉から封じられた佐土原城で急死する。
そのあっけない最期から豊臣方による毒殺説も噂されているが、講和した豊臣秀長の配下による病気を記した書状もあり、詳細は不明。ていうか長男と次男が長生きし過ぎなんだよ。
だが大将首ハンターの遺伝子は、彼の息子へと受け継がれていく。

また、四兄弟では彼のみ母親が違い、歳も離れていた為か最初は義弘と歳久からは良く思われていなかったが、それを義久がかばったと言う逸話がある。過去に二人と比べられては何かと嫌な思いをしたから気持ちがよく分かるのだろう。
なお、甥(義弘の息子)にも同名の家久がおり、彼と比べて「良い方の家久」「豊久の親父の家久」と呼ばれることもある。

創作の島津四兄弟

信長の野望や戦国大戦、戦国IXAといったオールスター作品では全員出演。九州はもちろん全国規模でも高い能力を見せており、特に信長の野望では人気の高い大名である。
理由の一つは最南端という立地から後背を気にする必要が無く、能力の高さもあって初心者でも進めやすい点*7
もう一つは大友家、龍造寺家と「九州三国志」と称される勢力が近辺にいるため適度な歯応えを得られ、彼らを取り込むことで早期の人材強化も実現できることが挙げられる。

対して戦国無双や戦国BASARAといった代表選出型の作品では老年の義弘しか選ばれず、いまいち地味。
これは最盛期でもあくまで地方の争いに終始しておりメインキャラの一角となる信長周りの戦とは特に絡まないこと、
兄弟という性質上、二人以上出したら四人出さないと収まりが悪い、などが原因か。
ぽっと出の小田原で滅ぼされて終わりなんて扱いも珍しくない北条氏よりはマシではあるが……。
なお戦国無双2ではプレイアブルの義弘以下弟二人は老将モブが充てられたが、長男であるはずの義久が若武者モブだった為ネタになった。

前述の通り戦国大戦では4兄弟どころか島津家自体が勢力の一つとして登場。
勢力意匠は色黒+脇出しというもの。また島津宗家は髪が忠恒を除いて赤色である。
そして勢力の顔たる「戦国大名カード」は唯一当主でない義弘が抜擢されている。つまりここでも義久は割を食っている。
非常に高いステータスを持ちながら、全ての鉄砲兵は移動しながら射撃できる「車撃ち」と言う特技を持ち、またダメージの一部を徐々に回復する「気合」を始め特技が盛られまくったせいで環境を荒らし回った。
勿論4兄弟も全員登場。それどころか(特殊なカードを除いて)全員がSR。浅井三姉妹で初だけRにするようなSEGAにしては豪華である。後に年老いた姿等で登場したがそれでもノンレアにはならなかった。
全員ステータス、特技、計略ともに優秀であるが号令持ちばかりの上コストも高い為兄弟を2人以上入れると途端にバランスが悪くなるという調整が成されていた。少なくとも島津4兄弟デッキは諦めたほうがいい。


戦国ランスでは四兄弟全員が出演。女体化はしておらず乙女ゲームに出てそうなイケメン集団となっている。
正史では魔軍の尖兵となるも兄弟全員に死に様の見せ場が用意されている一方、勢力を保っているifルートでは開戦すると自軍の女性武将を寝返らせてくるため「島津死ね」と恨みを買っている。死んでるけどな。
戦極姫では四姉妹になった。

漫画・小説でも四兄弟としてフィーチャーされる作品は少ないが、仙石秀久の生涯を描いた「センゴク」では秀久の地位と評価を急落させた「戸次川の戦い」が描かれるのもあり、貫禄ある強敵として描写されている。

得意分野がハッキリしており四兄弟という特徴もあるため、色々掘られてる戦国時代の中でも今後の開拓に期待できる一族だろう。だからまずは大河ドラマをだな……。





wiki篭りは追記・修正に妙を得たり。

この項目が面白かったなら……\ポチッと/

+ タグ編集
  • タグ:
  • 戦国時代
  • 戦国武将
  • 武将
  • 兄弟
  • チート
  • 日本史
  • 歴史
  • 島津氏
  • 薩摩
  • 鹿児島県
  • 四兄弟
  • 四人組

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2024年03月12日 15:54

*1 九州における当時の一大勢力の一角、大友氏との戦い。動員兵数は島津約2万、大友約3万とされる

*2 当時の家康は政権の主流にこそ立ったものの、名目上はまだ豊臣政権下であり敵を増やしたくなかった事情もある

*3 家久は三人と歳が離れすぎており、比較されなかった

*4 猫は時間に合わせて瞳孔の開き具合が変わる

*5 抵抗力の喪失による降伏と敵方に見なされれば、戦後その弱みにつけ込まれることは想像に難くない

*6 実際義弘も強いっちゃ強い

*7 一方最北端は現在で言う北海道の蠣崎氏、もしくは南部氏という大名なのだが、こちらは世間的にも地味。かわいそう