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更新日:2025/08/15 Fri 03:10:39NEW!
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見習い騎手が騎乗する牝馬が、絶望的なポジションから先頭に躍り出る
史上最年少のダービージョッキー誕生、そして世代の頂点に立つ女傑クリフジに人々は熱狂した
《最年少ダービージョッキー・前田長吉》は勾留先のシベリアでこの世を去った……
クリフジとは、かつて日本中にその名を轟かせた伝説の
競走馬であり、時代に翻弄された悲運の名馬として、騎手前田長吉と共に語り継がれる存在である。
目次
データ
- 生年:1940年3月15日
- 没年:1964年9月10日(24歳)
- 父:トウルヌソル
- 母:賢藤
- 母の父:チャペルブラムプトン
- 生国:日本
- 生産者:下総御料牧場(千葉県成田市)
- 馬主:栗林友二
- 調教師:尾形藤吉(東京)
- 主戦騎手:前田長吉
- 主な勝鞍:43’東京優駿競走、43’阪神優駿牝馬、43’京都農商省賞典4歳呼馬
- 獲得賞金:7万3,200円
- 主な受賞歴:顕彰馬(1984年)
- 戦績:11戦11勝 ※生涯無敗
誕生~入厩
1940年3月、名門であった下総御料牧場に生まれる。
しかし、1940年と言えば、日中戦争の真っ只中で、日本が国際連盟から脱退し世界中で緊張感が高まっていた時代である。そんな混迷の時代の中で、彼女は生を受けた。
父トウルヌソルは第1回ダービー馬ワカタカをはじめ、1940年時点で5頭のダービー馬を輩出し、1935年から39年にかけてリーディングサイアーにも輝いた大種牡馬である。母の賢藤は小岩井農場が輸入し一大牝系を築き上げた名牝アストニシメントの子。このアストニシメント、現代の日本競馬でも続くほど広がった伝説の牝系である。
母父は下総御料牧場が購入した英国馬で、クリフジが生まれた時点でダービー馬を複数輩出していた。全兄には1936年の帝室御賞典(東京)覇者のリョウゴク、1937年の秋の帝室御賞典初代覇者のハッピーマイトがいた。
とこのように、父と母父はダービー馬輩出、母も伝説の牝系、兄弟に帝室御賞典覇者が2頭と、
当時としてはこれ以上無い程の良血馬であった。幼名を年藤と名付けられた彼女は、セリ市に出されるが、蹄を怪我をしていたこともあり売れ残っていた。そんな中、栗林商船会長であった栗林友ニ氏の目に止まり「顔を見た時、これはいい馬だと思った」と4万円で落札された。
4万円と言われていてもピンと来ないかもしれないが、当時は日本ダービーの1着賞金が1万円だった時代である。つまり1着3億円の現代で単純換算すれば12億前後になる。正確な計算ではないが、少なくとも
当時としては超がつくほどの高額で落札されたのである。…と言いつつ、実はこの競り市では6万円で落札されたトシシロ、ヒロサクラという馬もおり、この2頭は後々クリフジと対戦することになる。
札束での殴り合いは今も昔も同じだった。
なお、栗林友ニ氏の息子に栗林英雄氏がいるが、英雄氏も馬主であり代表馬があの淀に愛された英雄
ライスシャワー。その為、勝負服はライスシャワーと同じ。
そしてクリフジと名付けられた彼女は尾形景造(後の尾形藤吉)厩舎に入厩する。尾形師は騎手兼調教師時代に2頭のダービー馬を手がけ、調教師として開業後も阪神優駿牝馬の初代勝ち馬アステリモアなどの名馬を手がけ、最終的に八大競争を39勝する名門。厩舎には後に皇帝
シンボリルドルフを担当する野平祐二氏などが所属していた。その尾形厩舎の所属に1人の見習い騎手がいた。
彼の名は「前田長吉」。青森県三戸郡是川村(現在の八戸市)より上京してきた前田は地元の学校を卒業後、別の厩舎に所属していたが、担当調教師が亡くなり、1942年より見習い騎手として尾形厩舎に所属していた。見習い騎手となった前田騎手はその年12レースに騎乗し1着5回、2着2回という優秀な成績をあげていた。この時の前田騎手について、尾形師は後年、著書「競馬ひとすじ(1963年)」にて
馬に逆らわずに柔らかく乗り、見ていると、まるで自然に飛んでいくようだった
頭もよく、まったく私の指示通りの競馬をするので驚いた。天才騎手といえるほど少年
と大変高く評価していて、将来を非常に楽しみにしていたという。
しかし入厩したクリフジには、脚部に不安があった。そのため、デビューは1943年5月までかかり、4月の横浜農林省賞典4歳呼馬(現在の皐月賞)には間に合わなかった。
旧4歳
新呼馬〜4歳呼馬 ー怪物の出陣ー
デビュー戦は5月16日の東京1800mの新呼馬戦。ちなみに呼馬というのは馬主が直接購入した馬の事で、抽選方式で選ばれた馬が出走する抽せん馬と区別して呼ばれていた。
尾形厩舎の主戦騎手には保田隆芳騎手がいたが、太平洋戦争へ出兵していたため、クリフジには前田騎手が騎乗する事になった。5頭立ての1番人気に推されるが、当日は重馬場。ストライドの大きいクリフジに対応できるのかという懸念があったものの、1馬身差で勝利。ちなみにこの時の2着馬が前述した6万円の馬、トシシロである。ネタバレになるが、実はこれが彼女が生涯付けた最小の着差である。
続けて5月30日の東京1600mの4歳呼馬。中1週?と思われるかもしれないが、当時はこれくらいの間隔で出走することは珍しい事ではなかった。このレースにはこの年の中山4歳牝馬特別(現在の桜花賞)覇者のミスセフトが出走していた。後に
トキノミノルを輩出するセフトの産駒であり、初の関西馬による桜花賞覇者である。
そしてレースが始まりクリフジは逃げを選択するが、なんと
5月にデビューしたばかりの牝馬が桜花賞馬に大差で勝利したのである。逃げを選択したというより、まるで
スピードが違いすぎて逃げになってしまったような、そんな圧勝劇だった。
当然このニュースは大きく広がり、人々に怪物の登場を実感させる瞬間だった。
東京優駿競走 ー伝説尽くしのダービーー
圧勝したクリフジは連闘で6月6日の東京優駿競走(日本ダービー)へ出走する。
尾形師はベテラン騎手を起用すべきか栗林会長に尋ねたが「前田のままでいいでしょう」と栗林氏は答え、継続騎乗が決定した。
しかし、この前日には、4月にブーゲンビル島で戦死した海軍元帥の山本五十六の葬儀が日比谷公園で執り行われるなど、太平洋戦争の戦局が徐々に悪化していた。
出走馬は当時、歴代最多となる25頭が出走。当時の東京競馬場のスタンド定員2万3200人を観客達で埋め尽くしていた。その中には、軍服を着た男もいた。
天候は晴、良馬場での開催となった。クリフジは前走の圧勝で、1番人気に推される。
14時45分、出走馬達が横一列に並ぶが、当時は現代のようなスターティングゲートがまだ存在しておらず、スタッフが張るロープの前に整列するバリアー式が採用されていた。
ところが、10番で発走となったクリフジは9番と11番の間に入り切れない。さらに首を下に向いた瞬間にスタートが切られてしまい、体勢が整わず、2馬身もつく出遅れをしてしまう。前田が若くて堅くなってしまったかと、がっくりする尾形師。ダービーでこれほどの出遅れをすれば、普通は万事休すとなってしまう。
当時、ダービーポジションと呼ばれる先頭から10番手以内のポジションが知られており、1コーナーに入った時点でこの中でいなければ勝てないと言われていた。一方のクリフジは1コーナー時点で後方4番手。もはや絶望的かと思われた。
しかし、前田騎手には焦りはなかった。出遅れはあったものの、尾形師からはクリフジは牝馬であるから馬群を避けろ、前半は抑えろと指示があり、じっくりと構えていたのである。
そして最終直線に入った瞬間、クリフジは異次元の末脚を発揮。僅かな間隙を突き一気に先頭に躍り出る。後ろから追うものは誰もおらず、そのままゴールイン。
ここにヒサトモ以来2頭目となる、牝馬のダービー馬が誕生した。
大きく出遅れたのにも関わらず、ついた着差は6馬身差。差が大きく広がりすぎて後続馬が走る音が聞こえなくなり、前田騎手が不安で後ろを振り返る程だった。
タイムは前年度にミナミホマレが記録したダービーレコードを1秒6も更新する2分31秒4。なお、正確な上がり3ハロンの記録はないが、ダービーの動画で計測するとクリフジだけ上がり3ハロン33秒後半〜34秒台程度で走っているのがわかる。つまり、2分31秒4を要する当時の馬場で現代の馬に匹敵する上がりを出していた事になる。
そしてこれだけのパフォーマンスを出しながらも、クリフジは息一つ乱していなく、栗林会長を仰天させた。この馬にとってはダービーレコードの走りすらも公開調教レベルだったのである。
なお、前田騎手はスタートで失敗した事を悔いており、43年7月号の優駿のインタビューでも「勝っても、私は自分の粗相が一番気になった」「いつも先生からは、勝負よりも粗相のない乗り方を心がけよと言われていたのに、それを天下晴れての大事なレースに、のぼせ加減になってうっかりしたのは、なんとも申し訳のない」など反省と謙虚の心を持って語っていた。
7月23日、前田騎手は徴兵検査を受けたが、低身長であったため、丙種(直ちに徴兵されない)と判定され、暫くは見習い騎手を続けることが出来た。しかし、既に日本軍の旗色が悪化の一途をたどっている中、騎手としての生活は長くは続かなかった
阪神優駿牝馬〜京都農商省賞典4歳呼馬 ―伝説の変則三冠馬、現る―
秋の初戦は9月25日、初の古馬混合戦となる古呼馬。このレースには前年の菊花賞馬にして
シンザンの母父であるハヤタケがいたが、3馬身差で勝利。ただし、クリフジが斤量57kgに対し、ハヤタケは斤量68kgも背負わされているのも大きかった。
これでもクリフジの対戦相手の中ではまだ善戦した方なのが恐ろしい。このレースの後、前田騎手は実家に対し
「これでクリフジ号は四戦四勝です。まだ負けたことはありません日本一の馬です。」と書いて手紙を出していた。
そして次戦は当時10月開催だった阪神優駿牝馬(オークス)。ここで桜花賞馬ミスセフトと再戦するが、最早クリフジ相手に同世代の牝馬たちでは敵うわけが無かった。2着ミスセフトに10馬身差で圧勝して勝利。ちなみに当時、オークスを勝利した桜花賞馬は存在せず、逆に言えばクリフジがいなければミスセフトは史上初の牝馬二冠達成していた。
続けて京都農商省賞典4歳呼馬(菊花賞)の前哨戦として、古呼馬(京都2000m)を選択。
このレースでクリフジがハンデとして斤量を背負うが、なんと63kg。旧4歳牝馬なのに障害馬並みの斤量を背負わされてしまうが、蓋を開ければ10馬身差勝ち。63kgの斤量すらハンデとして成立しなかった。
次走は古呼馬(京都2600m)。このレースでも62.5kgを背負うが、全く関係ない。後続馬を10馬身ちぎって勝利する。
そして、本番の京都農商省賞典4歳呼馬(菊花賞)。このレースは斤量は固定となるが、障害馬並みの斤量背負って古馬に10馬身差つけてたクリフジに、同斤量の同世代牡馬ではどうあがいても勝ち目はなかった。
レースは3番手で進み、残り600mで先頭に立つともうそこからは独走態勢。6万円馬であるヒロサクラに大差を付けて勝利。
ここに史上唯一となる牡牝混合クラシック三冠馬(変則三冠馬)が誕生した。
菊花賞を大差勝ちした馬は2025年現在この馬だけであり、牝馬によるクラシック三勝もクリフジただ1頭。
さらに言えば史上初の牝馬での菊花賞勝利であり、2025年に至るまで牝馬の菊花賞馬はこの馬と47年のブラウニーのみである。
10馬身差(57kg)、10馬身差(63kg)、10馬身差(62.5kg)、大差(57kg)という、最早ゲームで作った馬かと言いたくなるような成績だが、
本当にゲームのような内容を現実にやってのけたのがクリフジである。
しかし、年末の12月に政府から重大な発表がされた。翌44年、競馬の開催は当面停止となり、能力検定競走と改称して行うこととなったのである。
- 日本競馬会(現代のJRAに相当する組織)が馬主から馬を全て買い上げる
- その中から良いものを検定馬として保存し、調教師1人に10頭ずつ預けて世話させる
- 開催場所は東京競馬場と京都競馬場のみ
- 観戦できるのが軍関係者のみ
- 馬券の販売も無し
クリフジも、前田騎手も、競馬に関係するすべての人が戦争に巻き込まれることとなった。
旧5歳~引退
1944年より開催となった能力検定競走だが、出走頭数が減少し馬の質も低下、さらにコース変更を厩舎に十分伝達できず出走馬全頭がコースを間違えレース後に失格になったりするなどその実態は悲惨だった。
そんな中、現役を続行したクリフジは帝室御賞典(春)...後の天皇賞・春を目標とし、始動戦で斤量60kgを背負い呼駈五歳牝馬を5馬身差で勝利、次走の呼駈五歳で58.5kg背負うもの10馬身差で圧勝。
続けてこの年まで行われていた芝2400mの特殊競走(現代でいう重賞相当)、横浜記念(春)に出走。斤量58.5kgで出走し、こちらも6馬身差のレコード勝ちで完勝。天皇賞・春に向けて万全と思われた。
ところが、京都競馬場に向けて汽車で移動中、風邪をひいてしまい発熱。天皇賞・春は回避となってしまった。
ちなみにこの天皇賞・春の1着はかつて菊花賞でクリフジに大差を付けられ2着だったヒロサクラ、2着馬が菊花賞3着のイマヒカリである。つまりクリフジは後の天皇賞・春1、2着馬に大差勝ちしていたことになる。
そしてクリフジは天皇賞・春回避後、現役を引退することに決定。故郷の下総御料牧場で繫殖牝馬入りとなった。この頃には本土空襲が幾度も来ていた時期であり、競馬を続けるのが難しい情勢だったのも大きい。平和な時代であれば、クリフジはもう少し現役を続けられていたかもしれない。
引退後のクリフジと前田騎手
引退後のクリフジ
下総御料牧場で再び「年藤」と名前を変え、繫殖入りをしていたクリフジだったが、翌年の千葉空襲を機に、日高の牧場へ移動となった。
桜花賞、オークスを制し、菊花賞3着に入ったヤマイチが代表産駒。ちなみにこのヤマイチ、父がクリフジのデビュー戦の2着馬だったトシシロという、因縁深い組み合わせだったりする。
その他の産駒にはクモハタ記念覇者イチジヨウ、中山金杯覇者のホマレモンがいる。特にイチジヨウの子孫には、安田記念覇者シモフサホマレ、きさらぎ賞覇者サムソンビッグ、2011年NAR最優秀3歳牡馬オオエライジン、2011年NAR最優秀2歳牝馬エンジェルツイートなどがいる。
1964年9月、老衰のため、クリフジは24歳でこの世を去った。前田騎手とは一度も再会出来ないまま一生を終えた。
天才騎手 前田長吉の最期
前田騎手は1944年にもヤマイワイで桜花賞を制し、続けてダービーでシゲハヤに騎乗しカイソウの2着に入り、通年38戦15勝。42年~44年までの通算で124戦42勝、勝率3割3分9厘という驚異的数字を挙げている。そして晴れて9月30日、正式に騎手となった。これから先、騎手として目覚ましい活躍が期待されていた。
だが、10月14日、前田騎手の元に召集令状、つまり赤紙が届けられた。彼は満州へ出征することになったのである。
壮行会が開かれた際、前田騎手は「別れがつらい」と泣いていたが、尾形師を始め関係者達にはどうすることもできなかった。
1945年8月に終戦し、前田騎手は旧ソ連に抑留され、シベリア・チタ州の収容所で強制労働をさせられた。
真面目な前田騎手は率先して労働に従事していた。しかし、劣悪な労働環境、そして厳冬期には零下50度に達するシベリアの環境は、前田騎手の身体を破壊し続けていく。
そして、1946年2月28日、ハバロフスクの収容所で栄養失調によりこの世を去った。5日前に23歳になったばかりだった。
前田騎手は正式に騎手となって一度も騎乗出来ないまま、またクリフジに再会出来ないまま、その生涯を終えた。
伝説のコンビ亡き後
数々の記録を打ち立てたクリフジと前田騎手だが、当時はJRAどころか国営競馬よりも前、日本競馬会時代であったことや戦争の混乱もあり、その記録は散逸していた。特に前田騎手に関しては競馬評論家、大川氏曰く
「彼は、クリフジとともに彗星のように現れて、消えてしまった人なのです。この人のことは、ほとんどの競馬資料をひっくり返しても、名前以外のことはまったく出てきません」
と語るほど、記録が全く残っていなかった。
2003年より厚生労働省が戦没者のDNA鑑定を行うことになったのだが、遺骨が埋葬されて長期間が経過しDNAが分解する、遺族が高齢化するなどで特定は難航し、戦没者115万人に対し、2005年まででDNA鑑定で特定出来たのが217人しかいなかった。そのわずかなデータの中に「前田長吉」のものがあったというニュースが流れたのである。
2006年初夏、天才騎手の遺骨は是川村の生家に帰った。前田騎手が使用していた競技用長靴などの遺品は、前田騎手の兄の家系によって現代に至るまで大切に保管されている。
翌2007年5月27日、東京競馬場で日本ダービーが開催された。そして...
まさに、前田騎手の遺骨が日本に帰還した翌年、クリフジと同じ牝馬であるウオッカが64年ぶりに牝馬のダービー馬となった。時を超えて、一つの夢が蘇った瞬間だった。
2015年には競馬博物館の特別展示室で特別展が開催され、前田騎手の遺品が多数公開されていた。
競走馬として
その生涯戦績、11戦11勝、生涯付けた合計着差は驚異の80馬身以上。同時代の馬とは別格…というより生物格としても明らかに別次元の存在だった。
生涯無敗のまま引退した馬自体はそれなりにいるが、中央10勝以上での無敗馬はクリフジとトキノミノル(10戦10勝)のみ。クリフジが11戦で引退したのは戦時中という情勢が大きく影響しているため、戦争が無ければもっと勝利数を伸ばしていた可能性も十分にあった。
その内容も凄まじく
- ダービーレコードを叩き出したのに息一つ乱さない
- 現代よりも造園技術が未発達でタフな馬場にも関わらず、現代のGⅠ馬に匹敵する上がりで末脚を発揮
- 63kg背負って古馬相手に10馬身差勝ち
- クラシックで大差勝ち
など。また、「上がり33秒台を出していた」「1ハロン9秒台で走る」とも言われており、公式での記録は無いもののこの馬ならやっていてもおかしくないと思わせるほど、クリフジは神格化された。
※いずれも2025年7月現在での記録
- 変則三冠(日本ダービー、オークス、菊花賞)…クリフジただ一頭
- 日本ダービー、菊花賞の二冠…三冠馬を除けば73'タケホープのみ
- 牡牝混合クラシック二冠馬(変則二冠)…他には47'皐月賞オークス覇者のトキツカゼのみ
- 牝馬でのクラシック三勝…クリフジただ一頭
- 牝馬でのダービー制覇…他にはヒサトモ、ウオッカのみ
- 牝馬での菊花賞勝利…前述の通り他には47'ブラウニーのみ
- 菊花賞大差勝ち…クリフジただ一頭
- クラシック大差勝ち…他には47'オークスのトキツカゼ、75'桜花賞のテスコガビーのみ
- 母娘牝馬二冠…クリフジ、ヤマイチ母娘ただ一組
など
この実績から、多くの著名人からもクリフジは最強馬として推される。
尾形師は「古今を通じて、これほど強い牝馬はいないという巴御前」「皐月賞に出てたら、未曾有の牝馬三冠馬が誕生していた」と評した。
クリフジの現役時に尾形厩舎に所属し、後にシンボリルドルフを担当する野平祐二調教師は「史上最強馬とは?」というアンケートに対し、即答でクリフジと答えている。
ちなみに、調教にも全力を出す傾向があるようで、ダービーの数日前に前田騎手が調教で早めに追ってみたところ、手応えが良すぎて猛時計を出してしまい次の日に疲れてしまった事がある。この時の前田騎手は「とんだことをしてしまった!」と顔面蒼白になったようで、早く元気になれと祈っていたとか。他にも完一歩が大きく、後肢が走行中に前肢に当たることがよくあったとか。
さらに当時の日本調教牡馬の平均体高が158cm程度だったのに対し、クリフジは五尺五寸の大女傑(164cm程度)であり、当時としては超大型馬だった。ちなみに現代では体高164cmの馬は一般的によくいるが、体高158cmと言えば
ドリームジャーニーなどかなり小ぶりの馬になる。
ドリジャ並の体格の馬達が一般的ならそりゃ五尺五寸の大女傑と言われる。
馬体重も500kg超と、これも当時としては規格外の大きさだった。
あと
尻もでかい。…が、当時の人から見ればまるで牛のように尻がとがって見える「ベコけつ」であったため、セリでも避けられていたという逸話も。だが、それゆえに尻を含め全身の筋肉が牡馬顔負けな程発達しており、彼女が魅せる別次元のパフォーマンスはその筋肉量から来ているのかもしれない。
余談
月刊優駿によるファン投票「未来に語り継ぎたい名馬BEST100」第1回(2010年)では再注目を浴びたこともあり27位だった。しかし、第2回(2015年)で56位、第3回(2023年)では86位となっている。さらに言えば、第3回投票で100位以内にランクインしている戦前の馬は彼女だけである。
競馬界には毎年のように多くの新星たちが誕生し、多くの物語を紡ぎ出している。そうした中で、戦前の馬であるクリフジはどうしても時代が進むにつれてその記憶が薄れつつある。
しかし、彼女を知るファンはほぼ口を揃えて最強牝馬の1頭として彼女を挙げる。戦前の馬でありながら、まるで未来から来たかのような美しく力強い走りを見せつけ、不滅の大記録をいくつも打ち立てた。
そして彼女の物語には、常に戦争の影があった。むしろクリフジと前田騎手を語る際には戦争の話が欠かせないくらいに密接に関係してしまっている。伝説の牝馬クリフジ、そして天才騎手前田長吉を知る事そのものが、戦争が生み出した一つの影を知る事に繋がっていると言っても過言ではない。
追記修正は、クリフジと前田長吉のコンビを語り継いでいく者にお願いします。
最終更新:2025年08月15日 03:10