登録日:2025/05/25 Sun 03:36:15
更新日:2025/05/27 Tue 16:31:42NEW!
所要時間:約 28 分で読めます
"A real strange one."
(実に奇妙なレースだった。)
───ナイジェル・ルーバック、英Autosport誌ライター
1982年F1モナコグランプリとは、1982年F1世界選手権の第6戦として開催されたグランプリである。
最後の最後、残り3周のところで次々に1位が入れ替わるという、F1というスポーツ史上でも稀に見る大波乱と大混乱が巻き起こった伝説のレースとして知られる。
そのどんでん返しの連続ぶりから、「誰も勝ちたがらなかったレース」として今でも当時を知るファンや関係者の間で語り草となっている。
【背景:ここまでのあらすじ】
ときに、F1に詳しくない
Wiki篭り諸兄でも
「アイルトン・セナ」の名前はどこかで聞いたことがあるだろう。
"音速の貴公子"と呼ばれ、日本で一大F1ブームを巻き起こす彼がF1デビューを果たしたのは1984年のことである。
つまり、今から本項で語られるのは、
セナがデビューする2年前の出来事で、もちろん
鈴鹿サーキットでの日本グランプリ開催や、ホンダが最強のエンジンでF1を制覇したり、
フジテレビがF1中継を行ったりする前でもある。
アニヲタ的には前日譚とか過去篇と言った方が盛り上がるかもしれない。
そのため、いわゆる「セナ・プロ」時代を彩ったベテランドライバーの大半が、まだまだケツの青い若手・中堅といった扱いで登場する。
当時のF1をリアルタイムで見ていたF1ファンやWiki籠り諸兄の方々は、これがセナプロ時代前夜という認識で読み進めていくのも面白いだろう。
さて、それでは本題に入る前に、1982年のF1シーズンについて解説しよう。
この年、1982年のF1を一言で表すならば、「カオス」である。
まず、開幕時点での前評判としては、強力なターボエンジンを持つルノー、フェラーリ、ブラバムが一歩抜きんでており、それに67年に登場してから長らくF1でシェアを誇っていた非ターボのフォードコスワースDFVエンジン車がどこまで食らいつけるか、という構図のはずであった。
しかし、開幕戦となる南アフリカGPにて、F1参戦に必須となるスーパーライセンスの発行を巡ってドライバーたちがストライキを起こす事案が発生。
さらに参戦チーム同士の政治抗争によりアルゼンチングランプリが中止となり、ここから雲行きが次第に怪しくなっていく。
続く第2戦ブラジルGPでは、ノンターボ車を駆るブラパムのネルソン・ピケ、ウィリアムズのケケ・ロズベルグの2台がターボ車を抑えてのワンツーフィニッシュを達成。
しかしこの2台はブレーキ冷却水を利用して車重を操作していたことが発覚し、規定違反として失格となる。
ところが、この失格裁定に反対するチームが第4戦
サンマリノGPで
ボイコットを敢行。
当時参戦していた17チームのうち、フォードエンジンの使用チームを中心に合計10チームが出走を拒否する事態に発展してしまった。
さらに、その失格騒動の裏でウィリアムズの
カルロス・ロイテマンが突如として
引退を発表。
前年にわずか1pt差でチャンピオンを逃したベテラン選手だったが、
所属チームの母国と自らの母国がドンパチやり合うという非常にセンシティブな情勢下で居場所を失くした故の決断だった。
このボイコット騒動とロイテマンの引退で、選手権の行方はますます読めなくなってしまう。
また、今年こそ最強と謳われたターボエンジンも、時間が経つにつれて強いが壊れやすいという相変わらずの現実が露呈。
そもそもターボエンジンというのは現在の自動車に於いては普通の軽自動車やミニバンにも積まれたりなど珍しくは無い技術であるのだが、この当時は5年前の1977年にルノーがF1に持ち込んだばかりであり、F1以外のレースや市販車に於いてもようやく広まり始めたばかりの当時最新の技術だったため、まだまだ技術的には発展途上の部分が強かったのである。
強いっちゃ強いがそれ以上に壊れやすい、でも強いときは本当に強い、それがこの当時のターボエンジンに対する常識の一つでもあったのである。
このため、チャンピオン防衛がかかっていたターボユーザーのネルソン・ピケは今期ここまでリタイア、失格、リタイア、ボイコットと散々な日々を送り、前戦でようやく初入賞して現在総合2pt。
ターボ勢の中でも特に最強チーム最有力候補とされたルノーに至っては、開幕4戦を終えて表彰台かマシンがぶっ壊れるかの二択という極端すぎる成績を残す始末。
一方、ボイコット騒動に揺れるサンマリノGPの最中、こっちもこっちで割と散々な成績を叩き出していたフェラーリでドライバーの序列問題が勃発。
すれ違いにすれ違いが重なった末、2人のドライバー、ジル・ヴィルヌーヴとディディエ・ピローニの関係は修復不可能なほど険悪なものになってしまう。
その結果、続く第5戦ベルギーGPにて、ピローニのタイムを上回ろうと意固地になったヴィルヌーヴは全開走行中に壮絶な大クラッシュを引き起こした末、死亡。
ギスギスした雰囲気を通り越して一気にお通夜と化したフェラーリ陣営はベルギーGP決勝を欠場し、次戦も代走を立てずピローニ1台で臨むことを表明する。
ストライキ、失格、ボイコット、引退、ターボエンジン、そして死亡事故。
混迷を極めるF1サーカスは、ヴィルヌーブを失った傷が癒えぬまま、次なる舞台である"紺碧の海岸"モナコ・モンテカルロに降り立ったのだった。
さて、F1におけるターボエンジン、というか当時の自動車のターボエンジンは長らく「出力がデカくて直線に強いだけ、しかも踏み込んでからターボがかかるのにムラがある、通称ドッカンターボ気味」というイメージが強く、カーブだらけで最大出力が出せないモナコでは不利だと言われていた。
が、昨年のモナコGPではターボ車のフェラーリが勝ったため、今年は解説者たちの論調も「勝つのはいったいどのターボエンジンか」と手のひらクルックルであった。
しかしながら、ターボ勢はやはり上記の体たらくでグダグダ感が否めず、この時点でのコンストラクターズランキング首位は非ターボ勢のマクラーレン。
75年・77年チャンピオンで、76年のニュルブルクリンクでの炎上事故から奇跡の生還を果たした不死鳥、ニキ・ラウダと史上屈指のレース巧者であるジョン・ワトソンという錚々たるラインナップを構築し、抜群の安定感でここまで1勝ずつを挙げている。以下、開幕2戦の貯金だけで戦うルノー、ロイテマン引退を引きずるウィリアムズと続く。
一方のドライバーズランキングは、今期ここまで唯一の2勝を挙げたルノーの
アラン・プロストがトップをひた走る。が、2勝した後に
3連続リタイアを喫して貯金を溶かし、現状では2位に1pt差まで迫られている。
なお同僚のアルヌーに至っては開幕戦で3位に入って以降全てリタイアである
2位で追いすがるのは先述の
ジョン・ワトソン、3位には優勝こそ無いものの2位表彰台2回という手堅い走りが売りの
ケケ・ロズベルグが続く。
最後に改めて整理しておくと、ターボエンジンを搭載するのはフェラーリ、ルノー、ブラバムの3チーム。
このうちフェラーリとルノーは自社製のターボで、ブラバムはタッグを組むBMW製のターボである。
ただし、ブラバムでBMWターボを駆るのはネルソン・ピケのみ。
チームメイトのリカルド・パトレーゼは非ターボのフォード・コスワースDFVエンジンを使用する。
また、下位チームのトールマンもハート社製ターボエンジンを使用するが、この時点ではぶっちゃけ弱いどうにも影が薄いので、彼らは記憶の片隅にでも置いておいていただきたい。
さて、随分と前置きが長くなったが、いよいよモナコグランプリの週末を見ていこう。
1982年モナコグランプリ開始前の選手権ランキング
Pos |
Driver |
Points |
1 |
アラン・プロスト |
18 |
2 |
ジョン・ワトソン |
17 |
3 |
ケケ・ロズベルグ |
14 |
4 |
ニキ・ラウダ |
12 |
5 |
ディディエ・ピローニ |
10 |
Pos |
Constructor |
Points |
1 |
マクラーレン・フォード |
29 |
2 |
ルノー |
22 |
3 |
ウィリアムズ・フォード |
20 |
4 |
フェラーリ |
16 |
5 |
ティレル・フォード |
10 |
【予選(Q)】
モナコグランプリ開催にあたって、31台という参戦台数の多さに比べてモナコがあまりにも狭すぎたため、決勝進出には20台という制限が設けられた。
そのため、決勝のグリッドを決める予選の前に、下位チームをふるいにかける予備予選が行われる。新参や弱小にとってはまず出場することが狭き門というわけである。
そして、予備予選を勝ち抜いた3台を加えた26台で予選を行い、上位20位までがグリッド確定、決勝進出となる。
逆に言えば、予選の下位6台はその場で予選落ちとなり脱落、そして予備予選の下位5台は予選に進むことすらできない。
なお、モナコグランプリ開幕直前に、下位チームであるマーチ、セオドール、エンサインと契約していたタイヤメーカーのエイヴォン社がF1から即時撤退するという新たな問題が発生。
さらにエイヴォン社は残ったタイヤの在庫を全てマーチに売り払うという火種を残して去っていったため、残る2チームの参戦が一挙に不透明になってしまった。
この事態を前に、セオドールはどうにかモナコGP開幕までにグッドイヤーとの新契約をまとめることに成功。
しかし、一方のエンサインは契約に失敗し、苦肉の策として中古のエイヴォン製タイヤを他チームからかき集め、どうにか参戦までこぎ着けた。
さて、そんなこんなで迎えた予選当日。
まずは予備予選であるが、ここはオゼッラのジャン=ピエール・ジャリエ、マーチのヨッヘン・マス、そしてトールマンのデレック・ワーウィックが勝ち抜け。
エイヴォンタイヤの在庫を全て抱え込んだマーチは3台をエントリーさせるも2台が予備予選で撃沈し、因縁あるセオドールやエンサインが一歩リードする皮肉な展開に。
しかしながら、その2チームも最終的にはマーチ最後の1台もろとも予選落ちを喫し、全員まとめて
決勝を走る価値無しと薙ぎ払われてしまった。
さて、ある程度メンバーが選別されたところで、ついに予選本番。
やはり今年のターボエンジンは強く、ポールポジションにはルノーのルネ・アルヌーが収まった。
しかしながら、同じマシンを駆るアラン・プロストは流れを掴みきれず、4番手に甘んじる結果に。
とはいえ、ブラジル以来3連続リタイアのプロストにとってはようやく回ってきたチャンスでもある。実質母国のモナコで久しぶりのポイント獲得なるか。
プロストの後方5番手にいるのは、1台で臨むフェラーリのディディエ・ピローニ。
その一方、最後のターボユーザーであるネルソン・ピケはまさかの13番手止まりと撃沈。
BMWターボの信頼性が元よりゼロを通り越してマイナスである上、ピケ本人は市街地コースが大の苦手とあってここまで沈んでしまった模様。
チームメイトのリカルド・パトレーゼがノンターボながら最前列2位と大健闘したのとは対照的である。
そんなパトレーゼに続く3番手には、意外や意外、アルファロメオのブルーノ・ジャコメリがつけた。
ここまで5戦を終えて全滅4回という散々な結果を残しているアルファロメオだが、とうとうまともな結果を残せるチャンスが舞い降りた。今までが酷すぎる
現在の選手権トップ、アラン・プロストが勝ってリードを広げるのか?
それとも、誰かがプロストを仮の玉座から引きずり下ろすのか?
はたまた、何か想像だにしないミラクルが起こるのか?
そんな熱気を帯びた空気が漂う公国は、徐々に分厚い雲によって覆われ始めていた………
1982 Formula One
Round 6
Monaco Grand Prix
STARTING GRID
Position |
Car No. |
Driver |
Team |
PP |
16 |
ルネ・アルヌー |
ルノー |
2 |
2 |
リカルド・パトレーゼ |
ブラバム・フォード |
3 |
23 |
ブルーノ・ジャコメリ |
アルファロメオ |
4 |
15 |
アラン・プロスト |
ルノー |
5 |
28 |
ディディエ・ピローニ |
フェラーリ |
6 |
6 |
ケケ・ロズベルグ |
ウィリアムズ・フォード |
7 |
22 |
アンドレア・デ・チェザリス |
アルファロメオ |
8 |
5 |
デレック・デイリー |
ウィリアムズ・フォード |
9 |
3 |
ミケーレ・アルボレート |
ティレル・フォード |
10 |
7 |
ジョン・ワトソン |
マクラーレン・フォード |
11 |
12 |
ナイジェル・マンセル |
ロータス・フォード |
12 |
8 |
ニキ・ラウダ |
マクラーレン・フォード |
13 |
1 |
ネルソン・ピケ |
ブラバム・BMW |
14 |
9 |
マンフレッド・ヴィンケルホック |
ATS・フォード |
15 |
11 |
エリオ・デ・アンジェリス |
ロータス・フォード |
16 |
25 |
エディ・チーバー |
リジェ・マトラ |
17 |
4 |
ブライアン・ヘントン |
ティレル・フォード |
18 |
26 |
ジャック・ラフィット |
リジェ・マトラ |
19 |
29 |
マルク・スレール |
アロウズ・フォード |
20 |
10 |
エリセオ・サラザール |
ATS・フォード |
DNQ |
30 |
マウロ・バルディ |
アロウズ・フォード |
DNQ |
33 |
ヤン・ラマース |
セオドール・フォード |
DNQ |
17 |
ヨッヘン・マス |
マーチ・フォード |
DNQ |
35 |
デレック・ワーウィック |
トールマン・ハート |
DNQ |
31 |
ジャン=ピエール・ジャリエ |
オゼッラ・フォード |
DNQ |
14 |
ロベルト・ゲレーロ |
エンサイン・フォード |
DNPQ |
36 |
テオ・ファビ |
トールマン・ハート |
DNPQ |
32 |
リカルド・パレッティ |
オゼッラ・フォード |
DNPQ |
18 |
ラウル・ボーセル |
マーチ・フォード |
DNPQ |
20 |
チコ・セラ |
フィッティパルディ・フォード |
DNPQ |
19 |
エミリオ・デ・ヴィロタ |
マーチ・フォード |
※DNQ = 予選落ち(Did Not Qualify) ※DNPQ = 予備予選落ち(Did Not Pre-Qualify)
※予選上位20台が決勝進出
【決勝(Race)】
5月23日。上空を分厚い雲が覆う中、モナコグランプリ決勝の時間がやってきた。
シグナルが消灯し、大事な1周目のターン1。ここの攻防はポールポジションのアルヌーが余裕で守り切る。
アルファロメオは蹴り出しが良く、7番手
アンドレア・デ・チェザリスはロズベルグの前に立ち、ジャコメリもパトレーゼを抜いて2位に浮上。
パトレーゼはアルヌーを狙うどころかプロストにも抜かれてしまい、4番手まで順位を下げた。
しかし、ジャコメリはギアボックスのトラブルが発生し、4周目にレースから脱落。アルファの希望の半分が潰えた
これで3番手プロストが繰り上がり、ルノーは難なくトップ2を独占した。
さて…実をいうと、このレースのほとんどはルノーの独擅場である。
アルヌーは14周目にプールサイド・シケインでクラッシュを喫したものの、代わってプロストが先頭に立ち、他車が崩せないほど大量のリードを築き上げてしまったのだ。
このレースの本編といえるのは、76周のうちラスト3周である。
それでは、そこまでの流れをダイジェスト気味に流していこう。
退場したアルヌーに代わって独走するプロストを追いかけるのは、2番手に戻ってきたパトレーゼと5番手から追い上げるピローニ。
が、ピローニは周回遅れのマシンと交錯して損傷を負い、ずるずるとパトレーゼからも離されていく。そしてパトレーゼは戦闘力不足でプロストに追いつけない。上位陣は拮抗したまま周回を続けることとなった。
そして、スタートから40周くらい経った頃のこと。レースも折り返しを迎えたところで、モンテカルロに雨粒がチラつきはじめた。
これを好機と見たのが先頭のプロスト。2位パトレーゼの駆るブラバムのマシンは雨が苦手であり、そこを突くようにペースを上げたのだ。
プロストは容赦なく最速ラップを連発し、5秒、10秒と差を広げていく。
残り15周を切ったあたりで、雨はさらに強くなってきた。
スリックタイヤで走れる状況では無くなってきたが、それでも誰もピットでタイヤを換えようとしない。あと15周耐えてしまえば、余計なロス無しにレースが終わるからだ。
狭いモナコ、濡れた路面、スリックタイヤ。舞台は整ってしまった。
まず最初の波乱が起こったのは、64周目。
アンドレア・デ・チェザリスと4番手を競っていたケケ・ロズベルグが、路面に足を取られてコントロールを失ってしまったのだ。
彼は奮闘むなしくガードレールとご挨拶し、ここで脱落。
代わって5番手に繰り上がったのはミケーレ・アルボレートだったが、彼も10周持たずにサスペンションが弾け飛び、69周目でリタイア。
この時点で、まだ走れているマシンはわずかに9台。とうとう一桁になってしまった。
現在のオーダーは、1位プロスト、2位パトレーゼ、3位ピローニ、4位デ・チェザリス。
以後デイリー、デ・アンジェリス、マンセル、ヘントン、スレールと続く。
ロズベルグとアルボレートが脱落した後釜に座ったのは、ウィリアムズのデレック・デイリー。彼もまた壁との衝突を繰り返しており、なんとバックミラーとリアウィングをぶっ壊した状態で走り続けていた。しかもデイリー車はギアボックスにも傷を負っており、そこから漏れ出たオイルがサーキット全体に撒き散らされてしまっていた。
さて、レースは74周目、残り3周のことである。ここから本編
2位パトレーゼを後方に置き去り、1位プロストは一人旅状態にあった。
モナコは誰にとっても特別だが、フランス生まれのルノーとプロストにとってはなおさら特別。しかも、ルノーもプロストも共にこれがモナコ初優勝であった。
誰もに勝利を確信されていたプロストは、悠々とトンネルを抜けシケインを立ち上がる。
そのままアクセルを踏みぬき、続くタバココーナーに飛び込まんとしていたその時だった。
突然、黄色のマシンが真横を向いた。
プロストが、クラッシュしてしまったのだ。
周回遅れのマシンを抜こうとして濡れた路面に乗ってしまい、体勢を崩したのが運の尽きだった。
千切れたパーツやタイヤが辺り一面に飛び散る中、彼は慌ててマシンを降りる。
目前まで見えていたルノー&プロスト初のモナコ制覇という夢は、一瞬で泡と消えてしまった。
さて、プロストがマシンから抜け出した数秒後、事故現場を慎重に通り抜けるマシンがあった。
白黒のノンターボ、ブラバム・フォードのリカルド・パトレーゼである。
残り2周にして、今度は彼にチャンスが回ってきた。しかもこれがF1初優勝のチャンスであった。
が、その天下は1周も続かなかった。
残り2周、ロウズ・ヘアピンの手前で、パトレーゼの車体がくるりと横を向いた。彼はデイリーの漏らしたオイルに乗ってしまったのだ。
哀れパトレーゼは綺麗な180度スピンターンを決め、縁石に乗り上げながらヘアピンに進入。
そしてその間に、ピローニとデ・チェザリスが真横をすり抜けていった。
パトレーゼはコースを塞ぐようにして止まってしまい、しかもエンストを起こして自力で動けなくなってしまった。
そのため、コースマーシャルにマシンを押してもらって方向転換。
ヘアピンが下り坂だったことも幸いし、押しがけでどうにかエンジンを再始動させ、再び走り出すことができた。
しかし、悠々と抜かしていったピローニらはすでに遥か前方。パトレーゼはわずか0周で玉座から転げ落ちてしまった。
パトレーゼがようやく復帰した頃、ピローニは周回遅れに囲まれながら最終直線を立ち上がる。いよいよ残り1周、泣いても笑ってもこれが最終ラップである。
この時点でのオーダーは、1位ピローニ、2位デ・チェザリス、3位パトレーゼ。
パトレーゼはスピンのタイムロスが重く響き、デ・チェザリスもまたピローニとかなりの差をつけられていた。
だが、首位ピローニは何かがおかしかった。めちゃめちゃ遅いのである。
そりゃあ、雨とオイルで滑りやすいし、マシンだって少なくないダメージを負っている。
しかしいくらなんでも、遅すぎて1位なのに青旗が掲示され、周回遅れのマシンに次々と追い抜かれ、挙句リアウィングを丸ごと壊したデイリーにすら抜かされるのは明らかに問題を抱えているとしか思えなかった。
これに関して、レース後のインタビューでピローニは次のように語っている。
"I thought maybe I had an electrical problem because of the wet, for three or four laps the car had been misfiring - but it was more simple than that..."
(最初は電気系統の問題かと思ったんだ。雨も降っていたし、最後の3~4周はエンジンがミスファイアを起こしていたからね。でも、原因はもっと簡単なことだったんだよ……)
事態は、極めて単純なことだった。ピローニ車はガス欠を起こしていたのだ。
ミラボー、ヘアピン、ポルティエに至る下り坂をノロノロと転がったピローニだったが、トンネルに入ったところでとうとう燃料タンクが空っぽになり、フェラーリは路肩に力なく停車した。
駆けつけたマーシャルたちがマシンを押すが、人力押しがけ再スタートは規定違反。彼は首を振ってリスタートを拒否し、マシンを降りてしまった。
先ほどのパトレーゼの描写とピローニの描写を読み比べて、「同じ押しがけなのに片方だけ違反?」と違和感を持った人も多いことだろう。
だが、結論を言ってしまうとこの対応の差はれっきとしたルールに基づくものなのだ。
なお、解説にあたって引用している規則は2025年度発行のものだが、根本的な内容は1982年当時とほぼ変わっていないため、そのまま引用させてもらうことをお許し願いたい。
さて、まず大前提として、「押しがけ」とは外部から力を加えてエンジンを始動させるやり方のこと。
何かしらの力で押す、引っ張る、あるいは下り坂で転がすなど、タイヤを回してクランクシャフトに入力を行うことでエンジンがかかる。ほとんどの場合は人力で押すか引っ張るかして行われる。
というわけで、F1においても押しがけ再スタートは「人力で押されながらエンジンを再始動する」のが一般的と考えてよい。
しかしながら、この「マシンを押す」という行為がまず原則禁止である。
FIA国際モータースポーツ競技規則付則L項 第4章〈サーキットにおけるドライブ行為の規律〉第3条
f)走路上で車両を押すことは禁止される。
この項で明言されている通り、コース内でマシンを押すことは基本的に許可されていない。これはマーシャルだけでなくドライバーが押す場合も同様にアウトである。
そして同時に、「エンジンを始動できる場所、始動させる人」というのも規則で決められている。
FIAフォーミュラワン世界選手権競技規則 第26章〈一般安全規定〉
26.8 スプリントセッションおよび決勝レース中、外部始動装置の仕様を認められているピットレーンあるいは競技参加者指定のガレージエリアを除き、エンジンの始動を行えるのはスターターのみである。
難しい用語がごちゃごちゃ書かれているが、要は「レース中にピット以外の場所でエンジンかけるなら基本は専門職の人がやること!それ以外は手出しすんな!」といった意味合いである。
ただし、ハイブリッド機構が複雑に発展して専門職でないとエンジンがかけられなくなった現代F1とは異なり、セミオートマすらない当時のF1マシンは頑張ればドライバーだけで再始動させることも可能。そのため、ドライバーがエンジンを始動させることはルール上違反では無かったようである。
話が逸れたが、つまり基本的には「人力でマシンを押してもらいながら、コース上でエンジンをかける」という行為はアウトなのである。
この「押しがけ失格」で最も知られているのが、1989年日本グランプリのアイルトン・セナだろう。彼がシケインでプロストに無茶な追い抜きを仕掛けて接触した事件はあまりにも有名だが、セナはリタイアしたプロストを尻目にマーシャルに押してもらいレースに復帰し、そのまま勝利。しかしこれが最終的に不正行為とみなされ、失格処分が下りプロストの年間チャンピオンが確定したのである。
しかし、「マシンを押す」という行為に関しては、いくつか押してもよい例外が存在する。
その例外について、先ほどの付則L項4章3条ではこのように規定されている。
FIA国際モータースポーツ競技規則付則L項 第4章〈サーキットにおけるドライブ行為の規律〉第3条
b)車両がピットレーンの外側で停止した場合には、その車両がそこにあることが他のドライバーの危険とならないよう、あるいは妨げとならないよう、できる限り速やかに移動させなければならない。ドライバー自身がその車両を移動させることができない場合、そのドライバーを援助することはコース委員の義務とする。このような援助が、結果としてドライバーのレース復帰につながる場合は、いかなる規約違反もせず、かつ利益を受けることなくそれが行わなければならない。
分かりやすく言えば、「止まっちゃって邪魔なマシンはなるべく早くどかしてね!ドライバーが動けなくて困ってたらマーシャルのみんなは手助けしてあげてね!」といったところだ。
ピローニの事例はまさにこの条文に則ったもので、マーシャルたちは止まったマシンを速やかに移動させようと集まってきたのである。
だが、集まったマーシャルたちを見て、ピローニはおそらく「押してもらってる最中にエンジンが再始動したら押しがけになるのではないか?」と考えた。
本人ですら終わってから燃料切れに気付いたのだから、この時点の彼はエンストで止まってしまったと考えていてもおかしくはない。
これでもし押しがけで復帰できてしまった場合、最悪失格となり2位の座は失われてしまう。
一方、まだドライバーが乗っているなら「人力押しがけ」の可能性が残るが、降りてしまえばそこでリタイアが確定となり、人力で押すことが「マシンの撤収作業」以外の意味を持たなくなる。
ということで、ピローニは現在の状況を踏まえた上で失格となることを確実に避けるために、邪魔にならない路肩にマシンを止めて押しがけを拒否し、リタイアの意志を示したのである。
では、ドライバーが乗った状態で明確に人力でマシンが押されているパトレーゼはどうなのか?
先ほど掲示したb項の内容を踏まえて、パトレーゼの状況をもう一度読んでみよう。
彼のマシンは180度反転した状態で、コ-スを塞ぐように止まってしまった。しかもエンストしてしまい動けなくなったのだ。
このパトレーゼの状況はb項の「ドライバーがどうにもできない」状態にあたるため、マーシャルたちにはパトレーゼのマシンを押して彼を救助する義務が生じる。この場合であれば、マシンを押されたことに対しての罰則は発生しない。
そして先ほどから何度も言っているように、パトレーゼが止まったヘアピンは下り坂の途中にある。条文で禁止されているのは「人力でマシンを動かしての押しがけ」であり、ドライバーが下り坂を使って再始動する行為は禁止事項にない。
ということでパトレーゼは、「マーシャルたちが正当な援助を終えてマシンから離れたあとに、人力ではなく下り坂で押しがけを行って」復帰したため、失格とはならないのである。
ピローニがリタイアしたことで、今度はアルファロメオのアンドレア・デ・チェザリスが1位に繰り上がる。
彼はこの年がフル参戦2年目で、彼もまたこれが初優勝のチャンスだった。
………しかし、来ない。
デ・チェザリスが、いつまで経ってもピローニを抜かしに来ないのである。何故だ?
困惑する各局のテレビクルーは、中継カメラをせわしなく切り替える。
果たして彼は、モンテカルロの丘の上、カジノスクエア手前にいた。
……マシンが、止まっていた。
なんと、デ・チェザリスもガス欠に陥っていた。
上り坂で燃料を使い果たし、下り坂にもたどり着けずマシンを降りていたのだ。
さらにその直後、周回遅れながら先頭集団に次ぐ位置にいたデレック・デイリーもとうとう根を上げ、ラスカスの手前で満身創痍になりながらストップ。
事ここに至って、英国BBCの実況ブースにいた1976年F1チャンピオン、ジェームズ・ハントは、思わずマイクに向かって声を荒げた。
"We've got this ridiculous situation where we're all sitting by the start-finish line waiting for a winner to come past, and we don't seem to be getting one!"
(我々は勝利の瞬間を今か今かと座して待っています。しかしその勝者がいつまで経っても帰ってこない!なんてふざけた状況だ!)
優勝確実かと思われたプロストがクラッシュし、次に先頭を走ったパトレーゼもスピンで止まった。かと思えば最終ラップでピローニが止まり、次に来るはずのデ・チェザリスも、デイリーも止まった。
チェッカーフラッグは振られているのに、その名誉を受けるマシンがいつまで経ってもやって来ない。
ハントが発した心からの叫びは、現地のカオスな状況と現場の混乱を実によく表しているといえよう。
そして結局、1位でフィニッシュラインに帰ってきたのは白黒のノンターボマシンだった。
1982年モナコグランプリ、波乱と混乱の渦を乗り切った勝者は、ブラバム・フォードのリカルド・パトレーゼである。
足がけ参戦6年目、なんと当時の史上最遅優勝記録を更新してしまう記録的な勝利となった。パトレーゼにとって
うれしいうれしい初勝利、しかもそれが
モナコ初制覇。喜びもひとしおだろう。
しかし、車載無線なんて無い時代である。ゴールしたパトレーゼはレースの全容を知らず、
自分が優勝したとは夢にも思っていなかった。
当然ながらこれがウイニングランであるとも露知らず、彼は道中でピローニを拾ってピットに帰ってきた。しかしそこで表彰台前までエスコートされて、ようやく自身の勝利を知ったという。
このことは、パトレーゼ本人がインタビューで詳細に語っている。
"I didn't know I'd won the GP. On the last lap de Cesaris stopped, then Pironi. I thought Rosberg's Williams was still ahead of me because I thought he'd overtaken me. So I thought I was second. On the finishing lap everybody was waving flags and so on, while I was thinking I'd thrown it all away. I can remember thinking, 'maybe they are pleased I finished second and drove a good race', but I was very, very unhappy."
(グランプリに勝ったなんて知らなかった!最終ラップでデ・チェザリスもピローニも止まったけど、僕はロズベルグが前にいると思ってたんだ。彼に追い抜かれた気がしてね。だから2位だと思ってた。みんなが旗を振ってくれてたけど、僕はチャンスをふいにしてしまったってずっと後悔してた。もしかしたら旗を振って僕の健闘をお祝いしてくれてるのかな、なんて考えたのを覚えてるけど、とにかく悔しくて、残念でならなかった。)
"I was not in a hurry to get to the podium, because in the briefing they said only the winning car should stop in front of it. Because I was not the winner I decided to give a lift to Didier. I dropped him off and instead of letting me go into the pits, I was shown the way to the podium. I didn't understand. I thought they changed the rule and wanted the first three. But only my car was there! However there were more than three drivers; there was me, de Cesaris, Pironi and de Angelis! There was a big discussion over who was first, second or third. Somebody came to me and started to shout, 'You won, you won.' Then I finally realised..."
(ブリーフィングでは「優勝車だけは表彰台の前に行かなくちゃいけない」って説明されてたから、僕はのんびり運転してた。だって優勝してないと思ってたからね。途中でディディエを拾ったのも、そういう認識だったからだよ。でも帰ってきて彼を降ろした後、何故かピットインさせてもらえず、表彰台の前まで案内されたんだ。
わけがわからないよ。僕は2位なのに、もしかして上位3台が行くようにルールが変わったのかな?なんて思ったけど、そこに止まったのは僕のマシンだけだった。でもドライバーは3人いたんだ!私、デ・チェザリス、ピローニ、そしてデ・アンジェリス!誰が何位かでもう大騒ぎになって、誰かが僕に向かって「勝った!勝ったぞ!」って叫んだ。そこでやっと、僕が勝ったと気づいたんだ……)
2位と3位には、チェッカーは受けられなかったものの最後まで同一周回で争ったディディエ・ピローニとアンドレア・デ・チェザリスが入賞。二人とも展開と運次第では完走どころか優勝のチャンスすら確かにあったはずであり、すんでのところで揃って取り逃がす結果となった。
惜しいのがデ・チェザリスで、彼は1994年までF1で走り続けたが、優勝だけはついに果たせなかった。あと1周分だけ燃料を残しておけば未来は違ったかもしれないが、ともあれこれが彼の初表彰台である。
4位には11番手スタートからどうにか生き残ったナイジェル・マンセルが入賞。
続く5位入賞のエリオ・デ・アンジェリスは、1周目で最下位まで落ちながらも最後までしぶとく走り続け、同僚マンセルに次ぐ位置でフィニッシュ。
2人の活躍でロータスは本レース唯一のダブル入賞を果たしたが、もしパトレーゼまで復帰できなかった場合はロータスの1-2となっていた。レースにタラレバはNGだが、逃した魚はあまりにも大きかったといえる。
そして6位に入ったのは、残り2周でリタイアしたデレック・デイリー。
後続が彼を追い越せなかったためなんとか入賞圏内に踏みとどまり、ここまでがポイント獲得となった。
そのほか無事に完走することができたのは、4周遅れで8位に入ったティレルのブライアン・ヘントン、そして6周遅れで9位に入ったアロウズのマルク・スレールだけ。
そして「規定周回数の9割を走破したマシンは完走扱い」とする規定に基づき、残り3周でリタイアしたプロストは3周遅れの7位完走扱い、69周目にリタイアしたアルボレートは7周遅れで10位完走扱いとされ、これで順位が確定。
完走扱いはアルボレートまでの10台だったが、実際に最後まで完走できたのはパトレーゼ、マンセル、デ・アンジェリス、ヘントン、スレールのわずかに5台だけだった。
1982 Formula One
Round 6
Monaco Grand Prix
RESULTS
Position |
Car No. |
Driver |
Team |
Start position |
Time/Retired |
1 |
2 |
リカルド・パトレーゼ |
ブラバム・フォード |
2 |
1:54:11.259 |
2 |
28 |
ディディエ・ピローニ |
フェラーリ |
5 |
ガス欠 |
3 |
22 |
アンドレア・デ・チェザリス |
アルファロメオ |
7 |
ガス欠 |
4 |
12 |
ナイジェル・マンセル |
ロータス・フォード |
11 |
+1周 |
5 |
11 |
エリオ・デ・アンジェリス |
ロータス・フォード |
15 |
+1周 |
6 |
5 |
デレック・デイリー |
ウィリアムズ・フォード |
8 |
ギアボックス |
7 |
15 |
アラン・プロスト |
ルノー |
4 |
スピン |
8 |
4 |
ブライアン・ヘントン |
ティレル・フォード |
17 |
+4周 |
9 |
29 |
マルク・スレール |
アロウズ・フォード |
19 |
+6周 |
10 |
3 |
ミケーレ・アルボレート |
ティレル・フォード |
9 |
サスペンション |
DNF |
6 |
ケケ・ロズベルグ |
ウィリアムズ・フォード |
6 |
接触 |
DNF |
8 |
ニキ・ラウダ |
マクラーレン・フォード |
12 |
エンジン |
DNF |
1 |
ネルソン・ピケ |
ブラバム・BMW |
13 |
ターボ |
DNF |
7 |
ジョン・ワトソン |
マクラーレン・フォード |
10 |
電気系統 |
DNF |
9 |
マンフレッド・ヴィンケルホック |
ATS・フォード |
14 |
デフギア |
DNF |
26 |
ジャック・ラフィット |
リジェ・マトラ |
18 |
ハンドリング |
DNF |
25 |
エディ・チーバー |
リジェ・マトラ |
16 |
オイル漏れ |
DNF |
10 |
エリセオ・サラザール |
ATS・フォード |
20 |
メカニカル |
DNF |
16 |
ルネ・アルヌー |
ルノー |
1 |
スピン |
DNF |
23 |
ブルーノ・ジャコメリ |
アルファロメオ |
4 |
ドライブシャフト |
※DNF = リタイア
※ピローニ、デ・チェザリス、デイリー、プロスト、アルボレートは完走できなかったが、周回数の90%を走破していたため完走扱いとなる。
【余談】
プロストはまたしてもリタイアに終わったものの、プロストも含めた上位陣が揃いも揃ってコケたため、変わらず首位をキープすることに成功。ただし1pt差なのも変わらず、ここでリードを築けなかったのは実に痛い。
プロストを1pt差で追いすがる選手権2位のワトソンもまたリタイアに終わり、せっかくの逆転チャンスをものにできなかった。
一方、2位表彰台のピローニはランキング3番手に上がり、ロズベルグを追い越すことに成功。
初優勝のパトレーゼは一気に6人抜きを果たしてランキング5位につけ、キャリア初表彰台・今季初入賞のデ・チェザリスは7人抜きで12位まで上がってきた。
コンストラクターズ部門では唯一ダブル入賞を果たしたロータスが躍進し、ランキング5位に浮上。
パトレーゼが優勝を持ち帰ったブラバム・フォードもそこに追随し、ランキング5位につけていたティレルは一気に7位まで順位を下げることとなった。
また、1台参戦ながら確実に結果を出したフェラーリも順位を上げ、ウィリアムズを抜いて3位に位置付けた。
前年のモナコでは跳ね馬に勝利を届け、選手権無冠のまま道半ばで散った"ゼッケン27番の英雄"ジル・ヴィルヌーヴに対して、せめてもの弔いになっただろうか。
そんな1982年シーズンはこのあともカオスな展開が続く。最終的には、
・3勝以上したドライバーがいない
・5名の初優勝を含む11名のドライバーが優勝
・5名の初表彰台を含む18名のドライバーが表彰台に上がる
・9戦連続で違うドライバーが優勝
・ポール・トゥ・ウィンが2回のみ
・3勝しかしなかったチームがチャンピオン獲得
・1勝しかしなかったドライバーがチャンピオン獲得
・チャンピオン獲得ドライバーの最終スコアがたったの44ポイント
・度重なる事故により2名が死亡し、1名の選手生命が絶たれる
などなど、最後まで血と涙と混沌にあふれた、悲喜こもごも盛りだくさんのシーズンとなった。
その詳細は是非ともその目で確かめてほしい。
1982年モナコグランプリ閉幕時点の選手権ランキング
Pos |
Driver |
Points |
Result |
1 |
アラン・プロスト |
18 |
→ |
2 |
ジョン・ワトソン |
17 |
→ |
3 |
ディディエ・ピローニ |
16 |
↑2 |
4 |
ケケ・ロズベルグ |
14 |
↓1 |
5 |
リカルド・パトレーゼ |
13 |
↑6 |
Pos |
Constructor |
Points |
Result |
1 |
マクラーレン・フォード |
29 |
→ |
2 |
ルノー |
22 |
→ |
3 |
フェラーリ |
22 |
↑1 |
4 |
ウィリアムズ・フォード |
21 |
↓1 |
5 |
ロータス・フォード |
14 |
↑1 |
"We've got this ridiculous situation where we're all sitting by the waiting for Tsuiki and Syusei to come past, and we don't seem to be getting one!"
(我々は追記・修正の瞬間を今か今かと座して待っています。しかしそのWiki篭りがいつまで経っても出てこない!なんてふざけた状況だ!)
- やばいこの記事面白いwww(当事者の方々は泣くこともできない大惨事なわけだが…) -- 名無しさん (2025-05-25 22:24:10)
- 力作乙。未成熟な新技術と台頭しきれない若手と不運な天候が絡んでこのカオスシーズン。これもF1か。 -- 名無しさん (2025-05-25 22:38:02)
最終更新:2025年05月27日 16:31