良栄丸遭難事故

登録日:2011/08/18 Thu 16:45:05
更新日:2024/12/03 Tue 21:28:30
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注意


これは時に検索してはいけないワードにも数えられる事件に関する項目です。


良栄丸遭難事故とは、1926~1927年にかけて19tの小型漁船良栄丸が遭難漂流し行方不明となった事件である。

概要

1926年12月5日、良栄丸は十二名の船員を乗せ神奈川の三崎港を出港、千葉県銚子沖へマグロ漁に赴いた。

翌日、エンジンの不調から一旦は銚子港へ帰港するも、故障ではなかったため漁を再開。しかし……。


良栄丸は沖合で暴風雨に見舞われ航行不能に陥ってしまう。
エンジンも故障した上、日本へ戻ろうとするも海流に押し戻されてしまったという。

12月15日、船長の三鬼時蔵は「日本への帰港」ではなく「アメリカへの漂着」を目指す漂流を決意。
この時の航海日誌によると、四ヶ月は凌げる状態だったようだ。


そして1927年10月31日、良栄丸はカナダのバンクーバーにてアメリカの貨物船に発見された。


が、


生存者は一人もいなかった。


約一年の漂流生活の中、彼らに一体何があったのだろうか。


残されていた三冊の航海日誌より




注意

以下の記録は、一種のコピペであり一般には事実無根であるとされている。





魚一匹もとれず。食料はひとつのこらず底をついた。
恐ろしい飢えと死神がじょじょにやってきた。


[1927/03/06]

最初の犠牲者がでた。
機関長・細井伝次郎は、「ひとめ見たい……日本の土を一足ふみたい」とうめきながら死んでいった。全員で水葬にする。


[1927/03/07]

サメの大きなやつが一本つれたが、直江常次は食べる気力もなく、やせおとろえて死亡。水葬に処す。


[1927/03/09]

それまで航海日誌をつけていた井沢捨次が病死
かわって松本源之助が筆をとる。井沢の遺体を水葬にするのに、やっとのありさま。
全員、顔は青白くヤマアラシのごとくヒゲがのび、ふらふらと亡霊そっくりの歩きざまは悲し。


[1927/03/15]

寺田初造と横田良之助のふたりは、突然うわごとを発し、
「おーい富士山だ。アメリカにつきやがった。にじが見える……」などと狂気を発して、
左舷の板にがりがりと歯をくいこませて悶死
する。いよいよ地獄の底も近い。


[1927/03/27]

メバチ一匹を吉田藤吉がつりあげたるを見て、三谷寅吉は突然として逆上し、
オノを振りあげるや、吉田藤吉の頭をめった打ちにする
その恐ろしき光景にも、みた立ち上がる気力もなく、しばしぼう然。
のこる者は野菜の不足から、壊血病となりて歯という歯から血液したたるは、みな妖怪変化のすさまじき様相となる。ああ、仏様よ。


[1927/03/29]

三鬼船長は甲板上を低く飛びかすめる大鳥を、ヘビのごとき速さで手づかみにとらえる。
全員、人食いアリのごとくむらがり、羽をむしりとって、生きたままの大鳥をむさぼる。
血がしたたる生肉をくらうは、これほどの美味なるものはなしと心得たい。これもみな、餓鬼畜生となせる業か。


[1927/04/04]


沢山勘十郎、船室にて不意に狂暴と化して発狂し死骸を切り刻む姿は地獄か。
人肉食べる気力あれば、まだ救いあり。


[1927/04/14]


富山和男、沢山勘十郎の二名、料理室にて人肉を争う。
地獄の鬼と化すも、ただ、ただ生きて日本に帰りたき一心のみなり。
同夜、二名とも血だるまにて、ころげまわり死亡。


[1927/04/19]


山影も見えず、陸地も見えず。船影はなし。あまいサトウ粒ひとつなめて死にたし。
友の死骸は肉がどろどろに腐り、溶けて流れた血肉の死臭のみがあり。白骨のぞきて、この世の終わりとするや。


[1927/05/11]


日誌の疑問点

実際に残された航海日誌の最後の記述も、日付こそ同じだが、


NNWの風強く浪高し、帆巻き上げたまま流船す。SSWに船はどんどん走っている。船長の小言に毎日泣いている。病気。


というものである。
それでも文章が途中で終わっているのは何とも気味悪いのだが……。

また、実際の日誌での食料が底を突き朝食が出なかった日~最後の記述までは
サメが釣れた・海鳥が捕れた・船員が病気で死んだ。等が淡々と記されているだけでこんな風に脚色されたものではない。
水葬の記述さえ存在しない為、後に様々な憶測を産むようにもなったのだが…


が、都市伝説云々を抜きにしても疑問視されるのは、太平洋を漂流していてなぜ島の一つもみつからなかったのかという事、
そして何より、なぜ他の船舶と一回もコンタクトがとれなかったのかという事だ。

現に実際の日誌には、幾度となく他の船舶に遭遇し、あまつさえ船名まで確認できていた記述があるという。
が、いずれも応答がなかったと記されている。


しかし、アメリカのとある貨物船の船長は後に、
「12月23日に太平洋上で良栄丸と遭遇、信号を送ったが応答はなかった。
近付いたが、甲板や船室窓からこちらを見る船員達は何の反応もなく、馬鹿馬鹿しくなり引き上げた」と語っているのだ。
しかも12月23日の良栄丸の日誌に、この事は記されていない。
これが捏造情報か実際の情報なのかは不鮮明だが、これについても発見地点が日本から1600kmかシアトルから1000kmかで情報がはっきりしておらず、
特に後者であれば漂流開始後たったの3週間でアメリカ西沿岸付近にたどり着き、そこで何か月も誰にも発見されずにうろうろしていたことになるため、現在ではデマとする意見が多い。


余談

このような都市伝説が発生した原因としては、とある児童書が原因という説がある。
1981年の『四次元ミステリー―キミは信じられるか』(佐藤有文著作)に掲載された文章は、ネットに流布している文章とほぼ同一である。
この本の作者である佐藤氏は、別の児童書に於いて、かの我が子を食らうサトゥルヌスを「ポルトガルの食人鬼ゴール」などという明らかに誤った(いい加減な)紹介をしていたこともあり、
そういった例からも裏付けもとれていない噂レベルの話を勝手に書いてしまったという可能性は高い。

遭難の状態で人肉食をするというのは、アメリカの新聞の推測記事が発端である。
大漁旗が野蛮民の風習と紹介されたり、明らかに偏向報道としか思えない物もあったらしい。
乗組員の遺品を持ち帰国した谷阪壽雄は、新聞のインタビューに応じ、シアトルの新聞『Seattle Star』紙が排日的な姿勢で乗組員の行動について中傷記事を報じたことを語っている。
これらは北杜夫の『どくとるマンボウ航海記』(1960)でも紹介されている。

また、船が座礁し上陸するも、食糧がない極限状態に置かれた船長が先に死去した船員の遺体を食べて生き延びた『ひかりごけ事件』や、
船乗りが精神衰弱の果てに自殺したと思わせる日誌を残して失踪し、乗っていた船だけが海上で発見された『ドナルド・クロウハースト事件』等と混同されている可能性もある。

他には船に残されていたのが乗組員連名で板に書いた遺書・船長の妻子宛の遺書・封筒に各自が入れた髪と爪・大漁旗程度だった為
また寄港先で補給に対して支払われる現金や書類が失われていたため、
船員全滅後に海賊船に襲われ遺体と船内を荒らされたという説も見られる。


さて、ここまで色々書いてきたものの、事実はわからない。

実際に残っている航海日誌と上記の内容が違っているとは言え、
長期の漂流生活では多少なりとも気が狂う者もいたのではないだろうか。
それに、食料が尽きれば食人行為が発生したとしても何ら不思議はないはずである。
そしてそういった事が本当に起きていたとしても、果たして逐一全てを航海日誌に刻むだろうか……。

今となっては真相は分からないが、良栄丸という漁船が漂流遭難したのは事実。
果たして船員達は、死に向かう漂流生活の果てに何を見ていたのだろうか。





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最終更新:2024年12月03日 21:28