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更新日:2026/06/08 Mon 17:22:34
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【概要】
【チーム基本データ】
- 創設年 - 1999年
- 運営法人である「株式会社横浜フリエスポーツクラブ」は1998年12月25日に設立。横浜FCでは、この日をクラブの創設年としている。
- ホームタウン - 横浜市
- ホームスタジアム - ニッパツ三ツ沢球技場
横浜フリューゲルスが横浜マリノスと合併(事実上の消滅)することを受けて、サポーターの手により設立されたという経緯を持つ。
2006年にJ2優勝、J1昇格を果たすも翌年に最下位となり再び降格。
2019年にJ2で2位となり、13年ぶりにJ1昇格を成し遂げてからは、毎年(コロナ禍の特例で降格がなかった2020年を除く)J1とJ2を行き来するエレベータークラブとなっている。
「エレベータークラブ」という呼び方は、他チームのサポーターからは揶揄する意味で使われることもあるが、横浜FCサポーター(特に、サポーター歴の長い人たち)の中には、「J2で低迷した時期から比べれば、エレベーターできるところまで成長した」と考える向きもある。
【歴史】
前史 横浜フリューゲルス
1998年10月29日、突如としてマリノスとフリューゲルスの合併がマスコミにより報道された。事実上、マリノスによるフリューゲルスの吸収、つまり
フリューゲルスの消滅を意味していた。
サポーターによる抗議や署名、さらに合併相手でもあったマリノスサポーターや他のサポーターによる存続の訴えも虚しく、同年12月2日、両クラブ合併が調印された。
フリューゲルス存続という願いが叶わなかったサポーターは、その受け皿として新たなクラブを設立することとした。それが横浜FCなのである。
なお、歴史で言えば「フリューゲルス」のクラブ自体を正式に引き継いでいるのはマリノスの方であり、クラブはフリューゲルスの「F」を入れた横浜Fマリノスと改称している。
よって横浜FCの立場は「マリノスに合流することを吉とせず、フリューゲルスの魂を受け継ぐ自分たちのクラブを持ちたい」という有志によってつくられたクラブ、というのが正しいと思われる。
その横浜Fマリノスとは同じ地域のライバル同士としてバチバチの関係だが、歴史的にはフリューゲルスとはあくまで別クラブであるため、横浜FCからするとマリノスはどちらかと言えば同じ地域の商売敵、強大なライバルといった立ち位置となっている。
1999年〜2000年 JFL
1999年
もともとは、最初からJリーグに参入することを目指していたが、さすがに認められず、再編されたJFLに準会員として加入することとなった。この準会員という肩書きには、「2年以内にJFLで優勝か準優勝を達成する」という条件がつけられていた。
第3節、水戸ホーリーホック戦で初勝利を達成。チーム設立初年度ながら、シーズンわずか3敗で優勝を果たし、晴れてJFL正会員となった。
なお、天皇杯は神奈川県大会から参加。スーパーシード扱いで決勝からの出場で、横浜F・マリノスユースを3-1で破って本大会出場を決めた。
本大会では、新潟大学・立命館大学と大学勢を連続で破り3回戦へ進出するが、ヴェルディ川崎に敗れた。
2000年
前期の11試合を全勝するなど、前年以上の圧倒的な力を発揮。
後期第8節・静岡産業大学戦に勝利することで優勝が決定。
最終的に、後期第4節横河FC戦・後期第10節、デンソー戦に引き分けたのみで、前期後期合わせた22試合で20勝2引き分け0敗で連覇を達成。
シーズン終了後にJリーグ加盟が認められたことで、Jリーグ入りが正式に決定した。
天皇杯は、本大会から出場。2回戦で愛知学院大学に敗れた。
2001年〜2005年 Jリーグ参入
2001年
J2加入初年度。第2節のホーム・ベガルタ仙台戦でJリーグ初勝利を挙げる。
しかし、Jの牙城は厳しかったのか、連勝が2回のみ(それも2連勝)と苦戦。それでも終盤までは持ち堪えていたが、第38節から第43節にかけて6連敗を喫し、最終的には12チーム中9位という成績に終わった。
ナビスコ杯は、1回戦はJ1・東京ヴェルディに勝利するジャイアントキリングを達成している。
また、天皇杯でも3回戦でFC東京に勝利してJ1勢撃破を成し遂げている。
ちなみに、ナビスコ杯の2回戦、天皇杯の4回戦ともに敗れた相手は川崎フロンターレ。
また、リーグ戦でも4戦全敗を喫しシーズン通して6戦全敗で、この年はフロンターレに苦しめられ続けた。
2002年
続投した信藤健仁監督が、超攻撃的と称し2-4-4という奇抜なフォーメーションを採用。2-4-4グッズまで出す気合いの入りようだった。しかし、当然攻撃に人数を割けば守備は手薄になる。案の定、守備が崩壊し失点数がリーグダントツの81失点で、順位も12チーム中最下位に終わった。
天皇杯は3回戦で名古屋に敗退した。(ナビスコ杯はJ1チームのみ出場のため、横浜FCは出場せず。)
2003年
信藤監督が退任し、初代監督でもあるリトバルスキーが復帰。さらに、元日本代表城彰二を獲得するなど、戦力を底上げ。
しかし、前年の低迷が尾を引いたのか、またもや守備が崩壊。
結局、失点数は前年よりもさらに増えて88失点で順位も11位(全12チーム中)と散々なシーズンとなってしまった。
2004年
リトバルスキー監督が続投。2年連続の守備崩壊からの立て直しを期し、守備意識の植え付けを徹底。44試合中半分の22試合が引き分けなど、勝ちきれない試合が多かったものの、開幕から7試合負けなしなど、負けない試合運びで、J2昇格後最高順位となる8位でフィニッシュした。また、懸案の失点も、リーグで5番目に少ない50と、それまでの2年から大幅に改善した。
天皇杯は、5回戦でガンバ大阪に敗北。大黒将志1人で5得点と圧倒されてしまった。
2005年
リトバルスキーに変わり、足達勇輔が監督に就任。
この年は、第6節から15試合勝ち星なしなど、苦しいシーズンを送る。
結局、守備が崩壊していた2003年と同じ11位でシーズン終了。
ちなみに、この年の途中に三浦知良や山口素弘が加入した。
天皇杯は、4回戦で前年フルボッコにされたガンバ大阪と対戦。
後半途中まで2点をリードするも、後半終了間際に追いつかれてしまう。
延長戦開始早々に再びリードを奪うも、延長後半終了間際に再び追いつかれてしまい、結局PK戦で敗れてしまった。
2006年〜2007年 J1への挑戦
2006年
足達勇輔監督が続投…も開幕戦で敗れると即座に解任。
後任にコーチだった高木琢也が就任すると、就任直後の第2節から第18節までの15試合で負けなしで、柏・仙台との優勝争いを繰り広げる。
さらに、序盤は中位に甘んじていた神戸が調子を上げ優勝争いに参戦、4チームによる混戦となる。
仙台が第30節あたりから調子を落とし優勝争いから脱落すると、横浜・柏・神戸の3チームによるラストスパート。
第2節から第38節まで、柏が首位を守り続けてきたが、第39節に陥落し、神戸が首位に。
柏と神戸の順位が2試合おきに入れ替わる大混戦の中で、第43節で初めて首位に立つ。
第44節には、試合がなかったために勝点が入らず、一気に3位転落してしまうが、それ以降も堅守を武器に負けない試合を展開。
第49節・首位神戸とのアウェイでの直接対決に2-1で勝利。再び首位に立つ。
そして、第51節で横浜FCが勝利し、神戸が引き分け・柏が敗れたことで念願のJ2優勝、J1昇格を成し遂げた。
この年は、前述の無敗期間に連続無失点時間770分のJリーグ記録を打ち立て、最終的には48試合で32失点という驚異的な堅守『ハマナチオ』を構築した。
攻撃面ではシーズン途中で期限付き移籍で加入したアレモンを中心としたカウンター攻撃を徹底。途中加入にも関わらず17ゴールを決める決定力でチームを牽引。一方、チーム全体での得点は66でJ2の13チーム中8番目(11位の湘南ベルマーレと同じ)と、優勝したチームとしては比較的少ないものだった。
リーグ戦の快進撃とは対照的に、天皇杯では関西リーグのバンディオンセ神戸に不覚をとり、3回戦で敗れてしまった。
2007年
J1初挑戦のシーズン。開幕戦では浦和に敗れるが、後々にも語られる久保竜彦のスーパーゴールが生まれた。
そして、ホーム開幕戦である横浜F・マリノスとの横浜ダービーで早川知伸のゴールで1-0で、J1初勝利を獲得。
しかし、翌節からは5連敗。第14節からは20節に渡り(最終節まで)勝利なし(しかも、この間に7連敗もしている)で、ホームで勝利したダービーもアウェイで1-8と、完膚なきまでに叩きのめされる形でリベンジを喰らうなど、最下位を爆走。
8月には高木監督を解任し、ジュリオレアル監督を招聘するも状況は好転せず、第29節の神戸戦で敗れたことで、J2降格が決定。
第12節に最下位に転落してからは一度も浮上することがなく、得点が34試合でわずか19(当然J1ワースト)など、J1初挑戦はフルボッコにされ幕を閉じた。
しかし、最終節では優勝に一番近い位置にいた浦和を1-0で破り、鹿島の逆転優勝を演出する形となった。
ちなみに、この勝利が5月26日に行われた第12節・大分トリニータ戦以来、実に21試合ぶりかつ約半年ぶりの勝利となった。
天皇杯は5回戦で愛媛FCに敗退。
2001年以来6年ぶりに出場したナビスコカップでは、グループリーグで3勝3敗の2位に入るなど健闘したが、決勝トーナメントには進むことができなかった。
2008年〜2011年 J2 低迷期
2008年
降格の影響もあってか、20人近い選手が退団し、チームメンバーは総入れ替えも同然の状態に。
序盤こそ好調だったものの、早々に順位は低迷。結局優勝争い・昇格争いには全く絡むことができずに10位でシーズンを終えた。
同じく降格した
広島が初戦から一度も首位を譲らず優勝・J1復帰を決めたのとは対照的となった。
天皇杯は4回戦でアルビレックス新潟に敗退。
2009年
開幕からいきなり8試合勝ちなしと大きく出遅れる。第9節の水戸戦でようやくシーズン初勝利をゲットするが、第10節から再び8試合勝ちなしというトンネルへ。結局開幕からの17試合で1勝12敗4分という有様で、昇格組である岡山、栃木SCと最下位争いをする羽目となってしまう。
シーズンの半分近くを最下位で過ごしていたが、後半戦にはわずかながら持ち直す。最終盤には岡山、栃木を突き放して16位でシーズンを終えることとなった。
天皇杯は、3回戦で前年と同じ新潟に敗れた。
2010年
前年とは打って変わり、開幕3連勝と快調なスタートを切る。
中盤戦では勝ちから見放される時期もあったが、徐々に調子を上げていき、最終的にはJ2降格後最高順位となる6位でシーズンを終えた。
天皇杯は、3回戦で川崎に敗退。
2011年
故障者などが出た影響で開幕から苦戦。
中盤戦で4連勝(前後の試合も合わせて6試合負けなし)など、一時持ち直して順位を11位まで上げるものの、その後再び低迷。
結局、シーズン通して一度も2桁順位から脱出できないまま18位でシーズンを終えた。
2012年〜2018年
2012年
第3節の千葉戦に敗北したことで、岸野監督を解任。後任として、山口素弘氏が就任する。
クラブ初となる6連勝を成し遂げるなどし、一時は最下位だったチームは徐々に上位陣に肉薄。
最終順位は4位で、この年から導入された
J1昇格プレーオフへの参戦を果たす。プレーオフは、ホーム開催かつ90分で引き分けでも突破できる有利なレギュレーションでありながら、初戦で千葉に0-4と敗れ、J1昇格を逃した。
2013年
前年で最下位から驚異的な追い上げを見せた山口横浜に期待が寄せられていたが、開幕から苦戦。
昇格争いやプレーオフ争いに絡むことはできず、ちょうど真ん中に当たる11位でシーズンを終えた。
2014年
開幕4試合は無敗だったが、その後は苦戦。一時は順位を20位まで落としてしまう。
その後巻き返しプレーオフ圏内手前まで盛り返すが、そこから再び勝ち星を取れずに低迷。
結局前年と同じ11位でシーズンを終えた。
シーズン終了後に、山口監督が退任、他にもコーチングスタッフも多く退団した。
2015年
スロベニア人監督のミロシュ・ルス氏が就任。
序盤は勝ったり負けたりを繰り返すが、第24節から8連敗と急ブレーキ。J3降格がちらつく状態に。
9月12日に行われた第32節・札幌戦に敗れ17位となった段階で、ルス監督が辞任。
後任として強化育成テクニカルダイレクターだった中田仁司氏が監督となるが、シーズン15位に終わった。
2016年
前年に辞任したルス監督が再登板。
しかし、6月に辞任すると、中田仁司氏が監督になるという、前年と全く同じルートを辿る。
中田監督の元で調子をあげると、プレーオフ争いを繰り広げるが、プレーオフ圏内に浮上するには至らず、8位でシーズンを終えた。
2017年
中田監督が続投。
シーズン序盤は優勝争いを予感させる好調ぶりを見せる。
中盤戦でやや調子を落とし優勝争いからは脱落してしまうが、大崩れすることはなく踏みとどまり、プレーオフ争いに参戦。
極端に調子を落とすことはなかったが、第37節終了時点でプレーオフ圏外の8位だったことを受けて、中田監督を解任。後任としてタヴァレス監督が就任したが、プレーオフには届かなかった。
2018年
タヴァレス監督が続投。
例年ならJ1昇格に絡んでくるJ1からの降格組が軒並み低迷する中、開幕から好調を維持し自動昇格争いに絡む。
最終的にあと僅かな勝ち点差で3位で自動昇格を逃し、最後のJ1の差を賭けてこの年から仕様が変わった参入プレーオフに挑むも、6位の東京ヴェルディにアディショナルにドゥグラス・ヴィエイラの劇的ゴールを許し壮絶な形で昇格を逃した。
2019年〜 エレベータークラブへ
2019年(J2)
タヴァレス監督が続投。
開幕から苦戦を強いられたことでタヴァレス監督を解任し、ヘッドコーチを務めていた柏レイソルで監督実績のある下平隆宏監督が後任に昇格。
すると14位に低迷していたチームは一転、強力なフィジカルと走力を活かしたチームに変貌を遂げ、外国籍選手や元代表ベテランだけでなく大卒新人など若い力が躍動、最終的には残り29試合でわずか3敗の圧倒的な強さで、優勝した柏レイソルにつぐ2位でフィニッシュ。13年ものブランクを経て悲願のJ1昇格を達成。
これは2023年に東京ヴェルディが更新するまで、最長の期間を経てのJ1への復帰だった。
2020年(J1)
下平監督が続投。
開始2節に新型コロナウィルスの流行によりリーグが中断し、降格なしとなったためレギュレーションに救われる形にはなったが、クラブ初のJ1残留が決定。
クラブ最多となる勝ち点33を積み上げ、レギュレーションを度外視しても残留圏内の15位とクラブ最高の成績となった。
2021年(J1)
下平監督が続投。
多数の選手の入れ替わりが裏目に出たことに加えて他クラブからのマークが激しくなり、開幕6連敗を喫するなど低迷。
やむなく下平監督を解任しユース監督でクラブOBの早川知伸氏が監督に昇格するも、一度も残留圏内に浮上することなく最下位でJ2降格となってしまった。
2022年(J2)
早川監督はコーチに移動し、札幌で監督やコーチを務めた四方田修平氏が監督に就任。
J1経験からクラブ力がついたことから、昨シーズン途中に加入した有力外国人選手の残留やJ1経験豊富な選手を獲得できたこともあり、開幕から好調を維持し自動昇格圏内をキープ。
優勝は新潟に譲ったものの、小川航基が26ゴールを挙げて得点王に輝くなど安定した強さを見せ、2位で1年でJ1復帰を果たした。
2023年(J1)
翌シーズンからJ1所属チームを20チームとするため、この年の降格枠は1つのみとなり、「残留」が鬼門となっている横浜FCにとってはチャンスのシーズンとなった。
しかし、開幕10試合勝ちなしと低迷。柏・湘南と残留を争うこととなる。
8月には、優勝争いをしている神戸(最終的に優勝)2-1、同じく優勝争い中のマリノスとの横浜ダービーに4-1と大勝するなど、残留への光が見えたように見えたが、その後も黒星が先行。
最下位となり、この年唯一の降格チームとなってしまった。
2024年(J2)
降格とはなったものの、クラブのサポートが不足していたと判断してか四方田監督は続投。
序盤は清水との一騎打ち状態で優勝争いをするが、中盤以降調子を落としてしまう。
終盤まで苦しい戦いが続くが、最終節で引き分けることで辛くも昇格を成し遂げた。
2025年
序盤から苦しい戦いが続き、四方田監督をやむなく解任し新潟や相模原で監督経験のある三浦文丈ヘッドコーチが監督へと昇格、さらにシーズン中にルキアン、山田康太、さらに夏市場でアダイウトン、スウォビクとJ1経験豊富な外国籍選手を緊急補強。
これが功を奏してそれまでのシーズンとは異なり、前半戦を残留圏内である17位で折り返す。
9月には同じく残留争いをしていた新潟・湘南を撃破するが、その後の福岡戦、名古屋戦では勝ちきれず(この2チーム相手に勝利できれば、場合によっては相手を残留争いに巻き込むこともできた。)。
それまでのJ1への挑戦と異なり、最下位ではなかったものの、18位で降格することとなった。
また、翌年からJリーグが春秋制から欧州に倣い秋春制に移行するため、1年半をJ2で過ごすこととなってしまった。
しかし、J1の強豪チームとなりつつあるセレッソ大阪にシーズンダブルを決める等決して弱小チームとは言えなくなっている。
百年構想リーグ(2026年前半)
GK
- 21 市川暉記
- 24 ヤクブ・スウォビィク
- 42 石井僚
- 50 山岸克斗
DF
- 3 鈴木準弥
- 5 細井響
- 16 伊藤槙人
- 19 杉田隼
- 22 岩武克弥
- 24 秦樹
- 28 熊倉弘貴
- 48 新保海鈴
- 94 佐藤颯真
MF
- 7 山田康太
- 8 小倉陽太
- 13 窪田稜
- 14 高塩隼生
- 26 横山暁之
- 35 宇田光史朗
- 39 遠藤貴成
- 77 髙江麗央
- 78 岩崎亮佑
FW
- 9 ルキアン
- 10 ジョアン・パウロ
- 17 室井彗佑
- 18 森海渡
- 20 村田透馬
- 23 前田勘太朗
- 49 駒沢直哉
- 90 アダイウトン
- 林賢吾
- 松下衣舞希
- 佃颯太
- 清水悠斗
- 高橋友矢
- 駒井善成
- 三浦知良
- 宮田和純
シーズン移行に向けた特別大会。J2・J3合同で行われるJ2・J3特別大会地域リーグラウンドの「EAST-Aグループ」に参戦。
三浦監督が退任。変わってJ3から昇格した藤枝を3年連続でJ2残留に導き、多くの選手をJ1へと送りだした選手育成に定評のある須藤大輔監督が就任。須藤監督は「インプレッシブサッカー」をキーワードに掲げた。
百年構想リーグ優勝を目標としていたが、開幕から山形・仙台相手に連敗スタート。
第3節で栃木シティ相手に初勝利、第5節からは3連勝(PKでの勝ちを含む)を果たすも直後に3連敗を喫するなど、不安定な戦いに終始。
仙台が首位を独走したこともあり、4月29日にはEAST-A優勝が消滅。
それでも、第13節から最終節までは6連勝(PKでの2勝を含む)、プレーオフラウンドも2連勝と、終盤は破竹の勢いで勝ち続けた。地域リーグラウンドはEAST-Aの4位、全体順位は13位で特別大会を終えた。
【代表的な選手たち】
クラブの歴史を語る上で欠かせない、日本サッカーの生ける伝説。
2005年に神戸から移籍加入してきてから、一時のレンタル移籍やフットサル日本代表への参加をへながらも、20年以上に渡り横浜FCに在籍し続けているまさに横浜FCの顔。
加入時にすでに38歳と大ベテランの域に入っていたにもかかわらず、ここ1番での決定力は健在で2017年には50歳にしてJ2でゴールを挙げた。
近年は流石に運動量が落ちレンタル移籍を繰り返しているが、
それでも一貫して横浜FCに籍を置いている。
なお、
仮面ライダーリバイスの主人公、五十嵐一輝は彼が憧れであり、クラブ協力のもと劇中に写真が登場した他、最終回では本人がゲスト出演している。
堅守「ハマナチオ」を支えた守備の要。
浦和レッズでキャリアをスタートするもポジションを奪えず、移籍先の横浜FCでセンターバックにコンバートされて才能が開花し、守備職人としてJ1昇格の立役者に。
引退後もクラブでアカデミー監督などを務め、2021年には監督も歴任した。
「ハマのプリンス」と呼ばれた運動量豊富なボランチ。
移籍加入選手が多いクラブにあって生え抜きから主力に定着し、2008年に一度大宮に「個人昇格」しクラブを離れたが、2012年に復帰。
2016年に引退した後もスタッフとしてクラブを支える、横浜FCの過去と未来を結ぶ男。
クラブの停滞期を支えた燻銀のボランチで、2019年にはキャプテンとしてクラブを昇格に導いた。
中盤のハードな守備に加え、強烈なミドルシュートも持ち自ら得点も取れる。
2021年にレノファ山口に移籍し、2024年に引退。
その後もレノファに籍を置いており、2026年現在は強化部長を務めている。
ノルウェー出身の屈強な肉体を持つストライカー。やや鈍重ながらボックス内での決定力と強力なフィジカルで4年間の在籍で78ゴールを記録し、2017年には25ゴールを決めてJ2得点王に輝いた、クラブ最高の外国人FW。
しかしJ1ではプレースピードの変化に対応できず1試合の出場に終わり、大宮への移籍を経て現役を引退した。
横浜FCアカデミーの最高傑作。
線は細いながらも随一のテクニックと正確なパスに加え強烈なミドルシュートもある万能型の選手。
怪我に泣かされる事が多かったが、選手の入れ替わりが多い中7年間に渡り横浜FCアカデミー出身の象徴の一人として君臨。
2023年に東京ヴェルディへと移籍、チームスタイルにフィットしヴェルディのJ1定着に貢献。
現在はヴェルディのイメージの方が強くなりつつあるが、オフには古巣である横浜FCのイベントに律儀に今でも顔を出している。
スキンヘッドが特徴の、安定したセービングを持ち味とするドイツ出身の守護神。
ドイツ時代から大の親日家であり、東京オリンピックのドイツ代表として来日した縁で、2021年に絶対的守護神不在で不振に苦しんでいたチームの夏補強の1人として入団。
J1残留はならず、同年オフにはヴィッセル神戸から関心を寄せられていたが漢気残留し、チームを一年でのJ1復帰に導いた。
2回目のJ1挑戦は開幕前の負傷で出遅れ、シーズン途中に正守護神を奪回するも広島戦で一瞬の隙を突かれていわゆる「忍者ゴール」を許してしまったことで信頼を失い再びレギュラーを外れ、J1昇格を目指す岡山へと移籍。
岡山でも安定したパフォーマンスで昇格の立役者となり、3度目のJ1挑戦となった2025年は初めてフルシーズンでゴールマウスを守り残留に貢献。
2026年からは川崎フロンターレでプレーしている。
【ホームスタジアム】
チーム創立以来一貫して、ニッパツ三ツ沢球技場をホームスタジアムとしている(JFLのYSCCと共用)。
しかし、チーム創設初年度(1999シーズン)は、ホーム13試合のうち三ツ沢開催はわずか2試合で、神奈川県内のスタジアムを転々としていた。
2000年以降も、毎年数試合は日産スタジアムや国立競技場など、三ツ沢以外でホームゲームを行っていたが、2018年以降はホーム全試合を三ツ沢で行なっている。
同じ地域のマリノスとのバッティングやJ2のカテゴリに長年在籍していたこともあり観客動員は苦戦傾向だが、その分根強く応援する熱狂的なサポーターたちも多い。
2026年時点では神奈川では唯一の陸上競技用トラックのない競技場故、ピッチと観客席が近い事もあり、その応援は迫力満点。
【練習場】
2010年より、横浜市保土ケ谷区の西谷浄水場内にある「LEOCトレーニングセンター」を練習場としている。
天然芝と人工芝のグラウンドが1面ずつあり、トップチームが天然芝を、ユースおよびジュニアユースが人工芝を使用する。
ちなみに、チーム創設後しばらくは練習場を用意できず、一般の利用者と同じように利用申し込みをした上で、市内各地のグラウンドで練習を行なっていた。
土のグラウンドで練習し、練習後は選手自らトンボ掛けを行うようなこともあった。
2006年には、横浜フリューゲルスの練習場であり、吸収合併後はマリノスの練習場となった戸塚トレーニングセンターの使用を開始。
チーム創設から7年、ようやく自前のクラブハウスを手に入れることとなった。
2007年にはLEOCが命名権を取得したことで「LEOCトレーニングセンター」という名称になった。
しかし、戸塚の施設は民間施設ゆえに利用料が高く、グラウンドが1面であることもあり、2010年に前述の西谷へと移転することとなった。
また、「LEOCトレーニングセンター」の名称はそのまま西谷へと引き継がれている。
【育成組織】
中学・高校年代には日本サッカー協会に登録している育成チームを、小学生向けにはスクールを保有している。
強豪校や、歴史あるクラブチームが多数存在する首都圏にあって、後発クラブゆえ創設直後は選手集めにも苦労していた模様。しかし、地道な強化の甲斐もあり、2010年代以降は、全国大会の上位へと進出するなど、首都圏内でも有数の強豪チームへと成長している。
2020年代以降は「横浜FCフットボールアカデミー」と呼称が付いている。
高校生
横浜FCユース
2001年設立。
中学生
横浜FCジュニアユース
2006年設立。ジュニアユース戸塚や鶴見ジュニアユースなどとの区別のため、「本部」と呼ばれることもある。
横浜FCジュニアユース戸塚
2015年設立。
スクールに所属していながら、本部ジュニアユースへの昇格が叶わなかった選手の受け皿として設立された、第2の中学年代チーム。
そのため、本部ジュニアユースがスカウトなどで外部から入団する選手が存在するのに対し、戸塚はスクール出身選手のみで構成されていた。
ちなみに、後述するファミリークラブとは異なり、クラブ直轄のチームである。
2020年度入団選手を最後に新規選手の受け入れを停止し、その選手たちが卒団する2022年をもって活動を終了した。
また、スクール生などの受け皿としての役割は、後述する鶴見ジュニアユースへと受け継がれた。
ファミリークラブ
Jリーグ参入直後に、提携という形で存在したチーム。
ちなみに、似たような形態をとるチームに東京ヴェルディの「公認支部」や柏レイソルの「アライアンスグループ」などがある。
鶴見ジュニアユースは2026年現在も存続しているが、それ以外のチームは本部ジュニアユース設立後に相次いで提携を解除して全く別のチームへと生まれ変わっており、いずれも2025年現在はその後継チームも活動を終了している。
横浜FC鶴見ジュニアユース
実は横浜FCよりもチームの歴史が長く、1992年に「フラミンゴFC」の名前で誕生している。
2001年より現在の名称に変更し、横浜FCの育成チームとなった。
本部が設立されるまでは、継続的にユースへと昇格する選手を送り出していた。
しかし、本部設立後は「ジュニアユース→ユース」の内部昇格コースが確立されたため、ユースへの昇格が激減。
2013年度にユース入団した選手を最後に10年以上ユースへの昇格選手が現れなくなってしまった。
しかし、ジュニアユース戸塚が活動終了する2022年になり、横浜FCからの指導者派遣が開始。
さらに、活動終了後に当たる2023年以降は鶴見専属スタッフとして複数の指導者が派遣されるようになるなど、戸塚の代わりに第2の中学年代チームとしての役割を担うようになった。
2025年度現在は、横浜FCトップチームの選手でもあった野崎陽介氏が監督を務めている。
横浜FC瀬谷ジュニアユース
2001年設立。
明確な活動終了年は不明だが、2005年を最後に大会などへの出場が確認されていない。
しかし、2006年に設立された本部の母体となっているとも言われる。
横浜FC泉ジュニアユース
関東大会や全国大会などの上位大会に出場するなど、ファミリークラブの中では多く実績を残していた。
2009年に提携を解除し、独立したチームとして活動していたが、2010年代半ばに活動を終了した模様。
横浜FC相模原ジュニアユース
2000年に「横浜FC大野北ジュニアユース」として設立されたのち、2003年に「相模原」と名称を変更した。
相模原市の協会のみに登録していたため、全国につながるような大会には出場していなかった。
2008年に提携を解除。その後は相模原市内のNPOに移管され、2020年度までは活動していたが、同じ法人内のもう1つのジュニアユースチームと統合される形で活動を終了した。
横浜FCジュニアユーススクール
中学の部活動でサッカーをしている子ども向けのスクール。
その名前の通り、スクールであるためこのチームで大会に出場していたわけではないが、当時のホームページではジュニアユースチームと並列する存在として表記されていた。
横浜FC金沢ジュニアユース
八景島シーパラダイスなどで有名な横浜市金沢区ではなく、石川県金沢市にて活動していた。
金沢サッカークラブが運営しており、2001年から2006年にかけて「横浜FC」の名前を冠していた。
なお、「金沢サッカークラブ」という名前はツエーゲン金沢の前進となったチームと同じ名称であるが、関連性は不明。
小学生年代
小学生年代においては、公式戦に出場するチームを保有せず、「横浜FCサッカースクール」を運営している。
その中で、地域チームとの交流戦に参加したり、他Jチームとの大会などに出場したりしている。
横浜FC U-12 強化カテゴリー
選抜チーム。普段の練習はそれぞれが所属するチームで行い、このチームで公式戦には出場しない。しかし、招待大会などの私設大会には時々参加している模様。
設立後は、ジュニアユースに入団する選手はほとんどがこの強化カテゴリーからの昇格選手が占めている。
【関連チーム】
2013年に設立された女子チーム。
詳細は当該項目を参照。
横浜FC香港
2012年8月から、香港1部リーグに参戦していたチーム。
ゼロからチームを立ち上げたのではなく、既存のチームを買収した上で改称した。
日本人選手が海外に挑戦する受け皿を作る目的のほか、親会社であるLEOCの事業展開のサポートという側面もあった模様。
井手口正昭やパク・テホンなど、横浜FCに所属経験のある選手も何人か所属していたことがある。
2024年7月からは香港の会社に経営が移り、チーム名も仮称された。
当初は「横浜FC」の名前が定着していたことから「YFCMD」と、アルファベット略称として名前が残った。その後も何度も経営会社が変わり、その度にチーム名変更を繰り返している模様。
UDオリヴェイレンセ
2022年にONODERA GROUP傘下となったポルトガルのチーム。
Jリーグチームがマルチクラブオーナーシップ(MCO)に挑戦するのは初の事例とのこと。
横浜FCの若手選手がオリヴェイレンセに期限付き移籍したり、オリヴェイレンセの選手が横浜FCに加入したりしている。
ONODERA FC/ONODERA FC BLOOM
2013年にLEOC FCとして設立された。
その後、神奈川県リーグの一番下のリーグである3部を戦っていたが、2019年からはアマチュア最高峰であるJFLを目指し、本格的な強化を開始。
2022年には、グループ全体を代表するチームとなるべく、現在のチーム名に改称した。
2025年に女子チームに当たる「ONODERA FC BLOOM」が設立された。
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最終更新:2026年06月08日 17:22