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更新日:2026/07/30 Thu 13:59:01
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沖田総司(生年不詳〜1868)
諱は春政、後に房良。
幼名は宗次郎もしくは惣次郎(どちらも読み方はそうじろう)
通称は総司。
概説
生涯
誕生
陸奥白河阿部家(禄高10万石)の下屋敷、江戸詰の足軽小頭を務める沖田勝次郎(22俵2人扶持)の長男に生まれ、姉が2人(ミツ・キン)いる。
母は名前が不詳だが、日野在住の八王子千人同心・宮原家の出身という説がある。
生まれについては天保12年(1842)説、天保15年(1844)の2つがある。
沖田家は文政2年(1819)に武蔵忍阿部家に仕えた家柄で、文政6年(1823)3月に陸奥白河へ転封になった。この時、陸奥白河の松平家は伊勢桑名に転封、伊勢桑名の松平家は武蔵忍に転封と三方領知替えとなり、当時の沖田家当主・三四郎は忍から白河へ移り住んだ。その後、江戸詰となり現在に至る。
弘化2年(1845)に父・勝次郎が死去。母もその前後に死去。沖田家は姉・ミツが弘化3年(1846)、八王子千人同心の井上家から
林太郎を養子として迎え入れ、結婚し、沖田林太郎として家督を相続させる。沖田本人が元服して家督を相続させるところ、幼少のため相続出来なかった。沖田はしばらく林太郎・ミツ夫妻と一緒に暮らす。ちなみに林太郎は天然理心流の免許持ちで牛込にある「試衛館」、
近藤周斎の門弟である。この夫婦は嘉永6年(1853)、実子の
芳次郎が生まれている。
沖田はこの年に芳次郎と入れ違いで「試衛館」に住み込みの弟子として天然理心流に入門。
周斎やその養子・
勇と深いつながりになる。
先に林太郎夫妻の話をすると、林太郎は安政7年(1860)、白河阿部家が家臣団の1割に相当する200人を人員整理した際に解雇、浪人として四谷伝馬町1丁目に引っ越す。
「試衛館」に入門した沖田は免許皆伝、塾頭になり、天然理心流四代目当主・近藤勇とともに多摩の各地を出稽古に出かけて、門人たちの面倒を見た。門人たちは稽古前の沖田は表情がにこやかなのに、稽古に入ると鬼の様な形相で太刀筋も大変荒々しいと評している。
それでも、門人たちは沖田を剣の天才と見ており、その将来を嘱望された。
成長していくにつれ、
土方歳三、
井上源三郎、
永倉新八、
原田左之助、
山南敬助らと知り合う。ちなみに沖田林太郎と井上源三郎は本家・分家の血縁関係である。井上が本家、林太郎が分家である。
浪士組から新選組へ
文久3年(1863)2月の
浪士組応募には、近藤らと一緒に参加し、京都へ向う。沖田林太郎も応募に参加し、京都に向う。
ちなみに「試衛館」は当主と塾頭の2人が京都へ向かったので、門人たちの面倒を見る人がいなくなった。
近藤や義父・周斎が手紙で事情を説明し、近藤の義兄弟で沖田にとっては兄弟子の小島鹿之助や佐藤彦五郎らに面倒を観てもらった。
浪士組は仲間割れと内ゲバの結果、近藤勇が新選組の局長、土方歳三が副長、山南敬助が総長、沖田、永倉、井上、原田、途中参加の斎藤一らが隊長となる
新選組に形を改め、烏合の衆にならないように法度を定めた。
沖田林太郎は江戸に戻る浪士組に身を置き、
新徴組組士として江戸の治安維持に携わる。
近藤が文久3年(1863)3月に義父・周斎に宛てた手紙で内ゲバ前の「壬生浪士」の序列を記した中で筆頭が芹沢鴨、次席が近藤、六番目に山南敬助、七番目に沖田、九番目に土方が来る。
近藤と芹沢が仲良しになっていた頃は土方や井上が近藤を指して「天狗党の同類」と批判していたが、沖田もこれに加わった。
内ゲバの際、水戸尊攘派の浪士で神道無念流免許皆伝の
芹沢鴨と刃を交えた。
新しい体制では筆頭副長助勤、要は一番から十番まである組の隊長筆頭という立ち位置である。
試衛館的な序列では沖田はNo.2であり、近藤が記した書状だと近藤グループ内では沖田は近藤、山南の次に位置する。しかし、芹沢グループを排除した新体制で沖田は4番手に位置し、土方がNo.2に位置している。それだけ、芹沢グループの追い落としに土方が積極的に関与していたといえる。
沖田は剣の腕こそ天才肌であったが、組織をまとめるという事になると、出来る人に任せる、あるいは興味がなかったといえるのだろう。
近藤は手紙で故郷に政治的な意見を再三再四記しているし、土方も義兄の佐藤彦五郎に政治的な意見を記している。沖田は近藤の義兄弟である小島鹿之助に新年の挨拶、佐藤彦五郎にも手紙を記しているが、これは佐藤から沖田宛の手紙で「土方から手紙が来たが、土方は何か話を伏せている、沖田、何か知らないか?」という問い合わせの手紙に沖田が回答を記して佐藤に送り、佐藤が裏の事情を知る、までが1セットである。これとは別に近藤の実兄・宮川音五郎にも近況を知らせる手紙を送っている。
元治元年(1864)6月の池田屋事件では近藤指揮下で永倉、藤堂平助と共に建物内の斬り込みを担当。途中、沖田と藤堂は体調不良や重傷で途中離脱、池田屋内で最後まで戦い抜いたのは近藤と永倉の2人だった。
体調不良は後の診査で呼吸器に何らかの負担がかかり吐血したのが、更に診察の結果、結核と診断される。
新選組で元治2年(1865)2月23日に総長・山南敬助が切腹した。
一説には近藤が攘夷論を捨て、孝明天皇の爪牙となって長州征伐へのめり込む新選組の変貌を止められず傍観する事しか出来ない境遇を儚んで自殺したとも、それを後から記録上切腹という扱いにしたという説がある。他には、連れ戻されてからも永倉たちから再度脱走するように勧められたというが池田屋事件の直前から病に犯されていて、思うように刀を振るえなくなっており、既に覚悟を決めていたため、粛々と切腹に赴いた、という説も。
切腹の際の介錯には山南自ら沖田を希望。
その潔い最期は近藤から「浅野内匠頭もここまでではあるまい」と称賛された。
沖田にはこの様な実話がある。池田屋事件の後に暗殺された佐久間象山の遺児・
三浦啓之助が新選組に入隊する。
正直、出来が悪く他の隊士からバカにされていた。ある日、バカにされた隊士を三浦が後ろから斬りつけようとしたのを目撃した沖田は三浦の襟首を掴んで約5.5m程度投げ飛ばした。三浦がバカにされた腹いせに斬りつけた、と返答すると、沖田はバカなんだから、素直になれよ、と三浦の自意識過剰を戒めた。
最期
近藤からは天然理心流の次代を担う後継者として見られており、慶応元年(1865)11月4日付で小島鹿之助や佐藤彦五郎に宛てた手紙には、「これから長州に潜入する。命がけの大仕事で、長州を論破して必ず降参させてみせる。(意訳)」とあり、近藤は帰れないと踏まえ、天然理心流宗家の後継ぎは沖田総司に、残りの事は土方に委ねたので、協力を願いたいと遺書めいた内容になっている。
慶応3年(1867)6月10日、新選組が浪士団から幕臣に取り立てられた。身分は近藤が御目見以上御取扱(300俵旗本)、土方が見廻組肝煎格(70俵5人扶持)、沖田総司、永倉新八、井上源三郎、原田左之助、山崎烝、尾形俊太郎ら隊長格が見廻組格(70俵3人扶持)、吉村貫一郎、大石鍬次郎、安富才助、岸嶋芳太郎、安藤勇次郎、茨木司、村上清、谷周平ら隊長補佐は見廻組並(40俵)、一般組士89人は見廻組並御雇(7人扶持)の扱いだった。
このあたりから容態が悪くなり、病気により思う様に身体を動かせなくなったのか、1番隊組長の業務と部下を2番隊組長の永倉に任せる様になった、とある。そのうえで安静にすることになったので、京都郊外にある近藤の別邸で静養することになった。
慶応3年(1867)12月18日、沖田が療養のため滞在していた近藤の別邸を、高台寺党の阿部十郎、佐原太郎、内海次郎の3人が襲撃、沖田は外出中で難を逃れた。前月に彼らの指導者であった伊東甲子太郎を殺害した新選組への報復であり、同日夕刻、阿部らは二条城から戻る途中の近藤勇を狙撃し、負傷させている。
近藤と仲良く負傷者リスト入りし、後方に送られた。
慶応4年(1868)1月3日、鳥羽街道と伏見の市街地ほかで行われた鳥羽伏見の戦いで薩摩島津家、長州毛利家の洋式軍隊に完膚なきまでに敗れた徳川方。
大坂城にいた徳川宗家当主・徳川慶喜が松平容保、松平定敬、板倉勝静ら僅かの供を連れて軍艦・開陽に乗り込み、大坂天保山沖から江戸に夜逃げした。
鳥羽伏見の戦いは土方が新選組を率いて戦い、井上源三郎、山崎烝など隊士25名が戦死、行方不明が6名出た。負傷者は不明だが、この当時の新選組の人数は150名前後。近藤や沖田も含めて徳川海軍に連れられ大坂城から敗走、中には脱走した者もいて、江戸に戻った時点で116名とある。
王政復古後、上洛して京都に成立した薩長を中心にした太政官は西日本各地を平定した後、苦汁を呑まされた一会桑の3者、徳川慶喜、松平容保、松平定敬の3者を朝敵とし、東征軍を進発。徳川直轄領の各地で脱走、反乱が相次ぎ、近藤はその鎮撫という名目で新選組を中核とした甲陽鎮撫隊を結成、徳川宗家の責任者・大久保一翁の許可を貰い、甲府城を目指した。この時、近藤は名前を大久保剛、土方は内藤隼人と改めている。
俗説では近藤らは道中、宴会をしながら行軍をしたとあるが、近年の説では、江戸を出発前に天然理心流のパトロンや門人に檄文を記し、参加を促している。時間稼ぎの為に宴会をしていたとも。結局のところ、佐藤彦五郎のみ参加しただけで、他の門人たちは準備途中であったと言われる。沖田もこの行軍に参加したが、日野宿あたりで体力の限界を迎え、再び江戸に戻り、千駄ヶ谷の植木屋・平五郎宅で療養するが
慶応4年(1868)5月30日、ひっそりと亡くなった。
近藤の死は知らなかったといわれている。
墓所は専称寺(東京都港区)。
戒名は賢光院仁誉明道居士。
剣技
- 佐藤源之助(佐藤彦五郎の長男)に言わせると、沖田の剣の構え方は近藤にソックリだと言われ、「小手先ではない、身体をぶつける感じだ(意訳)」と体重を乗せて斬りつけるんだと説明している。
- 沖田の得意技・三段突きは平正眼(天然理心流では「平晴眼」と書く。相手の右目(または喉)に向けて刀をやや右側に開いて構える、実戦的な中段の構え。)の構えから踏み込みの足音が3回鳴るのが一度の様に聞こえて、その間に3発の突きを繰り出した。この技には様々な解釈が存在し、古武術の研究家が検証したモノとして
1:顔、喉、腹の3箇所を瞬時に突く。
2:顔、喉、腹の隙があるトコロを3回突く。
3:沖田がワザと隙を作り、相手がそこへ仕掛けて来たトコロを返し技で1ないし2を行う。
4:上記の1〜3を「三段突き」と総称し、状況に応じて使い分ける。
というのがあった。
佐藤源之助は、「天然理心流の突き技は手応えがあってもなくても、必ず3本行う。他の流派は刀で突く時に刃を下にして突きに行くが、近藤や沖田は刀を平らに寝かせて、刃を常に外に向けさせ、突いても良し、突き損じたら外に向けた刃で相手を斬りつける技である。」と天然理心流の突き技を説明している。
突き技を3本行う理由を佐藤源之助は
「刀を相手に突きっぱなしにしない様に戻すクセを身につけさせるため」
「突き損じた時に、スグに元の姿勢に戻るため」と説明している。
同時代人がみた沖田
- 阿部十郎(敵対した側の高台寺党):「近藤の高弟の沖田総司、大石鍬次郎という者は、残酷な人間で、国家、朝廷のあることを知らぬようなもので、ただ腕が利くだけで、剣術などはよく使いました(意訳)」
「沖田は弟子の面倒見が良いが、剣を合わせると恐ろしかった」
- 西村兼文(西本願寺侍臣。アンチ新選組。『新撰組始末記』を記す):「近藤秘蔵の部下にして局中第一等の剣客なり」
- 永倉新八(新選組の同僚)「猛々しい太刀筋で猛者の剣だよ(意訳)」
逸話
- 近藤や土方は遊郭の女性と遊んだりしているが、沖田は京都に来た頃は遊郭に出入りしていたそうだが、合わなかったみたいで、女性関係は油小路にあった旅館里茂の娘・キンとは馴染であったと言われている。
- 沖田の写真は次姉キンが所持していたが、引っ越しの際にゴミと一緒に捨てられたという。
- 後述のように創作ではイケメン・美少年として描かれがちな沖田だが、写真などの史料が残っておらず、実際の容姿は不明。
「沖田の肖像画」として有名な絵はミツの孫、要が幼少期の沖田に顔が似ている、という話を元ネタに昭和4年(1929)に描かれたもので、本人を描いたものではない。
容姿に関する記述としては、「笑うと愛嬌がある」「色黒」「肩の張り上がった」「猫背」「長身」と書かれたものが残っている。
一方で沖田家では総司の容姿について「色の白い、小柄な男だった」という真逆な逸話が伝わっているという。
創作での沖田総司
後世の作家や脚本家の数だけ、沖田総司が存在する。平均的にイケメン、病弱、天才剣士のキャラに土方とのカップリングまでがお約束といえる。
子母沢寛氏や
司馬遼太郎氏の作品で薄幸で悲運の天才剣士と呼ばれるキャラが出来上がり、小説、テレビ、映画、漫画、ゲームなどで土方と並んで引っ張りだこの人気である。
近藤勇「ぐぬぬぬ…ナゼ、オレはハブられる?沖田との付き合いはオレの方が古いのに…」
- 天然裏神流十殺剣! -- 名無しさん (2026-05-05 10:56:49)
- 女体化させられたり謎PVで切り捨てデュエット等、著名な人物らしい活躍中。 -- 名無しさん (2026-05-05 18:49:30)
- 強かった、と多くの人が証言しているが実際に出動した記録はかなり少ないお人。病気もあったからしゃーないんだが -- 名無しさん (2026-05-05 22:49:14)
- 強いけど実績はあんまりないっていうのは宮本武蔵と同じだから -- 名無しさん (2026-05-05 23:50:47)
- ぶりぶりざえもん -- 名無しさん (2026-05-05 23:52:30)
- >近藤勇「ぐぬぬぬ…ナゼ、オレはハブられる?沖田との付き合いはオレの方が古いのに…」 何気に沖田が近藤に重い感情向けてるのって銀魂ぐらいなんだよな -- 名無しさん (2026-05-06 00:36:21)
- ほかに創作で登場した場合にありがちなのは、年下キャラポジ(史実では自分の方が年上なのに敬語使ったり悪ガキっぽく接したり)、主人公の相棒or同年代のライバル枠、あたりかな? -- 名無しさん (2026-05-06 12:16:30)
- みなもと太郎は「ヒラメのような顔だった」という証言からヒラメみたいなデフォルメ沖田をキャラにした。反響がなく他への影響もあまりないが沖田の小説書いた大内美予子氏からはイメージに合ってると褒められたそうな -- 名無しさん (2026-05-06 13:00:37)
- 沖田総司といえはイケメンというイメージになったのは草刈正雄が映画で演じて大人気になったからと聞いた -- 名無しさん (2026-05-06 21:47:22)
- 漫画:JIN‐仁‐の沖田は肖像画基準のヒラメ顔でしたな -- 名無しさん (2026-05-06 23:15:27)
最終更新:2026年07月30日 13:59