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近藤勇
天保5年(1834)10月9日〜慶応4年(1868)4月25日
幼名は
勝五郎、後に
勝太。通称は勇。諱は
昌宜。
別名は
大久保剛、
大久保大和。
変名に
近藤内蔵之助がある。
画像出典∶wikipedia「近藤勇」より抜粋
概説
新選組局長として幕末を象徴する人物。新選組を率いて、
孝明天皇や陸奥会津松平家当主・
松平容保らの為に働く。
生涯
幼少期
天保5年(1834)10月9日、幕府直轄領の武蔵国多摩郡上石原(
東京都調布市。ざっくり言えば野川公園の辺り。)に農家を営む父・
宮川久次郎と母・みよの3男として生まれる。宮川家は石高7石の6人家族で、農家としては中の上の家庭環境であった。
嘉永元年(1848)11月11日、江戸牛込(現:東京都新宿区市谷柳町)に所在し、近藤周助が主宰する天然理心流道場・試衛館に入門する。後世、道場は「試衛館」と呼ばれるが、当時は「試衛場」と呼ばれていた。
近藤内蔵之助によって寛政年間(1789〜1800)に江戸で創設された剣術を中心とした総合武術である。
剣術である鹿島新当流をベースに、剣術(ここでは剣術の他に居合術や小太刀、当て身も含まれる)、柔術、棒術、気合術(現在で言う呼吸術)の4系統に分かれ、両国と多摩郡戸吹村(現・八王子市戸吹町)に道場を構え、門人を集めて賑わいを見せていたと言われている。
この流派は剣術のみの皆伝、柔術のみの皆伝と、系統別に学ぶ事が選択出来た。
門人の昇級システムは入門から切紙、目録、中極位目録、免許、指南免許、印可と進み、免許で指導する事が許され、指南免許を得ると独立し門人を集め道場を開く事が出来た。
内蔵之助の養子になり、流派の後を継いだ近藤三助は元々、多摩郡戸吹村の名主の子で、彼が生まれ故郷の多摩郡を中心に出稽古を行い、門人の開拓に努め、天然理心流は多摩を中心に勢力を持つようになり、最盛期で1500人の門人がいたと言われる。
三助が文政2年(1819)4月26日に46歳で亡くなるのだが、三助の門人が免許未満の者が多数いた為、先代内蔵之助の生き残りの門人で道場を開いていた者たちが三助の門人を引き取って免許〜指南免許まで腕前を上げた上で、世に送り出した。
この後の天然理心流は小幡万兵衛が相模方面、増田蔵六が八王子を中心とした多摩地域、近藤周助が江戸でそれぞれ流派を広めた。
しかし、この過程で気合術は失われ、天然理心流は剣術、柔術、棒術3系統の武術となった。相続出来たのも小幡、増田は3系統を修めたのに対し、近藤は剣術のみだった。
京都で有名になったのは近藤周助の弟子である近藤勇だが、この系統はむしろ支流で、本流で現在も存在している天然理心流は小幡や増田の系統である。彼らの孫弟子にあたる小野田東市が幕臣となり講武所の剣術師範役並に慶応2年(1866)就任している。
しかし、近藤周助の流派が自ら3代目天然理心流宗家を名乗ったのが天保元年(1830)、道場を牛込に開いたのが天保10年(1839)。その間の経緯はよく分からない。一説には認めてもらう為に小幡や増田ら門人達の間を訪ね歩き、根回しして認めて貰い、道場を開設する為の資金を集めたのかも知れない。
天然理心流の木刀は現代でも特注品として通販で購入出来る。重さが1.4kg、全長:101.5cm、柄の直径が60x50mmで丸太のような形状。その丸太のような太さは一般男性でも中指と人差し指が届かない。この木刀で稽古となると、竹刀の様に動き回るより、フェイントやプレッシャー等駆け引きを仕掛けて隙を作り出し、少ない手数で一撃必殺という示現流みたいな戦い方になる。
但し、この木刀で稽古したら、怪我人、下手したら死人が絶えない。そうなると剣術としては成り立たない。竹刀と防具という安全弁を設けた事で剣術は誰でも気軽に出来る武芸となった。今ならライト層、新規、にわかを取り込んで門人を増やした流派と、真の剣術マニアしか受け入れない流派に分かれた。前者は北辰一刀流や神道無念流、後者が天然理心流や古流剣術。
江戸に出た天然理心流も竹刀と防具を取り入れて、新規層の取り込みに取り組んだが、結果はイマイチだった。竹刀で道場破りを挑む輩も出て来たので、対策として神道無念流の剣客・永倉新八を客分として招いた。竹刀剣術なら永倉が一番と近藤は太鼓判を押しており、道場破りも大抵は永倉を出せば勝確なのだが、永倉が留守だったり、永倉でも負けた場合、永倉の同門で練兵館塾頭の渡辺昇を呼んで対応させていた。
近藤勇誕生
嘉永2年(1849)6月に目録を受かり、同年10月19日に近藤周助の養子となり、周助の実家である嶋崎家へ養子入りし、嶋崎勝太と名乗る。その後、嶋崎勇と名乗ったのちに、正式に近藤家と養子縁組し、近藤勇を名乗る。
万延元年(1860)3月29日、御三卿・清水徳川家の家臣である松井八十五郎の長女・つねと結婚。
翌年8月27日には府中六所宮(現・大國魂神社)で、天然理心流宗家4代目襲名披露の野試合を行い、晴れて流派一門の宗家を継ぎ、その重責を担うこととなった。
勇は天然理心流の門人でパトロンも務める
寺尾安次郎、
佐藤彦五郎、
小島鹿之助、
粕谷良循、
中島次郎兵衛らとの交流を重ねた。特に深い仲になる佐藤彦五郎は日野宿の名主で、天然理心流の門人で屋敷内に稽古場も持っていた。同じく小島鹿之助は多摩郡小野路村(町田市)の名主で、同じく門人となり屋敷に道場を持っていた。
遡る事、安政2年(1855)9月20日に小島と勇が義兄弟の杯を交わしたことに影響され、佐藤と勇も義兄弟の杯を交わしている。
三国志演義の桃園の誓いを意識したモノと伝えられる。この辺りで佐藤の妻の弟である
土方歳三と出会う。
沖田総司はそれより以前、黒船来航後に「試衛館」に入門している。実は土方や義兄弟2人よりも付きあいは古い。
近藤はパトロンや江戸市中内の武芸者との挨拶回りと門人への稽古などで日々を過ごして行った。その中にこの様な逸話がある。当時の多摩地域にこれといって名産がない。そこで他の地方に出稽古に行った際、頼んで良い栗の実を貰ってきて、この栗を植えて土地の名産にしたらどうか?と郷里の人に勧めている。後に、栗が盛んに作られたとか…
そして文久3年(1863)の初頭を迎える。
世間は嘉永6年(1853)の黒船来航から始まり、江戸で発生した安政の大地震(1855)とその前後に発生した嘉永7年/安政元年(1854)の伊賀上野地震、安政東海地震、安政南海地震および豊予海峡地震といった連鎖地震にコレラの蔓延、13代将軍・
徳川家定の後継者問題、外国との通商条約締結問題で沸騰しており、安政6年(1859)、家定から事態の収拾を託された大老・
井伊直弼により、過激な尊皇攘夷論を唱える長州毛利家(36万9千石)家臣・
吉田松陰、松陰と親交のあった小浜酒井家(11万石)家臣・
梅田雲浜、将軍後継争いで暗躍した越前福井松平家(32万石)家臣・
橋本左内などが処刑された
安政の大獄が起こる。
在野の志士が憤慨し、翌万延元年(1860)3月3日朝、水戸を出奔した浪士達によって桜田門外で井伊大老は暗殺。
その1か月後、幕府は朝廷に「天子様の妹君の和宮親子内親王様に、ぜひとも将軍・徳川家茂へご降嫁いただきたいのですが」と要請する。朝廷では、幕府からの申し出を断る雰囲気が蔓延していたが、
岩倉具視が「幕府に条件を付けましょう。降嫁を認める見返りに通商条約を破棄して攘夷をさせるのです。これなら、こちらの懐は痛みません。降嫁が実現すれば、主導権はこちらにあるし、降嫁が実現しなければ、幕府は更にこちらにへりくだり、主導権をにぎるのが容易になります」と提案し、朝廷はそれを方針とした。幕府に提示すると、幕府はこの条件を受け入れ、和宮の降嫁が実現した。
このやり方に反発する朝廷内の攘夷派公卿・三条実美、姉小路公知など13名の公卿が連名で具視・久我建通・千種有文・富小路敬直・今城重子・堀河紀子の6人を幕府にこびへつらう「四奸二嬪」として弾劾する文書を関白・近衛忠煕に提出。最終的に岩倉らは失脚する羽目になった。
同じ頃、幕府の外交方針に批判的な出羽庄内酒井家(14万石)郷士・清河八郎は尊王攘夷思想集団「虎尾の会」を主宰し活動していたが、文久元年(1861)5月20日、江戸両国で幕府の町奉行所の探索網に引っ掛かり、捕り方の岡っ引きを切り殺してしまった。大規模な探索網で逃したため、幕府のメンツは丸潰れとなり、「無辜の町人」を切り殺したと話をすり替えて広めた為、清河は二重の意味でお尋ね者になった。
清河は西日本各地を巡り、大名家や在野の志士達を圧力団体に仕立てて、幕府の外交方針を転覆させる為に活動。文久元年(1861)の暮れ、中山大納言家の諸大夫・田中河内介の紹介状を携えて清河が薩摩へ行き薩摩島津家の国父・島津久光を説得、上京させることに成功。
攘夷思想が強く、取り巻きの公卿達の勧めで当時在位していた孝明天皇による勅使派遣は文久2年(1862)に入ってから2度目。
1度目は6月に薩摩島津家の国父・島津久光が勅使・
大原重徳を擁して江戸に着き、幕府人事へ介入し、
安政の大獄で政治活動を止められていた前一橋家当主・
一橋慶喜を
田安慶頼に変えて将軍後見職に、前越前福井松平家当主・
松平慶永を政事総裁職に就任させる体制を実現した。
島津久光は帰りの道中で生麦事件に遭遇した。
幕府の政治に関与出来ない長州毛利家は朝廷工作に軸を置き、当初は長井雅楽の『航海遠略策』で京都デビューを果たす筈だったが、久坂玄瑞が『企画が弱い』と難癖を付けて取り下げさせ、長井に詰め腹を切らせた。久坂は破約攘夷論に方向変換。
同じ頃、土佐山内家(24万石)では武市半平太が文久元年(1861)8月、土佐勤王党を結成。主宰する武市は久坂の破約攘夷論に共鳴し「土佐一国の攘夷」を実現する為、参政・吉田東洋が邪魔と考え、反吉田派の政敵と手を組み、文久2年(1862)4月8日に暗殺。土佐山内家の実権を握った。
互いに殿様を上洛させ、攘夷を実現する為、久坂と武市で「京都手入れ」と呼ばれる政治工作を行った。長州が朝廷工作、土佐が
安政の大獄で攘夷派を弾圧した幕府の役人や宮中の要人に「天誅」という名目で報復テロを行い、京都の幕府権力は無力化され、無政府状態となった。
そのテロの実行に大きく関与したのが土佐系攘夷志士の
岡田以蔵と薩摩系攘夷志士の
田中新兵衛である。
長州と土佐の攘夷派は久光の幕政改革を酷評し、三条実美、姉小路公知が攘夷を催促する勅使になった。
文久2年(1862)10月18日、幕府講武所剣術教授方・松平忠敏が浪士の利用を建白書に記して幕府に提出した。
この建白書が提出された社会的背景は、幕府に攘夷を催促する京都の孝明天皇から勅使が派遣され、江戸に向かっている時だった。
日本政府という看板を背負う徳川幕府としては、欧米諸国と通商条約を結んでいる以上、戦争は避けたいのだが、孝明天皇のご機嫌取りで攘夷をしますと約束して、ダブスタな顔が出ていた。
松平忠敏の建白書は、ダブスタを解消しようという内容や出された時期が絶妙だった。
松平は建白書でこの様な事態になったのは攘夷派浪士が薩摩、長州、土佐を刺激して、孝明天皇や側近の公卿に近づき、幕府に圧力を掛けるからだ。
逆に攘夷派浪士を幕府が取り込み、孝明天皇の意向を尊重して政策を実現し(=公武合体で攘夷をする)、攘夷派浪士を配下にして活用すれば、幕府の下がった支持率も上がり、一石二鳥ですよね〜と記した。勿論、松平は飾りであり、実際に脚本を書いていたのは清河と幕府の講武所剣術教授方世話役の山岡鉄太郎。
文久2年(1862)11月12日、清河は「急務三策」(攘夷の断行、大赦の発令、英材の教育)を政事総裁職・松平慶永に提出。
幕府は清河の献策を受け、浪士の召抱えを決定し、併せて清河の過去の罪を不問にし、獄中にいた配下も釈放された。
彼らは浪士募集のスタッフとして働き、募集活動に拍車が掛かった。
浪士組から新選組へ
文久2年(1862)12月19日、老中から松平忠敏に上洛予定の征夷大将軍・徳川家茂の警護を目的として年齢、身分、前歴を問わず人材募集を命じた。
17歳から63歳まで、様々な人物がこの募集に志願した。その中に近藤が含まれていたのである。試衛館からは近藤の他に、土方歳三、沖田総司、山南敬助らも加わる。
集められた彼ら234名は
浪士組と呼ばれ、浪士取扱(浪士組の責任者)に
鵜殿鳩翁が就任。文久3年(1863)2月5日、鵜殿は浪士組参加者を小石川伝通院に召集、編制を発表した後、2月8日、浪士組は江戸を出発し、2月23日、京都の壬生村に到着。
同日、清河八郎は新徳寺に浪士を集合させ、朝廷への献言を提案。
2月24日、清河は浪士組全員の署名が記された尊王攘夷の建白書を朝廷に提出。
2月29日、朝廷から「
すみやかに攘夷を実行し、外国人を排除し、天皇を安心させてね(意訳)」と返答があり、清河は新徳寺にて
江戸へ帰還した上での攘夷を宣言。
当初の目的である将軍警護を果たさずに東帰することに、
芹沢鴨、近藤らが猛反対する。3月3日、浪士組に帰還命令が出されるが、芹沢、近藤らは京への残留を希望。このときに残留を希望したのが芹沢の同志5人と近藤の同志8人の合計13人だった。これに
殿内義雄や
根岸友山らが合流。
3月4日、徳川家茂が入京し、浪士組は本来の目的を終える。
3月10日、芹沢や近藤ら17人は連名で京都守護職を務める会津松平家に嘆願書を提出、会津側は彼らを「御預かり」に決める。
3月12日、芹沢、近藤らは会津松平家御預かりとなり京に残留。(壬生浪士組、後の
新選組)
同日、芹沢と近藤は清河の暗殺を謀るが、山岡鉄太郎らが浪士組募集の朱印状を首から下げた状態で清河の護衛についていたため未遂に終わる。
3月13日、鵜殿と清河らが率いる浪士組は京を出発し江戸へ向かった。
この後、内部抗争が起き、26日に殿内が暗殺され、根岸も同志とともに離脱すると、壬生浪士は芹沢派と近藤派が牛耳ることになった。
のちに芹沢・近藤・新見が局長となり、芹沢が筆頭となった。
後に治安維持で活躍した印象の強い「壬生浪士」だが、当初は遅れて京都デビューした会津が会津訛で京都の人と言葉が通じない、京都の公卿方にコネがない、他所の浪士や他の大名家の家臣とのコネも余りない、と当主・松平容保が守護職就任拒否理由の条件の一つに、コネクションやコミュニケーションが著しく欠けている、と挙げたが、それを補う為である。
芹沢が筆頭局長なのは、剣術が長州毛利家に門人の多かった神道無念流の免許皆伝。水戸徳川家の攘夷派として長州毛利家とコネがある。水戸徳川家は有栖川宮親王家と血縁関係で宮中にコネがあるなどに目をつけ、長州や水戸の攘夷派と折衝して情報を集めて欲しいという意図から。
近藤はこの頃、郷里の友人宛に志大略相認書という書簡を記している。何回かに分けて記された近況報告で第一に攘夷が決まるまで京都から戻らないという話を記し、第二に将軍はイギリスへ生麦事件の賠償金支払いを拒絶した上で攘夷を行う。その為の手伝いをするんだ、と記している。
この頃の近藤は芹沢と仲良くやっており、それを見た土方らが「近藤は
天狗党の同類」と批判的に見ていた。近藤らは遅れて京都デビューした為、コネも金も無い。芹沢を利用して京都での人脈を拡げ、金を集めたのである。悪名も全て芹沢が受け止めてくれた。
その間、長州や土佐の攘夷派とその取り巻きの公家らは孝明天皇が外人を先入観から毛嫌いしているのを上手く扱い、孝明天皇から毛利家へ陣羽織を下賜、対外戦争は長州にお任せ!という雰囲気を作った。
長州は5月10日、自国の海域を通行する外国船に無差別砲撃を行った。
京都で行われる薩摩、長州、土佐による京都の公卿を担いで行われる内政干渉や攘夷世論を根絶する為、江戸の幕臣達は元外国奉行・
水野忠徳が発案したクーデター計画に乗っかり、決行した。
総司令官に老中格で肥前唐津小笠原家世子の
小笠原長行(6万石)を担いで文久の幕政改革で創設された西洋式軍隊1500人を動員し、攘夷世論を好まないイギリス公使代理・ニールとフランス公使・ベルクールから協力を取り付け、兵員輸送でそれぞれの海軍から船舶を借り受け、幕府海軍と共に海路、大坂湾に到着、上陸して孝明天皇に開国和親の勅許を出させ、開国を認めないなら
承久の乱の
後鳥羽上皇みたく島流しにすると公言した。
京都にいる孝明天皇や全ての公卿、諸大名が暴挙と憤り、一触即発の事態になったが、当時、攘夷を説明する為に上洛していた将軍・徳川家茂が説得して、クーデター軍と共に江戸に戻り、失敗した。
イギリスはこれだけ御膳立てして失敗する幕府に見切りを付け、後に薩英戦争で善戦した薩摩島津家を日本に於ける戦略的パートナーとして見直し、提携した。同時に在日外国勢力を総結集して、攘夷派日本代表の長州を見せしめに徹底的に叩いて、孝明天皇から下々の庶民にまで攘夷が無駄という事を叩き込む計画を練った。
近藤は暴徒が暴れていると6月2日に大坂に向った時、幕府のクーデター軍と入れ違いになり、その動きをパトロンの小島鹿之助に手紙で伝えている。他には大坂で同年6月3日、芹沢や近藤ら10人がすれ違った小野崎部屋の力士が道を譲らなかったため、芹沢らは暴行を加えた。
その行為に怒った力士の仲間が駆けつけ乱闘となり力士側に死傷者が出たが、小野川部屋の年寄が壬生浪士組に50両を贈り詫びを入れる事で収まった。
この間、芹沢との関係に変化が起きた。土方らに「芹沢とイチャイチャしてる」と言われるくらいベッタリだったのが、芹沢と距離を置き始めたのである。今まで故郷宛の手紙に芹沢の名前を出して持ち上げていたのが、芹沢の名前を出さなくなり、自分の意見を記す様になったのである。征夷大将軍である徳川幕府が陣頭に立ち、攘夷をするべきで、それが出来るまで、オレ達=浪士組は誰にも仕えないし、出来ないなら浪士組を解散せよ、と記している。
それとは別に他の大名家とトラブルを起こしたり、同年8月13日、一条通葭屋町下ル福大明神町の大和屋庄兵衛宅が壬生浪士の金策を謝絶。大和屋が外国向けに生糸を輸出して大金を獲たと嗅ぎつけた芹沢が大和屋に直談判して金をよこせ!その金で攘夷をして還元してやるから、と話し、大和屋が拒否したら、芹沢が腹を立てて放火、刀を抜いて京都町奉行所や京都所司代の火消を寄せつけず、一晩かけて焼き尽くし、高笑いしていた。
芹沢らは京都の相撲部屋を訪れて、相撲興行を行い、売り上げの何割かを徴収したり、商家を訪ねて、強引な金集めを行った。
国内では長州の攘夷に対して7月に幕府から長州へ調査団が派遣されたが、船を拿捕し、使節を殺害するなど勢いが止まらなかった。
同年8月13日大和行幸の詔が出され、同時に長州毛利家当主・毛利敬親らに上京が命じられた。
諸大名へも行幸供奉、軍用金献納が命じられた。
同年8月17日に大和国五条で天誅組の変が勃発した。
幕府のクーデター失敗の後、薩摩島津家と越前福井松平家によるクーデター計画があったが、島津家は7月の薩英戦争で忙しく、福井側は島津家がヤらないなら福井単独だとリスクが高すぎると二の足を踏みとん挫。
京都にいた薩摩島津家の高崎左太郎(諱は正風)は島津久光から手紙で「しばらくオレは薩英戦争で動けない。困ったら中川宮を頼れ!!あの人がオレの代わりだ…(意訳)」と指示を受け中川宮を訪ねると、宮は長州に脅されて攘夷の陣頭指揮を執るために長州へ派遣されそうになり、これを止めさせるには長州を朝廷から排除するしかないと決意。しかし、宮も島津家も軍事力が無い。そこで会津松平家に注目したが宮も高崎も会津にコネがない。高崎が同家家臣の重野安繹から江戸の昌平黌に在籍していた時、重野と会津松平家公用局員の秋月悌次郎が仲良しだった話を思い出して、そのツテで秋月を訪ねたのが文久政変の始まりだった。
会津側にも事情があった。京都守護職は元々会津用の役職で実質的には京都所司代と変わらないのだが、実際に勤務に就くと調整しなければならない事が山程出て来た。具体的には西国諸侯間の調停である。長州の攘夷に手を貸さなかった豊前小倉小笠原家(15万石)に対して、小笠原家の領地を侵食し、小笠原家に対する弾劾状を提出し、京都では小笠原家の官位剥奪・所領没収という勅命まで作られて、実施されようとしていた。
小笠原家は会津に泣き付き、会津側も上述の使節団が殺害されたのを聞き、これ以上は放って置けないと考えたが、こちらは遅れて京都デビューした為、朝廷にコネが無い。しかし奇貨居くべし、コネの方からやって来たので最大限に活用するべく孝明天皇・中川宮・薩摩島津家とともに長州毛利家を朝廷から追い出す為のクーデターを実行した。(文久政変もしくは八月十八日の政変)
会津松平家家臣・鈴木丹下の「騒擾日記」によれば、八月十八日の政変に際して、御所の警備のために隊士を率いて出動するが、御門を固めていた会津武士たちは壬生浪士を知らなかったため、槍を構えて通そうとしなかった。
「通せ」
「通さぬ」
と双方が押し問答となる中、芹沢は哄笑しながら歩み出たため会津武士が槍を突きつけると、愛用の鉄扇でその槍を悠々と煽いだという。
その場を収めたが、芹沢は悠然と門を通っていき、人々は彼の剛胆さに驚いたという。
隊名は武家伝奏から賜ったという説と、松平容保から賜ったという説の2つがある。
後者の説は、会津松平家当主の警備部隊名を容保からもらったという意味になる。
文久3年(1863)9月13日、芹沢は土方、沖田らと水戸徳川家の主君筋である一橋慶喜の母方にあたる有栖川宮家を訪れ、
新選組の交名と、「警衛の用があれば何事に限らず申し付けてください」と記した書付を渡した。
会津松平家が京都での陣容、特に公用局に目処が着いたので、今までは芹沢の振る舞い(恐喝同然の金集めやヤラせてくれない芸妓への狼藉など)を黙認したが、長州毛利家やその取り巻きの公卿達が京都を去り、利用価値が激減したので近藤らに殺害を命じた。
会津松平家の公用局は当主・松平容保の頭脳集団として京都守護職として上洛してから2週間で新設。
身分にこだわらず、活力が有り、学問と仕事の出来る人材をかき集めた。
創設当時から公用局を引っ張ったのは野村左兵衛(慶應3年6月22日病死)、外島機兵衛(慶應4年3月30日病死)、小森久太郎(明治4年病死)の三人。
主な仕事は当主の諮問を受けた事柄に関して評議を行い、そこで出た結論を京都詰の家老に申し上げ、家老と一緒に当主の面前で報告する。
但し、対応を急ぐ場合、当主の面前で討議がなされた。
この後、江戸や国許へ急ぐ場合、京都のみで決定し、江戸、国許には事後承諾という形が取られた。
当主や家老が公用局の意見に反対する事はまずなく、場合によっては公用局が容保の意見に反論し、容保がその意見を受け入れた事例もある。
公用局の意見=会津松平家の公式見解だった。
公武合体のつなぎ役として朝廷側で孝明天皇、中川宮、二条関白からの相談、幕府側で老中、京都所司代、京都町奉行からの相談や通知を当主に取り次いだり、相手に提出する意見書の草案を作成したり、会津側の意見を相手に伝えた。
浪士組や他の大名家とのトラブルにも駆り出され、解決に奔走したり、中川宮家に家臣を貸すなどして連帯を強化するなども。
公用局で働いていた広沢富次郎の記録では、評議の内容は連帯責任で徹底して話し合うのが普通で徹夜で議論しても話がまとまらず、胸ぐらをつかむ、闘論になるなども日常茶飯事。
それでも評議の内容が定まると、当主に言上、承諾を得た。
連帯責任を証言しているのは他にも柴秀治、手代木直右衛門も自伝で認めている。
独創性は無いが事務処理能力が高い人達が揃っており、朝廷、幕府の双方から重宝された。公用局員の秋月悌次郎や手代木直右衛門は戊辰戦争後、太政官に中堅官僚として雇われて働いている。
9月16日あるいは18日、
新選組は島原の角屋で芸妓総揚げの宴会を開いた。
芹沢は壬生の八木家で二次会を催したため、泥酔していた芹沢は刺客たちによってたかってずたずたに斬りつけられ、あっけなく落命した。同じ部屋にいた平山も斬られたが、離れた部屋にいた平間は逃亡し、そのまま行方不明となった。
事件は長州側の仕業とされ、同年9月18日(あるいは20日)に芹沢と平山の葬儀が神式に則り盛大に執り行われた。20日に近藤は芹沢と平山が「変死」したことを記した手紙を郷里多摩の佐藤彦五郎へ送っている。この手紙では他にも実家の長兄・宮川音五郎より義父・周斎の体調が悪化したので江戸に戻るように知らせた手紙に対する返信として、江戸に帰れない事を伝えた。それだけでは不足だと思ったのか、9月23日付けで会津公用局員の広沢富次郎と大野英馬が手紙で「芹沢急死により、近藤一人で浪士50余名を取りまとめている。忙しすぎて帰れないから、ゴメンね(意訳)」と記した。これにより、近藤が会津公用局から信用を得て、新選組の主導権を掌握したのだが、近藤には強い不満が幾つか存在した。
1つ目は人手不足。加入しても離脱したり、衛生面が劣悪で病人、怪我人続出で人の出入りが激しく、後記する禁門の変が終わり、近藤が募集の為に関東に行くまで人手不足が解消されなかった。
2つ目は尊王攘夷。浪士組も新選組も尊王攘夷をする為に集められたが、全く尊王攘夷と関係のない、治安維持を担当させられている。文久3年(1863)10月15日、松平容保に手紙で攘夷をするまで幕府に仕えません、とか、元治元年(1864)5月3日には攘夷をしないなら新選組は解散しますと老中・酒井忠績に直訴するくらい、攘夷をアピールしたが、相手にされなかった。
松平容保は手紙を貰う5日前の10月10日、祇園一力楼にて在京諸大名の代表を集めて懇親会を主催、そこに近藤を招待したのである。この懇親会には薩摩、土佐、安芸広島浅野家(42万6千石)、肥後熊本細川家(54万石)、会津などの要職者が参加。酒や食事は美味かったが、誰からも積極的な発言が無く、会津家老の横山主税が近藤に話を振り、近藤は挙国一致の攘夷論をブチ上げた。話の前振りで薩長の攘夷を否定したが、薩摩が大人の対応をしたので喧嘩にならなかったが、懇親会の結論として公武合体で国是を定める事に異論はなく、その為に江戸にいる将軍に京都に来てもらう事が第一優先となった。
文久3年(1863)11月15日、孝明天皇は薩英戦争や文久政変で活躍し、お気に入りとして寵愛する島津久光に手紙で徳川体制の存続を会津松平家と共に頼むと依頼したが、久光が会津は幕府の犬ですよね、と言って断ったので、孝明天皇が久光を見限り、会津に徳川体制の存続を依頼した。会津側は期待に応えるべく、守護職の権限を拡大。この過程で江戸や在京の幕閣と衝突するのだが、朝陽丸事件から文久政変までを解決した会津と外国からの支援を受けても攘夷派を追放出来無かった幕閣とでは力量に差があり、元治2年(1865)初頭には御所警備の人事権を握り、京都所司代や大坂城代を指揮下に収め、近畿圏を掌握し、一大勢力を築いた。孝明天皇が松平容保を寵愛、中川宮は薩摩から会津に乗り換え、薩摩から派遣されていた家臣たちは引き払い、代わりに会津公用局員が中川宮の家臣を兼任した。
新選組は孝明天皇の手先として働く事になる。
11月29日付けで多摩の佐藤彦五郎に本音を記した手紙を送っている。これによれば、在京諸大名の要人が江戸に来て将軍上洛を要請するのだが、その中に自分も含まれると記している。他にも幕府を蔑ろにする清河八郎が暗殺されたり、山岡鉄太郎が更迭されたのは喜ばしいとか、江戸に戻った浪士組が
新徴組になり、幕臣となり、攘夷の志を失ったのは嘆かわしい事だ、とか、新選組だけが尽忠報国の志を保ち、本当の尊王攘夷を実践する存在だとアピールしている。
攘夷と長州征伐の狭間で…
文久3年末から文久4年(1864)初頭にかけて、近藤が望む攘夷は行われる気配すら無かった。
朝廷では12月23日、長州派の関白・鷹司輔煕が辞任。後任には、二条斉敬が孝明天皇の強い希望により就任した。
武家側では、一橋慶喜、松平容保に加え、元政治総裁職の松平慶永、元土佐山内家の山内容堂、元伊予宇和島伊達家の伊達宗城(10万石)が12月30日に朝議参預に任命され、翌年1月14日、島津久光に念願の官位が与えられ(従四位下・左近衛権少将に叙任された。)、参預に任ぜられた。
将軍再上洛により国是を定めようと考える江戸の幕閣は、軍艦奉行並・
勝海舟指揮下で幕府と大名家による連合艦隊を編成して海路上洛を12月28日に実施。軍艦8隻、輸送船4隻の計12隻が大坂を目指して航行し、翌年1月8日、大坂天保山沖に到着。将軍家茂は大坂城に入った。
新選組は正月2日に大坂へ出向き、8日には安治川右岸に警護の陣を敷いた。
将軍家茂は14日に大坂城を出発し伏見泊、翌15日に二条城入りをした。新選組は大坂から京都までの護衛に参加している。
将軍と朝議参預による会議が開催される中、近藤や新選組の身の回りには幾つもの出来事が起きていた。
2月1日、四条大橋の高札場に新選組批判の杉板が打ち付けられていた。曰く「憂国志士団を名乗る輩が京都の金持ちに出入りして金品を無心し、断ると力で脅している。よく見ると、会津武士か新選組のどちらかだ。自分達で勝手に職質を行い、断れば問答無用で叩き斬るなど、勝手し放題。たかが壬生浪の分際で遊郭や料亭で遊ぶなど10年早い。会津が正さないのは頭が悪いのではないか?(意訳)」と書かれていた。
この頃、近藤は体調を崩しており、松平容保に相談した結果、承諾を得て新選組の業務を土方に任せ、容保オススメの温泉で療養していた。(故郷の中島次郎兵衛に宛てた手紙で男色大流行で精神的に疲れたと記している。)
療養中に京都守護職の松平容保を2月11日に「陸軍総裁職」、同15日「軍事総裁職」へ転じる話が明らかになる。参預による会議の中で長州征伐の議論が出て、容保に長州征伐を行わせる構想である。同日、後任の京都守護職に松平慶永が就任するという話を知らされた近藤は療養を切り上げた。
慶永は御三卿・田安家から越前福井松平家へ養子に入り当主になった人物で、福井を有力大名に押し上げた手腕を持つ人物なのだが、先代将軍・
徳川家定を執拗に誹謗中傷したり、破約攘夷論を江戸城内で広めて
小栗忠順と衝突したり、破約攘夷論がダメになると開国論に転向し、この当時、政治顧問を務めていた
横井小楠の影響で公議政体論を主張し、
勝海舟や
坂本龍馬のパトロンを務めた。要するに近藤と真逆にいる人である。その慶永の下に新選組は仕えなさい、というのである。
近藤ら新選組は猛反発。福井の守護職を拒絶し、会津の守護職復帰を幕閣に願い出た。容保を溺愛していた孝明天皇も福井の守護職就任を拒絶し、会津の守護職復帰を求めた。
将軍、幕閣と一橋慶喜は岐路に立たされた。
参預の中で島津久光は昨年7月の薩英戦争で攘夷はコスパに見合わないと開国論へ転向し、松平慶永、伊達宗城は開国論、山内容堂は家臣団内部の土佐勤王党を壊滅に追い込み開国論へ舵を切り、朝廷の攘夷論を論破する気マンマン。
現実を見れば、幕府もこちらに乗りたい。実際、挫折したクーデターは開国論である。しかし、これに乗るのは、参預の後追いとなるからイヤだと拒絶反応を示す。
孝明天皇が容保を溺愛しているのを逆手に取り、容保を京都守護職に戻します、攘夷なら、横浜を閉鎖します、見返りに幕府へ全権委任をお願いします、という方向に舵を切った。
2月16日、中川宮が主催した宴で一橋慶喜が参預諸侯に「こんなのと一緒にするな(意訳)」と暴言を吐き、参預諸侯がブチギレて会議は空中分解。各自、辞職して自らの領国に帰国、幕府に対する失望感を深めた。幕府は横浜港を閉鎖する見返りに孝明天皇の支持を取り付けた。フランスへ横浜鎖港談判使節団を派遣したが形だけで、実際は攘夷派に殺されたフランス軍人の慰謝料支払いを行う使節団である。
近藤ら新選組は元治元年(1864)3月3日に会津預かりに戻り、3月25日に一橋慶喜が禁裏御守衛総督・摂海防御指揮に就任、4月7日に松平容保が京都守護職に復帰、同月11日には容保の実弟で伊勢桑名松平家当主・松平定敬(11万石)が京都所司代に就任した。
3月24日付の小島鹿之助宛への手紙で、やっと幕府が攘夷の出来る体制になった、と記していたのだが、5月になっても攘夷が行われず、5月2日に将軍が天皇に帰国の挨拶をし、その翌日に上記の攘夷をしないなら解散させろ!!と言う手紙を会津公用局を通して老中・酒井忠績に提出。会津公用局を経て返信が来たが、攘夷の時期が来たらちゃんと呼ぶから、それまで待っててと宥めている。
将軍が5月16日に艦隊を率いて江戸に戻ると近藤は在京の酒井忠績に繰り返し攘夷をしないなら解散か各自で帰郷かハッキリしろ!と詰め寄るのだが、酒井はもう少し待って、と言うのみ。5月20日付けで小島鹿之助や中島次郎兵衛に宛てた手紙には攘夷を実行しなかった将軍・家茂を強く批判している。
幕府も新選組を持て余すのか、元治元年(1864)4月24日、京都の治安維持に御家人主体の
京都見廻組を設立。既に活動している
新選組を組み込む話が出てきて、同年5月14日、京都守護職の会津や大目付の
永井尚志に相談をした。
待遇は「同心=70人扶持」を提示したが、同年6月7日、会津から
「寝言は寝て言え、一昨日出直して来やがれ!(意訳)」
と待遇の低さを呆れられて断られ、江戸で御家人主体に384人の組士を確保し、京都に送り込んだ。
待遇の悪さに近藤が怒りを露わにしていると判断した在京老中・水野忠精(出羽山形5万石)、稲葉正邦(山城淀7万石)から「与力上席」の条件で幕臣にならないか?と勧誘された。昨年10月に容保に上記の手紙で幕臣になりません、と断言してから半年以上経過し、それまでに薩摩、長州、土佐、水戸などの有力大名家が京都に来て、家臣や志士をロビイストにして政治活動するモノだから、京都は人が増えて物価が急上昇。新選組自体を保つのが厳しくなって来た。地元のパトロンに無理はさせられないし、京都のパトロン・会津は財政難でアテにならない。自力で金策しようとしても、2月みたく高札場でアンチに叩かれる様になり、以前の様に気楽に金集めが出来なくなって来た。しかし、尽忠報国=尊王攘夷を金と引き換えに失っていいのか?という近藤の悩みは深く、体調が戻った養父・周斎に手紙で相談、申し出を受けてもイイかな?と問い合わせている。
近藤が進退に迷う最中、勃発したのが有名な池田屋事件である。
死闘!!池田屋事件
6月1日、肥後熊本の尊攘派浪士・宮部鼎蔵の下僕・忠蔵や中間の格好をした不審者2名を捕まえると、彼らは揃って京都の各地で同時多発テロを行い、混乱した隙を突いて孝明天皇を長州へ拉致し、文久政変の中心人物、中川宮、松平容保を殺害するというモノで、道具も集めている、という話をした。
四条小橋の炭薪商・桝屋喜右衛門という40歳前後の男性が妻や使用人もなく広い屋敷を構え、豪勢な生活をしているから怪しいと会津側は判断し、新選組が調査し、6月5日朝、桝屋を壬生の屯所に連行した。調べたら桝屋は屋号と通称で略して桝喜、本名は古高俊太郎。養子に入って店を継ぐ前から尊攘派とベタベタな仲だった。尊攘派はここが溜まり場にして、宿として宿泊する者もいた。古高を尋問すると上述の計画を自白し、建物の中から武器や密書の類が発見された。
宮部や長州系尊攘派の幹部・
吉田稔麿は古高奪還、長州の武力を動員すべき、と主張したが、京都長州屋敷の留守居役・
乃美織江や京都で政治工作を行う
桂小五郎はこれに反対。近くの池田屋で対策会議を開く事、そこに桂も参加する事で話が付いたが、桂が訪ねた時、仲間が不在の為、近くの対馬・宗家の屋敷を訪ねていた。
尊攘派は新選組が封印していた桝屋の土倉を打ち破り、武具を奪還、何処かへ持ち去った。新選組の大失態であり、速やかに尊攘派を抑えないと大惨事になる。会津側も情報を共有しており、一橋慶喜、京都所司代、京都町奉行に連絡を取り、長州から怨みを買っても暴挙を止めさせると判断。会津、桑名の動員が手間取り、池田屋に辿り着くまでは新選組単独、最初は近藤班だけの切り込みだった。
近藤が地元に宛てた手紙によれば、池田屋の会合は尊攘派が多分この辺にいるよね?という見当が当たった感じだった。新選組は当日、近藤班10名、土方班24名の2班に別れて探索を行っていた(これには諸説あり、井上源三郎が12名を率いて3班に分かれていた説もある)。
元治元年(1864)6月5日夜の10時頃に
「御用改めである。手向かい致せば斬る!!」と言って池田屋に突入したのは近藤班。
室内に斬り込んだのは近藤、沖田、永倉、
藤堂平助の4名。
武田観柳斎、
谷万太郎、
浅野藤太郎、
安藤早太郎、
奥沢栄助、
新田革左衛門が池田屋から出てくる浪士を討ち取る役割とある。
近藤班4名に対して、尊攘派側は20余名。
沖田と藤堂は戦線離脱、池田屋内で最後まで闘い抜いたのは近藤と永倉の2人。その永倉も手に刀疵を負っている。近藤も3回死にかけたとか、これまでは2
合と戦う者は稀だったのに、今度の敵は多勢の上、万夫之勇者ばかり、「死にかけたけど、生き延びた(意訳)」と後に手紙に記してる。
途中から空振りの土方班が池田屋に到着。池田屋内外に突入して形勢が逆転、加えて会津、桑名の手勢も加勢して完全に包囲された。翌朝まで市中掃討が行われたが、これが激戦となり、会津は5名、桑名は2名の即死者を出して、尊攘派20名あまりを捕縛したとある。
新選組側は近藤班の奥沢が戦死、安藤、新田が深手を負い、後に死去。沖田、藤堂が離脱、永倉が軽傷という話だった。
尊攘派は宮部鼎蔵、吉田稔麿など、それなりに有力な志士がこの事件で討たれ、勝海舟の弟子で元土佐勤王党の北添佶磨、望月亀弥太もこの会合に参加して死亡。勝海舟は日記で池田屋事件で北添、望月を死なせた新選組に憤る。
新選組の奮闘は内外で反響を呼んだ。会津は近藤の指揮判断を適切と評価、三善長道の刀を授け、組一党へは500両の報奨金を支払い、別途、負傷者に20両の見舞金が支払われた。
孝明天皇も新選組の働きを評価し、300両を下賜された。
近藤が義父・周斎に宛てた池田屋事件後の6月8日付けの手紙では上記の尽忠報国=尊王攘夷を幕臣への勧誘=金と引き換えに失っていいのか?との悩み相談や、池田屋事件で東国・関東武士への厚い信頼を表明し、新選組への斡旋を頼んでいる。
土方が佐藤彦五郎に宛てた6月20日付けの手紙では、江戸の幕閣から近藤に「両番次席」、土方に「与力上席」、沖田ら隊長格に「与力」、その他は「御徒席」の内示が出たと記している。上記の見廻組に組み込む時より条件は良くなった。見廻組の件は会津が断ったが、この内示は近藤が断ったのか、幕府が新選組を召し抱える話は消滅し、会津預りの浪士集団として存続した。
池田屋事件の後日談として明保野亭事件が6月10日に発生している。長州系尊攘派の残党が潜伏していると、会津と共闘して明保野亭に踏み込むと、そこにいたのは土佐山内家の武士で、挙動不審と思い会津武士が職質をしたら刀を抜いて襲って来たので、撃退した。土佐側は「長州と間違えるとかあり得ない。会津や新選組に殴り込みじゃ!!」とキレ散らかし、撃退された土佐の武士・麻田時太郎が「悔しいです」と自刃。示談で穏便に済ませたかった会津側は困惑し、撃退した柴司に詰め腹を切らせる。
禁門の変と近藤叩き
池田屋事件が長州本国に伝わると、長州内部で軍勢を率いて京都に殴り込みに行くと言う意見が出てきた。首謀者は出奔浪士などを集めて作られた遊撃隊の総管・来島又兵衛、久坂玄瑞、浪人の真木和泉など。
この頃、京都の政局は長州に有利に働いていた。幕府側は横浜鎖港問題で内部対立が激しく、物価が開国前より3倍に跳ね上がり、これに手をこまねいていたので死に体になっていた。
会津公用局が報告書の中で
「世間では長州待望論が流行している、なんて事だ!世も末だ!(意訳)」
と、記している。
京都長州屋敷で朝廷工作をしていた桂小五郎は、在京の諸大名も文久政変の頃より長州に好意的になっている。このまま長州に有利な空気を作り、朝廷に圧力を掛けて会津を追い出して行けば、失地回復も現実になると読んでいた。
読みとしては当たっていた。
後に徳川慶喜が王政復古の大号令後、徳川に有利な空気を作り、朝廷に圧力を掛けて薩摩を追い出していけば、失地回復も現実になるのと同じである。
まぁ、慶喜も桂も頭の回転は優れているが、人の感情を無視する部分があり、それが足をすくわれる原因となるが…
慶喜にとっては江戸薩摩屋敷の焼討事件で在坂の徳川方の憤懣に火が付いたが、桂には池田屋事件がそれだった。
元治元年(1864)7月11日、三条大橋の辺りで禁裏御守衛総督・摂海防御指揮を務める一橋慶喜の相談役・佐久間象山という開明的な大物洋学者が暗殺された。
手を下したのは
河上彦斎。彼とその仲間が残置した斬奸状には
『この者、元より西洋学を唱え、開国説を主張し枢機の方へ立ち入り国の方針を誤らせる大罪捨て置くことができず、
奸賊会津・彦根と共謀し、中川宮とはかり、恐れ多くも天子様を彦根城へ奉ることを企て、その機会を窺っているところであった大逆無道の国賊である。
それゆえ今日三条木屋町にて天誅を加えた。
昼間であったため、さらし首にはできない。
とある。
佐久間が門人で会津松平家家臣の山本覚馬、同じく公用人・広沢富次郎と組んで孝明天皇をお試しコースで彦根城に来てもらい、そのまま本格コースに切り換えて江戸に連れていき、江戸城で和宮と兄妹仲良く暮らしてもらう計画で、そんな事をされたら長州は孝明天皇存命中、逆賊確定なので、それを阻止する為だった。
佐久間家はこの件で主家の信濃松代真田家(10万石)から家名断絶処分を受け、遺児は山本覚馬の紹介を近藤が引き受け、彼を新選組に入れた。母の旧姓三浦を名乗り、
三浦啓之助として仇討ちの機会を狙う事になったのだが…
象山暗殺の8日後の7月19日、長州は京都を追放された長州派公卿、殿様の京都政界復帰を訴える武力行使に出た。
禁門の変である。
国司信濃、福原越後、益田右衛門介の三家老が指揮する部隊が御所を守る会津、薩摩、桑名などの兵と激戦。
幕末武士団番付けの東西両横綱、西の薩摩と東の会津に、加えて新選組を敵に回して勝てる術は無かった。
指揮官・来島又兵衛は戦死、久坂玄瑞、真木和泉らは自刃、長州軍は撃退された。
この戦いの前後に近藤は故郷に手紙を書き、人手不足が深刻だから、何とかして欲しいと、悲鳴をあげてる。天王山の戦いでは、真木和泉の軍と対峙し、真木が「長州配下」と名乗ると近藤は「徳川の旗本」と名乗り返して、交戦。近藤が旗本になるのはまだ先の話だが…
真木たちは陣地に火を放ち、自刃している。
幕府から働きを認められ、800両が報奨金として支払われ、感謝状も発行された。
江戸では評判となっており、近藤を武士の中の武士と持ち上げる人々と勝海舟が、「新選組は横暴が服を着て歩いている存在。普段から滅茶苦茶えばりくさって、嫌疑がかかった相手をしょっ引いて死ぬほど痛めつけた挙句、嫌疑が晴れると謝罪もせず放り出したり、探索名義で民家に押し入り家財を強奪するなどヤりたい放題。会津は何をしているんだ!!(意訳)」と8月23日に訪ねてきた
坂本龍馬に愚痴をこぼした、と日記に記すなど、賛否両論だった。
この後、幕府は長州征伐を認める勅命を孝明天皇から貰い、そこから長州征伐を実施。同時に長州が昨年実施した外国船舶への砲撃に対して
イギリス、フランス、アメリカ、オランダが報復攻撃を決定。
上洛の長州軍が敗退するのと同時に、元治元年(1864)7月24日、英仏蘭米四ヶ国の駐日公使は長州毛利家が昨年実施した外国船舶への砲撃に対する下関遠征に関する覚書を作成し、それぞれの海軍指揮官に伝達し、四ヶ国連合艦隊が下関攻撃の為に元治元年(1864)7月27日と同月28日に横浜を発した。
元治元年(1864)8月2日、イギリス軍艦9隻、フランス軍艦3隻、アメリカ軍艦1隻、オランダ軍艦4隻の計17隻からなる連合艦隊が報復攻撃の為に豊後水道の姫島に集結。
後方支援でイギリス軍艦3隻が投入、横浜にいる日本の攘夷派を牽制するべくイギリス軍艦4隻、アメリカ軍艦1隻が碇泊、更に居留民保護と称してイギリス陸軍1351人、フランス陸軍70人が横浜周辺に駐屯、長崎にも攘夷派を牽制すべくイギリス軍艦1隻が碇泊していた。
狙いは日本で一番外国に対して好戦的な長州毛利家が、天皇も将軍の言う事を聞かない、攘夷実行を緩めず、関門海峡は封鎖されたに等しく、通行を阻害される諸外国は、幕府が長州を攻撃しないなら自分達で総攻撃を加えて、諸大名などの支配階級に攘夷が不可能だと刻み込む為であり、庶民を巻き込まない様に限定的な武力行使に仕上げていた。
長州側が四ヶ国連合艦隊に
「天皇と将軍に言われて攘夷した。長州悪くない!けど、お情けで外国船が関門海峡を通航するのは認めてやる。(意訳)」
と説明したが、四ヶ国連合艦隊はこれを認めなかった。
元治元年(1864)8月5日に開始された戦いは、連合艦隊の砲撃で長州側の砲台が全て沈黙、前田砲台は連合艦隊の陸戦隊が上陸し破壊された。
長州軍の砲台を破壊、占拠した連合艦隊は、長州軍の大砲を戦利品として運んだが、この時、長州の民衆は外国人に協力しており、武士に愛想を尽かしていた。
四ヶ国連合艦隊と長州毛利家の交渉は元治元年(1864)8月8日から行われ、長州の賠償金を払わせるかが争点になったが、長州は「天皇と幕府の命令でヤりました、長州悪くない!幕府にツケといて(意訳)」と主張。
長州系の下関を開港すれば賠償金は免除、下関開港を認めないなら、賠償金を支払うの二択で幕府は後者を選び、賠償金300万ドルを分割で支払い始めた。因みに前者だと長州に責任能力有りという話になり、対外的に認められた政府が誕生する。要するに一国二制度である。
8月26日、欧米列強の外交団を乗せた4か国連合艦隊が大坂天保山沖に来航。今までの近藤なら攘夷論を振りかざすトコロなのだが、その近藤には様々な変化が生じていた。
近藤は新選組の局長として中川宮や二条家、在京の諸大名要人などと付き合いが出てきて、今までの自分ではダメだと社会情勢や日本の歴史や礼儀作法などをアップデートし始めた。これが周りからは尊大、傲慢、横暴という感じに映った。この頃の斎藤一が近藤から「お前さぁ、剣の腕は立派だけど、頭が弱いよ。もう少し勉強しないと、将来、人に騙されたり痛い目に遭うよ(意訳)」と忠告していたが、当時の斎藤は不満タラタラだった。隊長格の永倉、斎藤、原田左之助、中堅幹部の島田魁、尾関雅次郎、平隊士の葛山武八郎が8月下旬に連名で近藤の非行五箇条として松平容保に訴えた。
永倉の「新撰組顛末記」に記載はあるが、五箇条の内容が記されていない。会津側に記録が無い、当事者の1人の島田の日記に記録されていない、新選組顛末記以前に永倉が書いた「浪士文久報国記事」には記録されていない、新撰組顛末記の内容は取材して纏めた記者の創作部分や永倉の記憶違いがあることが確認されてる、などの理由から、かなり信憑性は薄め、とされているが、容保が近藤を呼び出し、事実確認をした上で仲裁したとはある。葛山は9月6日に切腹。定説では近藤の件とあるが、他の面子は譴責処分で済ませている。別件で切腹したとも。
新戦力と思想転換
元治元年(1864)9月5日、近藤は永倉、武田観柳斎、尾形俊太郎を引き連れて京都を出発、9月9日に江戸に到着。江戸の会津屋敷を訪ね、江戸の幕閣で切れ者と評判の老中格・松前崇弘(蝦夷松前1万石)に将軍上洛の建白書を提出し、幕臣の間を訪ねて攘夷や長州征伐の意見交換をした。この後、試衛館を訪ね、義父・周斎や妻・つねと再会。更に日野や八王子の多摩方面を訪ね、留守中門人の面倒を見てくれたパトロンや知人と再会し、情報交換を行っていた。
人員の募集を呼び掛けると、神道無念流の免許皆伝で北辰一刀流の道場を経営している
伊東甲子太郎とその門人たち、
近藤芳助、
安富才助、
大石鍬次郎らが加入した。
近藤は西洋医学所頭取で奥医師の松本良順を訪問しており、松本が自伝に記している。
それによれば、外国の事を聞きたいという近藤の質問に松本は丁寧に答えた。
「松本は外人と親しく、海外事情に詳しく、西洋の学問を教えているのは本当か?」との問いに松本は「その通り。浪人が西洋人を斬り殺すのは愚かな行為。西洋人は利害得失に目ざとく、侮ってはならない。西洋諸国は戦国時代のごとく、合従連衡、奇策縦横に秘術を尽くし、国を奪い取り、軍隊が鍛えられ、兵器が発達し、戦を繰り返す。西洋は土地が痩せて、天気が悪く、天然資源が乏しいので外に出て国の利を欲しがる。『印度』、『清朝』がそれで理由を付けて戦争を仕掛け、戦に勝って戦費を償わせる。世界事情は日進月歩で変わる、とも」
近藤は「頭がスッキリした(意訳)」と答え、松本と仲良しになった。
これにより、近藤は悩みが解消した、と記し、それまでの攘夷論を放棄したとある。上記の伊東もだが、この2人、ゴリゴリの開国論には向かわないのである。伊東は水戸学を学んだ攘夷論者であったが、攘夷論の手詰まりを感じており、それに代わる何かを求めて新選組の募集に応じて京都に向かい、近藤のツテを利用して様々な人に会うのが目的だった。近藤は人手不足の解消を目指し、この旅では22名が新選組に加入した。
10月9日、留守中を預かる土方から手紙が届き、「新選組は毎日、西洋砲術の調練を行い、最近は大いに良くなっている。これなら長州征伐の先鋒を務められる(意訳)」と記されている。会津の砲兵隊あたりから指導を受けたのだろうか…
10月15日、近藤らは江戸を離れ、同月27日に京都着。この頃、長州征伐に備えた行軍録を作成しているが、永倉を2番隊隊長から外し、伊東に替えている。定説では近藤弾劾の報復人事という話だが、一緒に長旅をしておいて、今頃になって報復人事というのも考えにくいので、旅の途中で近藤と一悶着あったのかも知れない。
この頃行われていた長州征伐と水戸の天狗党による武装蜂起にどちらも新選組の出番はなく、それぞれ解決し、行軍録は日の目を見る事なくお蔵入りとなる。
転機
元治2年(1865)2月5日、孝明天皇から将軍・家茂の上洛と攘夷決行を求められた江戸の幕閣は老中・阿部正外(陸奥白河10万石)と本庄宗秀(丹後宮津7万石)が4000の軍隊を率いて上洛。22日に参内し朝廷との交渉にあたる。この上洛は軍事力を背景に天皇に開国論を誓わせ、京都の一会桑権力を解体するモノだったが、逆に関白・二条斉敬に家茂が上洛しないことを叱責され、阿部は2月24日京都を出発し、朝廷側の要請を江戸に戻って家茂に伝え、本庄は大坂湾を警備していた。
近藤には、この光景が困るのである。公武合体による挙国一致と強靭な国防体制の確立。その邪魔をしていた長州が大人しくなった今こそ、体制確立の好機に幕閣は何するんじゃい!!という思いである。3月1日付で土方が佐藤彦五郎に宛てた手紙では「天皇と幕閣の内輪もめなんて誰得?(意訳)」と記している。
近藤は基本的に幕閣の意向に逆らっている事が多く、今回も天皇の肩を持ち、幕閣に逆らっている。尊攘派から幕府の狗と呼ばれるが、幕臣ではない近藤にそこまで義理は無い。
新選組では2月7日には永倉が2番隊隊長に復帰したが、23日に総長・山南敬助が切腹した。
一説には近藤が攘夷論を捨て、孝明天皇の爪牙となって長州征伐へのめり込む新選組の変貌を止められず傍観する事しか出来ない境遇を儚んで自殺したとも、それを後から記録上切腹という扱いにしたという説がある。他には、連れ戻されてからも永倉たちから再度脱走するように勧められたというが池田屋事件の直前から病に犯されていて、思うように刀を振るえなくなっており、既に覚悟を決めていたため、粛々と切腹に赴いた、という説も。
切腹の際の介錯には山南自ら沖田を希望。その潔い最期は近藤から「浅野内匠頭もここまでではあるまい」と称賛された。
この頃、新選組は壬生が手狭な事を理由に西本願寺への移転を求め、交渉の結果2月28日に西本願寺は要求を受け入れ、3月10日までに移転を終えた。4月5日、土方が江戸で、近藤は大坂で隊士募集の為、それぞれ派遣され、土方は52名を引き連れて5月10日に京都に帰って来た。昨年の近藤が集めた倍以上である。
再び近藤たち新選組は組織を改編し、総勢134名を数えた。この頃から新選組は尽忠報国=尊王攘夷から孝明天皇の御心に従う事が尽忠報国と定義を書き換えた。公武合体による国内の再統一が孝明天皇の御心であり、それに反する者を退治する考えである。それまでに内部の規律違反による処罰はあったが、定義を書き換えた頃から処罰された者が増えている。
改編中の新選組とは別に日本の政局には変化が起きていた。京都から戻った阿部正外が同僚の松前崇広・水野忠精らとともに4月に上洛反対派の老中を失脚させ、将軍・家茂を担いで5月16日に3度目の上洛を実施した。昨年12月27日に解兵された長州征伐の結果に不満なのである。
現地の征伐軍総督・徳川慶勝や薩摩から派遣された征伐軍参謀・
西郷隆盛らが現状維持を望む
椋梨藤太の長州政権と交渉し、三家老、四参謀を処断、謝罪して一旦は終わったのだが、この方針に反発した
高杉晋作が下関の功山寺で武装蜂起。高杉が椋梨を打ち破り、長州の主導権は高杉らが握った。
この流れに納得出来ない江戸の幕閣は長州再征伐を実施したが、近畿圏の浪士達が長州再征に反発してテロを計画しているという情報が乱れ飛び、近藤ら新選組は各地に出動して鎮めている。慶応元年(1865)閏5月22日、将軍・家茂は二条城に入る。
翌日、近藤は家茂に従って京都にきた松本良順を訪ねている。今度は松本が月末に西本願寺の新選組を訪ねた。
水滸伝の
梁山泊みたいだなぁ、と感心していると、一室にフル◯ンで寝起きしたり、ゴロゴロしている奴がいるが、無作法だなァ、と話を近藤に振ると、近藤は、みんな病人なんだ…3分の1くらいは居る。医者は各自に任せているんだ…と悩んだ顔をしていた。
話を聞いた松本は病室を別に設けて専属の医者や看護者を置き、入浴させて清潔にせよ、と西洋病院の概略を説明した。側にいた土方がたちまち本願寺の集会所を病室に作り替え、浴室に湯桶を並べるなど鮮やかな手並みを見せた。松本が驚くと、土方は「兵は拙速を尊ぶ」と返答した。
松本は更に帳簿を作成し、会津の門人・南部精一に毎朝回診させ、松本も週2回往診したところ、患者の大半が回復した。
松本が厨房を見ると、残飯や腐った肴を詰めた樽が沢山積み上げられ、不潔であった。松本は近藤に対して、豚を5頭前後飼い、残飯を食べさせ、十分に肥えたなら隊士達がその豚を食べれば、体力がつく。他にも鶏を飼い、残飯を洗って乾燥させ鶏の餌にして、卵や肉を食べさせたら、これも体力がつく、と食育を教えた。
松本が次に訪ねた時には、豚や鶏が飼育され、卵や肉を食べで隊士達の体格が前より逞しくなっていた。隊士達も「松本先生バンザイ!!。食事で外国をバカにするのヤメよう(意訳)」と考えを改めたと言われる。
松本は新選組幹部の山崎烝に外科の縫合手術を教え、山崎も簡単な刀傷の傷なら対処出来るレベルとなり、負傷者の回復を早め、新選組に大いに貢献した。
西本願寺の建物や境内で肉食、医療行為、軍事教練、違反隊士の処刑などを行う新選組を寺側は苦々しく見ており、「地獄と天国のアンハッピーセットとか誰得?(意訳)」と記している。
この後、近藤ら新選組は将軍・家茂護衛の為、大坂まで警護に就く。幕府は長州と交渉のテーブルにつくように命令するが、長州は無視。
慶応元年(1865)9月16日、これを踏まえて幕府は家茂自ら京都に赴き、同21日に長州征伐の勅命を拝領。どんな形で終戦するのか考えてから戦争してね、という条件付きだった。
家茂が京都に赴いた同じ日、欧米列強の外交団と艦隊が大坂に現れ、兵庫開港・大坂開市を要求した。本来なら横浜と同じ頃に開港するのが、未だに行われていないのは条約違反だ!!として圧力をかけた。同23日、家茂が京都から戻り、先に外交団と交渉している老中の阿部正外・松前崇弘から「兵庫開港について速やかに許否の確答を得られねば、もはや幕府とは交渉しない。京都御所に参内して天皇と直接交渉する」と最後通牒を突き付けられたと報告を受け、25日無勅許で開港を許すことに決めた。
翌日、一橋慶喜が京都から下坂し、家茂ら幕閣に無勅許はヤバいってと忠告して、再度、外交団との交渉を勧めたが、阿部・松前は「外国嫌いの天皇に交渉出来るんか?開港を世界に約束したんだから、やるしかないの。(意訳)」と自説を譲らなかった。家茂が場の緊張感に呑まれ泣きだしたという。
勅許を得るため外国との交渉延期を主張した慶喜の意見が通り、孝明天皇は阿部・松前の違勅を咎め、両名の官位を剥奪し改易の勅命を下し、9月29日、両老中は解任された。
家茂は10月1日に両名を老中職から外し、官位召し上げ、国元で謹慎処分にした。家茂はこの露骨な天皇の幕政干渉に異議を唱え、孝明天皇や一会桑に将軍辞意を伝えた。10月4日、一会桑は家茂を説得して辞表を撤回させたが、義弟の怒りに驚いた孝明天皇は以後の幕政干渉はしないと誓ったという。
10月7日、幕府は孝明天皇が条約の批准に同意したと、四カ国に対して回答した。開港日は当初の通り慶応3年(1867)12月7日であり、前倒しされることはなかったが、天皇の同意を得たことは四カ国の外交上の勝利といえたが、後日、国内問題の火種となる。外交団はこの結果に満足して大坂を去っていった。
この事件、長州征伐をゴリ押しした老中2人が辞職し、誰が長州征伐を推進するのかが、不透明になった。元治元年(1864)6月18日に老中を罷免された板倉勝静(備中松山5万石)と上記のクーデターに失敗して老中を辞めていた小笠原長行が老中に返り咲き、彼らが長州征伐を進めていく。
兵庫問題や天皇と将軍の関係も落ち着き、国内政治の争点は長州征伐に注目された。長州に無視されている間に幕府内部では長州処分が話し合われ、最終的に松平容保が「天皇の住まいに直接砲弾ぶち込んだ奴は死罪、領地召し上げ」が当然だけど、それを実施したら落とし所が無くなる。西日本の諸大名は落とし所として毛利家親子の命を助ける代わりに、謹慎させ、周防一国を没収するのが妥当だと提案していると報告し、その線で事態を収めるのが一番であると主張し、幕府の方針をまとめた。
まず大目付・永井尚志が広島に赴き、長州側の代表と対談する事になった。対談の結果、長州が条件を受け入れれば終戦。そうでなければ戦争である。戦争準備に時間が欲しい長州は理由を付けて時間を引き延ばす。幕府も手の内を理解しているが、条件を伝えない事には話し合いにならないので、来るのをひたすら待つのみである。
そこで長州に潜入して内情を知る必要がある、という理由で近藤が永井の従者名義で広島に行くのである。慶応元年(1865)10月29日付で小島鹿之助や佐藤彦五郎に宛てた手紙には、上記の兵庫開港問題と長州への潜入を記している。
更に11月4日付で小島、佐藤宛の手紙に「これから長州に潜入する。命がけの大仕事で、長州を論破して必ず降参させてみせる。(意訳)」とあり、引き連れていくのが、武田観柳斎、伊東甲子太郎、山崎烝、尾形俊太郎、吉村貫一郎、服部武雄、芦屋登、荒井唯雄と記している。近藤も帰れないと踏まえ、天然理心流宗家の後継ぎは沖田総司に、残りの事は土方に委ねたので、協力を願いたいと遺書めいた内容になっている。ここに協力者として高杉晋作との主導権争いに敗れて長州を出奔した
奇兵隊元惣督・
赤禰武人がいる。この頃幕府に身を寄せていた。長州の内情に詳しい彼の協力を仰ぐのである。
しかし、広島で永井とともに交渉のテーブルに付いた際、近藤は近藤内蔵之助の変名を用いたが即バレし、入国を拒否された。手を変え品を変えてもダメで、更に岩国まで出かけても入国拒否され、京都に12月22日に戻り、松平容保に報告している。永井も同日、容保に報告している。
上記の赤禰は近藤達と同行するも、途中で分かれて長州に潜入し、かつての同志らと接触して主戦論の転換を図るが、裏切り者と認定された赤禰の言は全く受け入れられなかった。年末に捕縛され、翌年1月処刑された。
慶応2年(1866)1月21日、京都において薩長同盟が締結。
薩長同盟そのモノは会津側も把握しており、慶応元年(1865)12月末、会津松平家の納会で公用局員の手代木が「我らに敵う者無し」と公言すると、容保が「この優勢は砂上の楼閣。薩長が手を組み、外国がテコ入れで加担し、西日本の大名をまとめ上げたら、すぐ逆転される。薩長に提携の動きがあると聞く。これを阻止しなければ、天皇と将軍の面子が丸潰れ。公武合体が崩壊し、天下は麻の如く乱れる。分かったら、薩長同盟を阻止しろ!!(意訳)」と家臣団内部を引き締めた。
1月27日、近藤2度目の広島行き。幕府が長州処分を作成し、それを長州に伝えて、長州が認めたら終戦なのだが、当然、長州は受け入れない。交渉するする詐欺で時間を引き延ばす。近藤は2月3日に広島に到着し、情報収集を行う。広島には各地の諸大名から人が派遣されて情報戦を繰り広げていていた。しかし、近藤は新選組局長と身バレして、長州征伐反対派からの情報を思う様に得る事が出来ない。逆に今回も同行した伊東甲子太郎、武田観柳斎に代わり参加した篠原泰之進らは近藤に批判的な姿勢を示してから接触したのか、有意義な情報を集めていた。
近藤は情報収集を打ち切り、3月12日に京都に戻る。
留守中の新選組は勘定方の河合耆三郎が2月12日、隊費の勘定が合わない罪で切腹。理由は諸説あるが、よく分からない。また、池田屋事件に参加した谷三十郎が4月1日に不審死を遂げている。
6月7日、第二次長州征伐を敢行した。
大島口、芸州口、石州口、小倉口の4方面で徳川幕府軍と対峙。
大島口は最初、幕府海軍と伊予松山松平家(15万石)や幕府陸軍が上陸、占領したが、高杉晋作率いる長州海軍と
世良修蔵率いる長州陸軍が反撃、島を奪還した。
芸州口は安芸広島浅野家(42万6千石)が不参加を決めたので、先鋒の近江彦根井伊家(25万石)と越後高田榊原家(15万石)の
徳川四天王の二家が攻め込んだが、
勝海舟が言う
「紙くず拾いみたいな恰好でサルみたいにすばしっこく動く」
長州陸軍の動きに対応不能、大惨敗を喫した。
この後、幕府は
洋式歩兵を投入し、戦線は膠着した。
石州口は石見津和野亀井家(4万3千石)と交渉がまとまり、無傷で通過、長州陸軍が石見浜田松平家(5万1千石)に侵攻、浜田城を攻め落とした。
小倉口は関門海峡の制海権を幕府海軍が掌握していたが、信号艦(旗艦)の富士山が応戦中、主砲が暴発して、他の大砲にも不具合がないか調べる為に応戦不能、ただの輸送艦に成り下がり後退、制海権を取った長州軍は赤坂海岸に上陸、激戦の末、豊前小倉小笠原家(15万石)の小倉城を攻め落とした。
これら一連の長州征伐に新選組は呼ばれなかった。勇猛果敢を謳われた会津武士も前線に投入されなかった。文久政変後に会津と小倉小笠原家の間には秘密協定があり、小倉が困ったら会津が助けるというのがあったが、会津はそれを反故にした。
会津内部に深刻な対立が生じていたからである。禁門の変の前から、長州はプロパガンダとして敵は会津一択、他は邪魔するな!と触れ回り、薩摩を始めとした在京の諸大名や一橋慶喜は傍観していた。会津は絶体絶命の大ピンチだったが、これを救ったのが孝明天皇である。池田屋事件後の元治元年(1864)6月21日、孝明天皇は会津を擁護する叡慮を表明し、7月3日には長州追討を命じる勅命を下したが、それでも在京の諸大名や一橋慶喜の腰が重いのを見て、7月18日、最後通牒として再び長州追討を命じる勅命を下し、これが決め手になり、長州は朝敵となった。禁門の変で長州に勝った在京会津の関係者は助け舟を出した孝明天皇に絶対服従を誓うようになる。要するに孝明天皇の方針を国政に反映させるべく、奮闘するのである。
これに対して会津本国では8月19日付で、京都と江戸に家老たちの連名で京都守護職の退任を申し出る様に手紙を送った。
これは江戸で勤務をしていて、幕府の肩を持たない在京会津に対する報復として、様々な嫌がらせを受け、家臣の中にはうつ病にかかる者もいるから、改善して欲しい、という理由からだった。
手紙の回答として元治2年(1865)正月の挨拶で松平容保が「世の中が乱れている。自分ら会津が京都にいるから、薩長は好き勝手し放題出来ないでいる。自分が離れたらどの様な自体になるか予想が出来ない。当分の間、会津に引き上げる事は無い。不心得者を出さない様に(意訳)」と話し、辞職、帰国を拒絶した。
勿論、容保には、第一に将軍が上洛して、第二に天皇と将軍の親密な関係を創出し、第三にその流れで長州征伐を完遂させて国内再統一を果たして容保は京都守護職を円満退職、会津に帰国という青写真があった。会津本国はこの流れに引きずられた。
容保は問題解決に奔走するが、会津本国は危ないと見たのか、慶応元年(1865)8月17日、家老達が連名で京都に手紙を送って容保の退任要求を求めた。在京会津の指導者たちは長州征伐と兵庫開港問題でそれどころではなかった。会津本国としては最終的に長州征伐に加担しない方向に舵を切り、京都と会津で冷戦が勃発した。更に第二次長州征伐開戦後の慶応2年(1866)7月11日、薩摩が長州征伐反対の上奏文を朝廷に提出したが、会津公用局が圧力をかけて却下させると、会津と薩摩が京都で市街戦をすると噂になり、会津が臨戦態勢で京都を徘徊し、新選組に召集が掛かり、仲裁の為に勝海舟が京都に派遣されるなど一触即発の状況になる。これに気を取られて、小倉は見殺しにされた。
もし、長州が会津の内情を知っていたら、会津本国に使者を送り、容保を失脚させ、親長州寄りの政権を作り、政局を有利に導いたであろう。逆に会津は本国と京都で冷戦が勃発しなければ、第二次長州征伐に動員され、何処かの戦線で長州に痛い目に遭う事だろう。結果として、山本覚馬あたりによる軍隊の西洋化が前倒しされ、戊辰戦争も本来の形と違うモノになったかも知れない。
近藤の2度にわたる広島行きも徒労に終わる。新選組が行う京都の巡回区域が広がっただけである。
大坂城内で7月20日、将軍・家茂が亡くなる。
そこで徳川宗家の相続人を決定する事が緊急課題となる。江戸の大奥は家茂の遺言として田安家当主・徳川亀之助を推したが、彼は4歳である。誰が見ても無理がある。御三家、御三卿を見渡しても一橋慶喜に相続させるほかに人がいない。しかし、江戸の幕臣達は兵庫開港問題で家茂の足を引っ張る慶喜に嫌悪感が強い。
この問題へ積極的に介入したのは老中・板倉勝静で慶喜の側近・原市之進と連携して、大奥や幕臣達の反対があっても、慶喜に徳川宗家を相続してもらうべく動いた。
この際、慶喜は家茂を徳川最後の将軍とし、王政復古をなすべきだという意見を持っていた。
原は「王政復古自体は賛成です。しかし、ヤり方を間違えると大混乱になります。しばらく時節を待つのが良い(意訳)」と慶喜に進言した。
板倉が長州征伐に批判的な松平慶永ら旧参預諸侯、原が長州征伐に積極的な中川宮や二条関白らへ根回しし、慶喜の「もし自分の考え通りに幕政改革を行うなら、徳川宗家の相続だけ承諾する(意訳)」という話で関係者を納得させ、7月28日、徳川宗家の家督を相続し、名前も徳川慶喜と改めた上で軍を率いて長州への殴り込みを宣言する。
8月8日に参内した慶喜に孝明天皇は激励と必勝祈願の勅命を下し、慶喜は8月12日に大坂を出立して前線に立つ事を布告する。同月14日、慶喜は二条関白へ出陣を見合わせるようにとの反対の内願を提出、同月16日に勅許が下ろされた。これは11日に小倉城の自焼、諸大名の戦線離脱が京都に伝わったことによる。
慶喜の腰砕けに孝明天皇、中川宮、二条関白は猛反発、松平容保も慶喜に絶縁状紛いの抗議文を叩きつけた。
8月20日、家茂の喪と慶喜の宗家相続を同時に公表した。
家茂の死後、8月21日に幕府に長州征伐停止の勅命が下る。幕府側に対して長州側は不満タラタラで小倉城、浜田城を占領したまま9月2日休戦となる。家督を相続した慶喜は長州征伐の軍を解散しようと考え、有力諸大名を京都に召集し、幕府の体面を保ちながら、諸大名の会議という形で、長州征伐を収めようとした。諸大名側は慶喜の真意が将軍になる事で長州征伐は二の次と見抜いていて、この会議は成立しなかった。
朝廷に於いては王政復古派の公家が勢力を築き、討幕へ暗躍していた。黒幕は
岩倉具視であり
大久保利通である。彼らに焚き付けられた大原重徳ら22人の公家は8月晦日宮中に列参して中川宮、二条関白を糾弾。しかし、10月27日に孝明天皇の怒りを買って処分された。
9月12日、幕政批判をする土佐家臣団と斬り合いになった後、同月26日には伊東と篠原が近藤を訪ねて、徳川の先は見えたから、分離したいと申し出て、激論になったとある。この時、分離は認められなかったが、伊東は根回しを行なっていて、永倉や斎藤を連れて飲み歩いて仲良くしていたとも。
12月5日、兵庫開港を条約通り実施すると欧米列強の外交団に宣言し、正二位・権大納言・征夷大将軍に慶喜は任ぜられた。
12月25日、孝明天皇が崩御し、朝廷は睦仁親王(明治天皇)が践祚、即位。今までの公武合体が崩壊した。日本中が混沌としていた…
幕臣に取り立て
慶応3年(1867)正月元旦から3日まで、伊東、永倉、斎藤らが島原でどんちゃん騒ぎをして帰隊せず、4日、近藤が連れ戻し、譴責処分を下した。
伊東は1月18日から大目付・永井尚志の九州視察に同行した。ただし、同行は豊後鶴崎(大分市。肥後熊本細川家の飛び地である。)までで、伊東は肥後路から大宰府経由で佐賀へ、永井が日田を経て佐賀に向かう。
2月2日、大宰府に滞在している
三条実美ら文久政変で京都出禁を喰らった5人の公卿とそれを護衛する
中岡慎太郎、
土方久元ら土佐勤王党の残党らと対談。この時に新選組を離脱して、孝明天皇の墓である山稜の衛士として朝廷に直接仕えたいと伝え、門人の篠原に朝廷へ掛け合うように伝えた。
佐賀で再び永井と合流して長崎まで行き、そこから京都に戻る。伊東が帰る途中、3月10日に朝廷から伊東らが孝明天皇の御陵衛士に任命され、同月12日伊東が帰京。翌日、新選組に顔を出し、御陵衛士の話を切り出すと近藤、土方らはアッサリと認めた。資料により差異はあるが、離脱者は鈴木三樹三郎、篠原泰之進、新井只雄、加納道之助、阿部十郎、内海次郎、橋本皆助、毛内有之助、服部武雄、藤堂平助、富山弥兵衛、斎藤一とされる。
斎藤は近藤が送り込んだスパイで、伊東と仲良く酒を飲んて遊んでいたのは油断させる芝居だとか。
近藤と伊東は分離に際して
「互いに引き抜き、受け入れはしない事。来ても追い返す事(意訳)」との約束を交わした。
伊東らは各地を転々として、6月に高台寺を拠点とし後に「高台寺党」と呼ばれた。
6月10日、新選組そのモノが会津預りの浪士団から幕臣に取り立てられた。身分は近藤が御目見以上御取扱(300俵旗本)、土方が見廻組肝煎格(70俵5人扶持)、沖田総司、永倉新八、井上源三郎、原田左之助、山崎烝、尾形俊太郎ら隊長格が見廻組格(70俵3人扶持)、吉村貫一郎、大石鍬次郎、安富才助、岸嶋芳太郎、安藤勇次郎、茨木司、村上清、谷周平ら隊長補佐は見廻組並(40俵)、一般組士89人は見廻組並御雇(7人扶持)の扱いだった。待遇改善は松平容保の推薦によるモノと言われる。武田観柳斎の名前が無いのは、ハブられていたからとか。
近藤はこの件を6月29付の小島、佐藤宛の手紙で記しているが、久しぶりの手紙でもある。故郷の多摩地域も世直し一揆に揺さぶられた。小島、佐藤ら天然理心流の門人たちは村落では庄屋などの指導者であり、自腹でミニエー銃などを買い揃え、佐藤の長男・源之助は洋式教練を習い、農兵隊の指揮官を任せられていた。彼らは各地にいる一揆勢を撃退し、力の一端を見せた。
6月12日、茨木司ら10人が脱走して会津屋敷に駆け込み、幕臣化に反対する事を訴えた。13日に近藤らが説得したが、聞き入れらず、14日に茨木ら4人が自刃、残りは逃亡した。
同月15日、西本願寺を出て不動堂村の新屯所に新選組は移る。この新屯所は西本願寺が全額負担で建設したと言われる。新選組にサッサと出てもらいたい為、新選組の要望を全て受け入れた大名屋敷並の邸宅を建てて、お移り頂いたのである。西本願寺は門主から使い走りの小僧まで疫病神が出てくれて嬉しい、と抱き合って喜んだと記録にある。
基本的に会津と新選組、中川宮に二条関白は蚊帳の外である。孝明天皇が亡くなり、長州征伐を中止した為、会津は出勤停止を決め込み、更に国替えの申請をするなど、国政より御家の事情に忙しかった。京都の行政は桑名が単独で行なっている。徳川慶喜もそりが合わない会津よりは在京薩摩幹部の小松帯刀らの方がまだ話が合う。互いに手を組み、在京幕府と在京薩摩で暫定政権を作っている。ここに長州寄りという理由から失脚していた有栖川宮熾仁親王らの処分が解除され復権する。それより前に失脚していた岩倉具視も復権した。
そんな中、外交と内政を話し合う場として、京都で有力大名の代表による会議が開催される事になった。最終的な期間は5月4日〜21日まで京都の各地で行われた。といっても、顔ぶれは徳川慶喜、島津久光、松平慶永、山内容堂、伊達宗城のいつもの面々なのだが…
内政は長州の朝敵問題と外交は兵庫開港問題である。
内政の件は幕府に批判的な朝廷の要人や長州の復権を認めよ、と慶喜以外の4人が主張し、外交の件は兵庫開港の期日が慶応3年(1867 )12月7日で6ヶ月前に開港予定を公表する事が条約に銘記されていた。国内の合意が必要不可欠な為、協力して欲しいと慶喜が主張した。すったもんだした挙げ句、兵庫開港の合意を得て、幕府に批判的な人物の復権も認められたが、長州の復権は認められず、会議は終了。
在京薩摩幹部は慶喜とはムリと距離を取り、土佐の強硬派と協定を結び、慶喜との衝突に備えた。慶喜も薩摩との距離を取り、幕府のオランダ留学で国際法や政治制度を学んで帰国し、京都で私塾を主宰している西周らと連携して、立憲君主制や国際法を取り込んだ政治制度の青写真を描く為、原市之進が中心となり暗躍した。絶縁状態だった会津と歩み寄り、和解したが、以前ほとの親密さはなかった…
6月17日、近藤は親藩大名の会議に招かれ、長州征伐を批判するのは、孝明天皇や将軍・家茂の墓を暴き、死体に鞭を打つ行為だと反論し、親藩なら徳川を全力で支えろ!!と主張したのである。
同月24日に建白書を議奏の柳原前光、正親町三条実愛に提出。そこでも公武合体や長州征伐を批判するのは、孝明天皇や将軍・家茂の墓を暴き、死体に鞭を打つ行為と反論している。
その間、22日に武田観柳斎が新選組に殺された。伊東の高台寺党に鞍替えするも、「互いに引き抜き、受け入れはしない事。来ても追い返す事(意訳)」との約束に抵触し、彷徨っていたが、京都で倒幕活動を行っていたことが露見し、京都郊外の鴨川銭取橋にて殺害。
この頃から近藤は剣客から論客への脱皮をはかっている様だった。
永井尚志から土佐山内家の重臣・後藤象二郎を紹介してもらった時、議論は平行線であったが、ウマは合ったみたいで、後藤に大商人になってはいかが?と勧めている。
8月8日、離脱した高台寺党が長州処分寛大論を中心とした建白書を提出。内戦に反対という一点では一致していたが、それ以外は真逆の内容だった。
同月13日、徳川慶喜の謀臣・原市之進が幕臣の攘夷派により暗殺された。幕臣の攘夷派で山岡鉄太郎、高橋謙三郎が唆したと後年、渋沢栄一は記している。
9月13日、中川宮は慶喜へ原の後釜に近藤を推薦する。慶喜の本音は王政復古にあり、それを阻止する為に宮は近藤を監視役にしたかったのかも知れない。その話は流れたが、宮は近藤を自分の懐刀として重用したいと松平容保に提案している。
孝明天皇の住まいに砲弾をブチ込んだ長州毛利家と同盟相手の薩摩島津家へ徳川幕府打倒の口実として討幕の密勅を慶応3年(1867)10月13日に薩摩島津家へ、翌14日には長州毛利家へそれぞれ下した。
同じ日に15代将軍・
徳川慶喜が大政奉還、政権を天皇家に返上した。徳川宗家が一大名家になり、一旦は討幕の名目が失われたが、この密勅は両家の内部に存在する出兵反対派を黙らせる為の魔法の合言葉であった。
慶喜は大政奉還の2日前、在京諸大名の代表を二条城に招き、大政奉還の説明会をしている。近藤も参加したが「大政奉還は薩長と越前の謀略なり、一度掴んだ権力を手放すのは幕府の滅亡を意味する」
と強硬な反対論を主張した。
大政奉還後に記した伊東の建白書に朝廷が『大開国大強国』『日本全国皆兵』の国是(国の方針)を打ち出し、朝廷が近畿地方を直接統治して金と兵隊を手にして権力の土台にして、全国の大名家に「富国強兵」を号令する。現実の公卿は役に立たないので伊東の「御陵衛士」や在野の志士を朝廷の人材として登用しましょうと提案している。
慶応3年(1867)11月15日、京都近江屋で坂本龍馬と
中岡慎太郎が滞在していた処を
京都見廻組に襲われた。坂本はその日に死亡。中岡は襲撃直後は深手ながらもまだ息があり、襲撃から2日後の夜に死亡。この件で新選組と近藤が土佐系に恨まれる事になる。
上記の伊東の建白書を知った近藤は伊東の殺害を決意。
同年11月18日に伊東を呼び出して殺害、油小路七条の辻に伊東の遺骸を放置し、その周りに50人の隊士を伏せ、遺体を引き取りにきた同志をまとめて粛清しようとした。
同日深夜から高台寺党7人が遺体を引き取りに来ると、乱戦になり、翌日深夜3時過ぎまで行われ、3人が死亡、4人が逃亡した。
永倉によれば、この時、浪士組以来の同志であった藤堂平助が高台寺党として斬り合いに参加しており、永倉は近藤から「藤堂はまだ若い有為の材であるからできるだけ助けておきたい」と言付かっていたので藤堂だけは斬らずに道を開けて逃がそうとしたが、事情を知らない若手隊士・三浦常三郎に斬られたという。
また、子母澤寛は、「藤堂は永倉の深意は汲み取ったものの、かつて魁先生と呼ばれた誇りと高台寺党の同志たちを見捨てられないので、新選組に立ち向かって三浦に斬られた」とも説明している。
その後、同年12月18日、高台寺党の生き残りが伏見街道の民家に伏せ、二条城からの帰りの近藤勇を狙撃、右肩に重傷を負わせた。
その間、慶応3年(1867)12月9日、「王政復古の大号令」が薩摩島津家、土佐山内家、越前福井松平家、安芸広島浅野家(42万6千石)、尾張徳川家(61万石)と
岩倉具視らにより実施され、幕府、摂関政治の廃止、総裁・
議定・参与の三職を置き、諸事神武創業の始めに基づき、至当の公議をつくすことが宣言されたが、実際は徳川慶喜が日本国大君として外交権、土地、金を握ったままだった。
当日夜の小御所会議にて薩摩の
大久保利通は慶喜の辞官納地を主張し、会津と桑名を京都守護職、京都所司代を廃止した上で帰国させる勅命を出し、言う事を聞かなければ、朝敵として討つという提案を岩倉具視に提出している。
最期
慶應4年(1868)1月3日、鳥羽街道と伏見の市街地ほかで行われた鳥羽伏見の戦いで薩摩島津家、長州毛利家の洋式軍隊に完膚なきまでに敗れた徳川方。
大坂城にいた徳川宗家当主・徳川慶喜が松平容保、松平定敬、板倉勝静ら僅かの供を連れて軍艦・開陽に乗り込み、大坂天保山沖から江戸に夜逃げした。
鳥羽伏見の戦いは土方歳三が新選組を率いて戦い、井上源三郎、山崎烝などの隊士が戦死し、新選組は大打撃を受けた。
大坂城内で敗走した徳川方の要人に近藤は「殿はオレに任せろ!!」と名乗り出たが、相手にされず徳川海軍に連れられ敗走。
王政復古後、上洛して京都に成立した薩長を中心にした太政官は西日本各地を平定した後、苦汁を呑まされた一会桑の3者、徳川慶喜、松平容保、松平定敬の3者を朝敵とし、東征軍を進発。これを聞いた徳川慶喜は最終的に太政官にウケの良い大久保一翁を最高責任者に任命し、川勝広運、服部常純を若年寄、軍事取扱に就任した勝海舟に交渉の全権を委ねた敗戦処理内閣を組閣。慶喜は2月12日、武力抵抗を諦めるとの態度を鮮明にし、上野寛永寺の大慈院に移って謹慎する。同じ日に近藤は江戸城に呼び出され、遊撃隊と交代で慶喜の身辺警護を命じられる。この警護は25日まで行われ、この日に解任されている。同時期、徳川直轄領の各地で脱走、反乱が相次ぎ、28日に近藤は江戸城へ呼び出され、大久保一翁から甲府城の鎮撫という名目で新選組を中核とした甲陽鎮撫隊の結成を認めて貰い、甲府城を目指した。この時、近藤は名前を大久保剛、土方は内藤隼人と改めている。
俗説では近藤らは道中、宴会をしながら行軍をしたとあるが、近年の説では、江戸を出発前に天然理心流のパトロンや門人に檄文を記し、参加を促している。時間稼ぎの為に宴会をしていたとも。結局のところ、佐藤彦五郎のみ参加しただけで、他の門人たちは準備途中であったと言われる。
対峙した板垣退助指揮の土佐兵は副将の谷干城に言わせると、ミニエー銃の弾込めが辿々しい、弾を逆さまに装填するなど、未熟ぶりが目立っていた。近藤指揮の鎮撫隊は元込め銃を豊富に所持していたが、鳥羽伏見の戦死者を補充したばかりで、軍としては烏合の衆であり、大砲の弾込めも怪しいという体たらくで五十歩百歩であった。
慶応4年(1868)3月6日に行われた甲州勝沼の戦いは太政官の勝利となり、近藤らは江戸へ敗走。軍事取扱の勝海舟から叱られたが、めげずに再戦を目指す事にした。この過程で近藤と永倉、原田の関係がギクシャクして、2人は離脱した。
その後、近藤は大久保剛から大久保大和に名前を改め、各地を転々とし、流山で拠点を構えたが、同年4月3日の昼、流山の本陣が太政官側に包囲された。
朝から新選組の大半は訓練で出払っていて、残っていたのは近藤、土方ら十人前後。
生き残りである
近藤芳助の記録では、近藤は切腹を覚悟したが、土方が板橋の太政官総督府まで出頭し、鎮撫隊である事を主張し通した方が良かろうと奨めた、とある。
素性を隠し出頭したが、御陵衛士の生き残りである加納道之助(鳶雄)や、かねてより坂本龍馬と中岡慎太郎の暗殺を新選組による犯行と信じている水戸出奔で、当時東山道軍総督府大軍監を務めていた香川敬三らに正体を見破られた。それでも太政官側は徳川宗家に身分照会を行ったが、徳川宗家は「大久保大和なんて徳川宗家にいません。殺したければ好きにして下さい。それであなた方の鬱憤が収まるなら安いモノです。(意訳)」という返答だった。
慶応4年(1868)4月25日、板橋で斬首。首は三条河原に晒された。
近藤の墓は4箇所存在する。親族が埋葬した三鷹の龍源寺 。
会津の天寧寺に土方歳三が遺髪などを持っていて会津戦争の折、前当主・松平容保が貫天院殿純忠誠義大居士の戒名を送りここに埋葬したと言われる。
米沢城下の高国寺に近藤金太郎(近藤のいとこ)が、近藤勇の首を持ち帰り埋葬したという伝承があり、境内に近藤勇の墓所が存在する。
永倉新八が発起人となり、東京滝野川の寿徳寺に松本順や藤田五郎と名乗っていた斎藤一の協力を得て明治9年(1876)に建てられた。箱館戦争で戦死した土方歳三の墓も合わせて作られた。
永倉本人は大正4年(1915)に亡くなったが、昭和4年(1929)に永倉の墓も同じ敷地に建てられた。
近藤勇とは?
簡単に言えば洋学の知識で庶民、陪臣が幕臣に取り立てられる道は開けていたが、刀一本で幕臣に取り立てられるのは新選組以外見当たらない。徳川幕府万歳と言って武士になりたいと願う庶民にとっては輝ける登竜門。
江戸の町道場の道場主が新選組の局長で慶應3年(1867)には幕臣に取り立てられ、旗本で200人の剣客を率いる1万石相当の武装集団のボス。慶應3年10月の大政奉還の説明会に近藤は出席していた。
近藤や土方らが
浪士組に参加した文久3年(1863)春は、日本中が攘夷に狂っていた時期だった。当時、論客として暗躍していた浪士・清河八郎は「東日本は開国後の物価と為替の変動で大衆は苦しんでいる。これを幕府の失政と叩いて、外国人排斥=攘夷に結びつけるんだ。西日本は東日本ほど物価の変動に苦しんでいないが、疫病や地震で大衆は苦しんでいる。これは為政者たる将軍の行いが悪いからで、天皇に世紀末救世主として君臨した方が大衆は救わると御一新=尊王と結びつけるんだ(意訳)」と遊説する地域の事情を考えていた。
明治の日本資本主義をリードした渋沢栄一は同じ武蔵国で多摩地域より北に位置する榛沢郡血洗島村(埼玉県深谷市)の裕福な農家出身だが、近藤同様に熱心な『尊王攘夷』論者で、文久3年に横浜を焼き討ちして外国人を斬るというテロ計画を親戚や親友と本気で考え、物資を準備していた。強烈な攘夷思想の度合いは近藤、渋沢ともに同じである。農家、幕臣になるという経緯も一緒である。
その渋沢と近藤は接点があり、渋沢の近藤評は「会って見ると存外穏当な人物で、毫も暴虎馮河の趣などは無く、よく事理の解る人であった。しかし近藤は飽くまで薩摩を嫌いな人で、薩州人とは俱に天を戴かざる概を示しておったものだから、薩州人に対してのみは過激な態度を取ったりなぞしたので、一見暴虎馮河の士の如くに世間から誤解せらるようにもなったのである」
としている。
家族、親族のその後。
妻・つねは明治25年(1892)7月20日死去とある。
近藤の死後、再婚を勧められても応じる事は無かったとある。
反面、何度か自殺未遂を試みた事も。
近藤との間に娘・たまを産んでいる。
義父・周斎は慶応3年(1867)10月28日、江戸牛込にて死去。
娘・たまは文久2年(1862)生まれ。近藤の実家・宮川音五郎の次男・勇五郎と明治9年(1876)結婚し、勇五郎が近藤家の家督を相続した。明治13年(1883)、嫡男・久太郎を産んでいる。明治19年(1886)6月28日、死去。
嫡男・久太郎は明治38年(1905)の日露戦争に従軍し、戦死した。妻子はなく、近藤勇の嫡流子孫は途絶えることとなった。
追記・修正をお願い致します。
- 虎徹、それも贋作を持ってたそうだが、贋作でも局長が強かったのはどういうことなの⋯!? -- 名無しさん (2026-02-28 06:42:59)
- ↑贋作作りの名人が気合を入れて作成した、渾身の作品だったとか。 -- 名無しさん (2026-02-28 07:42:40)
- 読み応えあるね。良い -- 名無しさん (2026-02-28 08:59:15)
- ↑↑小説(フィクション)だと、虎徹=銘刀=強いに決まってんだろ!という思い込みの力 -- 名無しさん (2026-02-28 10:41:34)
- 贋作と言われる近藤勇の虎徹だが、源清麿(江戸三作と称された、少し前の名刀工)の作を「虎徹」に偽装した物を買ったという説もある。 また、消耗品である日本刀(物を切ったり鍔迫り合いなんかしようものなら、あっという間に刃こぼれしてガタガタになる)を、ほぼ鍔迫り合いもせず敵を切り伏せた実力を持っていた、とも取れる。 -- 名無しさん (2026-02-28 11:45:05)
- 剣士としての腕は最強格なのに最期の末路があまりにも悲惨すぎる… -- 名無しさん (2026-02-28 14:16:48)
- るろ剣で永倉が言ってるが刀は消耗品、複数本持ってるのが普通なのでその中に本物の虎徹があったという説もある。実戦で使ったかはわからんが -- 名無しさん (2026-02-28 19:19:34)
- 握り拳を口の中に入れる特技があったという話が有名だけど本当なんだろうか -- 名無しさん (2026-02-28 19:51:02)
- ↑一応宴会の席でやってたって証言もあるし、尊敬してた加藤清正の真似がしたかったっていう動機もあるから信憑性は高い…と思う -- 名無しさん (2026-03-01 00:19:27)
- ↑余談、三谷幸喜版の新選組では近藤勇は演:香取慎吾だが香取慎吾も拳を口に入れることができる。で劇中にじっさいやってる -- 名無しさん (2026-03-01 00:24:26)
- 最後の「歴史的意義 -- 名無しさん (2026-03-01 05:34:23)
- 」項から下数行はちょっと意味がよくわからないので、修正待ちたいところ -- 名無しさん (2026-03-01 05:34:58)
- 板垣退助とか言う新撰組ハンター。しかし目的地にたどり着けないとか指揮官としてはどうよ? -- 名無しさん (2026-03-01 05:52:48)
- オリジナル(というのも変だが)の近藤勇なら(新選組)はいらないのでは? 近藤勇の名前だけを見て「銀魂のキャラだと思ったのに」と混乱する人はいないと思う。 -- 名無しさん (2026-03-01 09:59:12)
- ゼニガメ(本物)みたいな話だな -- 名無しさん (2026-03-01 12:00:32)
- 最後の歴史的意義は要らなかった。 -- 名無しさん (2026-03-01 13:47:33)
- 本文は癖が強いけど硬軟織り交ぜて面白かった ただ歴史的意義の箇所はあんまり的を射てない気がする(庶民でも刀1本で偉くなれるということなんだろうけど) -- 名無しさん (2026-03-01 17:13:03)
- 同名の創作キャラの記事だと思ってたら本人の記事だった 知名度に反して結構立つの遅かったんだな -- 名無しさん (2026-03-02 11:17:58)
- 生存説のある土方さん、薄命の美剣士の沖田さん、老年まで生き残った新八さんと部下のキャラが濃いからなぁ -- 名無しさん (2026-03-02 23:11:18)
- ↑「壬生義士伝」や「るろうに剣心」で人気が爆上がりした斎藤一もいる。 -- 名無しさん (2026-03-02 23:20:44)
- 某ソシャゲで中性的な美形キャラとしてお出しされて界隈が騒然としたり、最近やたらと話題が多いイメージ -- 名無しさん (2026-03-03 17:10:54)
- 歴史的意義の部分は本当に蛇足。 -- 名無しさん (2026-03-03 19:15:26)
- 俺考察はいらんね。消していいんじゃ -- 名無しさん (2026-03-04 11:46:40)
- ↑×5 組織の長より下の幹部連が魅力的すぎて -- 名無しさん (2026-04-16 18:15:35)
- 部下たちが魅力的、といってもほぼ創作だけどね…土方も沖田も 創作を史実だと思い込んでる人の多さがすごい -- 名無しさん (2026-04-27 13:38:06)
- 歴史で本当のことを語れる人はほとんど荼毘に付しとるからね 逆に創作と思われていたのが史実だったり歴史は奥深い -- 名無しさん (2026-05-11 17:07:35)
最終更新:2026年05月11日 17:07