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近藤勇(新選組)

登録日:2026/02/27 Fri 23:40:34
更新日:2026/05/11 Mon 17:07:35
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近藤(こんどう)(いさみ)
天保5年(1834)10月9日〜慶応4年(1868)4月25日

幼名は勝五郎(かつごろう)、後に勝太(かつた)。通称は勇。諱は昌宜(まさよし)
別名は大久保(おおくぼ)(つよし)大久保(おおくぼ)大和(やまと)
変名に近藤(こんどう)内蔵之助(くらのすけ)がある。

画像出典∶wikipedia「近藤勇」より抜粋


概説

新選組局長として幕末を象徴する人物。新選組を率いて、孝明天皇(こうめいてんのう)や陸奥会津松平家当主・松平容保(まつだいらかたもり)らの為に働く。

生涯

幼少期

天保5年(1834)10月9日、幕府直轄領の武蔵国多摩郡上石原(東京都調布市。ざっくり言えば野川公園の辺り。)に農家を営む父・宮川久次郎(みやがわひさじろう)と母・みよの3男として生まれる。宮川家は石高7石の6人家族で、農家としては中の上の家庭環境であった。

嘉永元年(1848)11月11日、江戸牛込(現:東京都新宿区市谷柳町)に所在し、近藤周助(こんどうしゅうすけ)が主宰する天然理心流(てんねんりしんりゅう)道場・試衛館(しえいかん)に入門する。後世、道場は「試衛館」と呼ばれるが、当時は「試衛場(しえいば)」と呼ばれていた。


近藤勇誕生

嘉永2年(1849)6月に目録を受かり、同年10月19日に近藤周助の養子となり、周助の実家である嶋崎家へ養子入りし、嶋崎勝太と名乗る。その後、嶋崎勇と名乗ったのちに、正式に近藤家と養子縁組し、近藤勇を名乗る。

万延元年(1860)3月29日、御三卿・清水徳川家の家臣である松井八十五郎(まついやそごろう)の長女・つねと結婚。

翌年8月27日には府中六所宮(現・大國魂神社)で、天然理心流宗家4代目襲名披露の野試合を行い、晴れて流派一門の宗家を継ぎ、その重責を担うこととなった。

勇は天然理心流の門人でパトロンも務める寺尾安次郎(てらおやすじろう)佐藤彦五郎(さとうひこごろう)小島鹿之助(こじましかのすけ)粕谷良循(かすやりょうじゅん)中島次郎兵衛(なかじまじろうべえ)らとの交流を重ねた。特に深い仲になる佐藤彦五郎は日野宿の名主で、天然理心流の門人で屋敷内に稽古場も持っていた。同じく小島鹿之助は多摩郡小野路村(町田市)の名主で、同じく門人となり屋敷に道場を持っていた。
遡る事、安政2年(1855)9月20日に小島と勇が義兄弟の杯を交わしたことに影響され、佐藤と勇も義兄弟の杯を交わしている。
三国志演義の桃園の誓いを意識したモノと伝えられる。この辺りで佐藤の妻の弟である土方歳三(ひじかたとしぞう)と出会う。沖田総司(おきたそうじ)はそれより以前、黒船来航後に「試衛館」に入門している。実は土方や義兄弟2人よりも付きあいは古い。

近藤はパトロンや江戸市中内の武芸者との挨拶回りと門人への稽古などで日々を過ごして行った。その中にこの様な逸話がある。当時の多摩地域にこれといって名産がない。そこで他の地方に出稽古に行った際、頼んで良い栗の実を貰ってきて、この栗を植えて土地の名産にしたらどうか?と郷里の人に勧めている。後に、栗が盛んに作られたとか…

そして文久3年(1863)の初頭を迎える。




浪士組から新選組へ

文久2年(1862)12月19日、老中から松平忠敏に上洛予定の征夷大将軍・徳川家茂の警護を目的として年齢、身分、前歴を問わず人材募集を命じた。
17歳から63歳まで、様々な人物がこの募集に志願した。その中に近藤が含まれていたのである。試衛館からは近藤の他に、土方歳三、沖田総司、山南敬助(やまなみけいすけ)らも加わる。

集められた彼ら234名は浪士組と呼ばれ、浪士取扱(浪士組の責任者)に鵜殿鳩翁(うどのきゅうおう)が就任*10。文久3年(1863)2月5日、鵜殿は浪士組参加者を小石川伝通院に召集、編制を発表した後、2月8日、浪士組は江戸を出発し、2月23日、京都の壬生村に到着。
同日、清河八郎は新徳寺に浪士を集合させ、朝廷への献言を提案。
2月24日、清河は浪士組全員の署名が記された尊王攘夷の建白書を朝廷に提出。

2月29日、朝廷から「すみやかに攘夷を実行し、外国人を排除し、天皇を安心させてね(意訳)」と返答があり、清河は新徳寺にて江戸へ帰還した上での攘夷を宣言。
当初の目的である将軍警護を果たさずに東帰することに、芹沢鴨、近藤らが猛反対する。3月3日、浪士組に帰還命令が出されるが、芹沢、近藤らは京への残留を希望。このときに残留を希望したのが芹沢の同志5人と近藤の同志8人の合計13人だった。これに殿内義雄(とのうちよしお)根岸友山(ねぎしゆうざん)らが合流。

3月4日、徳川家茂が入京し、浪士組は本来の目的を終える。
3月10日、芹沢や近藤ら17人は連名で京都守護職を務める会津松平家に嘆願書を提出、会津側は彼らを「御預かり」に決める。
3月12日、芹沢、近藤らは会津松平家御預かりとなり京に残留。(壬生浪士組、後の新選組
同日、芹沢と近藤は清河の暗殺を謀るが、山岡鉄太郎らが浪士組募集の朱印状を首から下げた状態で清河の護衛についていたため未遂に終わる。
3月13日、鵜殿と清河らが率いる浪士組は京を出発し江戸へ向かった。

この後、内部抗争が起き、26日に殿内が暗殺され、根岸も同志とともに離脱すると、壬生浪士は芹沢派と近藤派が牛耳ることになった。

のちに芹沢・近藤・新見が局長となり、芹沢が筆頭となった。

後に治安維持で活躍した印象の強い「壬生浪士」だが、当初は遅れて京都デビューした会津が会津訛で京都の人と言葉が通じない、京都の公卿方にコネがない、他所の浪士や他の大名家の家臣とのコネも余りない、と当主・松平容保が守護職就任拒否理由の条件の一つに、コネクションやコミュニケーションが著しく欠けている、と挙げたが、それを補う為である。

芹沢が筆頭局長なのは、剣術が長州毛利家に門人の多かった神道無念流の免許皆伝。水戸徳川家の攘夷派*11として長州毛利家とコネがある*12。水戸徳川家は有栖川宮親王家と血縁関係で宮中にコネがあるなどに目をつけ、長州や水戸の攘夷派と折衝して情報を集めて欲しいという意図から。

近藤はこの頃、郷里の友人宛に志大略相認書(こころざしたいりゃくあいしたためがき)という書簡を記している。何回かに分けて記された近況報告で第一に攘夷が決まるまで京都から戻らないという話を記し、第二に将軍はイギリスへ生麦事件の賠償金支払いを拒絶した上で攘夷を行う。その為の手伝いをするんだ、と記している。

この頃の近藤は芹沢と仲良くやっており、それを見た土方らが「近藤は天狗党の同類」と批判的に見ていた。近藤らは遅れて京都デビューした為、コネも金も無い。芹沢を利用して京都での人脈を拡げ、金を集めたのである。悪名も全て芹沢が受け止めてくれた。

その間、長州や土佐の攘夷派とその取り巻きの公家らは孝明天皇が外人を先入観から毛嫌いしているのを上手く扱い、孝明天皇から毛利家へ陣羽織を下賜、対外戦争は長州にお任せ!という雰囲気を作った。

長州は5月10日、自国の海域を通行する外国船に無差別砲撃を行った。


近藤は暴徒が暴れていると6月2日に大坂に向った時、幕府のクーデター軍と入れ違いになり、その動きをパトロンの小島鹿之助に手紙で伝えている。他には大坂で同年6月3日、芹沢や近藤ら10人がすれ違った小野崎部屋の力士が道を譲らなかったため、芹沢らは暴行を加えた。

その行為に怒った力士の仲間が駆けつけ乱闘となり力士側に死傷者が出たが、小野川部屋の年寄が壬生浪士組に50両を贈り詫びを入れる事で収まった。

この間、芹沢との関係に変化が起きた。土方らに「芹沢とイチャイチャしてる」と言われるくらいベッタリだったのが、芹沢と距離を置き始めたのである。今まで故郷宛の手紙に芹沢の名前を出して持ち上げていたのが、芹沢の名前を出さなくなり、自分の意見を記す様になったのである。征夷大将軍である徳川幕府が陣頭に立ち、攘夷をするべきで、それが出来るまで、オレ達=浪士組は誰にも仕えないし、出来ないなら浪士組を解散せよ、と記している。

それとは別に他の大名家とトラブルを起こしたり、同年8月13日、一条通葭屋町下ル福大明神町の大和屋庄兵衛(やまとやしょうべい)宅が壬生浪士の金策を謝絶。大和屋が外国向けに生糸を輸出して大金を獲たと嗅ぎつけた芹沢が大和屋に直談判して金をよこせ!その金で攘夷をして還元してやるから、と話し、大和屋が拒否したら、芹沢が腹を立てて放火、刀を抜いて京都町奉行所や京都所司代の火消を寄せつけず、一晩かけて焼き尽くし、高笑いしていた。

芹沢らは京都の相撲部屋を訪れて、相撲興行を行い、売り上げの何割かを徴収したり、商家を訪ねて、強引な金集めを行った。

国内では長州の攘夷に対して7月に幕府から長州へ調査団が派遣されたが、船を拿捕し、使節を殺害するなど勢いが止まらなかった*15

同年8月13日大和行幸の詔*16が出され、同時に長州毛利家当主・毛利(もうり)敬親(たかちか)らに上京が命じられた。

諸大名へも行幸供奉(ぐぶ)、軍用金献納が命じられた。

同年8月17日に大和国五条で天誅組の変*17が勃発した。

幕府のクーデター失敗の後、薩摩島津家と越前福井松平家によるクーデター計画があったが、島津家は7月の薩英戦争で忙しく、福井側は島津家がヤらないなら福井単独だとリスクが高すぎると二の足を踏みとん挫。

京都にいた薩摩島津家の高崎左太郎(たかさきさたろう)(諱は正風)は島津久光から手紙で「しばらくオレは薩英戦争で動けない。困ったら中川宮(なかがわのみや)*18を頼れ!!あの人がオレの代わりだ…(意訳)」と指示を受け中川宮を訪ねると、宮は長州に脅されて攘夷の陣頭指揮を執るために長州へ派遣されそうになり、これを止めさせるには長州を朝廷から排除するしかないと決意。しかし、宮も島津家も軍事力が無い。そこで会津松平家に注目したが宮も高崎も会津にコネがない。高崎が同家家臣の重野安繹(しげのやすつぐ)から江戸の昌平黌に在籍していた時、重野と会津松平家公用局員の秋月悌次郎(あきづきていじろう)が仲良しだった話を思い出して、そのツテで秋月を訪ねたのが文久政変の始まりだった。

会津側にも事情があった。京都守護職は元々会津用の役職で実質的には京都所司代と変わらないのだが、実際に勤務に就くと調整しなければならない事が山程出て来た。具体的には西国諸侯間の調停である。長州の攘夷に手を貸さなかった豊前小倉小笠原家(15万石)に対して、小笠原家の領地を侵食し、小笠原家に対する弾劾状を提出し、京都では小笠原家の官位剥奪・所領没収という勅命まで作られて、実施されようとしていた。

小笠原家は会津に泣き付き、会津側も上述の使節団が殺害されたのを聞き、これ以上は放って置けないと考えたが、こちらは遅れて京都デビューした為、朝廷にコネが無い。しかし奇貨居くべし、コネの方からやって来たので最大限に活用するべく孝明天皇・中川宮・薩摩島津家とともに長州毛利家を朝廷から追い出す為のクーデターを実行した。(文久政変もしくは八月十八日の政変)

会津松平家家臣・鈴木丹下(すずきたんげ)の「騒擾日記」によれば、八月十八日の政変に際して、御所の警備のために隊士を率いて出動するが、御門を固めていた会津武士たちは壬生浪士を知らなかったため、槍を構えて通そうとしなかった。
「通せ」
「通さぬ」
と双方が押し問答となる中、芹沢は哄笑しながら歩み出たため会津武士が槍を突きつけると、愛用の鉄扇でその槍を悠々と煽いだという。

その場を収めたが、芹沢は悠然と門を通っていき、人々は彼の剛胆さに驚いたという。

この時の働きで新たな隊名新選組を拝命する。

隊名は武家伝奏から賜ったという説と、松平容保から賜ったという説の2つがある。

後者の説は、会津松平家当主の警備部隊名を容保からもらったという意味になる。

文久3年(1863)9月13日、芹沢は土方、沖田らと水戸徳川家の主君筋である一橋慶喜の母方にあたる有栖川宮家を訪れ、新選組の交名と、「警衛の用があれば何事に限らず申し付けてください」と記した書付を渡した。

会津松平家が京都での陣容、特に公用局に目処が着いたので、今までは芹沢の振る舞い(恐喝同然の金集めやヤラせてくれない芸妓への狼藉など)を黙認したが、長州毛利家やその取り巻きの公卿達が京都を去り、利用価値が激減したので近藤らに殺害を命じた。


9月16日あるいは18日*19新選組は島原の角屋で芸妓総揚げの宴会を開いた。

芹沢は壬生の八木家で二次会を催したため、泥酔していた芹沢は刺客たちによってたかってずたずたに斬りつけられ、あっけなく落命した。同じ部屋にいた平山も斬られたが、離れた部屋にいた平間は逃亡し、そのまま行方不明となった*20

事件は長州側の仕業とされ、同年9月18日(あるいは20日)に芹沢と平山の葬儀が神式に則り盛大に執り行われた。20日に近藤は芹沢と平山が「変死」したことを記した手紙を郷里多摩の佐藤彦五郎へ送っている。この手紙では他にも実家の長兄・宮川音五郎(みやがわおとごろう)より義父・周斎の体調が悪化したので江戸に戻るように知らせた手紙に対する返信として、江戸に帰れない事を伝えた。それだけでは不足だと思ったのか、9月23日付けで会津公用局員の広沢富次郎と大野英馬(おおのえいま)が手紙で「芹沢急死により、近藤一人で浪士50余名を取りまとめている。忙しすぎて帰れないから、ゴメンね(意訳)」と記した。これにより、近藤が会津公用局から信用を得て、新選組の主導権を掌握したのだが、近藤には強い不満が幾つか存在した。

1つ目は人手不足。加入しても離脱したり、衛生面が劣悪で病人、怪我人続出で人の出入りが激しく、後記する禁門の変が終わり、近藤が募集の為に関東に行くまで人手不足が解消されなかった。

2つ目は尊王攘夷。浪士組も新選組も尊王攘夷をする為に集められたが、全く尊王攘夷と関係のない、治安維持を担当させられている。文久3年(1863)10月15日、松平容保に手紙で攘夷をするまで幕府に仕えません、とか、元治元年(1864)5月3日には攘夷をしないなら新選組は解散しますと老中・酒井(さかい)忠績(ただしげ)に直訴するくらい、攘夷をアピールしたが、相手にされなかった。

松平容保は手紙を貰う5日前の10月10日、祇園一力楼にて在京諸大名の代表を集めて懇親会を主催、そこに近藤を招待したのである。この懇親会には薩摩、土佐、安芸広島浅野家(42万6千石)、肥後熊本細川家(54万石)、会津などの要職者が参加。酒や食事は美味かったが、誰からも積極的な発言が無く、会津家老の横山主税(よこやまちから)が近藤に話を振り、近藤は挙国一致の攘夷論をブチ上げた。話の前振りで薩長の攘夷を否定したが、薩摩が大人の対応をしたので喧嘩にならなかったが、懇親会の結論として公武合体で国是を定める事に異論はなく、その為に江戸にいる将軍に京都に来てもらう事が第一優先となった。

文久3年(1863)11月15日、孝明天皇は薩英戦争や文久政変で活躍し、お気に入りとして寵愛する島津久光に手紙で徳川体制の存続を会津松平家と共に頼むと依頼したが、久光が会津は幕府の犬ですよね*21、と言って断ったので、孝明天皇が久光を見限り、会津に徳川体制の存続を依頼した。会津側は期待に応えるべく、守護職の権限を拡大。この過程で江戸や在京の幕閣と衝突するのだが、朝陽丸事件から文久政変までを解決した会津と外国からの支援を受けても攘夷派を追放出来無かった幕閣とでは力量に差があり、元治2年(1865)初頭には御所警備の人事権を握り、京都所司代や大坂城代を指揮下に収め、近畿圏を掌握し、一大勢力を築いた*22。孝明天皇が松平容保を寵愛、中川宮は薩摩から会津に乗り換え、薩摩から派遣されていた家臣たちは引き払い、代わりに会津公用局員が中川宮の家臣を兼任した。
新選組は孝明天皇の手先として働く事になる。

11月29日付けで多摩の佐藤彦五郎に本音を記した手紙を送っている。これによれば、在京諸大名の要人が江戸に来て将軍上洛を要請するのだが、その中に自分も含まれると記している。他にも幕府を蔑ろにする清河八郎が暗殺されたり、山岡鉄太郎が更迭されたのは喜ばしいとか、江戸に戻った浪士組が新徴組になり、幕臣となり、攘夷の志を失ったのは嘆かわしい事だ、とか、新選組だけが尽忠報国の志を保ち、本当の尊王攘夷を実践する存在だとアピールしている。


攘夷と長州征伐の狭間で…

文久3年末から文久4年(1864)初頭にかけて、近藤が望む攘夷は行われる気配すら無かった。

将軍再上洛により国是を定めようと考える江戸の幕閣は、軍艦奉行並・勝海舟指揮下で幕府と大名家による連合艦隊を編成して海路上洛を12月28日に実施。軍艦8隻、輸送船4隻の計12隻が大坂を目指して航行し、翌年1月8日、大坂天保山沖に到着。将軍家茂は大坂城に入った。

新選組は正月2日に大坂へ出向き、8日には安治川右岸に警護の陣を敷いた。

将軍家茂は14日に大坂城を出発し伏見泊、翌15日に二条城入りをした。新選組は大坂から京都までの護衛に参加している。

将軍と朝議参預による会議が開催される中、近藤や新選組の身の回りには幾つもの出来事が起きていた。

2月1日、四条大橋の高札場に新選組批判の杉板が打ち付けられていた。曰く「憂国志士団を名乗る輩が京都の金持ちに出入りして金品を無心し、断ると力で脅している。よく見ると、会津武士か新選組のどちらかだ。自分達で勝手に職質を行い、断れば問答無用で叩き斬るなど、勝手し放題。たかが壬生浪の分際で遊郭や料亭で遊ぶなど10年早い。会津が正さないのは頭が悪いのではないか?(意訳)」と書かれていた。 

この頃、近藤は体調を崩しており、松平容保に相談した結果、承諾を得て新選組の業務を土方に任せ、容保オススメの温泉で療養していた。(故郷の中島次郎兵衛に宛てた手紙で男色大流行で精神的に疲れたと記している。)
療養中に京都守護職の松平容保を2月11日に「陸軍総裁職」、同15日「軍事総裁職」へ転じる話が明らかになる。参預による会議の中で長州征伐の議論が出て、容保に長州征伐を行わせる構想である。同日、後任の京都守護職に松平慶永が就任するという話を知らされた近藤は療養を切り上げた。
慶永は御三卿・田安家から越前福井松平家へ養子に入り当主になった人物で、福井を有力大名に押し上げた手腕を持つ人物なのだが、先代将軍・徳川家定を執拗に誹謗中傷したり、破約攘夷論を江戸城内で広めて小栗忠順と衝突したり、破約攘夷論がダメになると開国論に転向し、この当時、政治顧問を務めていた横井小楠(よこいしょうなん)の影響で公議政体論*23を主張し、勝海舟坂本龍馬のパトロンを務めた。要するに近藤と真逆にいる人である。その慶永の下に新選組は仕えなさい、というのである。
近藤ら新選組は猛反発。福井の守護職を拒絶し、会津の守護職復帰を幕閣に願い出た。容保を溺愛していた孝明天皇も福井の守護職就任を拒絶し、会津の守護職復帰を求めた。

将軍、幕閣と一橋慶喜は岐路に立たされた。
参預の中で島津久光は昨年7月の薩英戦争で攘夷はコスパに見合わないと開国論へ転向し、松平慶永、伊達宗城は開国論、山内容堂は家臣団内部の土佐勤王党を壊滅に追い込み開国論へ舵を切り、朝廷の攘夷論を論破する気マンマン。
現実を見れば、幕府もこちらに乗りたい。実際、挫折したクーデターは開国論である。しかし、これに乗るのは、参預の後追いとなるからイヤだと拒絶反応を示す。
孝明天皇が容保を溺愛しているのを逆手に取り、容保を京都守護職に戻します、攘夷なら、横浜を閉鎖します、見返りに幕府へ全権委任をお願いします、という方向に舵を切った。
2月16日、中川宮が主催した宴で一橋慶喜が参預諸侯に「こんなのと一緒にするな(意訳)」と暴言を吐き、参預諸侯がブチギレて会議は空中分解。各自、辞職して自らの領国に帰国、幕府に対する失望感を深めた。幕府は横浜港を閉鎖する見返りに孝明天皇の支持を取り付けた。フランスへ横浜鎖港談判使節団を派遣したが形だけで、実際は攘夷派に殺されたフランス軍人の慰謝料支払いを行う使節団である。

近藤ら新選組は元治元年(1864)*243月3日に会津預かりに戻り、3月25日に一橋慶喜が禁裏御守衛総督・摂海防御指揮に就任、4月7日に松平容保が京都守護職に復帰、同月11日には容保の実弟で伊勢桑名松平家当主・松平定敬(まつだいらさだあき)(11万石)が京都所司代に就任した。

3月24日付の小島鹿之助宛への手紙で、やっと幕府が攘夷の出来る体制になった、と記していたのだが、5月になっても攘夷が行われず、5月2日に将軍が天皇に帰国の挨拶をし、その翌日に上記の攘夷をしないなら解散させろ!!と言う手紙を会津公用局を通して老中・酒井忠績に提出。会津公用局を経て返信が来たが、攘夷の時期が来たらちゃんと呼ぶから、それまで待っててと宥めている。

将軍が5月16日に艦隊を率いて江戸に戻ると近藤は在京の酒井忠績に繰り返し攘夷をしないなら解散か各自で帰郷かハッキリしろ!と詰め寄るのだが、酒井はもう少し待って、と言うのみ。5月20日付けで小島鹿之助や中島次郎兵衛に宛てた手紙には攘夷を実行しなかった将軍・家茂を強く批判している。

幕府も新選組を持て余すのか、元治元年(1864)4月24日、京都の治安維持に御家人主体の京都見廻組を設立。既に活動している新選組を組み込む話が出てきて、同年5月14日、京都守護職の会津や大目付の永井(ながい)尚志(なおむね)に相談をした。
待遇は「同心=70人扶持」を提示したが、同年6月7日、会津から
「寝言は寝て言え、一昨日出直して来やがれ!(意訳)」
と待遇の低さを呆れられて断られ、江戸で御家人主体に384人の組士を確保し、京都に送り込んだ。

待遇の悪さに近藤が怒りを露わにしていると判断した在京老中・水野忠精(みずのただきよ)(出羽山形5万石)、稲葉正邦(いなばまさくに)(山城淀7万石)から「与力上席」の条件で幕臣にならないか?と勧誘された。昨年10月に容保に上記の手紙で幕臣になりません、と断言してから半年以上経過し、それまでに薩摩、長州、土佐、水戸などの有力大名家が京都に来て、家臣や志士をロビイストにして政治活動するモノだから、京都は人が増えて物価が急上昇。新選組自体を保つのが厳しくなって来た。地元のパトロンに無理はさせられないし、京都のパトロン・会津は財政難でアテにならない。自力で金策しようとしても、2月みたく高札場でアンチに叩かれる様になり、以前の様に気楽に金集めが出来なくなって来た。しかし、尽忠報国=尊王攘夷を金と引き換えに失っていいのか?という近藤の悩みは深く、体調が戻った養父・周斎に手紙で相談、申し出を受けてもイイかな?と問い合わせている。

近藤が進退に迷う最中、勃発したのが有名な池田屋事件である。

死闘!!池田屋事件


6月1日、肥後熊本の尊攘派浪士・宮部鼎蔵(みやべていぞう)*25の下僕・忠蔵(ちゅうぞう)や中間の格好をした不審者2名を捕まえると、彼らは揃って京都の各地で同時多発テロを行い、混乱した隙を突いて孝明天皇を長州へ拉致し、文久政変の中心人物、中川宮、松平容保を殺害するというモノで、道具も集めている、という話をした。

四条小橋の炭薪商・桝屋喜右衛門(ますやきえもん)という40歳前後の男性が妻や使用人もなく広い屋敷を構え、豪勢な生活をしているから怪しいと会津側は判断し、新選組が調査し、6月5日朝、桝屋を壬生の屯所に連行した。調べたら桝屋は屋号と通称で略して桝喜(ますき)、本名は古高俊太郎(こたかしゅんたろう)。養子に入って店を継ぐ前から尊攘派とベタベタな仲だった。尊攘派はここが溜まり場にして、宿として宿泊する者もいた。古高を尋問すると上述の計画を自白し、建物の中から武器や密書の類が発見された。

宮部や長州系尊攘派の幹部・吉田稔麿(よしだとしまろ)*26は古高奪還、長州の武力を動員すべき、と主張したが、京都長州屋敷の留守居役・乃美織江(のみおりえ)や京都で政治工作を行う桂小五郎はこれに反対。近くの池田屋で対策会議を開く事、そこに桂も参加する事で話が付いたが、桂が訪ねた時、仲間が不在の為、近くの対馬・宗家の屋敷を訪ねていた。

尊攘派は新選組が封印していた桝屋の土倉を打ち破り、武具を奪還、何処かへ持ち去った。新選組の大失態であり、速やかに尊攘派を抑えないと大惨事になる。会津側も情報を共有しており、一橋慶喜、京都所司代、京都町奉行に連絡を取り、長州から怨みを買っても暴挙を止めさせると判断。会津、桑名の動員が手間取り、池田屋に辿り着くまでは新選組単独、最初は近藤班だけの切り込みだった。

近藤が地元に宛てた手紙によれば、池田屋の会合は尊攘派が多分この辺にいるよね?という見当が当たった感じだった。新選組は当日、近藤班10名、土方班24名の2班に別れて探索を行っていた(これには諸説あり、井上源三郎が12名を率いて3班に分かれていた説もある)。

元治元年(1864)6月5日夜の10時頃に「御用改めである。手向かい致せば斬る!!」と言って池田屋に突入したのは近藤班。
室内に斬り込んだのは近藤、沖田、永倉、藤堂平助(とうどうへいすけ)の4名。武田観柳斎(たけだかんりゅうさい)谷万太郎(たにまんたろう)浅野藤太郎安藤早太郎(あんどうはやたろう)奥沢栄助(おくさわえいすけ)新田革左衛門(にったかくざえもん)が池田屋から出てくる浪士を討ち取る役割とある。
近藤班4名に対して、尊攘派側は20余名。
沖田と藤堂は戦線離脱*27、池田屋内で最後まで闘い抜いたのは近藤と永倉の2人。その永倉も手に刀疵を負っている。近藤も3回死にかけたとか、これまでは2(ごう)*28と戦う者は稀だったのに、今度の敵は多勢の上、万夫之勇者ばかり、「死にかけたけど、生き延びた(意訳)」と後に手紙に記してる。
途中から空振りの土方班が池田屋に到着。池田屋内外に突入して形勢が逆転、加えて会津、桑名の手勢も加勢して完全に包囲された。翌朝まで市中掃討が行われたが、これが激戦となり、会津は5名、桑名は2名の即死者を出して、尊攘派20名あまりを捕縛したとある。

新選組側は近藤班の奥沢が戦死、安藤、新田が深手を負い、後に死去。沖田、藤堂が離脱、永倉が軽傷という話だった。

尊攘派は宮部鼎蔵、吉田稔麿など、それなりに有力な志士がこの事件で討たれ、勝海舟の弟子で元土佐勤王党の北添佶磨(きたぞえきつま)望月亀弥太(もちづきかめやた)もこの会合に参加して死亡*29。勝海舟は日記で池田屋事件で北添、望月を死なせた新選組に憤る*30

新選組の奮闘は内外で反響を呼んだ。会津は近藤の指揮判断を適切と評価、三善長道(みよしながみち)の刀を授け、組一党へは500両の報奨金を支払い、別途、負傷者に20両の見舞金が支払われた。
孝明天皇も新選組の働きを評価し、300両を下賜された。

近藤が義父・周斎に宛てた池田屋事件後の6月8日付けの手紙では上記の尽忠報国=尊王攘夷を幕臣への勧誘=金と引き換えに失っていいのか?との悩み相談や、池田屋事件で東国・関東武士への厚い信頼を表明し、新選組への斡旋を頼んでいる。

土方が佐藤彦五郎に宛てた6月20日付けの手紙では、江戸の幕閣から近藤に「両番次席*31」、土方に「与力上席」、沖田ら隊長格に「与力」、その他は「御徒席」の内示が出たと記している。上記の見廻組に組み込む時より条件は良くなった。見廻組の件は会津が断ったが、この内示は近藤が断ったのか、幕府が新選組を召し抱える話は消滅し、会津預りの浪士集団として存続した。


禁門の変と近藤叩き


池田屋事件が長州本国に伝わると、長州内部で軍勢を率いて京都に殴り込みに行くと言う意見が出てきた。首謀者は出奔浪士などを集めて作られた遊撃隊の総管・来島(きじま)又兵衛(またべえ)、久坂玄瑞、浪人の真木(まき)和泉(いずみ)など。

この頃、京都の政局は長州に有利に働いていた。幕府側は横浜鎖港問題で内部対立が激しく、物価が開国前より3倍に跳ね上がり、これに手をこまねいていたので死に体になっていた。
会津公用局が報告書の中で
「世間では長州待望論が流行している、なんて事だ!世も末だ!(意訳)」
と、記している。

京都長州屋敷で朝廷工作をしていた桂小五郎は、在京の諸大名も文久政変の頃より長州に好意的になっている。このまま長州に有利な空気を作り、朝廷に圧力を掛けて会津を追い出して行けば、失地回復も現実になると読んでいた。

読みとしては当たっていた。
後に徳川(とくがわ)慶喜(よしのぶ)が王政復古の大号令後、徳川に有利な空気を作り、朝廷に圧力を掛けて薩摩を追い出していけば、失地回復も現実になるのと同じである。

まぁ、慶喜も桂も頭の回転は優れているが、人の感情を無視する部分があり、それが足をすくわれる原因となるが…

慶喜にとっては江戸薩摩屋敷の焼討事件で在坂の徳川方の憤懣に火が付いたが、桂には池田屋事件がそれだった。

元治元年(1864)7月11日、三条大橋の辺りで禁裏御守衛総督・摂海防御指揮を務める一橋(ひとつばし)慶喜(よしのぶ)の相談役・佐久間(さくま)象山(しょうざん)*32という開明的な大物洋学者が暗殺された。

手を下したのは河上彦斎。彼とその仲間が残置した斬奸状には

『この者、元より西洋学を唱え、開国説を主張し枢機の方へ立ち入り国の方針を誤らせる大罪捨て置くことができず、
奸賊会津・彦根と共謀し、中川宮とはかり、恐れ多くも天子様を彦根城へ奉ることを企て、その機会を窺っているところであった大逆無道の国賊である。
それゆえ今日三条木屋町にて天誅を加えた。
昼間であったため、さらし首にはできない。
皇国忠義士』
とある。

佐久間が門人で会津松平家家臣の山本(やまもと)覚馬(かくま)、同じく公用人・広沢富次郎と組んで孝明天皇をお試しコースで彦根城に来てもらい、そのまま本格コースに切り換えて江戸に連れていき、江戸城で和宮と兄妹仲良く暮らしてもらう計画で、そんな事をされたら長州は孝明天皇存命中、逆賊確定なので、それを阻止する為だった。

佐久間家はこの件で主家の信濃松代真田家(10万石)から家名断絶処分を受け、遺児は山本覚馬の紹介を近藤が引き受け、彼を新選組に入れた。母の旧姓三浦を名乗り、三浦啓之助として仇討ちの機会を狙う事になったのだが…

象山暗殺の8日後の7月19日、長州は京都を追放された長州派公卿、殿様の京都政界復帰を訴える武力行使に出た。
禁門の変である。

国司(くにし)信濃(しなの)福原(ふくはら)越後(えちご)益田(ますだ)右衛門介(うえもんのすけ)の三家老が指揮する部隊が御所を守る会津、薩摩、桑名などの兵と激戦。

幕末武士団番付けの東西両横綱、西の薩摩と東の会津に、加えて新選組を敵に回して勝てる術は無かった。

指揮官・来島又兵衛は戦死、久坂玄瑞、真木和泉らは自刃、長州軍は撃退された。

この戦いの前後に近藤は故郷に手紙を書き、人手不足が深刻だから、何とかして欲しいと、悲鳴をあげてる。天王山の戦いでは、真木和泉の軍と対峙し、真木が「長州配下」と名乗ると近藤は「徳川の旗本」と名乗り返して、交戦。近藤が旗本になるのはまだ先の話だが…
真木たちは陣地に火を放ち、自刃している。

幕府から働きを認められ、800両が報奨金として支払われ、感謝状も発行された。

江戸では評判となっており、近藤を武士の中の武士と持ち上げる人々と勝海舟が、「新選組は横暴が服を着て歩いている存在。普段から滅茶苦茶えばりくさって、嫌疑がかかった相手をしょっ引いて死ぬほど痛めつけた挙句、嫌疑が晴れると謝罪もせず放り出したり、探索名義で民家に押し入り家財を強奪するなどヤりたい放題。会津は何をしているんだ!!(意訳)」と8月23日に訪ねてきた坂本龍馬に愚痴をこぼした、と日記に記すなど、賛否両論だった。

この後、幕府は長州征伐を認める勅命を孝明天皇から貰い、そこから長州征伐を実施。同時に長州が昨年実施した外国船舶への砲撃に対してイギリス、フランス、アメリカ、オランダが報復攻撃を決定。
上洛の長州軍が敗退するのと同時に、元治元年(1864)7月24日、英仏蘭米四ヶ国の駐日公使は長州毛利家が昨年実施した外国船舶への砲撃に対する下関遠征に関する覚書を作成し、それぞれの海軍指揮官に伝達し、四ヶ国連合艦隊が下関攻撃の為に元治元年(1864)7月27日と同月28日に横浜を発した。

元治元年(1864)8月2日、イギリス軍艦9隻、フランス軍艦3隻、アメリカ軍艦1隻、オランダ軍艦4隻の計17隻からなる連合艦隊が報復攻撃の為に豊後水道の姫島に集結。

後方支援でイギリス軍艦3隻が投入、横浜にいる日本の攘夷派を牽制するべくイギリス軍艦4隻、アメリカ軍艦1隻が碇泊、更に居留民保護と称してイギリス陸軍1351人、フランス陸軍70人が横浜周辺に駐屯、長崎にも攘夷派を牽制すべくイギリス軍艦1隻が碇泊していた。

狙いは日本で一番外国に対して好戦的な長州毛利家が、天皇も将軍の言う事を聞かない、攘夷実行を緩めず、関門海峡は封鎖されたに等しく、通行を阻害される諸外国は、幕府が長州を攻撃しないなら自分達で総攻撃を加えて、諸大名などの支配階級に攘夷が不可能だと刻み込む為であり、庶民を巻き込まない様に限定的な武力行使に仕上げていた。

長州側が四ヶ国連合艦隊に
「天皇と将軍に言われて攘夷した。長州悪くない!けど、お情けで外国船が関門海峡を通航するのは認めてやる。(意訳)」
と説明したが、四ヶ国連合艦隊はこれを認めなかった。

元治元年(1864)8月5日に開始された戦いは、連合艦隊の砲撃で長州側の砲台が全て沈黙、前田砲台は連合艦隊の陸戦隊が上陸し破壊された。

長州軍の砲台を破壊、占拠した連合艦隊は、長州軍の大砲を戦利品として運んだが、この時、長州の民衆は外国人に協力しており、武士に愛想を尽かしていた。

四ヶ国連合艦隊と長州毛利家の交渉は元治元年(1864)8月8日から行われ、長州の賠償金を払わせるかが争点になったが、長州は「天皇と幕府の命令でヤりました、長州悪くない!幕府にツケといて(意訳)」と主張。
長州系*33の下関を開港すれば賠償金は免除、下関開港を認めないなら、賠償金を支払うの二択で幕府は後者を選び、賠償金300万ドルを分割で支払い始めた。因みに前者だと長州に責任能力有りという話になり、対外的に認められた政府が誕生する。要するに一国二制度である。

8月26日、欧米列強の外交団を乗せた4か国連合艦隊が大坂天保山沖に来航。今までの近藤なら攘夷論を振りかざすトコロなのだが、その近藤には様々な変化が生じていた。

近藤は新選組の局長として中川宮や二条家、在京の諸大名要人などと付き合いが出てきて、今までの自分ではダメだと社会情勢や日本の歴史や礼儀作法などをアップデートし始めた*34。これが周りからは尊大、傲慢、横暴という感じに映った。この頃の斎藤(さいとう)(はじめ)が近藤から「お前さぁ、剣の腕は立派だけど、頭が弱いよ。もう少し勉強しないと、将来、人に騙されたり痛い目に遭うよ(意訳)」と忠告していたが、当時の斎藤は不満タラタラだった*35。隊長格の永倉、斎藤、原田左之助(はらださのすけ)、中堅幹部の島田魁(しまだかい)尾関雅次郎(おぜきまさじろう)、平隊士の葛山武八郎(かづらやまたけはちろう)が8月下旬に連名で近藤の非行五箇条として松平容保に訴えた。

永倉の「新撰組顛末記」に記載はあるが、五箇条の内容が記されていない。会津側に記録が無い、当事者の1人の島田の日記に記録されていない、新選組顛末記以前に永倉が書いた「浪士文久報国記事」には記録されていない、新撰組顛末記の内容は取材して纏めた記者の創作部分や永倉の記憶違いがあることが確認されてる、などの理由から、かなり信憑性は薄め、とされているが、容保が近藤を呼び出し、事実確認をした上で仲裁したとはある。葛山は9月6日に切腹。定説では近藤の件とあるが、他の面子は譴責処分で済ませている。別件で切腹したとも。

新戦力と思想転換

元治元年(1864)9月5日、近藤は永倉、武田観柳斎、尾形俊太郎(おがたしゅんたろう)を引き連れて京都を出発、9月9日に江戸に到着。江戸の会津屋敷を訪ね、江戸の幕閣で切れ者と評判の老中格・松前崇弘(まつまえたかひろ)(蝦夷松前1万石)に将軍上洛の建白書を提出し、幕臣の間を訪ねて攘夷や長州征伐の意見交換をした。この後、試衛館を訪ね、義父・周斎や妻・つねと再会。更に日野や八王子の多摩方面を訪ね、留守中門人の面倒を見てくれたパトロンや知人と再会し、情報交換を行っていた。

人員の募集を呼び掛けると、神道無念流の免許皆伝で北辰一刀流の道場を経営している伊東甲子太郎(いとうかしたろう)とその門人たち、近藤芳助安富才助大石鍬次郎(おおいしくわじろう)らが加入した。

近藤は西洋医学所頭取で奥医師の松本良順(まつもとりょうじゅん)を訪問しており、松本が自伝に記している。
これにより、近藤は悩みが解消した、と記し、それまでの攘夷論を放棄したとある。上記の伊東もだが、この2人、ゴリゴリの開国論には向かわないのである。伊東は水戸学を学んだ攘夷論者であったが、攘夷論の手詰まりを感じており、それに代わる何かを求めて新選組の募集に応じて京都に向かい、近藤のツテを利用して様々な人に会うのが目的だった。近藤は人手不足の解消を目指し、この旅では22名が新選組に加入した。

10月9日、留守中を預かる土方から手紙が届き、「新選組は毎日、西洋砲術の調練を行い、最近は大いに良くなっている。これなら長州征伐の先鋒を務められる(意訳)」と記されている。会津の砲兵隊あたりから指導を受けたのだろうか…

10月15日、近藤らは江戸を離れ、同月27日に京都着。この頃、長州征伐に備えた行軍録を作成しているが、永倉を2番隊隊長から外し、伊東に替えている。定説では近藤弾劾の報復人事という話だが、一緒に長旅をしておいて、今頃になって報復人事というのも考えにくいので、旅の途中で近藤と一悶着あったのかも知れない。

この頃行われていた長州征伐と水戸の天狗党による武装蜂起にどちらも新選組の出番はなく、それぞれ解決*36し、行軍録は日の目を見る事なくお蔵入りとなる。

転機

元治2年(1865)2月5日、孝明天皇から将軍・家茂の上洛と攘夷決行を求められた江戸の幕閣は老中・阿部正外(あべまさと)(陸奥白河10万石)と本庄宗秀(ほんじょうむねひで)(丹後宮津7万石)が4000の軍隊を率いて上洛。22日に参内し朝廷との交渉にあたる。この上洛は軍事力を背景に天皇に開国論を誓わせ、京都の一会桑権力を解体するモノだったが、逆に関白・二条斉敬に家茂が上洛しないことを叱責され、阿部は2月24日京都を出発し、朝廷側の要請を江戸に戻って家茂に伝え、本庄は大坂湾を警備していた。
近藤には、この光景が困るのである。公武合体による挙国一致と強靭な国防体制の確立。その邪魔をしていた長州が大人しくなった今こそ、体制確立の好機に幕閣は何するんじゃい!!という思いである。3月1日付で土方が佐藤彦五郎に宛てた手紙では「天皇と幕閣の内輪もめなんて誰得?(意訳)」と記している。

近藤は基本的に幕閣の意向に逆らっている事が多く、今回も天皇の肩を持ち、幕閣に逆らっている。尊攘派から幕府の狗と呼ばれるが、幕臣ではない近藤にそこまで義理は無い。

新選組では2月7日には永倉が2番隊隊長に復帰したが、23日に総長・山南敬助が切腹した。
一説には近藤が攘夷論を捨て、孝明天皇の爪牙となって長州征伐へのめり込む新選組の変貌を止められず傍観する事しか出来ない境遇を儚んで自殺したとも、それを後から記録上切腹という扱いにしたという説がある。他には、連れ戻されてからも永倉たちから再度脱走するように勧められたというが池田屋事件の直前から病に犯されていて、思うように刀を振るえなくなっており、既に覚悟を決めていたため、粛々と切腹に赴いた、という説も。
切腹の際の介錯には山南自ら沖田を希望。その潔い最期は近藤から「浅野内匠頭もここまでではあるまい」と称賛された。

この頃、新選組は壬生が手狭な事を理由に西本願寺への移転を求め、交渉の結果2月28日に西本願寺は要求を受け入れ、3月10日までに移転を終えた。4月5日、土方が江戸で、近藤は大坂で隊士募集の為、それぞれ派遣され、土方は52名を引き連れて5月10日に京都に帰って来た。昨年の近藤が集めた倍以上である。

再び近藤たち新選組は組織を改編し、総勢134名を数えた。この頃から新選組は尽忠報国=尊王攘夷から孝明天皇の御心に従う事が尽忠報国と定義を書き換えた。公武合体による国内の再統一が孝明天皇の御心であり、それに反する者を退治する考えである。それまでに内部の規律違反による処罰はあったが、定義を書き換えた頃から処罰された者が増えている。

改編中の新選組とは別に日本の政局には変化が起きていた。京都から戻った阿部正外が同僚の松前崇広・水野忠精らとともに4月に上洛反対派の老中*37を失脚させ、将軍・家茂を担いで5月16日に3度目の上洛を実施した。昨年12月27日に解兵された長州征伐の結果に不満なのである。
現地の征伐軍総督・徳川慶勝*38や薩摩から派遣された征伐軍参謀・西郷隆盛*39らが現状維持を望む椋梨(むくなし)藤太(とうた)の長州政権と交渉し、三家老*40、四参謀*41を処断、謝罪して一旦は終わったのだが、この方針に反発した高杉晋作(たかすぎしんさく)が下関の功山寺で武装蜂起。高杉が椋梨を打ち破り、長州の主導権は高杉らが握った。

この流れに納得出来ない江戸の幕閣は長州再征伐を実施したが、近畿圏の浪士達が長州再征に反発してテロを計画しているという情報が乱れ飛び、近藤ら新選組は各地に出動して鎮めている。慶応元年(1865)*42閏5月22日、将軍・家茂は二条城に入る。

翌日、近藤は家茂に従って京都にきた松本良順を訪ねている。今度は松本が月末に西本願寺の新選組を訪ねた。水滸伝梁山泊みたいだなぁ、と感心していると、一室にフル◯ンで寝起きしたり、ゴロゴロしている奴がいるが、無作法だなァ、と話を近藤に振ると、近藤は、みんな病人なんだ…3分の1くらいは居る。医者は各自に任せているんだ…と悩んだ顔をしていた。
話を聞いた松本は病室を別に設けて専属の医者や看護者を置き、入浴させて清潔にせよ、と西洋病院の概略を説明した。側にいた土方がたちまち本願寺の集会所を病室に作り替え、浴室に湯桶を並べるなど鮮やかな手並みを見せた。松本が驚くと、土方は「兵は拙速を尊ぶ」と返答した。

松本は更に帳簿を作成し、会津の門人・南部精一(なんぶせいいち)に毎朝回診させ、松本も週2回往診したところ、患者の大半が回復した。

松本が厨房を見ると、残飯や腐った肴を詰めた樽が沢山積み上げられ、不潔であった。松本は近藤に対して、豚を5頭前後飼い、残飯を食べさせ、十分に肥えたなら隊士達がその豚を食べれば、体力がつく。他にも鶏を飼い、残飯を洗って乾燥させ鶏の餌にして、卵や肉を食べさせたら、これも体力がつく、と食育を教えた。
松本が次に訪ねた時には、豚や鶏が飼育され、卵や肉を食べで隊士達の体格が前より逞しくなっていた。隊士達も「松本先生バンザイ!!。食事で外国をバカにするのヤメよう(意訳)」と考えを改めたと言われる。

松本は新選組幹部の山崎烝(やまさきすすむ)に外科の縫合手術を教え、山崎も簡単な刀傷の傷なら対処出来るレベルとなり、負傷者の回復を早め、新選組に大いに貢献した。

西本願寺の建物や境内で肉食、医療行為、軍事教練、違反隊士の処刑などを行う新選組を寺側は苦々しく見ており、「地獄と天国のアンハッピーセットとか誰得?(意訳)」と記している。

この後、近藤ら新選組は将軍・家茂護衛の為、大坂まで警護に就く。幕府は長州と交渉のテーブルにつくように命令するが、長州は無視。
慶応元年(1865)9月16日、これを踏まえて幕府は家茂自ら京都に赴き、同21日に長州征伐の勅命を拝領。どんな形で終戦するのか考えてから戦争してね、という条件付きだった。


兵庫問題や天皇と将軍の関係も落ち着き、国内政治の争点は長州征伐に注目された。長州に無視されている間に幕府内部では長州処分が話し合われ、最終的に松平容保が「天皇の住まいに直接砲弾ぶち込んだ奴は死罪、領地召し上げ」が当然だけど、それを実施したら落とし所が無くなる。西日本の諸大名は落とし所として毛利家親子の命を助ける代わりに、謹慎させ、周防一国を没収するのが妥当だと提案していると報告し、その線で事態を収めるのが一番であると主張し、幕府の方針をまとめた。

まず大目付・永井尚志が広島に赴き、長州側の代表と対談する事になった。対談の結果、長州が条件を受け入れれば終戦。そうでなければ戦争である。戦争準備に時間が欲しい長州は理由を付けて時間を引き延ばす。幕府も手の内を理解しているが、条件を伝えない事には話し合いにならないので、来るのをひたすら待つのみである。

そこで長州に潜入して内情を知る必要がある、という理由で近藤が永井の従者名義で広島に行くのである。慶応元年(1865)10月29日付で小島鹿之助や佐藤彦五郎に宛てた手紙には、上記の兵庫開港問題と長州への潜入を記している。

更に11月4日付で小島、佐藤宛の手紙に「これから長州に潜入する。命がけの大仕事で、長州を論破して必ず降参させてみせる。(意訳)」とあり、引き連れていくのが、武田観柳斎、伊東甲子太郎、山崎烝、尾形俊太郎、吉村貫一郎、服部武雄、芦屋登、荒井唯雄と記している。近藤も帰れないと踏まえ、天然理心流宗家の後継ぎは沖田総司に、残りの事は土方に委ねたので、協力を願いたいと遺書めいた内容になっている。ここに協力者として高杉晋作との主導権争いに敗れて長州を出奔した奇兵隊元惣督・赤禰武人(あかねたけと)がいる。この頃幕府に身を寄せていた。長州の内情に詳しい彼の協力を仰ぐのである。

しかし、広島で永井とともに交渉のテーブルに付いた際、近藤は近藤内蔵之助の変名を用いたが即バレし、入国を拒否された。手を変え品を変えてもダメで、更に岩国まで出かけても入国拒否され、京都に12月22日に戻り、松平容保に報告している。永井も同日、容保に報告している。

上記の赤禰は近藤達と同行するも、途中で分かれて長州に潜入し、かつての同志らと接触して主戦論の転換を図るが、裏切り者と認定された赤禰の言は全く受け入れられなかった。年末に捕縛され、翌年1月処刑された。

慶応2年(1866)1月21日、京都において薩長同盟*44が締結。

薩長同盟そのモノは会津側も把握しており、慶応元年(1865)12月末、会津松平家の納会で公用局員の手代木が「我らに敵う者無し」と公言すると、容保が「この優勢は砂上の楼閣。薩長が手を組み、外国がテコ入れで加担し、西日本の大名をまとめ上げたら、すぐ逆転される。薩長に提携の動きがあると聞く。これを阻止しなければ、天皇と将軍の面子が丸潰れ。公武合体が崩壊し、天下は麻の如く乱れる。分かったら、薩長同盟を阻止しろ!!(意訳)」と家臣団内部を引き締めた。

1月27日、近藤2度目の広島行き。幕府が長州処分を作成し、それを長州に伝えて、長州が認めたら終戦なのだが、当然、長州は受け入れない。交渉するする詐欺で時間を引き延ばす。近藤は2月3日に広島に到着し、情報収集を行う。広島には各地の諸大名から人が派遣されて情報戦を繰り広げていていた。しかし、近藤は新選組局長と身バレして、長州征伐反対派からの情報を思う様に得る事が出来ない。逆に今回も同行した伊東甲子太郎、武田観柳斎に代わり参加した篠原泰之進(しのはらたいのしん)らは近藤に批判的な姿勢を示してから接触したのか、有意義な情報を集めていた。
近藤は情報収集を打ち切り、3月12日に京都に戻る。

留守中の新選組は勘定方の河合耆三郎(かわいきさぶろう)が2月12日、隊費の勘定が合わない罪で切腹。理由は諸説あるが、よく分からない。また、池田屋事件に参加した谷三十郎が4月1日に不審死*45を遂げている。

6月7日、第二次長州征伐を敢行した。


近藤の2度にわたる広島行きも徒労に終わる。新選組が行う京都の巡回区域が広がっただけである。
大坂城内で7月20日、将軍・家茂が亡くなる。
家茂の死後、8月21日に幕府に長州征伐停止の勅命が下る。幕府側に対して長州側は不満タラタラで小倉城、浜田城を占領したまま9月2日休戦となる。家督を相続した慶喜は長州征伐の軍を解散しようと考え、有力諸大名を京都に召集し、幕府の体面を保ちながら、諸大名の会議という形で、長州征伐を収めようとした。諸大名側は慶喜の真意が将軍になる事で長州征伐は二の次と見抜いていて、この会議は成立しなかった。

朝廷に於いては王政復古派の公家が勢力を築き、討幕へ暗躍していた。黒幕は岩倉具視であり大久保利通である。彼らに焚き付けられた大原重徳ら22人の公家は8月晦日宮中に列参して中川宮、二条関白を糾弾。しかし、10月27日に孝明天皇の怒りを買って処分された。

9月12日、幕政批判をする土佐家臣団と斬り合いになった後、同月26日には伊東と篠原が近藤を訪ねて、徳川の先は見えたから、分離したいと申し出て、激論になったとある。この時、分離は認められなかったが、伊東は根回しを行なっていて、永倉や斎藤を連れて飲み歩いて仲良くしていたとも。

12月5日、兵庫開港を条約通り実施すると欧米列強の外交団に宣言し、正二位・権大納言・征夷大将軍に慶喜は任ぜられた。

12月25日、孝明天皇が崩御し、朝廷は睦仁(むつひと)親王(しんのう)(明治(めいじ)天皇(てんのう))が践祚、即位。今までの公武合体が崩壊した。日本中が混沌としていた…

幕臣に取り立て


慶応3年(1867)正月元旦から3日まで、伊東、永倉、斎藤らが島原でどんちゃん騒ぎをして帰隊せず、4日、近藤が連れ戻し、譴責処分を下した。

伊東は1月18日から大目付・永井尚志の九州視察に同行した。ただし、同行は豊後鶴崎(大分市。肥後熊本細川家の飛び地である。)までで、伊東は肥後路から大宰府経由で佐賀へ、永井が日田を経て佐賀に向かう。

2月2日、大宰府に滞在している三条実美(さんじょうさねとみ)ら文久政変で京都出禁を喰らった5人の公卿とそれを護衛する中岡慎太郎土方久元(ひじかたひさもと)ら土佐勤王党の残党らと対談。この時に新選組を離脱して、孝明天皇の墓である山稜の衛士として朝廷に直接仕えたいと伝え、門人の篠原に朝廷へ掛け合うように伝えた。
佐賀で再び永井と合流して長崎まで行き、そこから京都に戻る。伊東が帰る途中、3月10日に朝廷から伊東らが孝明天皇の御陵衛士に任命され、同月12日伊東が帰京。翌日、新選組に顔を出し、御陵衛士の話を切り出すと近藤、土方らはアッサリと認めた。資料により差異はあるが、離脱者は鈴木三樹三郎、篠原泰之進、新井只雄、加納道之助、阿部十郎、内海次郎、橋本皆助、毛内有之助、服部武雄、藤堂平助、富山弥兵衛、斎藤一とされる。
斎藤は近藤が送り込んだスパイで、伊東と仲良く酒を飲んて遊んでいたのは油断させる芝居だとか。
近藤と伊東は分離に際して「互いに引き抜き、受け入れはしない事。来ても追い返す事(意訳)」との約束を交わした。
伊東らは各地を転々として、6月に高台寺を拠点とし後に「高台寺党」と呼ばれた。

6月10日、新選組そのモノが会津預りの浪士団から幕臣に取り立てられた。身分は近藤が御目見以上御取扱(300俵旗本)、土方が見廻組肝煎格(70俵5人扶持)、沖田総司、永倉新八、井上源三郎、原田左之助、山崎烝、尾形俊太郎ら隊長格が見廻組格(70俵3人扶持)、吉村貫一郎、大石鍬次郎、安富才助、岸嶋芳太郎、安藤勇次郎、茨木司、村上清、谷周平ら隊長補佐は見廻組並(40俵)、一般組士89人は見廻組並御雇(7人扶持)の扱いだった。待遇改善は松平容保の推薦によるモノと言われる。武田観柳斎の名前が無いのは、ハブられていたからとか。
近藤はこの件を6月29付の小島、佐藤宛の手紙で記しているが、久しぶりの手紙でもある。故郷の多摩地域も世直し一揆*49に揺さぶられた。小島、佐藤ら天然理心流の門人たちは村落では庄屋などの指導者であり、自腹でミニエー銃などを買い揃え、佐藤の長男・源之助は洋式教練を習い、農兵隊の指揮官を任せられていた。彼らは各地にいる一揆勢を撃退し、力の一端を見せた。

6月12日、茨木司ら10人が脱走して会津屋敷に駆け込み、幕臣化に反対する事を訴えた。13日に近藤らが説得したが、聞き入れらず、14日に茨木ら4人が自刃、残りは逃亡した。

同月15日、西本願寺を出て不動堂村の新屯所に新選組は移る。この新屯所は西本願寺が全額負担で建設したと言われる。新選組にサッサと出てもらいたい為、新選組の要望を全て受け入れた大名屋敷並の邸宅を建てて、お移り頂いたのである。西本願寺は門主から使い走りの小僧まで疫病神が出てくれて嬉しい、と抱き合って喜んだと記録にある。


6月17日、近藤は親藩大名の会議に招かれ、長州征伐を批判するのは、孝明天皇や将軍・家茂の墓を暴き、死体に鞭を打つ行為だと反論し、親藩なら徳川を全力で支えろ!!と主張したのである。

同月24日に建白書を議奏の柳原前光、正親町三条実愛に提出。そこでも公武合体や長州征伐を批判するのは、孝明天皇や将軍・家茂の墓を暴き、死体に鞭を打つ行為と反論している。

その間、22日に武田観柳斎が新選組に殺された。伊東の高台寺党に鞍替えするも、「互いに引き抜き、受け入れはしない事。来ても追い返す事(意訳)」との約束に抵触し、彷徨っていたが、京都で倒幕活動を行っていたことが露見し、京都郊外の鴨川銭取橋にて殺害。

この頃から近藤は剣客から論客への脱皮をはかっている様だった。
永井尚志から土佐山内家の重臣・後藤象二郎(ごとうしょうじろう)を紹介してもらった時、議論は平行線であったが、ウマは合ったみたいで、後藤に大商人になってはいかが?と勧めている。

8月8日、離脱した高台寺党が長州処分寛大論を中心とした建白書を提出。内戦に反対という一点では一致していたが、それ以外は真逆の内容だった。

同月13日、徳川慶喜の謀臣・原市之進が幕臣の攘夷派により暗殺された。幕臣の攘夷派で山岡鉄太郎、高橋謙三郎が唆したと後年、渋沢栄一は記している。

9月13日、中川宮は慶喜へ原の後釜に近藤を推薦する。慶喜の本音は王政復古にあり、それを阻止する為に宮は近藤を監視役にしたかったのかも知れない。その話は流れたが、宮は近藤を自分の懐刀として重用したいと松平容保に提案している。

孝明天皇の住まいに砲弾をブチ込んだ長州毛利家と同盟相手の薩摩島津家へ徳川幕府打倒の口実として討幕の密勅を慶応3年(1867)10月13日に薩摩島津家へ、翌14日には長州毛利家へそれぞれ下した。
同じ日に15代将軍・徳川慶喜が大政奉還、政権を天皇家に返上した。徳川宗家が一大名家になり、一旦は討幕の名目が失われたが、この密勅は両家の内部に存在する出兵反対派を黙らせる為の魔法の合言葉であった。

慶喜は大政奉還の2日前、在京諸大名の代表を二条城に招き、大政奉還の説明会をしている。近藤も参加したが「大政奉還は薩長と越前の謀略なり、一度掴んだ権力を手放すのは幕府の滅亡を意味する」
と強硬な反対論を主張した。

大政奉還後に記した伊東の建白書に朝廷が『大開国大強国』『日本全国皆兵』の国是(国の方針)を打ち出し、朝廷が近畿地方を直接統治して金と兵隊を手にして権力の土台にして、全国の大名家に「富国強兵」を号令する。現実の公卿は役に立たないので伊東の「御陵衛士」や在野の志士を朝廷の人材として登用しましょうと提案している。

慶応3年(1867)11月15日、京都近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎が滞在していた処を京都見廻組に襲われた。坂本はその日に死亡。中岡は襲撃直後は深手ながらもまだ息があり、襲撃から2日後の夜に死亡。この件で新選組と近藤が土佐系に恨まれる事になる。

上記の伊東の建白書を知った近藤は伊東の殺害を決意。
同年11月18日に伊東を呼び出して殺害、油小路七条の辻に伊東の遺骸を放置し、その周りに50人の隊士を伏せ、遺体を引き取りにきた同志をまとめて粛清しようとした。
同日深夜から高台寺党7人が遺体を引き取りに来ると、乱戦になり、翌日深夜3時過ぎまで行われ、3人が死亡、4人が逃亡した。
永倉によれば、この時、浪士組以来の同志であった藤堂平助が高台寺党として斬り合いに参加しており、永倉は近藤から「藤堂はまだ若い有為の材であるからできるだけ助けておきたい」と言付かっていたので藤堂だけは斬らずに道を開けて逃がそうとしたが、事情を知らない若手隊士・三浦常三郎に斬られたという*50
また、子母澤寛は、「藤堂は永倉の深意は汲み取ったものの、かつて(さきがけ)先生と呼ばれた誇りと高台寺党の同志たちを見捨てられないので、新選組に立ち向かって三浦に斬られた」とも説明している。
その後、同年12月18日、高台寺党の生き残りが伏見街道の民家に伏せ、二条城からの帰りの近藤勇を狙撃、右肩に重傷を負わせた。

その間、慶応3年(1867)12月9日、「王政復古の大号令」が薩摩島津家、土佐山内家、越前福井松平家、安芸広島浅野家(42万6千石)、尾張徳川家(61万石)と岩倉具視らにより実施され、幕府、摂関政治の廃止、総裁・議定(ぎじょう)・参与の三職を置き、諸事神武創業の始めに基づき、至当の公議をつくすことが宣言されたが、実際は徳川慶喜が日本国大君として外交権、土地、金を握ったままだった。

当日夜の小御所会議にて薩摩の大久保利通は慶喜の辞官納地を主張し、会津と桑名を京都守護職、京都所司代を廃止した上で帰国させる勅命を出し、言う事を聞かなければ、朝敵として討つという提案を岩倉具視に提出している。

最期


慶應4年(1868)1月3日、鳥羽街道と伏見の市街地ほかで行われた鳥羽伏見の戦いで薩摩島津家、長州毛利家の洋式軍隊に完膚なきまでに敗れた徳川方。

大坂城にいた徳川宗家当主・徳川慶喜*51松平容保*52松平定敬*53板倉勝静*54ら僅かの供を連れて軍艦・開陽に乗り込み、大坂天保山沖から江戸に夜逃げした

鳥羽伏見の戦いは土方歳三が新選組を率いて戦い、井上源三郎、山崎烝などの隊士が戦死し、新選組は大打撃を受けた。
大坂城内で敗走した徳川方の要人に近藤は「殿はオレに任せろ!!」と名乗り出たが、相手にされず徳川海軍に連れられ敗走。

王政復古後、上洛して京都に成立した薩長を中心にした太政官は西日本各地を平定した後、苦汁を呑まされた一会桑の3者、徳川慶喜、松平容保、松平定敬の3者を朝敵とし、東征軍を進発。これを聞いた徳川慶喜は最終的に太政官にウケの良い大久保一翁を最高責任者に任命し、川勝広運、服部常純を若年寄、軍事取扱に就任した勝海舟に交渉の全権を委ねた敗戦処理内閣を組閣。慶喜は2月12日、武力抵抗を諦めるとの態度を鮮明にし、上野寛永寺の大慈院に移って謹慎する。同じ日に近藤は江戸城に呼び出され、遊撃隊*55と交代で慶喜の身辺警護を命じられる。この警護は25日まで行われ、この日に解任されている。同時期、徳川直轄領の各地で脱走、反乱が相次ぎ、28日に近藤は江戸城へ呼び出され、大久保一翁から甲府城の鎮撫という名目で新選組を中核とした甲陽鎮撫隊の結成を認めて貰い、甲府城を目指した。この時、近藤は名前を大久保剛、土方は内藤隼人と改めている。

俗説では近藤らは道中、宴会をしながら行軍をしたとあるが、近年の説では、江戸を出発前に天然理心流のパトロンや門人に檄文を記し、参加を促している。時間稼ぎの為に宴会をしていたとも。結局のところ、佐藤彦五郎のみ参加しただけで、他の門人たちは準備途中であったと言われる。

対峙した板垣退助指揮の土佐兵は副将の谷干城に言わせると、ミニエー銃の弾込めが辿々しい、弾を逆さまに装填するなど、未熟ぶりが目立っていた。近藤指揮の鎮撫隊は元込め銃を豊富に所持していたが*56、鳥羽伏見の戦死者を補充したばかりで、軍としては烏合の衆であり、大砲の弾込めも怪しいという体たらくで五十歩百歩であった。

慶応4年(1868)3月6日に行われた甲州勝沼の戦いは太政官の勝利となり、近藤らは江戸へ敗走。軍事取扱の勝海舟から叱られたが、めげずに再戦を目指す事にした。この過程で近藤と永倉、原田の関係がギクシャクして、2人は離脱した。

その後、近藤は大久保剛から大久保大和に名前を改め、各地を転々とし、流山で拠点を構えたが、同年4月3日の昼、流山の本陣が太政官側に包囲された。

朝から新選組の大半は訓練で出払っていて、残っていたのは近藤、土方ら十人前後。

生き残りである近藤芳助の記録では、近藤は切腹を覚悟したが、土方が板橋の太政官総督府まで出頭し、鎮撫隊である事を主張し通した方が良かろうと奨めた、とある。


素性を隠し出頭したが、御陵衛士の生き残りである加納道之助(鳶雄)や、かねてより坂本龍馬と中岡慎太郎の暗殺を新選組による犯行と信じている水戸出奔で、当時東山道軍総督府大軍監を務めていた香川敬三らに正体を見破られた。それでも太政官側は徳川宗家に身分照会を行ったが、徳川宗家は「大久保大和なんて徳川宗家にいません。殺したければ好きにして下さい。それであなた方の鬱憤が収まるなら安いモノです。(意訳)」という返答だった。
慶応4年(1868)4月25日、板橋で斬首。首は三条河原に晒された。

近藤の墓は4箇所存在する。親族が埋葬した三鷹の龍源寺 。
会津の天寧寺に土方歳三が遺髪などを持っていて会津戦争の折、前当主・松平容保*57が貫天院殿純忠誠義大居士の戒名を送りここに埋葬したと言われる。
米沢城下の高国寺(こうこくじ)に近藤金太郎(近藤のいとこ)が、近藤勇の首を持ち帰り埋葬したという伝承があり、境内に近藤勇の墓所が存在する。
永倉新八が発起人となり、東京滝野川の寿徳寺に松本順*58や藤田五郎と名乗っていた斎藤一の協力を得て明治9年(1876)に建てられた。箱館戦争で戦死した土方歳三の墓も合わせて作られた。
永倉本人は大正4年(1915)に亡くなったが、昭和4年(1929)に永倉の墓も同じ敷地に建てられた。



近藤勇とは?

簡単に言えば洋学の知識で庶民、陪臣が幕臣に取り立てられる道は開けていたが、刀一本で幕臣に取り立てられるのは新選組以外見当たらない。徳川幕府万歳と言って武士になりたいと願う庶民にとっては輝ける登竜門。

江戸の町道場の道場主が新選組の局長で慶應3年(1867)には幕臣に取り立てられ、旗本で200人の剣客を率いる1万石相当の武装集団のボス。慶應3年10月の大政奉還の説明会に近藤は出席していた。

攘夷にあれだけこだわった近藤が孝明天皇が崩御してから、徳川体制護持に回ったのは、彼の働きを徳川体制が認めたからで、良きにせよ悪しきにせよ出自の低さを努力で補い出世した人物であり、見廻組の佐々木只三郎ではないが、
「現体制下で様々な不条理に耐えてようやく出世した人物にとっては、徳川幕府よりむしろ現体制の破壊者である清河、坂本の方を憎悪することになるのではないか」
という考え方になったのだろうか。


近藤や土方らが浪士組に参加した文久3年(1863)春は、日本中が攘夷に狂っていた時期だった。当時、論客として暗躍していた浪士・清河八郎は「東日本は開国後の物価と為替の変動で大衆は苦しんでいる。これを幕府の失政と叩いて、外国人排斥=攘夷に結びつけるんだ。西日本は東日本ほど物価の変動に苦しんでいないが、疫病や地震で大衆は苦しんでいる。これは為政者たる将軍の行いが悪いからで、天皇に世紀末救世主として君臨した方が大衆は救わると御一新=尊王と結びつけるんだ(意訳)」と遊説する地域の事情を考えていた。

明治の日本資本主義をリードした渋沢栄一は同じ武蔵国で多摩地域より北に位置する榛沢郡血洗島村(埼玉県深谷市)の裕福な農家出身だが、近藤同様に熱心な『尊王攘夷』論者で、文久3年に横浜を焼き討ちして外国人を斬るというテロ計画を親戚や親友と本気で考え、物資を準備していた。強烈な攘夷思想の度合いは近藤、渋沢ともに同じである。農家、幕臣になるという経緯も一緒である。

その渋沢と近藤は接点があり、渋沢の近藤評は「会って見ると存外穏当な人物で、(いささか)も暴虎馮河の趣などは無く、よく事理の解る人であった。しかし近藤は飽くまで薩摩を嫌いな人で、薩州人とは俱に天を戴かざる概を示しておったものだから、薩州人に対してのみは過激な態度を取ったりなぞしたので、一見暴虎馮河の士の如くに世間から誤解せらるようにもなったのである」
としている。

家族、親族のその後。


妻・つねは明治25年(1892)7月20日死去とある。
近藤の死後、再婚を勧められても応じる事は無かったとある。
反面、何度か自殺未遂を試みた事も。
近藤との間に娘・たまを産んでいる。

義父・周斎は慶応3年(1867)10月28日、江戸牛込にて死去。

娘・たまは文久2年(1862)生まれ。近藤の実家・宮川音五郎の次男・勇五郎と明治9年(1876)結婚し、勇五郎が近藤家の家督を相続した。明治13年(1883)、嫡男・久太郎を産んでいる。明治19年(1886)6月28日、死去。

嫡男・久太郎は明治38年(1905)の日露戦争に従軍し、戦死した。妻子はなく、近藤勇の嫡流子孫は途絶えることとなった。


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最終更新:2026年05月11日 17:07
添付ファイル

*1 目線を動かしたり、切っ先を揺らして相手の反応を見る。

*2 剣気と呼ばれるモノ。

*3 それ自体、滅多にない事だが。

*4 肥前大村(3万石)・大村家家臣。維新後、子爵。

*5 「桜田門外の変」の1ヶ月前に清河が結成。目的は外国人を日本から追い払い(攘夷)、天皇を中心に国家をまとめる(尊王)ことであった。“国を守るためなら虎の尾を踏む危険も恐れない”という意味が込められている。主なメンバーは幕臣の山岡鉄太郎、松岡万、薩摩の伊牟田尚平、益満休之助など約15〜20名が名を連ね、横浜外国人居留地の焼き討ちを計画し、万延元年(1860)12月にはメンバーの伊牟田らがアメリカ公使館通訳のヒュースケンを暗殺した。これが外交問題となり、清河らはお尋ね者になった。

*6 殿様の父親という意味

*7 後の15代将軍・徳川慶喜

*8 幕府の通商条約を認め、積極的に海外貿易で金を稼ぎ、富国強兵を行い、日本をアピールするモノ。攘夷派の鎖国論も初代・家康は開国論であり、3代目・家光がキリスト教を遮る為の方便として一時的に用いたモノで祖法ではない、オランダや清国とは長崎で交易をしていると事実を挙げて論破している。

*9 幕府の開国論は戦争を避けたいの一点張りで、これではダメだ。外国に追い付き追い越すには実際に外国の実力を知らなければ成らない。その為には戦争で実力を知り、日本人に攘夷が厳しいという事を理解させる。そうした上で留学生を送ったり、西洋文明を受け入れ、外国との条約もこの状況で行うべきと言う考え方。

*10 前任の松平忠敏は体調不良により辞職。

*11 「天狗党の乱」は芹沢の死後に起こっているが、前身にあたる過激派の「玉造勢」に在籍していた。

*12 長州毛利家・水戸徳川家の攘夷派が結んだ「丙辰丸の盟約」。これに基づき、文久2年(1862)1月15日に水戸を出奔した攘夷派が老中・安藤信正を襲撃した坂下門外の変を引き起こしている。長州は内輪もめで呼応しなかった。

*13 これには生麦事件や長州の外国船砲撃事件が含まれる

*14 公使オールコックは休暇中。

*15 朝陽丸事件

*16 尊攘派が政権奪取を企図した攘夷親征の行幸計画。具体的には孝明天皇が大和の神武陵・春日社に行幸し、親征の軍議を行い、伊勢神宮に参宮するというもの。真木和泉らは長州毛利家を動かして天皇の攘夷親征・王政維新を企て、討幕の機運を作ろうとした

*17 攘夷派公卿の前侍従・中山忠光を主将に迎えて発生した武装蜂起。土佐出奔の吉村寅太郎(よしむらとらたろう)、三河出奔の松本奎堂(まつもとけいどう)、備前出奔の藤本鉄石(ふじもとてっせき)らが主導。文久政変で攘夷派の公卿は失脚。大和行幸は偽勅とされ、天誅組は逆賊として孤立し、幕府の追討を受けて壊滅した。

*18 孝明天皇の政治顧問。当時、島津家と仲が良かった。

*19 墓碑では9月18日となっているが、9月16日とする説もある。

*20 各地を流浪して維新の乱世を生き残り、岩手県で養蚕教師に就任し「諏訪部重助」と改名して明治23年(1890)まで生存していたという説がある

*21 因みに江戸の幕臣達から会津は島津の仲間と思われていた。要は島津からも幕府からも信用がないのである。

*22 俗に言う一会桑権力。

*23 徳川体制を改めて、朝廷の下、立法は諸大名の代表が集まり国内の問題を討議し、諸大名の家臣から選出した人達が官僚として行政を行う体制。

*24 改元は2月20日

*25 吉田松陰の親友

*26 松陰門下生。久坂・高杉と並んで松下村塾の英才として松蔭から高く評価されていた。同門の品川弥二郎は生きていたら総理大臣になったと語り、近藤勇もその最期を見事だと讃えている。

*27 沖田は体調不良、後に病気と判明。藤堂は重傷により離脱。

*28 刀を1回打ち合うことを1合と呼び、ざっくり言えば、2回チャンバラをすれば近藤が斬り殺していた。

*29 二人とも、逃げられないと悟り自刃している

*30 後に幕臣・小野友五郎が元治元年(1864)12月に広島、大坂、兵庫と情勢視察の為に派遣。兵庫住民からの陳情もあり、勝の私塾や神戸軍艦操練所が慶応元年(1865)3月に反社の溜まり場という理由から閉鎖された

*31 小姓組や新番組(将軍親衛隊の書院番の下に就く兵隊。)の平隊員の第一人者。

*32 吉田松陰の師匠でもある。信濃松代真田家(10万石)家臣。

*33 厳密には長州の分家筋の領地

*34 京都に来た直後、壬生の屯所跡に落書きのような字で「会津預り 新選組 近藤勇」と書かれていた。数年後、手紙に記された近藤の字は別人の如く達筆であった。字の下手さをバカにされ、京都に来てから毎日2時間、雨の日も風の日も斬り合いの後でも、写本をしながら字を上達させ、周りから三国志の呂蒙みたいだ、と言われる様になった。

*35 後でスパイ活動で暗躍したり、戊辰戦争で洋式軍隊の指揮官を務めるくらいに勉強した。

*36 天狗党は12月17日に加賀前田家に降伏。第一次長州征伐は12月27日に解兵。

*37 稲葉正邦・諏訪忠誠・牧野忠恭ら

*38 尾張徳川家元当主。尊攘派の家臣に担がれている為、長州に同情的である。

*39 長州征伐派だったが、元治元年(1864)9月、大坂で勝海舟と対談し、幕府はオワコン、大名連合の方がマシと告げられ、長州征伐を最小限の被害者で留める事にした。

*40 国司信濃、福原越後、益田右衛門介

*41 宍戸左馬之介,佐久間佐兵衛,竹内正兵衛,中村九郎

*42 4月7日、慶応元年に改元

*43 一会桑の取り成しで改易から謹慎に変更

*44 朝廷や幕府に対して長州の正義を遮る一会桑政権が敵と明記されている。薩摩も長州も会津のせいで不利益を被った被害者同士、会津が強硬論を吐いていると世論を誘導。薩摩は武器を供与し、長州が米で支払うなどを、木戸孝允が坂本龍馬に宛てた薩長同盟を記した手紙の裏書きに記されている。

*45 その最期も病死説や自害説など諸説ある

*46 慶応元年(1865)2月、軍艦と運送船を区別する為に軍艦の名称には丸を付けない事を布告している。咸臨丸はこの段階では軍艦ではなく運送船。

*47 慶喜に手駒の兵隊が少なく、在京の水戸徳川家から借りていたが、彼らは天狗党の系譜で長州に同情的だった。

*48 後の徳川家達

*49 慶応2年(1866)6月13日に武蔵国飯能付近で発生した世直し一揆。金持ちを貧乏人に叩き落し、貧乏人の気持ちを分からせる(意訳)というのが目的だった。同月19日までに幕府軍、幕府に味方する農兵隊らの協力により鎮圧された。参加人数10万人。202の村落を襲い、532の家屋を破壊した。

*50 なお、三浦はこの事件の後に、平助から膝を斬られて負傷したことにより亡くなっている。永倉によれば、「膝の傷こそ浅かったが、自身が斬り殺したのが先輩の藤堂であったことを知り、罪悪感に苛まれて神経症を併発し、亡くなってしまった」と説明されている

*51 日本国大君として国家元首を外国公使に宣言している

*52 前京都守護職

*53 前京都所司代

*54 首席老中

*55 軍制改革で成立した徳川家臣団による将軍警護隊。文武両道のエリートによって構成。

*56 元込め銃550挺、大砲14門、軍用金約7800両と200名の部隊に与える量として過大である。途中で追加募集するとしても。

*57 水戸徳川家から養子に入った、徳川慶喜の弟が慶応4年(1868)2月4日、容保が敗戦の責任を取って引退にした事で喜徳(のぶのり)が家督を継いだ。直ぐに容保が後見人に就任したから意味は無くなったが…

*58 維新後の松本良順の名前。戊辰戦争では会津で医者として活躍した後、降伏。後に陸軍に出仕し陸軍初代軍医総監(陸軍少将相当)となる。