芹沢鴨(新選組)

登録日:2024/06/29(土) 06:00:00
更新日:2024/12/17 Tue 14:39:30
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芹沢 鴨(せりざわ かも)

生年不明~文久3年(1863)9月16日没。
諱は光幹(みつもと)
芹沢鴨は変名。
旧名は下村嗣次(しもむらつぐじ)

概要

幕末に浪士組に参加した尊皇攘夷の志士。
後に新選組筆頭局長。
文久政変後、謀殺された。

略歴

水戸時代

文政十年(1827)、天保元年(1830)、天保三年(1832年)と誕生年が複数ある。

常陸国多賀郡松井村(現北茨城市中郷町松井)の神官下村祐(しもむらゆう)の実子で、松井村の出生と言われる説と、
もう一つは常陸芹沢村豪族、芹沢家の当主貞幹(さだもと)の三男として生まれたもので、のちに松井村の神官である下村祐斎(しもむらゆうさい)の婿養子となり、下村嗣次と称したのがある。

いろいろ名前はあるが、この項目は芹沢でまとめます。

若い頃から剣の才能があり、戸賀崎熊太郎(とがさきくまたろう)から神道無念流剣術を学び、免許皆伝を受け師範代を務めたとされる。

芹沢は水戸徳川家の尊皇攘夷*1に感銘を受け、それを実行するべく、万延元年(1860年)頃、武装蜂起する側の天狗党*2の前身である玉造村の文武館を拠点とした玉造組に参加。

横浜で攘夷を決行するため、近辺の豪商や豪農に資金集めを名目とした恐喝に奔走した。

玉造勢は
「無二無三日本魂」
「進思尽忠」
と大書した幟を掲げて調練を行っていた。

芹沢は佐原村(現千葉県香取市佐原)で恐喝を行い、名主伊能権之丞(いのうごんのじょう)を鉄扇で殴打した。

徳川家の直轄地でも攘夷を口実とする恐喝が横行したことにブチ切れた幕府は水戸徳川家に攘夷論者弾圧を指示するように介入。
玉造組は捕縛された。

文久元年(1861)年3月28日、遊女いろ八(色橋)と屋敷にいたところを捕縛され、同日入牢した。

水戸徳川家から、翌文久2年(1862年)9月16日に
「引廻之上斬罪之所御大赦に付於牢屋斬罪梟首之事」
との処分を受けたことが判明している。

文久2年(1862)11月、天狗党の朝廷工作が功を奏し水戸徳川家の政権を奪取。

安政の大獄に関わった政治犯の釈放を目的に大赦令が出され玉造組も出獄することを許され、翌文久3年(1863)1月初旬に出獄することを許された。

この時、名を芹沢鴨に改めた。

芹沢鴨への改名の由来は、今ならカモに合うものといえばネギだが、江戸時代中期から幕末まで、ほぼ毎年刊行されていた川柳の句集である誹風柳多留(はいふうやなぎだる)*3には
「カモに合うもの」
の代表として
「芹の上 鴨昼寝して うなされる」
と詠まれている。

つまり芹に合うものといえば当時は鴨だったので、芹沢鴨と名乗ったのです。

一種のダジャレである。

京都時代

約1か月後の2月5日、清河八郎(きよかわはちろう)の政治活動や、松平忠敏(まつだいらただとし)の周旋により幕府が組織した浪士組に新見錦、平山五郎(ひらやまごろう)野口健司(のぐちけんじ)平間重助(ひらまじゅうすけ)等を伴い参加し、六番組小頭に任命された。

その際に江戸の剣術道場試衛館(しえいかん)近藤勇(こんどういさみ)土方歳三(ひじかたとしぞう)沖田総司(おきたそうじ)山南敬助(やまなみけいすけ)らも加わり、京都まで一緒に行動した。

同月23日、京都に到着し、壬生の郷士・八木源之丞(やぎげんのじょう)の屋敷に宿泊。

その頃、将軍の警固のため上洛した浪士組を尊王攘夷の先鋒とするため、創設者の清河八郎は、朝廷に上奏文を提出して、浪士組を朝廷の直属にすることに成功した。
子飼いの池田徳太郎(いけだとくたろう)
「君の首すじも細くなったなあ・・・」
と反対したが。

同月29日、清河が新徳寺に同志を集め攘夷の決行のため江戸帰還を宣言すると、芹沢や近藤はこれに反対し、京都残留を申し出て脱退。

このときに残留を決めたのが芹沢の同志5人と近藤の同志8人の合計13人だった。

これに殿内義雄(とのうちよしお)根岸友山(ねぎしゆうざん)らが合流。

同年3月10日、芹沢・近藤ら17人の連名で京都守護職を務める会津松平家に嘆願書を提出。

会津側は彼らを「御預かり」に決める。

芹沢らは八木邸を屯所として(後に前川家と南部家にも寄宿)この前後より「壬生浪士」と呼ばれ始めた。

その際、内部抗争が起き、26日に殿内が暗殺され、根岸も同志とともに離脱すると、壬生浪士は芹沢派と近藤派が牛耳ることになった。

のちに芹沢・近藤・新見が局長となり、そのうちで芹沢が筆頭となった。

後に治安維持で活躍した印象の強い「壬生浪士」だが、会津側の当初の意図は遅れて京都デビューした会津は会津訛で京都の人と言葉が通じない、京都の公卿方にコネがない、他所の浪士や他の大名家の家臣とのコネも余りない、と当主•松平容保(まつだいらかたもり)が守護職就任拒否理由の条件の一つに、コネクションやコミュニケーションが著しく欠けている、と挙げたが、それを補う為である。

芹沢たちは会津武士よりは言葉が通じるし、水戸徳川家の名前を出せば、背後の有栖川宮(ありすがわのみや)の名前が使えるし、恐喝のプロとして活動するくらいに度胸もある、攘夷思想を背景にした会話も出来る、神道無念流の肩書を持っているので、他の大名家の家臣との対話も容易に出来るなど、生きた通訳として重宝された。

同年5月25日には、同志全員の筆頭として松平容保に攘夷実行の上書を提出した。

同年6月3日、芹沢ら10人が「不逞浪士」取り締まりのため再び大坂へ下った。

途中、すれ違った小野崎部屋の力士が道を譲らなかったため、芹沢らは暴行を加えた。

その行為に怒った力士の仲間が駆けつけ乱闘となり力士側に死傷者が出たが、小野川部屋の年寄が壬生浪士組に50両を贈り詫びを入れる事で収まった。

同じ6月には近江水口加藤家の公用人が会津松平家公用局に芹沢の振る舞いはヒドいと訴えると、芹沢が、永倉新八(ながくらしんぱち)原田左之助(はらださのすけ)井上源三郎(いのうえげんざぶろう)武田観柳斎(たけだかんりゅうさい)の4人を差し向け、当事者の身柄引き渡しを加藤家に求めた。

加藤家はこれに驚き、担当の公用人が平身低頭謝罪し、詫び証文を書いて、その場を納めた。

詫び証文を書いたことが殿様の耳に達せば、事と次第によれば公用方の断罪も逃れられなくなる。

そこで二条通りに直心影流道場を開いている戸田一心斎(とだいっしんさい)を通じ、証文の返却を依頼した。

新選組側より
「会議の場所を提供すればそこで返却する」
との回答があった。

体のいい宴会の要求である。

芹沢は証文を返すこととなり、嶋原の角屋で宴会が開かれたが、芹沢はそこで大暴れをして店主の角屋徳右衛門(すみやとくえもん)に迷惑を掛けた。

同年8月13日、一条通葭屋町下ル福大明神町の大和屋庄兵衛(やまとやしょうべい)宅が壬生浪士の金策を謝絶。

西村兼文(にしむらかねふみ)(新選組が屯所を置いた西本願寺の寺侍)の『新撰組始末記』や、筆者不詳の『新選組浪士始末』は大和屋が外国向けに生糸を輸出して大金を獲たと嗅ぎつけた芹沢が大和屋に直談判して金をよこせ!その金で攘夷をして還元してやるから、と話し、大和屋が
「水でもかぶって反省しなさい!」
と返答したら、芹沢が腹を立てて放火、刀を抜いて京都町奉行所や京都所司代の火消を寄せつけず、一晩かけて焼き尽くし、
「天にかわっておしおきよ!」
と高笑いしていた。

同じ日に大和行幸の詔*4が出され,同時に長州毛利家当主•毛利敬親(もうりたかちか)に上京が命じられた。
諸大名へ行幸供奉(ぐぶ)、軍用金献納が命じられた。

同年8月17日に大和国五条で天誅組の変*5が勃発した。


長州毛利家と彼らに担がれた公卿たちは、大衆に対して生活苦が開国と貿易による物価高に有ると広言*6

また、知識人達には徳川幕府の外交を国辱的と詰り*7、現在の通商条約を破棄して欧米列強と戦争し、その後の談判で新しい条約を定めるという
破約攘夷論(はやくじょういろん)」を振りかざし、世論を攘夷へ向けるべく全力疾走。

孝明天皇(こうめいてんのう)が外人を先入観から毛嫌いしているのを上手く扱い、孝明天皇から毛利家へ陣羽織を下賜、対外戦争は長州にお任せ!という雰囲気を作った。

長州も自国の海域を通行する外国船に手当たり次第砲撃を行い「帝に代わってお仕置きよ!
とアピール。

他の諸大名や公卿たちは
駄目だこいつ……早くなんとかしないと……」と結束*8*9

会津松平家家臣•鈴木丹下(すずきたんげ)の「騒擾日記」によれば、八月十八日の政変に際して、御所の警備のために隊士を率いて出動するが、御門を固めていた会津武士たちは壬生浪士を知らなかったため、槍を構えて通そうとしなかった。
「通せ」
「通さぬ」
と双方が押し問答となる中、芹沢は哄笑しながら歩み出たため会津武士が槍を突きつけると、愛用の鉄扇でその槍を悠々と煽いだという。

その場を収めたが、芹沢は悠然と門を通っていき、人々は彼の剛胆さに驚いたという。

この時の働きで新たな隊名新選組を拝命する。

隊名は武家伝奏から賜ったという説と、松平容保から賜ったという説の2つがある。

後者の説は、会津松平家当主の警備部隊名を容保からもらったという意味になる。

粛清

文久三年(1863)9月、芹沢が夢中になっていた吉田屋の芸妓小寅(ことら)がヤラせてくれなかったので、ブチ切れた芹沢が吉田屋に乗り込み、店を破壊すると主人を脅して、小寅と付き添いの芸妓お鹿を呼びつけ罰として2人を断髪させる狼藉を行なった。

同月13日、芹沢は土方、沖田らと水戸徳川家の主君筋である一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)*10の母方にあたる有栖川宮家を訪れ、新選組の交名と、

「警衛の用があれば何事に限らず申し付けてください」

と記した書付を渡した。

会津松平家が京都での陣容、特に公用局に目処が着いたので、今までは芹沢の振る舞い*11も目を瞑る感じで見ていたが、長州毛利家やその取り巻きの公卿達は京都を去り、利用価値が激減したので近藤らに殺害を命じた。

会津松平家の公用局は当主•松平容保の頭脳集団として京都守護職として上洛してから2週間で新設。

身分にこだわらず、活力が有り、学問と仕事の出来る人材をかき集めた。

創設当時から公用局を引っ張ったのは野村左兵衛(のむらさひょうえ)(慶應3年6月22日病死)、外島機兵衛(とじまきへい)(慶應4年3月30日病死)、小森久太郎(こもりきゅうたろう)(明治4年病死)の三人。

主な仕事は当主の諮問を受けた事柄に関して評議を行い、そこで出た結論を京都詰の家老に申し上げ、家老と一緒に当主の面前で報告する。

但し、対応を急ぐ場合、当主の面前で討議がなされた。

この後、江戸、国急ぐ場合、京都のみで決定し、江戸、国許には事後承諾という形が取られた。

当主や家老が公用局の意見に反対する事はまずなく、公用局の意見=会津松平家の公式見解だった。

公武合体のつなぎ役として朝廷側で孝明天皇、中川宮、二条関白からの相談、幕府側で老中、京都所司代、京都町奉行からの相談や通知を当主に取り次いだり、相手に提出する意見書の草案を作成したり、会津側の意見を相手に伝えた。

浪士組や他の大名家とのトラブルにも駆り出され、解決に奔走したり、中川宮家に家臣を貸すなどして連帯を強化するなども。

公用局で働いていた広沢富次郎(ひろさわとみじろう)の記録では、評議の内容は連帯責任で徹底して話し合うのが普通で徹夜で議論しても話がまとまらず、胸ぐらをつかむ、闘論になるなども日常茶飯事。

それでも評議の内容が定まると、当主に言上、承諾を得た。

場合によっては公用局が容保の意見に反論し、容保がその意見を受け入れた事例もある。

連帯責任を証言しているのは他にも柴秀治(しばひではる)手代木直右衛門(てしろぎすぐえもん)も自伝で認めている。

独創性は無いが事務処理能力が高い人達が揃っており、朝廷、幕府の双方から重宝された*12

文久政変は孝明天皇から中川宮(なかがわのみや)を経て、薩摩島津家の高崎左太郎(たかさきさたろう)(正風)と会津松平家公用局員の秋月悌次郎(あきづきていじろう)(胤永)を中心に行われた。
高崎が同家家臣の重野安繹(しげのやすつぐ)から江戸の昌平黌に在籍していた時、重野と秋月が仲良しだった事を聞き、そのツテで秋月を訪ねたのが文久政変の始まりだった。

芹沢が一枚でも噛んでいたら、彼の人生も変わったかも知れないし変わらなかったかも知れない。

最期

9月16日あるいは18日*13新選組は島原の角屋で芸妓総揚げの宴会を開いた。

芹沢は壬生の八木家で二次会を催したため、泥酔していた芹沢は刺客たちによってたかってずたずたに斬りつけられ、あっけなく落命した。同じ部屋にいた平山も斬られたが、離れた部屋にいた平間は逃亡し、そのまま行方不明となった*14

事件は長州側の仕業とされ、同年9月18日(あるいは20日)に芹沢と平山の葬儀が神式に則り盛大に執り行われた。20日に近藤は芹沢と平山が「変死」したことを記した手紙を郷里多摩の佐藤彦五郎(さとうひこごろう)へ送っている。

創作での芹沢

芹沢は写真や肖像画が残っていない*15が、新選組に自身の邸宅を屯所として貸し出した富裕郷士・八木源之丞の子息の八木為三郎の証言によれば、背が高くでっぷり太っており、色白で目は小さかったらしい。

豪傑肌の一廉の人物で、常に
「尽忠報國の士 芹澤鴨」
と刻まれた鉄扇を手にしていた豪快キャラ。

酒豪で、昼間から飲んでおり、酔っていないことはなかったと言われるほどのアル中キャラ。

手のつけられない凶暴な悪漢のように描かれることが多く、大坂で小野崎部屋カ士を斬り捨てた事件では肩からへそまで一刀両断し、その斬り口があばらを砕くほど凄ましいパワーキャラ

芹沢は屯所として世話になっている八木邸にて子供の葬式があった時は受付を引き受け、子供たちが退屈しないよう面白い絵を描いて一緒に遊んだり、面倒を見たりと子供には慕われていたいう一面を持つ。

良く言えばガキ大将がそのまま大人になったような人物というか、鷹村守が幕末に転移するとこんな感じ。

『維新の嵐 幕末志士伝』での芹沢鴨の剣術の値は193。
恐喝を繰り返した経験が反映されて戦闘経験は3008と高い。

新選組内では近藤が186、永倉が192、斎藤が191、沖田が195、とあり、倒すのに面倒臭いというのが反映されている。

一番は千葉周作(ちばしゅうさく)*16の200、次点は山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)服部武雄(はっとりたけお)の199、その後は桂小五郎(かつらこごろう)*17の197、榊原鍵吉(さかきばらけんきち)*18の196、沖田、桃井春蔵(もものいしゅんぞう)*19の195、河上彦斎の194、男谷精一郎(おだにせいいちろう)*20、芹沢の193。

ちなみに山岡鉄舟との試合で、山岡の得意な突きを三回かわし、四回目の突きを払い除け、山岡の竹刀が飛んで天井に突き刺さり、
「大したことないなぁ〜、出直して来なよ」
と微笑んで山岡を完封した伊庭八郎*21は162。



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最終更新:2024年12月17日 14:39

*1 俗に言う水戸学。古事記、日本書紀の建国神話に始まる歴史を天皇の権威として扱い、権威を護るには民の心を一つにする必要性を論じ、君臣上下が各人の社会的責任を果たしつつ、忠愛の誠によって結びついている体制を国体とし、国民が職分を全うしていく心が天地正大の気であると説く。天地正大の気こそ建国以来の国体を支えてきた日本人独自の精神であり、危ない時にこそ天地正大の気を発揮して、内外の統一を強め、国体の危機を打開しなければならない。しかし開国以後、徳川幕府に天地正大の気を達成する能力が失われてしまったことが明らかになるにつれ、水戸学は反幕的色彩が濃くなり、天地正大の気を達成する国体を新たに求めることになる

*2 天狗党には激派、鎮派が存在する。武装蜂起したのが激派

*3 徳川時代中期〜幕末まで、ほぼ毎年刊行されていた川柳の句集

*4 尊攘派が政権奪取を企図した攘夷親征の行幸計画。具体的には孝明天皇が大和の神武陵・春日社に行幸し,親征の軍議を行い,伊勢神宮に参宮するというもの。真木和泉らは長州毛利家を動かして天皇の攘夷親征・王政維新を企て,討幕の機運を作り出した

*5 攘夷派公卿の前侍従中山忠光を主将に迎えて発生した武装蜂起。土佐出奔の吉村寅太郎、三河出奔の松本奎堂、備前出奔の藤本鉄石らが主導。8月18日の政変で攘夷派の公卿は失脚。大和行幸は偽勅とされ、天誅組は逆賊として孤立し、幕府の追討を受けて壊滅した

*6 海外と実際に貿易をすると、お金の価値に違いが出て、海外は金1:銀15、日本は金1:銀5の差がある。輸出すると国内の取引より3倍のお金が稼げる。日本国内で銀を使うと3分の1のお金で買える。これが急激な品不足を生み出した。お金は徳川幕府が今までの3分の1の価値しかないお金を作り出し、金や銀の流失は防いだが、新しいお金に合わせて物の値段が3.3倍になった。商人は値段に転嫁すれば良いが、他の職業は給与が決まっているので、支出が増え、生活は苦しくなった。長州系の人達は攘夷をして鎖国に戻せば貿易と物価高は無くなるから生活は元に戻ると力説した

*7 俗に言う城下の盟

*8 一番最初は江戸の幕府が西洋式軍隊を投入して、京都を包囲して孝明天皇に開国和親の勅許を出させる。認めなければ孝明天皇を承久の乱の後鳥羽上皇みたく島流しにすると広言したので、京都の幕府側、諸大名がブチ切れて一触即発の事態になった。当時、京都にいた将軍・家茂が軍隊を宥めながら江戸に連れて帰ったので、何事も無かった

*9 次が薩摩島津家と福井松平家によるクーデター計画があったが、島津家は薩英戦争で忙しく、福井側は島津家がヤらないなら福井単独だとリスクが高すぎると二の足を踏みとん挫。三番手が京都守護職を務める会津松平家と薩摩島津家による有名な八月十八日の政変

*10 後の15代将軍•徳川慶喜

*11 恐喝同然の金集めやヤラせてくれない芸妓への狼藉など

*12 公用局員の秋月悌次郎や手代木直右衛門は戊辰戦争後、太政官に中堅官僚として雇われて働いている

*13 墓碑では9月18日となっているが、9月16日とする説もある。

*14 各地を流浪して維新の乱世を生き残り、岩手県で養蚕教師に就任し「諏訪部重助」と改名して1890年(明治23年)まで生存していたという説がある

*15 インターネット上で「芹沢鴨の写真」として流布している従者とともに移った背の高い侍の立ち姿の写真は、全く無名の別人

*16 北辰一刀流の開祖。清河八郎や山岡鉄舟の師匠

*17 後の木戸孝允

*18 幕臣。直心影流の剣客。見廻組•今井信郎の師匠

*19 鏡新明智流の剣客。武市半平太、岡田以蔵の師匠

*20 直心影流の剣客。榊原鍵吉の師匠。勝海舟の従兄弟。幕末の剣聖と呼ばれた

*21 心形刀流の剣客。戊辰戦争にも参戦し、負傷した左腕を切り落として奮戦したが戦局は好転せず、箱館戦争で五稜郭入城前に瀕死の重傷を負い、榎本武明からもらっていたモルヒネを飲んで自殺