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更新日:2026/06/06 Sat 02:32:00
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土方歳三(1835〜1869年)
通称は歳蔵、後に歳三(読み方は同じ)。諱は義豊。雅号は豊玉。
別名に内藤隼人。
Wikipedia土方歳三より転用。
概説
新選組副長として局長・
近藤勇と共に幕末を象徴する人物。
近藤と共に新選組で勇名を馳せる。ビジュアル的に美形のため、映像化されると近藤より主役に抜擢される。
生涯
誕生
天保6年(1835)5月5日、武蔵国多摩郡石田の裕福な農家・土方義諄、その妻・恵津との間に4男として生まれる。
幼少の頃はふれるとイバラのようにトゲトゲした感じから「バラガキ」と二つ名を貰ったり、奉公人として江戸に出るもヤンチャが過ぎて戻されたなどの話があるが、最近の研究では弘化4年(1847)、14歳以降に奉公人として江戸に出て、最短で嘉永元年(1848)、最長でも安政4年(1857)までも奉公人として務めるも何処へ奉公していたかは判然としていない。
9歳の頃、姉・のぶが日野宿名主・佐藤彦五郎に嫁ぐと、その縁で佐藤家に出入りする。実家秘伝の「石田散薬」を売り歩きながら、剣術や俳句を学ぶ。佐藤から将来の夢は?と聞かれ「武人として大成したい(意訳)」と答えた。
佐藤の紹介で天然理心流宗家跡継ぎ・近藤勇と知り合い、ずっ友になる。近藤、佐藤の義兄弟である小野路村名主て天然理心流門人の
小島鹿之助を紹介してもらう。
この後、江戸牛込の試衛館にも足を運び、
沖田総司、
井上源三郎、
永倉新八、
原田左之助、
山南敬助らと知り合う。
正式の入門は安政6年(1859)3月9日とある。それまでは仮入門か客分という扱いだったのだろうか。剣の腕前は文久2年(1862)9月に近藤から中極意目録を授かっている。現存する目録は宛名が歳三から義昌となっている。
これは明治維新後の立ち位置の関係で宛名を変えたと伝えられている。
そして時は流れて文久3年(1862)1月を迎える。
浪士組〜新選組(禁門の変まで)
幕府はこの年の3月に予定されている将軍・徳川家茂の上洛を前に「尽忠報国の志」を持つ浪士を集めて、京都に送るという話。
永倉から話が来た説と井上から話が来た説の2つがあるが、この話に近藤達は参加を決めた。
土方は京都に行くにいたり、今までの歳蔵から通称を現在の歳三に改めている。
浪士組と命名された彼らは京都に到着すると、内輪もめを起こし、設立者・
清河八郎らと別れ、水戸の攘夷派浪士・
芹沢鴨らを内ゲバで排除し、近藤らが京都守護職を務める陸奥会津松平家の支持を受けて
新選組として活動する事になった。
近藤が局長、土方が副長、山南は総長、沖田、永倉、井上、途中参加の斎藤一らが実働部隊の隊長を務める仕組みを作り、烏合の衆にならないように法度を定めたとある。
義兄の佐藤にモテ期が来た、と手紙を記した事もあったが、新選組は近藤が組の顔として外で他の大名家や幕臣、宮家、公卿などと折衝する事が多く、内向きの仕事は土方が面倒を見ることが多かった。これが面倒だった。
第一に金。京都は消費都市で有力大名が大量に家臣を派遣し、土地を買いあさり、屋敷を新築したり、寺を借り上げて駐屯地にした。
そこに物が消費され、物価高となった。
新選組は隊士を集めて食わせるが、食料、武具弾薬など金がかかり、借金で金策を行うが、返済出来るかは別の話。
第二は人員。衛生面で残飯が山積み、隊士はフル◯ンや褌一丁でごろ寝など当たり前。稽古による怪我、斬り合いによる負傷、風邪や食中毒なども絶えなかった。常駐の医師がいる訳でもなく、動ける人数を常に把握しながら、業務を行うのである。
第三は配置。新選組は武士、農民、町人などで構成されている。斬り合い担当は必要不可欠だが、事務処理能力に長けた担当も必要不可欠である。商人出身で勘定方の
河合耆三郎などが働いていたが、経歴的に土方も十分な有資格者として事務処理をしていたのではないだろうか…
後日、
安富才助が加入するが、彼は備中足守木下家で勘定方として働いていた経歴の持ち主で、土方からすれば、喉から手が出るほど欲しい人材であっただろう。
この手の問題が解決するのは、池田屋事件や禁門の変が終わり、近藤が江戸で奥医師の松本良順と仲良しになり、そのツテでテコ入れをして改善されるまで待たなければならなかった。
新選組(禁門の変以降〜戊辰戦争まで)
新選組は本来、攘夷を行うために京都までやって来た。しかし、それが行われず、代わりに治安維持を行うようになった。近藤を筆頭に新選組はそれが不満で、再三再四、幕閣に「攘夷をしないなら解散しろ!」と訴えていた。ことごとく、無視されたが…
当時在位していた孝明天皇は幕府による攘夷を第一とし、京都守護職の松平容保を溺愛していた。天皇と将軍が対立すると土方は佐藤に宛てた手紙で「天皇と将軍のケンカとか誰得?(意訳)」と記している。この頃から新選組は方針を「尽忠報国」から「孝明天皇の御心」に従うことに改めた。孝明天皇の御心は公武合体による国内再統一である。
方針変更は新選組にショックを与えた。その最たるモノが山南敬助の切腹である。
池田屋事件あたりから病気気味で、この頃は思うように剣を振るうことが出来ず、体調不良や方針変更に絶望して抗議のために自刃したとか諸説ある。
近藤との間にも片方が京都を出る時は、もう片方が京都に残るという暗黙のルールが出来た。
一度だけ、土方が江戸、近藤が大坂へ人員募集に出かけた時に、新加入の参謀・伊東甲子太郎が留守を担当したが、後は近藤か土方のどちらかが京都にいることになった。
特に近藤が長州征伐関係で広島に2度出張すると両方とも土方が留守を担当した。
慶応3年(1867)6月10日、新選組そのモノが会津預りの浪士団から幕臣に取り立てられた。身分は近藤が御目見以上御取扱(300俵旗本)、土方が見廻組肝煎格(70俵5人扶持)、沖田総司、永倉新八、井上源三郎、原田左之助、山崎烝、尾形俊太郎ら隊長格が見廻組格(70俵3人扶持)、吉村貫一郎、大石鍬次郎、安富才助、岸嶋芳太郎、安藤勇次郎、茨木司、村上清、谷周平ら隊長補佐は見廻組並(40俵)、一般組士89人は見廻組並御雇(7人扶持)の扱いだった。
土方が10月、江戸へ人員募集の旅に出ると、近藤が留守を担当する。
この旅で土方は故郷・日野へ戻り、義兄夫婦と再会する。夫婦の長男・源之助は農兵隊の指揮官を17歳で任されていたが、兵としての動き、指揮官としての働きが見事で京都に連れて行きたいと夫婦に申し出た。
土方は元治元年(1864)10月頃に近藤に宛てた手紙で「新選組は西洋砲術が上手くなり、長州征伐の先鋒は任せろ!(意訳)」と記していたが、その後は成長が停滞した。指揮官として源之助に新選組を西洋化してもらおうと考えた。しかし、姉からの猛反発でとん挫した。
江戸から戻ると、大政奉還、坂本龍馬暗殺と天満屋事件、伊東甲子太郎の暗殺と油小路の変、王政復古の大号令、伊東の残党による近藤の狙撃に負傷と短期間でイベントが目白押し。負傷した近藤の代わりに新選組を率いる。年下だが天然理心流では兄弟子の沖田は池田屋事件を体調不良で離脱し、後に病気と発覚。日を追うごとに病名も結核と判明し、形の上は一番隊組長として新選組のNo.3だが、一番隊は二番隊組長の永倉が掛け持ちする事になった。近藤と仲良く負傷者リスト入りし、後方に送られた。
慶応4年
慶応4年(1868)1月3日、鳥羽街道と伏見の市街地ほかで行われた鳥羽伏見の戦いで薩摩島津家、長州毛利家の洋式軍隊に完膚なきまでに敗れた徳川方。
大坂城にいた徳川宗家当主・徳川慶喜が松平容保、松平定敬、板倉勝静ら僅かの供を連れて軍艦・開陽に乗り込み、大坂天保山沖から江戸に夜逃げした。
鳥羽伏見の戦いは土方が新選組を率いて戦い、井上源三郎、山崎烝など隊士25名が戦死、行方不明が6名出た。負傷者は不明だが、この当時の新選組の人数は150名前後。徳川海軍に連れられ大坂城から敗走、中には脱走した者もいて、江戸に戻った時点で116名とある。
江戸に戻り、下総佐倉堀田家家臣の依田学海に「これからは刀ではなく銃砲の時代(意訳)」と話しているが、堀田家は既に軍隊の西洋化に成功している大名家である。新選組も4年前から西洋砲術を導入しながら、中々上達せず、薩長にコテンパンに叩きのめされた敗北感なのだろうか?
それでもこの台詞を口にするというのは、土方にも思うトコロがあったのかも知れない…
後に近藤が新選組を母体とした甲陽鎮撫隊を設立すると、土方はその副将に収まる。ついでに名前も近藤が大久保剛、土方が内藤隼人と改める。人員も鳥羽伏見の戦いで2割強の31名を失い、負傷者もいたので補充人員を募集したら、松本良順の友人・弾左衛門が子分100人を参加させるという話になり、徳川宗家から元込め銃やミニエー銃、大砲や軍資金を貰い、総勢200名で鎮撫予定地の甲府城に向かう事になる。
実戦経験豊富な新選組とそれ以外で実力に差があり過ぎ、宴会をしながら時間稼ぎをしつつ烏合の衆をなんとかしようとしたが、どうにもならなかった。近藤も天然理心流の門人たちに参加をうながす檄文を書いて各地に送ったが、やって来たのは佐藤彦五郎親子の農兵隊22名のみ。小島鹿之助など他の門人は武器弾薬や軍資金を集めたが、人員が中々集まらなかった。
数が足りないと感じた土方が江戸に赴き、援軍を呼ぶ事になった。一旦、日野の佐藤家に寄り道してから江戸に着いたが、何も出来ない。再び、近藤のもとに戻る途中の慶応4年(1868)3月6日に行われた甲州勝沼の戦いは太政官の勝利となり、近藤らは江戸へ敗走。軍事取扱の
勝海舟から叱られたが、めげずに再戦を目指す事にした。この過程で近藤と永倉、原田の関係がギクシャクして、2人は離脱した。それとは別に近藤、土方は勝にあるお願いをしている。義兄・佐藤彦五郎親子の助命であった。勝は2人の依頼を引き受け、太政官側の参謀・
西郷隆盛に話を付け、西郷の指示で佐藤親子は命を助けられている。
近藤は大久保剛から大久保大和に名前を改め、各地を転々とし、流山で拠点を構えたが、同年4月3日の昼、流山の本陣が太政官側に包囲された。
朝から新選組の大半は訓練で出払っていて、残っていたのは近藤、土方ら十人前後。
生き残りである
近藤芳助の記録では、近藤は切腹を覚悟したが、土方が板橋の太政官総督府まで出頭し、鎮撫隊である事を主張し通した方が良かろうと奨めた、とある。
近藤は素性を隠し出頭したが、御陵衛士の生き残りである加納道之助(鳶雄)や、かねてより
坂本龍馬と
中岡慎太郎の暗殺を新選組による犯行と信じている水戸出奔で、当時東山道軍総督府大軍監を務めていた香川敬三らに正体を見破られた。それでも太政官側は徳川宗家に身分照会を行ったが、徳川宗家は「
大久保大和なんて徳川宗家にいません。殺したければ好きにして下さい。それであなた方の鬱憤が収まるなら安いモノです。(意訳)」という返答だった。
慶応4年(1868)4月25日、板橋で斬首。首は三条河原に晒された。
因みに新選組の大半は太政官に武装解除された上で斎藤一や安富才助が引率して先に会津松平家に移動している。
土方は翌日江戸に行き、勝海舟と何か話した様子だったが内容は不明とされる。しばらく江戸に滞在した後、江戸城が太政官に明け渡された4月11日から12日にかけて徳川陸軍を脱走した部隊や反太政官側の義勇軍が下総の国府台に結集した。数は
2000〜3000名ほど。土方は少数の隊士と共にその流れに参加する。大きく3つに分けて、元歩兵奉行の
大鳥圭介が全軍を指揮し、土方は全軍の参謀と先鋒隊の参謀を兼任した。
先鋒隊の指揮官は伝習第一大隊長の秋月登之助が務め、この先鋒隊が4月19日に宇都宮城を陥落させ、直接指揮を取った土方の戦闘指揮能力が爆上がりの評価をした。土方の指揮下で指揮官を務めた立見尚文が「無断で退却する歩兵を一刀両断し、味方の崩れかけた士気を一気に立て直した。あれが一軍の将の振る舞いか(意訳)」と話している。
しかし23日に逆襲を受けて落城、撤退。この時土方は右足を負傷して会津に退き、療養生活に入る。29日に会津城下に到着し、先に行った斎藤一らの新選組130名と合流。山口次郎と改名した斎藤一が隊長として会津軍傘下で白河口に派遣された。
慶応4年から明治元年へ
負傷した土方の傷が癒えたのが6月頃。この前後から土方は活動を再開している。6月15日、会津城下に来訪していた輪王寺宮公現法親王やその側近・覚王院義観、元陸軍奉行の竹中重固らと面会している。竹中とは江戸から会津に50挺の元込め銃と弾丸4万発が送られてくるので、これをどう活用しようか?と相談している。
7月頃には徳川脱走軍を率いて白河口で参戦するも戦果はなく、8月22日の母成峠の戦いでは土方や斎藤指揮の新選組は会津軍に参加。大敗すると斎藤と口論の末、斎藤らは会津に残留。土方らは会津を離れ、最終的に仙台に行く。
同行していた庄内酒井家家臣・服部十郎右衛門に「国内に味方がいないなら、外国の力でも借りるかな?(意訳)」と口にしたと、服部は8月25日の日記に記している。この段階で滅びの美学など土方には無縁で、どこまでもあがき続けるのである。
9月3日、仙台に到着した土方は仙台城で行われた反太政官の軍事同盟・奥羽越列藩同盟の軍議に参加する。徳川宗家が無事に駿河70万石に移封されたのを見届けた海軍副総裁の榎本武揚が脱走艦隊を率いて仙台にやって来る。
鳥羽伏見の戦いで敗走時に一度対面しているが、この時に再会して意気投合したのか、榎本は同盟の軍議に参加し、土方を奥羽越列藩同盟の総司令官に推薦した。
土方は「生殺与奪の大権をオレに委ねろ(意訳)」と条件を突き付けたがこの話、最終的に否決された。
9月12日に仙台城内で榎本、土方が伊達家の会議に参加して徹底抗戦を主張した際、太政官への恭順を主張する伊達家の執政・遠藤文七郎から「土方は器がちっちゃい(意訳)」と酷評されている。
大鳥圭介ら徳川脱走軍や新選組も仙台に到着し、榎本指揮の艦隊は旧幕府から伊達家に貸していた船舶を2隻徴収して、海路蝦夷地に向かうことになった。新選組はここまでの激戦で数が激減していた。
徳川脱走艦隊を指揮する榎本が戦闘員以外の乗船を厳しく制限しており、この艦隊に乗船していた元大名の松平定敬、小笠原長行、板倉勝静らの家臣は少数しか乗船が認められていなかった。
元伊勢桑名松平家当主で元京都所司代。
京都守護職で陸奥会津松平家当主・松平容保の弟。
薩長同盟の裏書きで徳川慶喜、松平容保とともに打倒しろ、討幕の密勅では殺害しろと名指しされていた。
元肥前唐津小笠原家世継ぎで老中。
生麦事件で戦争回避の為に独断でイギリスに賠償金を支払い、そのまま西洋式軍隊を率いて攘夷派追放、孝明天皇に開国和親の勅命を認めさせる、認めなければ
承久の乱も辞さない強硬路線を見せたが、京都にいた将軍・
徳川家茂に説得されて江戸に戻った。長州毛利家絡みの問題では長州の攘夷が途中から嫌がらせの攘夷になっている事や第二次長州征伐で小倉口の総司令官を務めたが敗戦するなど煮え湯を飲まされ、太政官が嫌い。
鳥羽伏見の戦いの後、上野の
彰義隊に参加したり、奥羽越列藩同盟の政治顧問をしていた。
元備中松山板倉家当主で首席老中、寛政の改革で有名な松平定信の孫。
安政の大獄から復帰後、老中として徳川幕府を支え、勝海舟からは
「祖父の松平定信を既に超えている」
と言われ、イギリス公使パークスからは社交界で通用すると言われた教養人。
二人に蛮勇を奮うことが出来ないのが玉にキズと言われた。
外交では嫌がらせの攘夷をする長州毛利家に、内政では大政奉還をした徳川慶喜を挑発する薩摩島津家の強硬派に煮え湯を飲まされ、太政官が嫌い。
鳥羽伏見の戦いの後、奥羽越列藩同盟の政治顧問をしていた。
そこで土方が助け舟を出し、榎本に提案して新選組に参加すれば、乗船を認めると許可を貰い、殿様と一緒に蝦夷地に渡りたい人達を新選組に加え、安富才助が新選組隊長並として彼らを率いた。
蝦夷地に上陸した徳川脱走軍は軍を二手に分けて進軍したが、土方が指揮する部隊に新選組は居らず、もう一人の指揮官である大鳥圭介の指揮下に入り、進軍した。新選組のことばかり構っておれないのである。
五稜郭にいた太政官の軍隊を駆逐し、土方指揮の部隊が蝦夷地唯一の大名家で太政官に味方する松前家を攻略し、蝦夷地を平定した。この戦いでも新選組は傘下にいない。
その後、11月15日、江差にいる松前家の残敵掃討に旗艦・開陽を派遣したら嵐で座礁、沈没。助けに行った神速丸も座礁、沈没した。
この惨劇を目の当たりにした土方は口惜しさのあまり、涙ながらに丘陵の一本松を殴りつけたと、土地の古老による証言が残されている。
そんな一幕を挟んだ後、選挙が行われ、12月15日祝賀会を催した。
蝦夷島政権とか箱館政府とか後世呼ばれ、駐日イギリス公使館書記・アダムスは『共和国誕生』と記録している。
総裁・榎本武揚、副総裁・松平太郎、海軍奉行・荒井郁之助、陸軍奉行・大鳥圭介、陸軍奉行並・土方歳三などが士官以上の選挙による投票で選出されたモノである。
土方には箱館市中取締という任務があり、箱館市街地を見回るのが新選組の役割だった。それまで新選組の隊長だった安富才助がこの時、土方の副官として陸軍奉行添役に就任、新選組から離れた。一説には陸軍奉行並といっても形だけで、陸軍の仕事は大鳥圭介が大抵こなしてしまうため、土方に警察業務を任せたとも。
代わりに新選組を率いるのは、元伊勢桑名松平家家臣の森陳明。
参加時は森常吉と名乗っていた。
先に結論を言えば、蝦夷徳川藩の設立を認めろ!!認めないなら、実力で設立する、というモノ。
五稜郭を占拠した榎本武揚は横浜の外国公使たちに対し、自分たちは反乱軍ではなく、交戦団体である、と主張し、国際貿易港の箱館を支配しているので、在留外国人の生命と財産を守るためにも、海上封鎖や外国船の臨検などを認める交戦団体として認めて欲しい、と手紙でアピールした。
当時の戦争に関する国際法(戦時国際法)においては、国家には、一定の権利義務が定められている。
具体的には
- 敵戦力の破壊および殺害。
- 中立国の船舶に対して国防上の要請から、もしくは戦時禁制品の取り締まり等のための海上封鎖、臨検や拿捕。
- 捕虜の抑留。
- 占領地で軍政を敷いて、敵国民やその財産についての一定の強制措置。
などである。
当時は
「国家は、他国家から承認を受けることにより、初めて国際法上の主体として存在することになる」
という考え方である。
この場合は、他のどこの国からも承認を受けていない新国家は国家ではないとされるが、現実には
「一つでも承認している国があれば国際的に国家とみなされる」
とされ、それまで国家を統治してきた政府が、革命・クーデター・内戦などによって崩壊した後、異なる勢力が当該国家を代表する政府を名乗った場合や、同じ地域に先行する国家があった場合に、新国家・新地方政府を名乗る政府が樹立される場合もある。
こうした場合に、その政府を正式な政府と認める場合には政府承認が行われる。
大規模な反乱や内乱が持続した場合や、別の都合により政府としての承認を行わない場合には、政府と承認しない勢力に対して、本来の正統な政府と同等の交戦当事者として資格が与えられる場合がある。
戦闘中における戦争法規の遵守や和平交渉を行うためである。
交戦団体承認を行った国家もその内戦に関して国家間の戦争と同等の義務を負うことになる。
イギリス公使・パークスは交戦団体の権利を与えるのは拒否したが、箱館在留外国人の生命と財産を守るためには、榎本らに行政権や徴税権を与える事は黙認し、イギリス軍艦・サテライト号、フランス軍艦・べニュス号が横浜から箱館に派遣され、両艦の艦長は榎本と折衝し、榎本らを「事実上の政権」という扱いにした。榎本らも本来の力関係なら相手にならないトコロを、占領と支配を認めてくれたと受け止めた。
恭順した徳川宗家の体制下で海軍副総裁を務めていた。太政官との交渉で城、武器の明け渡しが決まった際は、抵抗していたが、老朽艦の引き渡しで合意する。閏4月23日、勝海舟の屋敷を訪ねて箱館に軍艦を派遣すると話す。表向きは箱館から江戸に戻れないでいる箱館奉行所の役人たちを回収すると説明した。裏は蝦夷地開拓の下調べである。安政元年(1854)箱館奉行を務める堀利煕の従者として内陸部を探索したことがある。この時、蝦夷地は日本のフロンティアと見ていた。
軍艦・回天で荒井郁之助と甲賀源吾を派遣、箱館奉行所の役人を回収して江戸に戻ってきた。
慶応4年(1868)の6月3日、勝の屋敷を陸軍副総裁・白戸石介と共に訪ねた。榎本指揮の艦隊に徳川脱走軍の将兵が乗船しており、彼らに突き上げられて勝から事情を聞きに行った。勝は会津は徳川に忠誠なんかしちゃいない。会津は徳川の社会秩序や体制に忠誠を誓っている(=孝明天皇が宸翰で守れと示した)だけだと。あいつらの言う事を信じるとイタい目にあうぞと警告している。勝は友人や弟子を会津や新選組のせいで失っていると信じているので、会津に辛口である。
7月頃に奥羽越列藩同盟から使者が来て共闘を持ち掛けられたが、太政官が徳川宗家を無事に新領地の駿河70万石を与えるか信じられないので、それを見届けてから航海に出ます、と返答した。8月15日、徳川宗家当主・徳川家達が本拠地・駿府城に入城したのを見届けて、8月19日、品川沖を出港した。
房総沖で暴風雨の直撃を受け、艦隊は四散したがなんとか仙台までたどり着いた。
榎本は太政官に対して3度、手紙を提出している。最初は8月19日に品川沖を出港する前に勝海舟に託して書いたモノで、ざっくり言えば、対決姿勢を前面に打ち出して、実力で蝦夷地を切り取ると宣言している。
2度目は10月13日に奥羽の戦いに敗れた反太政官陣営の兵約3000名を収容し、仙台を出港する時に仙台伊達家を通して書いたモノで、ざっくり言えば、蝦夷地を徳川宗家に貸してください。オレらが蝦夷地を守ってやるよ、認めてくれたら、太政官の傘下に入ってやる、と宣言している。
3度目は12月初頭に太政官に宛てたモノで、ざっくり言えば、蝦夷地の開拓と防備をします、徳川宗家から血縁者を1人、蝦夷地を治める首長として迎え入れたいのでお願いします、と記している。
榎本が蝦夷地の開拓に意欲的だったのは、室蘭に開拓奉行を設置し、オランダ留学仲間の沢太郎左衛門を任命し、開拓兼守備兵として200名を派遣。部下の数も開拓奉行の下に役人が25名。会計局15名、裁判所11名と比べると数は多い。農業技術を導入するのに、外資を積極的に活用したのである。それがガルトネル事件。
箱館のプロイセン副領事コンラート・ガルトネルの兄ライノルト・ガルトネルは明治2年(1869)2月19日、当時、箱館を事実上支配していた榎本武揚との間に七飯の開墾地300万坪を99年間の租借契約を結んだ。榎本は契約の見返りとして1万両を借り入れ、5千俵の米を購入した。
箱館戦争終結後、ガルトネル側から契約を引き継げ!と申し込まれた太政官は何、これ?と慌てたそうだが、翌3年(1870)12月10日、契約書にある違約金を支払う条文に基づき、13万ドルを支払い、貸し付け契約を解除した。
この件は、箱館の榎本政権が太政官と関係なく、独立した政権として承認されていた証明である。
ガルトネル側が持ち込んだプロイセン製の農具や種子は蝦夷地とは合わず、挫折したとある。
榎本が外国資本の導入を決断したのは、オランダ留学時、欧州の農民が農具や化学技術を駆使した大規模農法を実践しているのに、日本の農民は猫の額ほどの土地に鍬や鋤で耕す、規模の小ささに苛立ちを覚え、欧州のやり方を学ぶ為の代償だと思えば、長い目で見たら99年などあっという間の出来事だよ、と箱館奉行の永井尚志に話している。
これらを踏まえて、榎本は太政官や外国公使と交渉するはずだった。しかし、榎本側の軍艦・開陽が沈没して軍事的なバランスが崩れた。
そもそも、戊辰戦争中、欧米諸国は内戦に局外中立の立場を取っていて、太政官は徳川宗家や奥羽越列藩同盟と交戦団体という政府の一つ手前の扱いになる。上記の艦長たちと交渉したが12月28日、欧米諸国は局外中立を解除し、太政官を正規の日本政府として認めた。
アメリカから徳川幕府が慶応3年(1867)に購入しながら、来航時、局外中立を理由に引き渡しを拒まれた軍艦・甲鉄を入手した。これにより海軍力のバランスが太政官に大きく傾いた。
榎本の手紙に対しては
岩倉具視が「不敬、不遜、我が国体に反する(意訳)」とバッサリ。もはや、実力行使あるのみだった。
因みに土方は榎本のこうしたヤり方を受け入れており、死に場所を求めるというより、残った新選組をどういう感じに活かしていくのか?という事に心を砕いていた。
宮古湾海戦
唯一の逆転を目指して行われたのが、甲鉄奪取計画だった。
太政官は明治2年(1869)1月6日、アメリカ政府から甲鉄譲渡の契約書を取り交わし、甲鉄、丁卯、春日、陽春と4隻の軍艦、戊辰、豊安、晨風、飛龍と4隻の輸送船からなる艦隊を組み、3月9日品川沖を出港するも、暴風雨の直撃を受けて横浜に逆戻り。翌日、横浜を出港するとまた暴風雨の直撃を受けて浦賀へ流された。
13日まで艦隊を整えて、各自、盛岡藩領宮古湾に集結、という形で出港した。最終的に3月22日までに全艦集結した。
箱館アメリカ領事・ライスや密偵の探索により、太政官側の動向を掴んだ榎本軍は甲鉄対策会議を行い、席上、回天艦長・甲賀源吾発案による甲鉄奪取作戦を採用した。航続距離の関係から必ず宮古湾にて補給を行い、艦列を整えるために停泊する甲鉄へ近づいて、奪うのである。
回天、蟠龍、第二回天が甲鉄奪取作戦の戦力で、回天は指揮艦として他の艦を引き付け、蟠龍、第二回天が甲鉄の左右に横付け、艦内を制圧して乗っ取るというモノ。
宮古湾への侵入は外国旗を掲げて、攻撃寸前に日の丸に改めることとして、明治2年(1869)3月20日夜半、箱館を出港した。
旗艦・回天に海軍奉行・荒井郁之助、検分役・土方歳三、フランスに「接舷切り込み作戦」と呼ばれる作戦がある、とアドバイザーでフランス軍人・ニコールが乗船。斬り込み隊が46名。甲鉄を操艦するための要員として200名。
蟠龍にアドバイザーでフランス軍人・クラートと斬り込み隊42名に操艦要員100名。
第二回天にアドバイザーでフランス軍人・コラッシュと斬り込み隊25名に操艦要員100名。
途中、暴風雨で散り散りになり、回天と第二回天で斬り込みを行う直前になって第二回天が機関部不良で動きが極端に遅くなり、回天単独の斬り込みとなった。これが明治2年(1869)3月25日の出来事。
回天単独で8隻の太政官艦隊へ斬り込みを提案したのはニコールである。彼はかつて50名のフランス海兵隊が300名乗船のイギリス船を拿捕したことがあると話すと甲賀がヤル気になり、斬り込みを決行した。
回天は外輪船のため横付け出来ず、甲鉄に乗りかけたのだが、回天から甲鉄までの高さが3m程度あり、斬り込み隊は躊躇する。
なんとかバラバラと降りたは良いが、各個撃破の餌食となり、甲賀も頭を撃ち抜かれて戦死、30分程の交戦で戦死者15名を出したため、荒井は撤退を決めた。回天は撤退途中に蟠竜と合流して26日夕方には箱館まで退却したが、機関故障を起こしていた第二回天は途中で捕捉され、盛岡藩領・羅我沖で自ら船体を焼き、コラッシュを含めた乗組員95名が降伏している。
太政官側はこの作戦を事前に察知はしていたが、敵艦隊より暴風雨が怖い、と海軍幹部は船を降りて陸上にいた。陸軍参謀・黒田清隆は偵察でもしたら?と提案するが、無視された。この海戦に春日の海軍士官として参加した東郷平八郎は「意外こそ起死回生の秘訣」として後年まで忘れず、甲賀源吾を勇者と讃えた。
最期
甲鉄奪取作戦の失敗により、上陸阻止は不可能となった。上陸を待ち受けて戦うしかない。どこに上陸するか?も相手の選択に任せるしかないのである。
因みに太政官側の実質的な総司令官として蝦夷征討軍海陸軍参謀に就任したのは
山田顕義。薩摩の西郷隆盛から「
小ナポレオン」とあだ名される天才肌の戦術家である。
明治2年(1869)4月19日、太政官の軍隊が江差の北側、乙部に上陸する。ここから箱館に至るコースは3つあって、山越えの二股口が最短距離である。土方はこの方面の防衛にあたった。新選組は箱館市街地の警備に終始し、どのルートにも割り当てられなかった。
土方指揮の二股口は善戦した。太政官側の戦況報告書には、一日に35000発の弾薬を消費するが突破出来ない。追加の弾薬を頼むと。それだけ敵の前進を阻んでいたが、他のルートが敗れて背後に敵が来るとなっては、撤退せざるを得ない。
ずっと海岸線を松前経由で廻るルートと途中で山を越えるルートは木古内で合流して箱館に迫る。海から甲鉄の艦砲射撃、陸は大軍の物量で榎本軍は押されて、箱館の五稜郭と弁天台場に押し込められた。
この劣勢を跳ね除けるため、土方は明治2年(1869)5月11日出撃したが、一本木関門を抜けて異国橋付近で飛来した弾丸に撃ち抜かれて戦死した。
土方が戦死した際、副官ポジの安富才助はその最期を看取り、5月16日付で手紙を書き、土方家へ渡す様に立川主税に託している。
一筆奏上。
雨が降りやすい季節かも知れませんが、春が来たことは揃って喜ばしい事です。
土方隊長は江戸を脱出して、伝習第一大隊を率いて下野宇都宮で戦い手傷を負われ、会津で療養全回復、会津の東側(母成峠)で戦いましたが、会津に帰れなくなり、仙台に落ち延びて、伊達の殿様から刀を賜り、福島に行きましたが、結果は良くなかった。
土方隊長は慶応4年10月、榎本和泉(武揚)殿と同盟して蝦夷に渡られ、陸軍奉行並海陸裁判役を司られ、その後、4月瓦解の時には、二股と言う所に出陣して大勝利を収めました。
その他にも数度戦い、松前方面がついに敗れたため引き揚げ、同年5月11日の箱館瓦解の時には、町はずれの一本木関門にて諸兵隊を指揮され、ついに同所にて討死され、誠に残念至極に思われます。私はいまだに無事です。何の面目がありましょうか。今日に至っては籠城戦と、軍議は定まり、みな討死の覚悟であります。
――隊長が討死なされたため
(追悼句)
早き瀬に 力足らぬや 下り鮎
同年5月18日、榎本武揚が五稜郭で降伏し、戊辰戦争が終結した。
太政官側が蝦夷地に上陸して約1ヶ月後の出来事であった。
余談
- 土方は道場剣術が弱いと言われているものの、近藤勇の天然理心流にあるが、天然理心流の剣術は剣、小太刀、居合い、当て身の4つを総称したモノ。他流試合の時は剣術以外を封印した縛りプレイだったのではないか?
現在でも残っているYouTubeの天然理心流稽古動画には、片手突きからの前蹴りとか、鍔迫り合いからのミドルキック、膝蹴りなどが残されている。なんでも有りの方が土方には向いていたのだろう。
- 創作などでは規律に厳しい人物として扱われ、新選組内で「鬼の副長」と呼ばれていた。また、価値観や立場が真逆の人間からは上記の遠藤文七郎に「器がちっちゃい」、望月光蔵という徳川陸軍の事務方と口論になった際、望月は「器量が狭い」と口にした。箱館時代でも部下に慕われていたし、榎本武揚が遺していた書額には「軍議の際に部屋に入ってくると清らかな風が吹いてくるような、そんな爽やかな男だった」とも記されている。とはいえその一方で「仕事を部下に丸投げ」、「ただ威張るだけ」と辛口の批評も存在するが……。
- 趣味の俳句では「豊玉」と号し、自身の句を集めた『豊玉発句集』も著している……句才についてはお察しください。
- 東京都日野市には子孫の方が運営する土方歳三資料館があり、愛刀である十一代和泉守兼定が所蔵されている。なお、愛刀の展示は毎年命日の前後のみの上、開館自体も不定期なのでよく調べてからお出かけください。
- 死亡したという扱いではあるが、新政府軍が遺体の確保に失敗したため生存説も実しやかに囁かれている。
- 漫画家の荒木飛呂彦先生は土方に非常によく似ている。
荒木氏が歳を重ねてもあまり老けていないのもあって、「実は土方が吸血鬼になって甦り、現代で漫画を描いているのだ」などと言われもする。
- 写真からも判る通り、現代の基準で見ても端正な顔立ちに約160cm台と当時としては背も高かったので、女性には非常にモテていた。
- 沢庵漬けが大好物だったとされ、特に小島鹿之助の親戚である橋本家のものを大変気に入り、大盛りの沢庵をおいしそうに食べた後に樽ごと背負って持って帰ったと言う逸話がある。
- 仙台で新選組の追加人員を補充する際、唐津、桑名、備中松山の武士たちに戦う覚悟を聞いてから加入させたが、備中松山だけは新選組参加は箱館で殿様と一緒にいる為の方便と土方に聞かれてしまい、参加を断られた。唐津や桑名からの取り成しもあり、備中松山は再び参加を許されたが、全員平隊士の扱いになる。この処分に反発して3名が仙台で離脱し、備中松山から新選組に参加したのは8名となった。戦う顔をしない奴にはどこまでも厳しい人だったということか。
- 勝沼の戦いで甲陽鎮撫隊が敗れ、近藤、土方は再起を目指して多摩一円で募兵活動を行ったのだが、幕臣・渋沢成一郎と府中付近で勧誘活動が被ってしまった。彼も反太政官の義勇軍を募っていたのだが、土方と縄張り争いをしてしまう。土方がキレ気味に渋沢に詰め寄り「ここで人を集めるのはヤメてもらいたい(意訳)」と言い放つ。渋沢は土方の殺気を感じ取り、募集を取り止め、田無や練馬付近で募集を再度行う事にした。2人は仙台で再会するのだが、これと言って逸話はない。上記の器量の問題ではないが、共通の敵に対して一致団結どころか、縄張り争いをするあたり、土方に視野の狭さ、器の小ささを指摘する歴史家は存在する。
土方歳三が登場する作品
漫画、小説、ゲーム、映画、ドラマと沢山あり過ぎ。
共通して言えるのは現存写真の存在もありイケメンな事。
実写作品では写真のイメージに近付けるべく、雰囲気が近い俳優をキャスティングすることも少なくない。
追記、修正は銃や大砲より剣が強いと思う方がお願いします。
- 残ってるお写真が男前だもの、そりゃ後年の作品でもイケメンにもなるわな -- 名無しさん (2026-04-14 19:00:25)
- 外星人第0号の活動の幅は広い -- 名無しさん (2026-04-14 19:39:05)
- 土方の記事って言うより新選組の記事になっとらん? -- 名無しさん (2026-04-14 19:41:38)
- ↑戊辰戦争中、新選組を指揮していたのは斎藤一です。箱館戦争で新選組を指揮していたのは森常吉。幼少期も創作ほどに武勇伝はないんだよね… -- rokudenashi37564 (2026-04-14 20:00:13)
- 「梅の花 一輪咲いても 梅は梅」の句は司馬遼太郎などが揃って「不良のあんちゃんのセンス」とこき下ろしたそうな。 -- 名無しさん (2026-04-14 20:39:17)
- 現在は荒木飛呂彦と名を変えて漫画家として活躍中(嘘) -- 名無しさん (2026-04-14 21:20:35)
- 大抵、ビジュアルを盛られるものだが土方さん本人も美丈夫 -- 名無しさん (2026-04-14 21:50:33)
- 俺はいまだに血風録の永井大がしっくりこない -- 名無しさん (2026-04-14 21:57:00)
- ついでに身長も当時の基準で今の170cm代後半から180cm相当にあたる160cm代後半だったようだしなあ -- 名無しさん (2026-04-15 00:40:41)
- 新選組に加入した美少女を口説くと薄桜鬼ルート。死んだことに気付かないまま悪魔と契約するとFATEルート。捕まって監獄で飼い殺しにされるとゴールデンカムイルート(HAPPY END) -- 名無しさん (2026-04-15 06:19:40)
- こういう歴史物項目大好き。新撰組ならなおさら -- 名無しさん (2026-04-15 07:27:26)
- 局長と同じく知名度高いにしては項目立つの遅かったねぇ…とりあえずお疲れ様です これからもっと新選組関係の記事増えればいいんだが果たして…? -- 名無しさん (2026-04-15 08:21:40)
- 近藤勇とか土方歳三とかの超メジャー級人物には(新選組)はない方がいいと思うなあ。リンクを貼る時にいちいち(新選組)(武将)(史実)とか確認するのも面倒なのよね…… -- 名無しさん (2026-04-15 15:39:19)
- 山本耕史とかいう終身名誉土方歳三 -- 名無しさん (2026-04-15 16:57:29)
- 名前の読みが「さいぞう」か「としぞう」かよくわかってなかったらしい。司馬遼太郎が取材して当時を知る人が「としさん」と呼んでいたとのことでわかったとかなんとか。 -- 名無しさん (2026-04-15 17:34:00)
- ↑2 栗塚旭さんがいたので二代目だな -- 名無しさん (2026-04-15 17:52:40)
- 物語によってクールだったり戦の鬼になったりする(共通項は凄まじいイケメン) -- 名無しさん (2026-04-15 18:30:39)
- ↑8『龍が如く 維新!』の土方はあの後どうなるんだろうね。あのゲームはあくまで龍馬(斎藤)が主役で、エピローグでも龍馬と武市周りしか触れられてなかったけど。 -- 名無しさん (2026-04-15 18:51:30)
- 幕末の試合の証言とか記録を色々照らし合わせてみたけど、普通に前蹴りや組み討ちを使って試合をしていたから、縛りプレイと言われるほど制限されていたとは思えないな(仏生寺弥助の予告してからの前蹴り→面打ちコンボが恐れられる位には有名だったし) -- 名無しさん (2026-04-15 19:58:33)
- ↑ごめん、弥助が有名とか書いたけどあくまでも例として挙げただけで他にもいる。言葉が足りなかった -- 名無しさん (2026-04-15 20:04:19)
- ↑8 既に創作版の項目があるので、無しにすると逆にややこしいのよ…… -- 名無しさん (2026-04-15 23:17:00)
- ↑9 むしろ、有名すぎて元ネタのキャラが多いから良くないよ -- 名無しさん (2026-04-16 00:29:18)
- 何かところどころ日本語変じゃない? -- 名無しさん (2026-04-16 02:44:51)
- 士道不覚悟、私の苦手な言葉です -- 名無しさん (2026-04-16 12:18:53)
- 性格的には気のいいあんちゃんだったらしい。周囲に気遣いもできるタイプで少なくとも身内にはかなり慕われていた。あと女好き -- 名無しさん (2026-04-16 20:01:09)
- 創作だと「『侍』であることと『刀』に固執し続けた末に『軍隊』と『銃』に負けた男」というイメージが根強いけど、実際には軍隊の近代化には普通に理解があって本人も率いる兵隊も普通に鉄砲も大砲も使ってたんだっけ? -- 名無しさん (2026-04-16 20:42:54)
- 「勝つ」ためならこだわりは無いイメッジ。西洋軍隊に負けたら、すぐに勉強して取り入れ使いこなす。まぁこっちも創作の話だけど。 -- 名無しさん (2026-04-16 21:11:42)
- ↑2鳥羽伏見の戦いでコテンパンにヤラれて新選組自体、西洋化を受け入れた。斎藤一が会津戦争で新選組を率いて戦ったが、普通に陣地戦やゲリラ戦で銃や大砲を扱っていた。 -- 名無しさん (2026-04-16 22:13:46)
- 近藤勇のキャラデザが安彦良和なら、こちらは北爪宏幸のイメージ -- 名無しさん (2026-04-17 10:52:05)
- ↑7 そういう場合はちゃんとおかしい箇所をあげるべき -- 名無しさん (2026-04-17 11:50:06)
- ゴールデンカムイのはイケジジイとでも呼べばいいのか -- 名無しさん (2026-04-17 14:12:09)
- 気難しい人という印象があるが奉公や行商の経験があるからか多摩の人達に剣術を教えるときは割と人当たりはよかったとか。 -- 名無しさん (2026-04-17 18:59:29)
- ↑5 いや鳥羽伏見以前、山南死亡ぐらいから砲術訓練を開始してて洋式調練の教本も入手していた。(山崎丞取調日記や浪士文久報国記事より)が、京都時代は肝心の銃器がほぼ手に入らなく、会津からの払い下げで実際運用しだしたのが鳥羽伏見から。少なくとも新選組の幹部クラスは近代化に理解があって試みていたのは間違いないみたい -- 名無しさん (2026-04-17 19:45:40)
- ↑白虎隊の記事にもあるが、会津自体が近代化の切り替えをする人材に欠いていた。新選組も近代化の切り替えに停滞し、土方が記事にあるように日野で佐藤源之助に新選組の近代化を任せようとして、とん挫した。武器なども会津が国許と冷戦中で武器の買い換えをする予算が認められず、軍備が停滞した。近藤勇の記事に記してある。 -- 名無しさん (2026-04-17 20:23:49)
- 結構マニアックな歴史人物の項目はあるのに今まで項目なかったのか、意外だ -- 名無しさん (2026-04-18 19:34:41)
- ↑8↑3↑2 つまり前は侍に拘ってもいたが後には近代化を真面目に進めていた(少なくともその意志はあった)ということか。考えてみれば鉄砲自体は戦国時代から舶来物ベースで使ってた訳だし、銃の導入や近代化そのものを否定する道理もないよな -- 名無しさん (2026-04-19 17:44:43)
- ↑ヤル気はあったが、新選組に近代化を指導出来る人が中々現れなかった。土方は佐藤源之助に任せようとして、源之助の母親=土方の姉から猛反発を喰らい、近代化がとん挫。流山で近藤が出頭した時も新選組は訓練に出かけていたと近藤芳助が記している。訓練は独学だったのでは。会津へ斎藤一が新選組を引き連れて来訪し、そこで会津軍の近代化を任されていた元徳川陸軍の軍人たちから近代戦を学んだのでは? -- 名無しさん (2026-04-19 18:53:03)
- 創作では粛清しまくる『鬼の副長』というイメージが強いが、史実では「隊士がフルチンでゴロ寝するから注意が大変で…」とか結構な苦労人だったらしいね -- 名無しさん (2026-04-19 19:16:18)
- ↑「水滸伝の梁山泊」と新選組の第一印象を聞かれ、松本良順が答えている。クセが強かったり、アクの強い人たちは一定数いたと思う。夏場だと盆地の京都は蒸し暑さもあるから、暑さに慣れない隊士などは素っ裸や褌一丁、今でいうなら男子校のノリで生活するんだろうね。下働きで女中とかいる訳ではないだろうから。 -- 名無しさん (2026-04-20 17:21:01)
最終更新:2026年06月06日 02:32