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土方歳三(新選組)

登録日:2026/04/14 Tue 17:40:34
更新日:2026/06/06 Sat 02:32:00
所要時間:約 20 分で読めます





土方(ひじかた)歳三(としぞう)(1835〜1869年)

通称は歳蔵(としぞう)、後に歳三(読み方は同じ)。諱は義豊(よしとよ)。雅号は豊玉(ほうぎょく)
別名に内藤(ないとう)隼人(はやと)


Wikipedia土方歳三より転用。


概説

新選組副長として局長・近藤勇と共に幕末を象徴する人物。
近藤と共に新選組で勇名を馳せる。ビジュアル的に美形のため、映像化されると近藤より主役に抜擢される。

土方歳三(Fate)土方(ドリフターズ)と既に項目があるため、土方歳三(新選組)とさせていただく。

生涯

誕生

天保6年(1835)5月5日、武蔵国多摩郡石田の裕福な農家・土方義諄(ひじかたよしあつ)、その妻・恵津(えつ)との間に4男として生まれる。

幼少の頃はふれるとイバラのようにトゲトゲした感じから「バラガキ」と二つ名を貰ったり、奉公人として江戸に出るもヤンチャが過ぎて戻されたなどの話があるが、最近の研究では弘化4年(1847)、14歳以降に奉公人として江戸に出て、最短で嘉永元年(1848)、最長でも安政4年(1857)までも奉公人として務めるも何処へ奉公していたかは判然としていない。

9歳の頃、姉・のぶが日野宿名主・佐藤彦五郎(さとうひこごろう)に嫁ぐと、その縁で佐藤家に出入りする。実家秘伝の「石田散薬」を売り歩きながら、剣術や俳句を学ぶ。佐藤から将来の夢は?と聞かれ「武人として大成したい(意訳)」と答えた。

佐藤の紹介で天然理心流宗家跡継ぎ・近藤勇と知り合い、ずっ友になる。近藤、佐藤の義兄弟である小野路村名主て天然理心流門人の小島鹿之助(こじましかのすけ)を紹介してもらう。
この後、江戸牛込の試衛館にも足を運び、沖田総司(おきたそうじ)井上源三郎(いのうえげんざぶろう)永倉新八(ながくらしんぱち)原田左之助(はらださのすけ)山南敬助(やまなみけいすけ)らと知り合う。
正式の入門は安政6年(1859)3月9日とある。それまでは仮入門か客分という扱いだったのだろうか。剣の腕前は文久2年(1862)9月に近藤から中極意目録を授かっている。現存する目録は宛名が歳三から義昌となっている。
これは明治維新後の立ち位置の関係で宛名を変えたと伝えられている。

そして時は流れて文久3年(1862)1月を迎える。

浪士組〜新選組(禁門の変まで)

幕府はこの年の3月に予定されている将軍・徳川家茂(とくがわいえもち)の上洛を前に「尽忠報国の志」を持つ浪士を集めて、京都に送るという話。

永倉から話が来た説と井上から話が来た説の2つがあるが、この話に近藤達は参加を決めた。
土方は京都に行くにいたり、今までの歳蔵から通称を現在の歳三に改めている。

浪士組と命名された彼らは京都に到着すると、内輪もめを起こし、設立者・清河八郎(きよかわはちろう)らと別れ、水戸の攘夷派浪士・芹沢鴨らを内ゲバで排除し、近藤らが京都守護職を務める陸奥会津松平家の支持を受けて新選組として活動する事になった。

近藤が局長、土方が副長、山南は総長、沖田、永倉、井上、途中参加の斎藤一(さいとうはじめ)らが実働部隊の隊長を務める仕組みを作り、烏合の衆にならないように法度を定めたとある。

義兄の佐藤にモテ期が来た、と手紙を記した事もあったが、新選組は近藤が組の顔として外で他の大名家や幕臣、宮家、公卿などと折衝する事が多く、内向きの仕事は土方が面倒を見ることが多かった。これが面倒だった。

第一に金。京都は消費都市で有力大名が大量に家臣を派遣し、土地を買いあさり、屋敷を新築したり、寺を借り上げて駐屯地にした。
そこに物が消費され、物価高となった。
新選組は隊士を集めて食わせるが、食料、武具弾薬など金がかかり、借金で金策を行うが、返済出来るかは別の話。

第二は人員。衛生面で残飯が山積み、隊士はフル◯ンや(ふんどし)一丁でごろ寝など当たり前。稽古による怪我、斬り合いによる負傷、風邪や食中毒なども絶えなかった。常駐の医師*1がいる訳でもなく、動ける人数を常に把握しながら、業務を行うのである。

第三は配置。新選組は武士、農民、町人などで構成されている。斬り合い担当は必要不可欠だが、事務処理能力に長けた担当も必要不可欠である。商人出身で勘定方の河合耆三郎(かわいきさぶろう)などが働いていたが、経歴的に土方も十分な有資格者として事務処理をしていたのではないだろうか…
後日、安富才助が加入するが、彼は備中足守木下家で勘定方として働いていた経歴の持ち主で、土方からすれば、喉から手が出るほど欲しい人材であっただろう。

この手の問題が解決するのは、池田屋事件や禁門の変が終わり、近藤が江戸で奥医師の松本良順(まつもとりょうじゅん)と仲良しになり、そのツテでテコ入れをして改善されるまで待たなければならなかった。


新選組(禁門の変以降〜戊辰戦争まで)

新選組は本来、攘夷を行うために京都までやって来た。しかし、それが行われず、代わりに治安維持を行うようになった。近藤を筆頭に新選組はそれが不満で、再三再四、幕閣に「攘夷をしないなら解散しろ!」と訴えていた。ことごとく、無視されたが…
当時在位していた孝明天皇(こうめいてんのう)は幕府による攘夷を第一とし、京都守護職の松平容保(まつだいらかたもり)を溺愛していた。天皇と将軍が対立すると土方は佐藤に宛てた手紙で「天皇と将軍のケンカとか誰得?(意訳)」と記している。この頃から新選組は方針を「尽忠報国」から「孝明天皇の御心」に従うことに改めた。孝明天皇の御心は公武合体による国内再統一である。
方針変更は新選組にショックを与えた。その最たるモノが山南敬助の切腹である。
池田屋事件あたりから病気気味で、この頃は思うように剣を振るうことが出来ず、体調不良や方針変更に絶望して抗議のために自刃したとか諸説ある。

近藤との間にも片方が京都を出る時は、もう片方が京都に残るという暗黙のルールが出来た。
一度だけ、土方が江戸、近藤が大坂へ人員募集に出かけた時に、新加入の参謀・伊東甲子太郎(いとうかしたろう)が留守を担当したが、後は近藤か土方のどちらかが京都にいることになった。

特に近藤が長州征伐関係で広島に2度出張すると両方とも土方が留守を担当した。

慶応3年(1867)6月10日、新選組そのモノが会津預りの浪士団から幕臣に取り立てられた。身分は近藤が御目見以上御取扱(300俵旗本)、土方が見廻組肝煎格(70俵5人扶持)、沖田総司、永倉新八、井上源三郎、原田左之助、山崎烝、尾形俊太郎ら隊長格が見廻組格(70俵3人扶持)、吉村貫一郎、大石鍬次郎、安富才助、岸嶋芳太郎、安藤勇次郎、茨木司、村上清、谷周平ら隊長補佐は見廻組並(40俵)、一般組士89人は見廻組並御雇(7人扶持)の扱いだった。

土方が10月、江戸へ人員募集の旅に出ると、近藤が留守を担当する。
この旅で土方は故郷・日野へ戻り、義兄夫婦と再会する。夫婦の長男・源之助は農兵隊の指揮官を17歳で任されていたが、兵としての動き、指揮官としての働きが見事で京都に連れて行きたいと夫婦に申し出た。
土方は元治元年(1864)10月頃に近藤に宛てた手紙で「新選組は西洋砲術が上手くなり、長州征伐の先鋒は任せろ!(意訳)」と記していたが、その後は成長が停滞した。指揮官として源之助に新選組を西洋化してもらおうと考えた。しかし、姉からの猛反発でとん挫した。

江戸から戻ると、大政奉還、坂本龍馬暗殺と天満屋事件、伊東甲子太郎の暗殺と油小路の変、王政復古の大号令、伊東の残党による近藤の狙撃に負傷と短期間でイベントが目白押し。負傷した近藤の代わりに新選組を率いる。年下だが天然理心流では兄弟子の沖田は池田屋事件を体調不良で離脱し、後に病気と発覚。日を追うごとに病名も結核と判明し、形の上は一番隊組長として新選組のNo.3だが、一番隊は二番隊組長の永倉が掛け持ちする事になった。近藤と仲良く負傷者リスト入りし、後方に送られた。

慶応4年

慶応4年(1868)1月3日、鳥羽街道と伏見の市街地ほかで行われた鳥羽伏見の戦いで薩摩島津家、長州毛利家の洋式軍隊に完膚なきまでに敗れた徳川方。

大坂城にいた徳川宗家当主・徳川慶喜*2松平容保*3松平定敬*4板倉勝静*5ら僅かの供を連れて軍艦・開陽に乗り込み、大坂天保山沖から江戸に夜逃げした

鳥羽伏見の戦いは土方が新選組を率いて戦い、井上源三郎、山崎烝など隊士25名が戦死、行方不明が6名出た。負傷者は不明だが、この当時の新選組の人数は150名前後。徳川海軍に連れられ大坂城から敗走、中には脱走した者もいて、江戸に戻った時点で116名とある。

江戸に戻り、下総佐倉堀田家家臣の依田学海(よだがっかい)に「これからは刀ではなく銃砲の時代(意訳)」と話しているが、堀田家は既に軍隊の西洋化に成功している大名家である。新選組も4年前から西洋砲術を導入しながら、中々上達せず、薩長にコテンパンに叩きのめされた敗北感なのだろうか?
それでもこの台詞を口にするというのは、土方にも思うトコロがあったのかも知れない…

後に近藤が新選組を母体とした甲陽鎮撫隊を設立すると、土方はその副将に収まる。ついでに名前も近藤が大久保剛、土方が内藤隼人と改める。人員も鳥羽伏見の戦いで2割強の31名を失い、負傷者もいたので補充人員を募集したら、松本良順の友人・弾左衛門*6が子分100人を参加させるという話になり、徳川宗家から元込め銃やミニエー銃、大砲や軍資金を貰い、総勢200名で鎮撫予定地の甲府城に向かう事になる。

実戦経験豊富な新選組とそれ以外で実力に差があり過ぎ、宴会をしながら時間稼ぎをしつつ烏合の衆をなんとかしようとしたが、どうにもならなかった。近藤も天然理心流の門人たちに参加をうながす檄文を書いて各地に送ったが、やって来たのは佐藤彦五郎親子の農兵隊22名のみ。小島鹿之助など他の門人は武器弾薬や軍資金を集めたが、人員が中々集まらなかった。

数が足りないと感じた土方が江戸に赴き、援軍を呼ぶ事になった。一旦、日野の佐藤家に寄り道してから江戸に着いたが、何も出来ない。再び、近藤のもとに戻る途中の慶応4年(1868)3月6日に行われた甲州勝沼の戦いは太政官の勝利となり、近藤らは江戸へ敗走。軍事取扱の勝海舟から叱られたが、めげずに再戦を目指す事にした。この過程で近藤と永倉、原田の関係がギクシャクして、2人は離脱した。それとは別に近藤、土方は勝にあるお願いをしている。義兄・佐藤彦五郎親子の助命であった。勝は2人の依頼を引き受け、太政官側の参謀・西郷隆盛に話を付け、西郷の指示で佐藤親子は命を助けられている。

近藤は大久保剛から大久保大和に名前を改め、各地を転々とし、流山で拠点を構えたが、同年4月3日の昼、流山の本陣が太政官側に包囲された。

朝から新選組の大半は訓練で出払っていて、残っていたのは近藤、土方ら十人前後。

生き残りである近藤芳助の記録では、近藤は切腹を覚悟したが、土方が板橋の太政官総督府まで出頭し、鎮撫隊である事を主張し通した方が良かろうと奨めた、とある。

近藤は素性を隠し出頭したが、御陵衛士の生き残りである加納道之助(鳶雄)や、かねてより坂本龍馬中岡慎太郎の暗殺を新選組による犯行と信じている水戸出奔で、当時東山道軍総督府大軍監を務めていた香川敬三らに正体を見破られた。それでも太政官側は徳川宗家に身分照会を行ったが、徳川宗家は「大久保大和なんて徳川宗家にいません。殺したければ好きにして下さい。それであなた方の鬱憤が収まるなら安いモノです。(意訳)」という返答だった。
慶応4年(1868)4月25日、板橋で斬首。首は三条河原に晒された。

因みに新選組の大半は太政官に武装解除された上で斎藤一や安富才助が引率して先に会津松平家に移動している。

土方は翌日江戸に行き、勝海舟と何か話した様子だったが内容は不明とされる。しばらく江戸に滞在した後、江戸城が太政官に明け渡された4月11日から12日にかけて徳川陸軍を脱走した部隊や反太政官側の義勇軍が下総の国府台に結集した。数は2000〜3000名ほど。土方は少数の隊士と共にその流れに参加する。大きく3つに分けて、元歩兵奉行の大鳥圭介(おおとりけいすけ)が全軍を指揮し、土方は全軍の参謀と先鋒隊の参謀を兼任した。

先鋒隊の指揮官は伝習第一大隊長の秋月登之助(あきづきのぼりのすけ)が務め、この先鋒隊が4月19日に宇都宮城を陥落させ、直接指揮を取った土方の戦闘指揮能力が爆上がりの評価をした。土方の指揮下で指揮官を務めた立見尚文(たつみなおふみ)*7が「無断で退却する歩兵を一刀両断し、味方の崩れかけた士気を一気に立て直した。あれが一軍の将の振る舞いか(意訳)」と話している。

しかし23日に逆襲を受けて落城、撤退。この時土方は右足を負傷して会津に退き、療養生活に入る。29日に会津城下に到着し、先に行った斎藤一らの新選組130名と合流。山口次郎と改名した斎藤一が隊長として会津軍傘下で白河口に派遣された。

慶応4年から明治元年へ

負傷した土方の傷が癒えたのが6月頃。この前後から土方は活動を再開している。6月15日、会津城下に来訪していた輪王寺宮公現法親王(りんのうじのみやこうげんほっしんのう)*8やその側近・覚王院義観(かくおういんぎかん)、元陸軍奉行の竹中重固(たけなかしげかた)*9らと面会している。竹中とは江戸から会津に50挺の元込め銃と弾丸4万発が送られてくるので、これをどう活用しようか?と相談している。

7月頃には徳川脱走軍を率いて白河口で参戦するも戦果はなく、8月22日の母成峠の戦いでは土方や斎藤指揮の新選組は会津軍に参加。大敗すると斎藤と口論の末、斎藤らは会津に残留。土方らは会津を離れ、最終的に仙台に行く。
同行していた庄内酒井家家臣・服部十郎右衛門(はっとりじゅうろううえもん)に「国内に味方がいないなら、外国の力でも借りるかな?(意訳)」と口にしたと、服部は8月25日の日記に記している。この段階で滅びの美学など土方には無縁で、どこまでもあがき続けるのである。

9月3日、仙台に到着した土方は仙台城で行われた反太政官の軍事同盟・奥羽越列藩同盟の軍議に参加する。徳川宗家が無事に駿河70万石に移封されたのを見届けた海軍副総裁の榎本武揚(えのもとたけあき)が脱走艦隊*10を率いて仙台にやって来る。

鳥羽伏見の戦いで敗走時に一度対面しているが、この時に再会して意気投合したのか、榎本は同盟の軍議に参加し、土方を奥羽越列藩同盟の総司令官に推薦した。
土方は「生殺与奪の大権をオレに委ねろ(意訳)」と条件を突き付けたがこの話、最終的に否決された。
9月12日に仙台城内で榎本、土方が伊達家の会議に参加して徹底抗戦を主張した際、太政官への恭順を主張する伊達家の執政・遠藤文七郎(えんどうぶんしちろう)から「土方は器がちっちゃい(意訳)」と酷評されている。

大鳥圭介ら徳川脱走軍や新選組も仙台に到着し、榎本指揮の艦隊は旧幕府から伊達家に貸していた船舶を2隻徴収して、海路蝦夷地に向かうことになった。新選組はここまでの激戦で数が激減していた。
徳川脱走艦隊を指揮する榎本が戦闘員以外の乗船を厳しく制限しており、この艦隊に乗船していた元大名の松平定敬(まつだいらさだあき)小笠原長行(おがさわらながみち)板倉勝静(いたくらかつきよ)らの家臣は少数しか乗船が認められていなかった。

そこで土方が助け舟を出し、榎本に提案して新選組に参加すれば、乗船を認めると許可を貰い、殿様と一緒に蝦夷地に渡りたい人達を新選組に加え、安富才助が新選組隊長並として彼らを率いた*11
蝦夷地に上陸した徳川脱走軍は軍を二手に分けて進軍したが、土方が指揮する部隊に新選組は居らず、もう一人の指揮官である大鳥圭介の指揮下に入り、進軍した。新選組のことばかり構っておれないのである。
五稜郭にいた太政官の軍隊を駆逐し、土方指揮の部隊が蝦夷地唯一の大名家で太政官に味方する松前家を攻略し、蝦夷地を平定した。この戦いでも新選組は傘下にいない。
その後、11月15日、江差にいる松前家の残敵掃討に旗艦・開陽を派遣したら嵐で座礁、沈没。助けに行った神速丸も座礁、沈没した。
この惨劇を目の当たりにした土方は口惜しさのあまり、涙ながらに丘陵の一本松を殴りつけたと、土地の古老による証言が残されている。

そんな一幕を挟んだ後、選挙が行われ、12月15日祝賀会を催した。

蝦夷島政権とか箱館政府とか後世呼ばれ、駐日イギリス公使館書記・アダムスは『共和国誕生』と記録している。
総裁・榎本武揚、副総裁・松平太郎(まつだいらたろう)、海軍奉行・荒井郁之助(あらいいくのすけ)、陸軍奉行・大鳥圭介、陸軍奉行並・土方歳三などが士官以上の選挙による投票で選出されたモノである。
土方には箱館市中取締という任務があり、箱館市街地を見回るのが新選組の役割だった。それまで新選組の隊長だった安富才助がこの時、土方の副官として陸軍奉行添役に就任、新選組から離れた。一説には陸軍奉行並といっても形だけで、陸軍の仕事は大鳥圭介が大抵こなしてしまうため、土方に警察業務を任せたとも。
代わりに新選組を率いるのは、元伊勢桑名松平家家臣の森陳明(もりつらあき)
参加時は森常吉(もりつねよし)と名乗っていた。


宮古湾海戦

唯一の逆転を目指して行われたのが、甲鉄奪取計画だった。
太政官は明治2年(1869)1月6日、アメリカ政府から甲鉄譲渡の契約書を取り交わし、甲鉄、丁卯、春日、陽春と4隻の軍艦、戊辰、豊安、晨風、飛龍と4隻の輸送船からなる艦隊を組み、3月9日品川沖を出港するも、暴風雨の直撃を受けて横浜に逆戻り。翌日、横浜を出港するとまた暴風雨の直撃を受けて浦賀へ流された。
13日まで艦隊を整えて、各自、盛岡藩領宮古湾に集結、という形で出港した。最終的に3月22日までに全艦集結した。

箱館アメリカ領事・ライスや密偵の探索により、太政官側の動向を掴んだ榎本軍は甲鉄対策会議を行い、席上、回天艦長・甲賀源吾発案による甲鉄奪取作戦を採用した。航続距離の関係から必ず宮古湾にて補給を行い、艦列を整えるために停泊する甲鉄へ近づいて、奪うのである。

回天、蟠龍、第二回天*13が甲鉄奪取作戦の戦力で、回天は指揮艦として他の艦を引き付け、蟠龍、第二回天が甲鉄の左右に横付け、艦内を制圧して乗っ取るというモノ。

宮古湾への侵入は外国旗を掲げて、攻撃寸前に日の丸に改めることとして、明治2年(1869)3月20日夜半、箱館を出港した。

旗艦・回天に海軍奉行・荒井郁之助、検分役・土方歳三、フランスに「接舷切り込み作戦(アボルダージュ)」と呼ばれる作戦がある、とアドバイザーでフランス軍人・ニコール*14が乗船。斬り込み隊が46名。甲鉄を操艦するための要員として200名。

蟠龍にアドバイザーでフランス軍人・クラートと斬り込み隊42名に操艦要員100名。

第二回天にアドバイザーでフランス軍人・コラッシュと斬り込み隊25名に操艦要員100名。

途中、暴風雨で散り散りになり、回天と第二回天で斬り込みを行う直前になって第二回天が機関部不良で動きが極端に遅くなり、回天単独の斬り込みとなった。これが明治2年(1869)3月25日の出来事。

回天単独で8隻の太政官艦隊へ斬り込みを提案したのはニコールである。彼はかつて50名のフランス海兵隊が300名乗船のイギリス船を拿捕したことがあると話すと甲賀がヤル気になり、斬り込みを決行した。

回天は外輪船のため横付け出来ず、甲鉄に乗りかけたのだが、回天から甲鉄までの高さが3m程度あり、斬り込み隊は躊躇する。

なんとかバラバラと降りたは良いが、各個撃破の餌食となり、甲賀も頭を撃ち抜かれて戦死、30分程の交戦で戦死者15名を出したため、荒井は撤退を決めた。回天は撤退途中に蟠竜と合流して26日夕方には箱館まで退却したが、機関故障を起こしていた第二回天は途中で捕捉され、盛岡藩領・羅我沖で自ら船体を焼き、コラッシュを含めた乗組員95名が降伏している。

太政官側はこの作戦を事前に察知はしていたが、敵艦隊より暴風雨が怖い、と海軍幹部は船を降りて陸上にいた。陸軍参謀・黒田清隆(くろだきよたか)は偵察でもしたら?と提案するが、無視された。この海戦に春日の海軍士官として参加した東郷平八郎(とうごうへいはちろう)は「意外こそ起死回生の秘訣」として後年まで忘れず、甲賀源吾を勇者と讃えた。


最期

甲鉄奪取作戦の失敗により、上陸阻止は不可能となった。上陸を待ち受けて戦うしかない。どこに上陸するか?も相手の選択に任せるしかないのである。

因みに太政官側の実質的な総司令官として蝦夷征討軍海陸軍参謀に就任したのは山田顕義。薩摩の西郷隆盛から「小ナポレオン」とあだ名される天才肌の戦術家である。

明治2年(1869)4月19日、太政官の軍隊が江差の北側、乙部(おとべ)に上陸する。ここから箱館に至るコースは3つあって、山越えの二股口が最短距離である。土方はこの方面の防衛にあたった。新選組は箱館市街地の警備に終始し、どのルートにも割り当てられなかった。
土方指揮の二股口は善戦した。太政官側の戦況報告書には、一日に35000発の弾薬を消費するが突破出来ない。追加の弾薬を頼むと。それだけ敵の前進を阻んでいたが、他のルートが敗れて背後に敵が来るとなっては、撤退せざるを得ない。
ずっと海岸線を松前経由で廻るルートと途中で山を越えるルートは木古内で合流して箱館に迫る。海から甲鉄の艦砲射撃、陸は大軍の物量で榎本軍は押されて、箱館の五稜郭と弁天台場に押し込められた。

この劣勢を跳ね除けるため、土方は明治2年(1869)5月11日出撃したが、一本木関門を抜けて異国橋付近で飛来した弾丸に撃ち抜かれて戦死した。

土方が戦死した際、副官ポジの安富才助はその最期を看取り、5月16日付で手紙を書き、土方家へ渡す様に立川主税(たちかわちから)に託している。
同年5月18日、榎本武揚が五稜郭で降伏し、戊辰戦争が終結した。
太政官側が蝦夷地に上陸して約1ヶ月後の出来事であった。


余談

  • 土方は道場剣術が弱いと言われているものの、近藤勇の天然理心流にあるが、天然理心流の剣術は剣、小太刀、居合い、当て身の4つを総称したモノ。他流試合の時は剣術以外を封印した縛りプレイだったのではないか?
    現在でも残っているYouTubeの天然理心流稽古動画には、片手突きからの前蹴りとか、鍔迫り合いからのミドルキック、膝蹴りなどが残されている。なんでも有りの方が土方には向いていたのだろう。
  • 創作などでは規律に厳しい人物として扱われ、新選組内で「鬼の副長」と呼ばれていた。また、価値観や立場が真逆の人間からは上記の遠藤文七郎に「器がちっちゃい」、望月光蔵という徳川陸軍の事務方と口論になった際、望月は「器量が狭い」と口にした。箱館時代でも部下に慕われていたし、榎本武揚が遺していた書額には「軍議の際に部屋に入ってくると清らかな風が吹いてくるような、そんな爽やかな男だった」とも記されている。とはいえその一方で「仕事を部下に丸投げ」、「ただ威張るだけ」と辛口の批評も存在するが……。
  • 趣味の俳句では「豊玉」と号し、自身の句を集めた『豊玉発句集』も著している……句才についてはお察しください。
  • 東京都日野市には子孫の方が運営する土方歳三資料館があり、愛刀である十一代和泉守兼定*15が所蔵されている。なお、愛刀の展示は毎年命日の前後のみの上、開館自体も不定期なのでよく調べてからお出かけください。
  • 死亡したという扱いではあるが、新政府軍が遺体の確保に失敗したため生存説も実しやかに囁かれている。
  • 漫画家の荒木飛呂彦先生は土方に非常によく似ている。荒木氏が歳を重ねてもあまり老けていないのもあって、「実は土方が吸血鬼になって甦り、現代で漫画を描いているのだ」などと言われもする。
  • 写真からも判る通り、現代の基準で見ても端正な顔立ちに約160cm台と当時としては背も高かったので、女性には非常にモテていた。
  • 沢庵漬けが大好物だったとされ、特に小島鹿之助の親戚である橋本家のものを大変気に入り、大盛りの沢庵をおいしそうに食べた後に樽ごと背負って持って帰ったと言う逸話がある。
  • 仙台で新選組の追加人員を補充する際、唐津、桑名、備中松山の武士たちに戦う覚悟を聞いてから加入させたが、備中松山だけは新選組参加は箱館で殿様と一緒にいる為の方便と土方に聞かれてしまい、参加を断られた。唐津や桑名からの取り成しもあり、備中松山は再び参加を許されたが、全員平隊士の扱いになる。この処分に反発して3名が仙台で離脱し、備中松山から新選組に参加したのは8名となった。戦う顔をしない奴にはどこまでも厳しい人だったということか。
  • 勝沼の戦いで甲陽鎮撫隊が敗れ、近藤、土方は再起を目指して多摩一円で募兵活動を行ったのだが、幕臣・渋沢成一郎と府中付近で勧誘活動が被ってしまった。彼も反太政官の義勇軍を募っていたのだが、土方と縄張り争いをしてしまう。土方がキレ気味に渋沢に詰め寄り「ここで人を集めるのはヤメてもらいたい(意訳)」と言い放つ。渋沢は土方の殺気を感じ取り、募集を取り止め、田無や練馬付近で募集を再度行う事にした。2人は仙台で再会するのだが、これと言って逸話はない。上記の器量の問題ではないが、共通の敵に対して一致団結どころか、縄張り争いをするあたり、土方に視野の狭さ、器の小ささを指摘する歴史家は存在する。

土方歳三が登場する作品

漫画、小説、ゲーム、映画、ドラマと沢山あり過ぎ。
共通して言えるのは現存写真の存在もありイケメンな事。

実写作品では写真のイメージに近付けるべく、雰囲気が近い俳優をキャスティングすることも少なくない。



追記、修正は銃や大砲より剣が強いと思う方がお願いします。

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最終更新:2026年06月06日 02:32
添付ファイル

*1 山崎烝や浅野藤太郎など医学の心得を持つ者はいたが、江戸時代は医者になるのに資格や試験など必要なかった。朝廷や武家に仕える御典医(御殿医)などはコネや紹介なので話は別だが…

*2 日本国大君として国家元首を外国公使に宣言している

*3 前京都守護職

*4 前京都所司代

*5 首席老中

*6 江戸の芸能面などを支配した穢多頭(えたがしら)。部落差別など「賎称廃止の嘆願」を幕府へ提出していた彼は慶応4年(1868)1月29日、長州征伐に協力した功で手下65人と共に平民への身分引き上げが幕府から認められ、弾内記と改名、矢野内記という俗名を用いた。

*7 伊勢桑名松平家家臣。江戸詰で出奔した者からなる義勇軍を率いていた。後の陸軍大将。

*8 彰義隊が擁立していた盟主。後に奥羽越列藩同盟の盟主になる。

*9 ご先祖様はあの竹中半兵衛である。血の繋がりはないが…

*10 軍艦の開陽、回天、蟠龍、千代田形、輸送船の咸臨丸、長鯨丸、神速丸、美嘉保丸の8隻。嵐で美嘉保丸は沈没、咸臨丸は離脱、拿捕され、実際には6隻が仙台に到着した。

*11 池田屋事件を経験した古参隊士の島田魁や蟻通勘吾もいる中で、安富才助が隊長というのは抜擢である。

*12 局外中立とは、戦争をしている国同士、もしくは内戦中の勢力のどちらにも味方せず、公平な態度をとるという、国際法上の立場の事。

*13 秋田藩が所有する軍艦・高雄が榎本支配下の箱館に入港。拿捕され、乗組員は全員、太政官へ送り返し、船は接収して第二回天と艦名を改めた。

*14 ニコールが発案者である説もある。

*15 幕末会津藩で「和泉守兼定」の名跡を継ぎ活動していた刀鍛冶(十一代会津兼定)の打った新刀。『燃えよ剣』等では「二代和泉守兼定(之定)」所持説が描かれているが、実際に二代和泉守兼定をも土方は所持していたのか、あるいは単に十一代が二代と勘違いされたのかは不明。