丹羽長秀

登録日:2010/12/29 Wed 09:40:54
更新日:2025/03/25 Tue 15:17:54
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丹羽(にわ)長秀(ながひで)

1535~1585

戦国時代、及び安土桃山時代の織田家家臣である。
丹羽長政の次男として尾張国春日井郡児玉(現在の愛知県名古屋市西区周辺)に生まれる。

内政、外交、軍事とあらゆる分野において優れた手腕を発揮した事から、生活に無くてはならない兵糧になぞらえ、「米五郎左」と称された一方で、
軍事では織田四天王の一角を担い、「鬼五郎左」と呼ばれた。

織田信長の美濃攻略の頃より次第に頭角を著し、柴田勝家に並ぶ2番家老を務め、信長麾下で一番最初に国持ち格の領地(若狭国)を与えられた。
安土城の普請奉行を執行うなど織田家に欠かせない存在となり、京都御馬揃えでは一番での入場を果たした。

しかし、その功績の一方で軍事的な面では、浅井攻めの後は目立った功績もなく援軍や遊撃軍止まりで織田家において、独自の軍団を指揮する事は無かった。
所領においても同じ宿老の柴田勝家が越前49万石だったのに対し、
長秀は若狭1国(8万5000石)を得てからほとんど伸びず、勝家はおろか秀吉(播磨、但馬、40万石)や光秀(丹波一国、34万石)よりも少なかった。
若狭は、当時の日本の表海道である日本海に面して京・大阪湾へ直行陸路の走る始点の港を持ち、北陸への玄関要地を兼ね、冷遇と言ってもいけない地域ではある*1
信長にとっては、大兵力を直に運用して前線を地方に押し広げる軍団長ではなく、日本海を抑えつつ畿内にいつでも目を配り、
また次代の軍団長であり全国を治めるべき息子達を補佐してほしいベテラン宿将というイメージだったのかもしれない。

本能寺の変時には織田信孝と四国征伐を行う直前であり、大阪に駐屯していたが、兵の混乱を治める事が出来ず、
羽柴秀吉の来着を待つ事しか出来ず、織田後継者争いにおいてはいち早く秀吉側に付いている。
この頃から秀吉に対して主人と家来ともいえる関係に変わるなど立場が変化している。
その後、清州会議では秀吉方に付いたのが功を奏したのか、自分の所領の約2倍近い近江国の2郡(15万石)を加増されている。
賊ヶ岳の合戦以後、旧領に代えて、越前・南加賀など60万石の大大名となったが、その2年後、死去。
胃癌とされているが、一説には主家を蔑ろにした秀吉に腫瘍を送りつけるため、切腹したともされる*2


没後も丹羽家は残り、息子・長重は官位では優遇されるものの、領地は大幅に減封されて10~12万石に落とされた。
西軍についた関ヶ原では前田利長軍と「北陸の関ヶ原」に至り、8倍差の寡勢ながらこれに勝利。
もっとも前田利長とは残存織田系でも古株同士、共に信長の娘を娶った相婿・親族関係だったので、
東軍勝利により一度は改易されるものの前田家や徳川秀忠の口利きもあって3年後には大名に復している。
畿内や濃尾に戻ることはなかったが白川で10万石を領し、関ヶ原の影響で改易された後に10万台の石高を取り戻した稀な大名として立花宗茂と並び称される。

徳川幕府下では17世紀半ばから二本松藩の藩主になり、そのまま維新まで生き残り続けた。
同格だった幹部仲間でも豊臣・柴田・明智は直系が滅び*3、滝川一益・佐久間信盛の末裔は幕臣に格下げとなっているので実は勝ち組だったのかも知れない。清洲会議メンバーでいえば姫路城を建て、岡山・鳥取と二つの大藩を治めた池田もいるが…。
如何せん織田系では前田利家という超下剋上から明治まで保った「勝ち」の壁が高いので、地味な印象は付きまとうが…。



【逸話】

前述の通り織田信長からは絶大な信頼を受けており、「長秀は友であり、兄弟である」とまで言わしめた。
その証拠に長秀自身は信長の兄の娘を、その間に生まれた長秀の子長重は信長の娘を妻としている。

惟住(これずみ)と言う名字を持っており、これは明智光秀の「惟向(これとう)」と共に九州に多い姓であった事から、九州征伐時に起用を検討していた可能性がある。
しかし、それ以降一切の官位を受けていない。これは度重なる薦めに対して長秀が「俺はただの五郎左で結構」と固辞し続けた為、という説がある。

豊臣秀吉の名乗った名字の一つである『羽柴』は、丹羽氏の『羽』と柴田氏の『柴』を一字ずつ貰ったものだとされる。
『羽柴秀吉』を名乗った時には、丹羽長秀と柴田勝家が織田家の有力な家臣とされていたため、名字の元ネタとして有力な説の一つとされるが、
家格で言えば勝家の方が上であったため、もしもこの二人から一字ずつ貰うのならば長秀由来(のはず)の『羽』が先には来ない*4のでは、という反論もある*5


【丹羽長秀を取扱った作品】



  • 漫画
戦國ストレイズ
信長の忍び



  • 信長の野望シリーズ
  • 太閤立志伝シリーズ
傾向としてはバランス型能力で、どちらかと言えば政治寄りの能力が高め。
技能・スキルシステムが定着した時代からは安土城の功績がピックアップされた形で、築城系の能力が全国トップクラス。
しかし、同じく築城が得意、かつ、政戦万能な秀吉や藤堂高虎が同僚にいる時代が多く、戦争系でも柴田勝家・滝川一益には水をあけられる按配で、やはり二番手以降の損をしがちなイメージ。
彼らに仕事を割り振った後でも与えられる仕事は常にあると言うポジションとしては、鬼や米より「木綿(藤吉)」寄りかもしれない。
もちろん、人材潤沢な織田家だからそんな贅沢を言えるわけだが。

残念ながら固有の歴史イベントも非常に少ない。『Ⅴ』の本能寺の変でさえ織田汎用城主扱いで蚊帳の外、山崎の合戦にも声が掛からない。
しかし、一応、清須会議には呼ばれる……と思いきや、1575・1582年シナリオ以外では清須会議が起こらない事がかなり多い。
会議の条件が厳しい割に本能寺後の清須城のイベント分配が少し甘いのが要因。
でもそのおかげで史実展開が停滞し、秀吉と勝家がろくにいがみ合わないので信雄・信孝も合わせた四者が大名として共存し続けられる。NPCの敵対大名が攻め寄せてくるルーチンになるのは相当稀なので、旧信長領は太平である。
長秀にとっては、その方が理想的な天下なのだろうか…。


戦極姫シリーズ
戦国大戦
戦国ランス(「……地獄に落ちるといい」)





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最終更新:2025年03月25日 15:17

*1 少し後の鯖街道が有名。江戸時代の北前船も若狭を最重要拠点にしている。

*2 柴田勝家や織田信孝が「切腹して自分のはらわたを投擲した」話といい、当時散見されるこの種の臓腑系逸話は「太平記」との類似性が気になる所。当人達も太平記を知っていて真似たと思えば、あり得ないとも言えないのだが。

*3 まあ細川忠興の長男の家系には明智光秀の娘の血が流れちゃいるが

*4 =勝家に失礼

*5 これについては、最初から「はしば」の読みの姓を付けるつもりで、漢字を充てる段階で長秀・勝家両氏の姓から一字取った…つまり、姓を決める順序が特殊だったためだとする考察も。