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更新日:2025/09/28 Sun 05:07:39
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二本松少年隊は会津の
白虎隊より先に戦場で戦いながら、知名度に於いては天と地ほどに差がある、陸奥二本松丹羽家家臣団・少年兵の集まりである。
背景
本項の主役である二本松少年隊について語る前に知っておかねばならないのは、彼らが所属した
丹羽家についてである。
丹羽家は元々、
戦国時代、
織田信長を支えた家臣・
丹羽長秀を始まりとする家である。
しかし長秀の子・長重は秀吉に睨まれて没落したうえ
関ヶ原の戦いで豊臣方に付き
改易され没落したが、後に2代将軍・徳川秀忠の取り成しで大名として復活。
長重の子・光重の代となる寛永20年(1643)、お家騒動で改易された
地味加藤家の後釜として陸奥国安達・安積両郡で10万7百石の領有と本拠地を二本松に定める事が許された。
加えて二本松藩は国持大名に準じる高い家柄と扱われ、徳川への忠義に篤い風潮が出来上がる。
その後、220年余り丹羽家は続くこととなるが
- 丹羽家家臣団の子弟は毎朝の食膳で母親より切腹の作法を箸で教わり、領民たちから「武士の子供と蝮の子には手を出すな」といわれていた。
- 二本松丹羽家では節分の時、「鬼は外」と叫ぶと「お丹羽外」に聞こえるとして、「鬼外」「おにそと」と「は」を抜いて唱えていた。
- 衣食住も木綿の着用、寒くても布団の重ね着は禁止、食事は一汁一菜、家屋は平屋建、雨戸は緊急時に備えて取り付けをしないと縛りがあった。
など泰平の世の中を戦国時代のままの良くも悪くも古色蒼然な価値観を保ちながら過ごしていく。
一方、江戸時代での軍事行動は幕末期に入った安政5年(1858)9月22日〜慶応3年(1867)5月26日まで江戸湾富津台場警備に武士団を毎年300人派遣、文久3年(1863)10月〜12月の間、幕命により京都御所・建春門警備を担当。
元治元年(1864)の天狗党の叛乱には8月上旬から11月18日まで水戸徳川家領内に1111人の武士団を派遣した。同年4月9日と慶応元年(1865)9月5日には京都警備を命じられて武士団を派遣している。
この数度の京都警備で二本松藩士は薩摩島津家や長州毛利家が好き勝手放題する様を見て抱いた不快感と、京都守護職を務めた会津松平家の質実剛健さに感銘を抱き、これが後に会津側に付く動機となる。
しかし、肝心の武力、内政の方はというと、冷害に遭いやすい環境に加え、幕府から命じられる普請や役目に熱心に行い、財政は慢性的に危機的状況であった。
加えて古色蒼然な価値観と丹羽長秀の末裔という自尊心は非常に保守的な風潮を生み、軍制改革や行政改革を主張する若手家臣団に対して、丹羽家の重臣たちが「新規事業で領民に年貢の負担を掛けるのは行政として間違っている」という建前と「この赤字でさらに新規事業は金が掛かるし、面倒臭いからヤりたくない。てか伝統に従ってりゃ十分強いだろ、現状維持」という本音で若手の声を握り潰し最先端の西洋式軍備にほとんど興味を示すことはなかった。
慶応4年(1868)に始まった戊辰戦争では、上述したような事なかれ主義と近隣諸大名の動向を伺う姿勢、領地のお隣に会津松平家がいる事もあり、会津松平家に対して露骨な敵対は避け、京都からやって来た太政官の奥羽鎮撫総督府に対しては「農作業の繁忙期で戦争により領民に迷惑を掛けたくないから、戦争反対」という建前と消極的な現状維持を望む本音から面従腹背で臨んだ。
戊辰戦争
慶応4年(1868)3月、二本松丹羽家は太政官の命令により徳川宗家が管理する白河城を守備するが、閏4月20日、会津松平家が白河城を攻撃すると、戦うフリをしてサッサと逃げた。
同じ日、奥羽鎮撫総督府の下参謀・
世良修蔵が惨殺されると、丹羽家は後に結成される奥羽越列藩同盟に加盟する。
同盟側というと
越後長岡牧野家や
出羽庄内酒井家のように洋式装備を揃えた大名家もあった。
がしかし丹羽家は前述のように保守的な風土があったことや財政的にも決して豊かとは言えなかったことから、旧式の武装しか準備されていなかった。この時の丹羽家の装備は黒船来航の時代に鎧兜・弓・槍・刀・火縄銃からの法螺貝、陣太鼓、旗指し物と武者人形さながら……はっきり言ってしまえば戦国時代丸出しの格好だった。
最も長岡藩や庄内藩は藩政改革に成功した例外であり、例えば同じ東北で佐竹家が治める出羽久保田藩(秋田藩)も表高20万石ながら藩政改革が上手く行かず赤字続きで、この頃の装備は二本松藩と似たような有様である。
関東にまで範囲を広げても、下総佐倉堀田家や下野黒羽大関家みたく、
石高は大したことない割に幕閣となる度に出費がかさむ譜代大名でも軍制改革に成功して洋式装備を揃えた大名家もあれば、常陸笠間牧野家みたく戦国時代丸出しの格好で太政官に参加して大敗した大名家もいるなど、玉石混交だった。
最も、太政官側も長州毛利家など4年前の元治元年(1864)8月5〜8日に下関で行われた英仏陸戦隊との交戦では毛利家がゲベール銃・火縄銃・槍・刀・弓と二本松と同水準の武装で、ミニエー銃やエンフィールド銃で武装した英仏軍と戦い大敗した。
そこから長州は
大村益次郎のメソッドによる人材育成や薩長同盟による薩摩の援助により息を吹き返し、この立ち位置にいるのだから、奇跡のV字回復である。
徳川幕府が定めた軍役は、1万石につき約200人であるから、武士の数は2000人。この他に農民から兵隊を徴募して500人の農兵隊を組織し、総勢2500人とそこそこな規模であったが、戦国時代の格好をした武士がミニエー銃やエンフィールド銃で武装された太政官の洋式軍隊に敵うはずもなく、既に長州が攘夷戦争で立証済みであり常に大敗し続けた。
それでも同盟は越後口や秋田口では奮戦したが、肝心要の白河口の戦いで大差が付いていた。
これで太政官側の指揮官が無能だったなら勝ち目もあったかも知れないが指揮官が薩摩島津家の伊地知正治、川村純義、野津道貫、大山巌、土佐山内家の板垣退助、谷干城、山地元治と実力のある指揮官を揃えており、はっきり言ってデータの時点で勝ち目の薄い戦いであった。
一方の同盟側はと言うと、主戦力である会津松平家や仙台伊達家が数こそ出したが武器や軍制の規格がバラバラの烏合の衆であり、会津松平家の白河口総督で家老・西郷頼母などは人の意見に耳を傾けず、自説に固執し大敗、更迭されているなど役に立たなかった。
仙台伊達家も62万石と石高こそ大きいものの、初代
政宗のやらかしが尾を引き
伊達四十八館と呼ばれる48の領主が34万石の領地や家臣を分割支配、殿様が28万石の領地を治めて直属の家臣を養う、地方知行のスタイルを幕末まで続けていた。これでは統一された軍事制度がなく、殿様含め49通りの軍隊による連合軍で構成されていた。
しかし統一された軍でない故に武器も規格も編成もバラバラの烏合の衆でしかなく、戦争では役立たないと敵味方から酷評され、丹羽家の公式記録にも「役立たず」と明記される有り様であった。
そうした状況から、気を吐いたのは軍よりも山口次郎こと斎藤一指揮の
新選組と仙台伊達家家臣・細谷十太夫指揮の衝撃隊、俗称・鴉組と呼ばれるゲリラ部隊だった。
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鴉組とは? |
隊長の細谷が八咫烏の刺繍が入った陣羽織を着用し、八咫烏の旗を掲げて戦い、兵隊達も黒装束を身に纏った為、鴉組の俗称で呼ばれた。兵隊は細谷が伊達家の武士団が「ドン五里=大砲がドンとなると、15km(一里は約3km)先まで逃げた事から付いたあだ名」と敵味方に嘲笑されていた事に細谷は呆れ果て、付き合いのあるヤクザの親分衆に兵隊を頼むと、親分衆も「細谷のアニキが戦うなら、あっしら、戦いますよ」とヤクザ達は組織を挙げて応じてくれた。
当初は長ドス一本、近代戦術ガン無視の夜襲切り込み部隊だったが、戦果を挙げて、太政官から「夜の眠りの妨げになる」と嫌がられた。戦闘に慣れてくると、太政官の部隊からエンフィールド銃やスペンサー銃を鹵獲し、戦闘力を上げていった。ヤクザ部隊だが、地元民の人気者として愛されていた。
戊辰戦争で仙台伊達家が降伏すると、鴉組は解散させられ、隊長の細谷は太政官から指名手配犯として追われる身になったが、地元民に愛されていた細谷は庇護を受けて匿われ、大赦令が出るまで逃げきった。
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二本松城攻防戦
そして慶応4年(1868)7月26日、ついに二本松丹羽家の隣国、三春秋田家を占領した板垣退助は二本松城攻略の準備を行う。
板垣は丹羽家が各地を転戦していた影響で城が主力不在のノーガードであることを突き止めており、簡単に奪取出来ると判断し躊躇すること無く総勢約3千の軍を進めた。
一方の丹羽家では軍議が開催されていた。
……とは言っても当主の長国は体調不良で床に臥せっており戦など出来る状態ではなかった。そのような状況で重臣たちは城を枕に討ち死したいと拘る長国をどうにか宥めて、米沢上杉家に亡命させ、城下に住む武家の家族、町人らに避難を命じた。
一方、家老・丹羽一学は軍議を「死を賭して信義を守るは武士の本懐」と同盟を結んだ大名家からの信用を失う事は避けなければならない、と徹底抗戦に断を下した。
上沢直之「義理ってなんですか?」
そうしてどうにか兵力をかき集めて千人の軍勢を15箇所の陣地に配置した。ここに本項の主役、二本松少年隊が含まれていた。
元々、丹羽家の軍制では戦力は17歳まで、と決めていたが、戦死者多数によりそんなことも言ってられなくなり、やむなく制限年齢を下げて最終的に13歳までの少年を兵隊に組み込む事を黙認した。
少年兵の大半は江戸で西洋兵学を学んで帰ってきた砲術師範・木村銃太郎の門下生16人を中心に総勢23人で組織され、他に17歳未満で他隊に属する40人が存在する。
慶応4年(1868)7月29日、二本松城攻防戦が開始された。二本松城は標高345m程度の小高い丘に作られた城で、金と人と装備がキチンとあれば、西南戦争における熊本城みたいな堅牢な要塞となっていたかも知れない。
しかし現実は無常。財源も資源も無い為、畳や土嚢、丸太を積み上げた陣地にミニエー銃、ゲベール銃、火縄銃など規格がバラバラな装備と攻守共に粗末で兵の質も武士を除けば農兵隊、少年兵、老人兵とお察し。会津軍から150人、仙台軍から250人の増援が来たが最新式の武装をした3千の軍勢の前に焼け石に水であった。
こんな悲惨な状況であったが、丹羽家としては、武士の面子を守る為、殿様や領民の逃げる時間を稼ぐ為に、踏み止まって戦うの一択であった。
木村隊は前日の朝7時に、丹羽家からの通達で丹羽家の学問所・敬栄館前に集合した。身なりは白い鉢巻、筒袖にダンブクロと呼ばれるズボン履き、左袖に丹羽直違い紋が描かれた肩章を縫い付け、陣羽織を羽織り、刀は体格に比べ長い為、背中に背負った。
各自に軍資金1両3歩、ミニエー銃と雷管、弾薬、大砲が与えれれた後、大壇口に到着、布陣した。
大壇口は奥州街道の本宮宿から城下に入る関門である。緩やかや上り坂が続き、守りやすく攻めにくい。北上する太政官に対処するには、最も重要な陣地であった。
少年兵中心の木村隊がなぜそんな場所に?と思うかも知れないが、これは装備が良く、丹羽家の中で木村隊が一番西洋式の戦いに知識があるから、というモノだった。一応、後詰めとして数少ない正規軍の丹羽右近隊が背後に控えていたことからも分かるように捨て駒にされたわけではない。
そして木村隊は丹羽家の期待に応え奮戦。
大壇口を攻めた太政官側・板垣退助によれば、「地形を利用して身を隠して、弾丸を雨のように浴びせていた。激しい戦いだった」と述懐している。
先鋒を務めた薩摩軍・野津道貫は後年、「兵数不明の敵は、砲列を布いて我軍を撃退した。地形を利用し、射撃が正確で我軍は足止めを受けた。正攻法では勝てないと思い、軍を分けて迂回させ、側面からのゴリ押し戦法で何とか勝った。恐らく戊辰戦争中第一の激戦であった」と述懐している。
しかし長くは持たず、丹羽右近隊が駆けつけたが先に敗走。木村隊は忽ち包囲され、木村は退却を指示するも、途中で瀕死の重傷を負い、副隊長・二階堂衛守により介錯された。
後を引き継いだ二階堂の指揮により退却したが、二階堂も途中で戦死、生き残りの少年兵たちは一団となり、二本松城の近くまで来て、城を見ると、黒煙をあげて燃える武家屋敷と二本松城が見えた。
生き残りの少年兵たちは、会津松平家に亡命する者と二本松城と運命を共にするとして、城に入った者に分かれた。
城下で白兵戦に及んだ少年兵たちは、丹羽家より「刀は斬らずに突くもの」と教わり、刀を腰だめに構え、体当たりで突きに行った。
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二本松丹羽家が刀を突く理由 |
二本松丹羽家にこの様な話が伝わる。
元禄14年(1701)3月に起きた江戸城・松の廊下事件を二本松城で聞いた丹羽光重は病床から起き上がり、「何故、孫は斬りつけたのか! 突けば必殺であったのに!」と悔しがり、その後、二本松丹羽家の剣は突きこそ全てと言う方針になったと言われる。
ちなみに、光重の妹が赤穂浅野家初代・長直に嫁ぎ、孫が後に有名な浅野内匠頭長矩であった。
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二本松丹羽家自体は、軍師・小川平助の奮戦もあったが、正午過ぎには二本松城は陥落し、家老・丹羽一学を始め丹羽家首脳陣は割腹自殺を遂げた。
犠牲者は太政官側が戦死者12人、負傷者35人。
同盟側は二本松丹羽家が戦死者245人、負傷者28人、仙台伊達家が戦死者8人、負傷者1人、会津松平家の犠牲者は不明。判明している分だけで戦死者253人、負傷者29人となる。
その後の二本松丹羽家は会津松平家に逃げ込んだ武士団で一隊を組織して母成峠の戦いに臨んで敗れ、先に亡命していた長国は米沢上杉家に亡命、母成峠で敗走した武士団は会津鶴ヶ城の籠城戦に参加した者と長国を追いかけ、米沢城下にいる長国と再会した者に別れる。
明治元年(1868)9月10日、米沢城下に駐屯する越後口総督府に降伏。同年10月23日、当主・長国は東京の前橋藩邸に移送され、同年12月7日、隠居・謹慎。米沢藩上杉家から養子・長裕が後を継ぎ、5万石に減知された。
二本松丹羽家の戊辰戦争での戦死者は337人、負傷者71人。
太政官から反逆首謀者を差し出せと通達を受けた際、既に死去している家老・丹羽一学の名前を提出、これが認められ太政官から家名断絶となったが、明治16年(1883年)に家名再興が許された。
その後
少年兵の生き残り達は明治の社会に溶け込んでいった。会津松平家の白虎隊には語り部がいたが、二本松の少年兵には中々現れなかった。
しかし、生き残りに当時14歳の水野進という人物がいた。水野は戊辰戦争後、好之と名前を改めて竹根小学校長、二本松町助役、安達郡会議員、二本松電気・仙台電気常務役などを歴任して二本松の復興に尽力した二本松の偉人である。
そんな彼が大正6年(1917)に記した「二本松戊辰少年隊隊記」と同年7月、二本松で行われた戊辰戦争追悼50回忌の折、水野が少年兵の集団を「二本松少年隊」と命名、少年兵63人が戦場に出て、戦死者18人を記録し、その内の16人が木村隊であったと言われている。
その後昭和15年(1940)に「二本松少年隊」という無声映画が松竹にて製作された。
『二本松少年隊』(1965年)高橋掬太郎作詞、細川潤一作曲、唄:三橋美智也(第16回NHK紅白歌合戦で歌唱)というものもある。
全国ネットでのドラマ化は無い。
評価
同時代人からは好意的に評されており、板垣退助や野津道貫、特に板垣は「一藩こぞって身命をなげうち、斃れてのち已むまで戦い抜き、武士道の精髄を尽くしたのは二本松をもって最上とする」
と大絶賛し、徳富蘇峰は「会津・二本松がいるから日本は植民地にならずに済んだ」と評している。
徳富蘇峰の意見は現在では微妙な感もあるが…
現在では会津がプロイセンへ蝦夷地の預かり地を担保に金を借りる算段をしたら、プロイセン側が商品価値無しとの返答をして、慶応4年(1868)7月にイギリス商人から会津領内の鉱山収入を担保に50万ドルの借款契約をした話がある。
このプロイセンやイギリス商人の借款契約の話など、元公用局員の河原善左衛門が国産奉行という担当者として記録を残していたが、研究する側が思い込みで会津は滅びの美学などと決めつけている感が強く、あまり取り上げられない。
しかし、これについては後の帝国日本も外国の助けが無ければ、ロシア帝国と満足に戦争が出来ないと前述の徳富ら同時代人は良く理解しており、当時としては理にかなった部分もあることは理解するべきだろう。
徳富は政府のスポークスマンとして時の総理大臣・桂太郎からポーツマス条約の条文を見せてもらい、自身が主宰する「国民新聞」に全文を掲載。これを読んだ大衆は日比谷焼き討ち事件の際、国民新聞社を焼き討ちした。
徳富からすれば、筋の通った正しい事をして何故、叩かれるのか?とした際、脳裏に浮かんだのが会津や二本松だったのかも知れない…
二本松からは朝河貫一という第二次世界大戦にて日米戦争を回避すべく奔走した日本人初のイェール大学教授を務めた歴史家が輩出されており、亡くなった際、AP電・UPI電を通じて「現代日本がもった最も高名な世界的学者が逝去した」とその死を悼み世界の隅々まで打電された。
関係者
- 木村銃太郎(1847〜1868年)
少年隊隊長。
二本松丹羽家・武衛流砲術師範・木村貫治(禄高65石)と妻・せんの間に長男として生まれる。
父親の下で砲術を学び、元治元年(1864)丹羽家の命令により江戸に遊学し、西洋兵学を慶応3年(1867)末まで学んだ後、翌年初頭に帰郷。
帰郷後、新規で4人扶持を与えられ、家督相続前の身ながら、師範として父親の砲術道場で兵学を教える事を命じられ、門下生に13、14歳の子弟16人が集まり、西洋兵学を教えた。
戊辰戦争・二本松城攻防戦では上述の通り、少年兵を指揮して重傷を負い、副隊長・二階堂衛守により介錯された。
- 二階堂衛守(1846〜1868年)
少年隊副隊長。
二本松丹羽家・家老・大谷信義(禄高1400石)の次男として生まれる。
二本松丹羽家当主・長国にお目見えした際、気に入られ、先祖の苗字・二階堂を名乗る事を許され、新規で10人扶持を与えられる。
戊辰戦争では木村の介錯をした後、少年兵を率いて退却行を指揮。丹羽家の菩提寺・大隣寺まで来たところ、敵襲を受けて即死した。
- 水野進(1854〜1922年)
少年隊隊士、語り部。
丹羽家家臣・青木平太左衛門の子に生まれ、後に土蔵奉行・水野甚内(禄高65石)の養子に入る。
戊辰戦争前は木村貫治の門下生として武衛流砲術を学んでいたが、二本松城攻防戦では木村銃太郎の指揮下に配置になり、大壇口で戦う。
木村、二階堂の死後は二本松丹羽家の敗残兵と合流し、母成峠の戦いに参戦した後、二本松に戻る。家族は無事であったという。
その後、好之と改めて、上述の様な人生を歩んだ。
追記・修正お願いします。
- 戊辰戦争の記述見る度に、幕末と1900年代の近さに驚くわ(当時としても時代遅れの装備なのは記載のある通りだが) -- 名無しさん (2025-09-17 14:02:51)
- 「小川の奮戦に感銘を受けた」←わかる。敵ながら天晴というやつだね 「小川の死体を銃剣で裂いて、その肝を分け合って食べた」←ぼっけもんが… -- 名無しさん (2025-09-19 18:08:44)
最終更新:2025年09月28日 05:07