長谷部誠

登録日:2012/01/14 Sat 23:21:05
更新日:2025/04/29 Tue 10:53:51
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長谷部(はせべ)(まこと)
(1984年1月18日・静岡県藤枝市生まれ)


ドイツのサッカーリーグ・ブンデスリーガのアイントラハト・フランクフルト所属のプロサッカー選手。


高校時代から将来の日本サッカーを背負う選手として期待されており、Jリーグ浦和レッズに入団すると高卒2年目からレギュラーに抜擢。
Jリーグのクラブとして初めてAFCチャンピオンズリーグ優勝を果たした浦和レッズ黄金期の立役者の1人となった。

当時はトップ下でプレーすることがある攻撃寄りのセンターハーフだったものの、ドイツではフィジカルの弱さも相まって全く通用せず。
長谷部はこの苦境から脱するためにプレースタイルの変化という答えを出した。

その後、ドイツへ渡ると鬼軍曹として知られるマガト監督の下で着々とトレーニングを積みフィジカルを強化。それとともにポジションはサイドハーフへと移していき、
今のバランサーへと変化した。


ポジションについて

本職はおそらく日本代表でもプレーしたセンターハーフ…なのだが、中盤の仕事はだいたいこなせ、運動量と献身性の高さから様々なポジションをこなす。

ヴォルフスブルクでは基本的に右サイドバック、センターハーフ、右サイドハーフで出場、そのユーティリティさから大変重宝された。

監督からの信頼も高く、味方ゴールキーパーが退場になった際、他に高身長の選手がいるにもかかわらず監督が長谷部にゴールマウスを任せるほどである。
(ちなみに1vs1に持ち込まれて決められました)

フランクフルトでも相変わらず様々なポジションに回されるも、リベロ(CB)としての活躍が増えたのが特徴的。
身長180cm程度とCBとしては非常に小柄だが、大柄なストッパーと3バックを形成することでこの弱点を補い、長谷部はディフェンスリーダーとして抜群のカバーリング能力を発揮。
CBコンバート後は、これまでのキャリアを通して特に目覚ましい活躍を見せた。抜群の危機察知能力と、長短のパスを織り交ぜて攻撃のタスクを振るう様から、ドイツサッカーのレジェンドであるフランツ・ベッケンバウアーになぞらえて『カイザー(皇帝)』という愛称が付けられるほど。
強豪バイエルンを破り優勝を果たした17-18DFBポカール決勝戦では、相手の戦術に合わせて中盤の底のアンカーと、3バックの中央のリベロを行き来するという八面六臂の活躍を見せた。
そもそも現代ではリベロという概念がCB全体に吸収されている状態で、長谷部のリベロもある種言葉の綾な部分はあるが、今や絶滅危惧種の生き残りのような存在である(良い意味で)。


日本代表

日本代表に初招集されたのは2006年。その時点では定着せず、ドイツW杯への出場は成らなかった。
本格的に定着したのは2008年、第2次岡田ジャパンからであり、
パサーの遠藤保仁とコンビを組み、センターハーフのファーストチョイスとなる。
また、2010年アフリカW杯からはキャプテンを任せられる。以降、日本のキャプテンと言えば常にこの男であった。
そして2018年ロシアW杯までの3大会に出場し、その後本田圭佑ら共々代表引退を表明。
本田より2つ年上の当時34歳。退くには妥当なタイミングであり、
世代の看板と不動のキャプテンの引退をもって、日本代表は新たなフェーズに突入することになる。


チームメイトとは良好な関係にあり、年下である香川真司長友佑都、内田篤人らにもよく弄られている。

反面、しっかりしたところもあり、皆で食事に行く際には年下の選手には待ち合わせ時間を一時間早い時間を教えるなどの気遣いもみせる。
これは先輩に失礼がないようにとの配慮であるが、二回目からは看破されており早い時間を教えても
「本当の時間を教えて下さい」
と返されたらしい。


鎌田大地とはフランクフルトで5シーズンの長期にわたるチームメイトだったが、鎌田がA代表デビューしたのがロシアW杯終了後のため、代表で肩を並べることはなかった。


なお、その後

チームの要として長きにわたって戦い、一線を退いた長谷部――であったが、それは日本代表としての話
重荷*1が下りたのか、ドイツに戻ってからさらなる輝きを見せる。
新シーズン当初はクラブ自体の不振や方針転換もあってレギュラーの座を失うも、3バックのリベロとしてレギュラーを奪還。
ヨーロッパリーグでは準決勝にまで駒を進め、長谷部も優秀選手を受賞するほどとなった。
19-20シーズンでは再び4バックのボランチに戻ったり立場が落ち着かないところもあったが、総合的には主力として活躍。
そしてフランクフルトは今期限りだった契約を延長し、引退後もスタッフとして雇用する予定であることを発表。
また、19-20シーズン終了後、彼より年上の選手3人が揃って引退・退団した結果、36歳の長谷部は20-21シーズン開始時点でのブンデスリーガ最年長選手となる見込みに。
07-08シーズン途中からドイツに渡ったため、20-21シーズンをもってブンデスリーガ14シーズン目と、紛れもないブンデスリーガの大ベテラン。
何度となくレギュラーを失ったりポジションを移されたり怪我に泣かされたりと順風満帆とは言い難い中で、1つの欧州リーグ、それも4大リーグの一角において継続してプレーした実績は類稀なものとなっていた。
その後も
さすがに歳だし控えに回る→守備が不安定になる→メディア「ハセベを使うべきだ」→スタメンに→安定する→クラブ「来年も頼む」
という流れを繰り返し、気がつけば2023年にも選手契約の延長が発表し、40歳の大台へ突入

23-24シーズンはある意味ようやくと言うべきか出場機会は最小限に留まり、シーズン終了が近づいた2024年4月、ついに今季限りでの現役引退を表明。
かれこれ4年前からの予定通り、引き続きフランクフルトの一員として指導者の道を歩むことが予定されている。
この時点でブンデスリーガでの出場試合数は383、これはドイツ人以外の選手の中で史上3位の記録。
ただし2位のロベルト・レヴァンドフスキ(現役だが現在国外)とは1試合差であり、その後最終節で出場してカウントを1増やしたため、暫定2位タイ・384試合出場としてピッチを去った。

なお、フランクフルトでDFBポカール(17-18)とヨーロッパリーグ(21-22)を優勝したのに加え、ヴォルフスブルク時代(08-09)にはブンデス優勝も経験したため、
ヴォルフスブルク・ニュルンベルク(1シーズンのみ)・フランクフルトと、決して強豪とは言えないクラブのみの遍歴で「国内リーグ戦」「国内カップ戦」「欧州カップ戦」の主要3タイトルを獲得したという稀有なキャリアとなった。
ちなみに浦和時代にも「J1」「Jリーグカップと天皇杯」「ACL」全て優勝しているため、2つの国で各種タイトルの獲得経験があることになる。


プレースタイル

豊富な運動量と危険察知能力を武器に攻撃の芽を摘み、攻撃時には縦の推進力のあるドリブルやパス、ミドルシュートでチャンスを作る。
また、コンディションの安定度と速いショートパスも長所である。
ウィークポイントとしてはパスの精度を欠きがちで、時折ピンチを招くことも。
30代中盤以降はより守備力に磨きがかかり、まさに燻し銀といった成長を遂げた。



その他

  • 将来的には監督をやることにも興味があるらしく、日々のトレーニングで自分が面白いと思ったものをサッカーノートに記録している。

  • クラブや代表での立ち回りについては周りを調整、調律することを心がけており、輪を大切にしている

  • 自己啓発本「心を整える。」を執筆。印税を東日本大震災被害者への支援金としてユニセフに寄付した。

  • 姉の子である姪にデレデレ。

  • Mr.Childrenのファンでありツアーにも行ったことがある。一番好きな曲は「終わりなき旅」。

  • 今では真面目な印象を受けるが、高校生の時はそうでもなかったようで、サボることも結構あったそうである。

  • 1人で温泉によく行っている。結婚した後でも続けたいそうだ。

  • その息の長い活躍っぷりから、フランクフルトはおろか他クラブでも「ベテランで高レベルを維持し続ける選手」の代名詞として「ハセベ」が使われるようになってきているらしい。


追記・修正は心を整えてからお願いします。

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最終更新:2025年04月29日 10:53

*1 日本代表は活動に遠征が嵩みがちなのもあり、単純に体力的な意味でも。