劉字(漢字)表記では花寧民国と書く
概要
東マジョリアからニヒジュード海に向かって突き出した、秦王国と秋津列島の中間のファニョン(花寧)半島に位置する人族の寡頭制国家。
この地域はかつて劉帝国の一部だったがエルニア帝国の侵攻を機に独立し、長い三国分立状態を経て近年一つの政府に統一された。
エルニア、劉、秦、秋津の四勢力の侵攻を撃退した実績を誇り、現在も魔物に対する守勢での粘り強さで知られる。四勢力の侵攻という外患と長く続いた三国抗争という内憂により国内が疲弊の極みにあり、攻勢に出たくても出られないという事情もある。
そのため西マジョリアからの冒険者制度の導入を主張する声が大きくなりつつあるが、やっと統一された国内に非国家の武力組織を導入することを危険視する声も根強い状況。
統一時、王ではなく民(厳密には貴族)が束ねる国ということで劉からは「民国」の国号を提案され、和解政策の一環としてこれを受け入れている。
地方統治単位は「州」、軍事単位は「(営)府」
この地域はかつて劉帝国の一部だったがエルニア帝国の侵攻を機に独立し、長い三国分立状態を経て近年一つの政府に統一された。
エルニア、劉、秦、秋津の四勢力の侵攻を撃退した実績を誇り、現在も魔物に対する守勢での粘り強さで知られる。四勢力の侵攻という外患と長く続いた三国抗争という内憂により国内が疲弊の極みにあり、攻勢に出たくても出られないという事情もある。
そのため西マジョリアからの冒険者制度の導入を主張する声が大きくなりつつあるが、やっと統一された国内に非国家の武力組織を導入することを危険視する声も根強い状況。
統一時、王ではなく民(厳密には貴族)が束ねる国ということで劉からは「民国」の国号を提案され、和解政策の一環としてこれを受け入れている。
地方統治単位は「州」、軍事単位は「(営)府」
内政
国家元首は二人で、文官貴族の代表者「文老」と武官貴族の代表者「武老」からなる。この二人の協議で国家運営がなされるが、意見が纏まらない場合は文老の判断が優先。文官優位のこの体制は、歴史的経緯(後述)によるものとなっている。
一方で地方では三国時代の王侯貴族が武力剥奪の上で温存されており、協議で判断が遅れがちな中央政府に代わって地方統治を行う。
一方で地方では三国時代の王侯貴族が武力剥奪の上で温存されており、協議で判断が遅れがちな中央政府に代わって地方統治を行う。
外交
歴史的経緯から劉、秦、秋津の東マジョリア三勢力からは距離を置いてはいるものの、逆に言えば中立であることやほとぼりが冷めたこと、何より三勢力を結ぶ地にあるという立地の良さから貿易中継国としての立場を目下建設中。
劉・秦抗争が膠着し、秋津で西マジョリアとの交流など国際化の機運が高まる中、ファニョン指導部は貿易による復興に期待を寄せている。
劉・秦抗争が膠着し、秋津で西マジョリアとの交流など国際化の機運が高まる中、ファニョン指導部は貿易による復興に期待を寄せている。
文化
国家元首の名が示す通り、高齢者や祖先を敬う文化が強い。この文化は独自の魔法系統である「徳道」によるもので、徳道では年齢を重ねた人物や歴史ある家柄の人物ほど強い力を扱えるようになる。
また徳道は年齢や歴史という積み重ねが物を言う世界であるため日常生活にも強化方法が組み込まれていて、例えば食事では徳道における五行のバランスが取れた色彩と栄養の多様性重視のものが喜ばれる。
ちなみに個人の年齢より家門の歴史のほうがずっと重要なため、エルフが徳道を修めると人族では歯が立たないというようなことはない。
また徳道は年齢や歴史という積み重ねが物を言う世界であるため日常生活にも強化方法が組み込まれていて、例えば食事では徳道における五行のバランスが取れた色彩と栄養の多様性重視のものが喜ばれる。
ちなみに個人の年齢より家門の歴史のほうがずっと重要なため、エルフが徳道を修めると人族では歯が立たないというようなことはない。
歴史
ファニョン地域の歴史記録は、劉帝国による征服と文字文明伝播により始まった。
時代が進み、花寧州と名付けられたこの地はエルニア帝国の侵攻による螭北占領で劉中枢から孤立したため、防衛の必要から現地豪族の下で三つの王国が建国される。花寧三王国はエルニア側としては主攻目標ではなかったことや半島という守りやすい地形も手伝って首尾よく防衛と国家基盤の確率に成功。エルニアの秋津列島侵攻の一因は、花寧半島迂回が求められたことであるとする説もある。
エルニアが撤退すると三国は劉の冊封体制からの離脱を宣言。これを認めない劉軍と三国のうち西に位置したム(矛)王国軍が交戦状態に入る。さらにこれを見た秦系遊牧民族が北のペク(白)王国領に侵入。乗り遅れるなとばかりに秋津系海賊が東のベン(勉)王国の沿岸を荒らしまわり、断続的に続いたこれら外部勢力からの襲撃により三国の軍事力は疲弊していった。
いつしか全ての外部勢力は各々の故郷での紛争に対処するため引き上げたが、今度は長く続く紛争により軍事政権化していた三国同士での抗争が勃発。守勢に優れる軍勢同士の戦いは泥沼の極みとなり、民衆の王侯貴族への不信感を強めながらダラダラと続いた。
そして、ついに近年、三国の軍事力は磨耗し尽くして組織として崩壊し、かねてより各国宮廷の文官たちが主張していた文治移行を妨げることは物理的に不可能となった。文治移行によって三国は統一され、王侯貴族に支えていた軍部は統一国家の武官集団へと再編成。こうしてファニョン民国は発足したのである。
時代が進み、花寧州と名付けられたこの地はエルニア帝国の侵攻による螭北占領で劉中枢から孤立したため、防衛の必要から現地豪族の下で三つの王国が建国される。花寧三王国はエルニア側としては主攻目標ではなかったことや半島という守りやすい地形も手伝って首尾よく防衛と国家基盤の確率に成功。エルニアの秋津列島侵攻の一因は、花寧半島迂回が求められたことであるとする説もある。
エルニアが撤退すると三国は劉の冊封体制からの離脱を宣言。これを認めない劉軍と三国のうち西に位置したム(矛)王国軍が交戦状態に入る。さらにこれを見た秦系遊牧民族が北のペク(白)王国領に侵入。乗り遅れるなとばかりに秋津系海賊が東のベン(勉)王国の沿岸を荒らしまわり、断続的に続いたこれら外部勢力からの襲撃により三国の軍事力は疲弊していった。
いつしか全ての外部勢力は各々の故郷での紛争に対処するため引き上げたが、今度は長く続く紛争により軍事政権化していた三国同士での抗争が勃発。守勢に優れる軍勢同士の戦いは泥沼の極みとなり、民衆の王侯貴族への不信感を強めながらダラダラと続いた。
そして、ついに近年、三国の軍事力は磨耗し尽くして組織として崩壊し、かねてより各国宮廷の文官たちが主張していた文治移行を妨げることは物理的に不可能となった。文治移行によって三国は統一され、王侯貴族に支えていた軍部は統一国家の武官集団へと再編成。こうしてファニョン民国は発足したのである。
州
ファニョン民国は九つの州から成る