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夕方から降り始めたのは、夏らしからぬ冷たい雨だった。
この雨がちょうど夜明け前にやむらしい。


ということは・・・・
ひょっとして・・・・


その予報を見ながら、僕はあることを思いついていた。
この天気、明日の朝まで低温が続いて湿度もかなり高い状態になるはず。


うん。間違いない。


これならいける。
明日はそれには絶好の日になるはずだ。
神様が僕にくれたその千載一遇のチャンスを逃したりするわけにはいかない。



だが、難問がひとつある。
それをクリアしなければならない。

そのために、さっきから僕はもう何分ケイタイと睨めっこしているのだろう。
かけようとしては、思いとどまってしまう。それを何回繰り返したことか。
気分は揺れ動いていたが、そのことだけを考えていたら、だんだん気持ちが高まってきた。

そして、ついに心を決めた。
意を決してケイタイの電話帳からその人の番号を選び出して通話ボタンを押した。

「もしもし、熊井ちゃん?」
「うん。今日はお寿司ごちそうさま」

ごちそうさま、って言った!あの唯我独尊ちゃんが!!
でも、今はその個人的サプライズに触れてる場合ではない。集中!!

「ど、どういたしまして」
「それで? 電話してきたりして何か用なの?」

その熊井ちゃんの声を聞いたら、集中力が一気に高まった。
よし!!

「あのさ、熊井ちゃん!」
「なに?」
「明日の朝、ちょっと僕につきあってほしいんだけど」
「明日の朝?」
「そう。6時にバス停に来てもらえないかな?」
「6時? やだ!」

熊井ちゃん、即答。

そう、難問とはこれだ。
朝の苦手な熊井ちゃんをそんな時間に呼び出すということ。


でも、何としても彼女に来てもらわないと話にもならない。


「そこを何とか」
「えー。せっかく学校もないのに、なんでそんな早起きしなきゃならないのー?」
「理由は来てもらえば分かるから、お願いします!! そしたら、そのあとで弟熊君のラジオ体操に僕がつきあってあげるから」
「そこまで言うなら分かったよ、もう」

僕の必死な思いが通じたのか、彼女が僕の言うことを聞いてくれた。
弟熊君の名前を借りたのが良かったのかな。あれで意外と弟思いな彼女だから。
そんな彼女が続けて言った。

「でも、何かおごってもらうからねー!」


まさに今日銀座まで行って寿司をおごってあげたじゃん、なんて思ったんだけどそんな反論は控えておいた。
やっと熊井ちゃんを説得することに成功したのだ。それをぶち壊すほど僕は流れを読めない男ではない。


とにかく彼女と会う約束を交わせたこと。一安心した僕の心は軽くなっていた。
あとは、僕の思った通りに進んでいてくれればいいんだけど。
でも、それはもはや僕の力の及ぶことではないのだ。


翌朝。
天気予報の通りだった。
雨は先ほどあがって、僕の思ったとおりのヒンヤリとした空気の朝になっていた。


午前6時に会う約束を熊井ちゃんとした、いつものバス停。
そこもしっとりと濡れていた。そんな夏の朝。


待ち合わせ場所であるバス停で待っていると、5分ほど遅れて熊井ちゃんはやって来た。
こんな時間の待ち合わせ、彼女がたった5分の遅刻で済んだのは奇跡じゃないか。

熊井ちゃんはもう見るからに不機嫌そうな表情だった。
そりゃそうだよね、朝に弱い熊井ちゃんをこんな時間に呼び出したんだもん。


「わざわざ呼び出したりして。それで、何なの?」
「これからちょっと付き合って欲しい場所があるんだ」



いつも駅へと向かうバス、今日はその反対方向に向かうバスの始発便に乗る。
10分ほどで着いたその終点は丘陵の上に立つ住宅地。

その住宅地の裏には、ちょっと小高い山が聳え立っている。
その頂上まで細い登山道がついていて、そこを登っていくのだ。

雨上がりの空は見るからに雲が低く立ち込めている。
歩き始めると、この山道はすでに雲の中だ。そこを登っていく。

「えー、ここを歩いていくのー?」
「すぐだから。お願い熊井ちゃん!」

こんな山道を歩かされることに文句を言っている熊井ちゃんをなだめすかせて、歩くことおおよそ10分。
頂上近くまで来ると木々が切れて、ようやく視界が開ける。


ついに山頂まで登りきって足を止めるやいなや、目の前の風景を見渡した。

よし、僕の読み通りだ。
そこから見る景色は、僕の思った通りの絶景となって広がっていた。


目の前に広がっているのは、見渡すかぎりの見事な雲海。

僕らは今その雲の上に出てきたのだ。
その雲海は見下ろした麓のあたり一面を白く覆い尽くしていた。
そしてそこに朝日が差し込んで、東の方角は赤く燃えているかのように輝いている。

今日、8月3日の朝にこの光景を創り出してくれて、山の神様には感謝の気持ちで一杯だ。


「この景色を見て欲しくて」


「これが、僕からの熊井ちゃんへの誕生日プレゼント。18歳おめでとう友理奈ちゃん!」


だが、熊井ちゃん、その景色をじっと見つめているが、ノーリアクションというかその反応は至って鈍いような様子に僕には見えた。


あれ?


ひょっとして、あまり喜んでもらえなかったんだろうか・・・


熊井ちゃんの動きが止まってしまっている。
早起きまでして連れてこさせられて何かと思えばこんなことか、とでも思ってたりして・・・・

もしそうだとしたら、怖すぎる。
そう言って彼女をここまで連れて来たのは、この僕なんだから。

やっぱり、こういうのは熊井ちゃんの趣味には合わなかったのかな。
例え資金が無いにしても、何か形のあるものを見つけ出してプレゼントするべきだったか。
こんなのよりは、熊井ちゃんの好きなお菓子とかにでもした方が良かったのだろうか、やっぱり。


そんなことを思ってドキドキしていたら、無表情に見えた熊井ちゃんがおもむろにスマホを取り出した。
そしてその画面をタップしている。誰かに電話をかけているようだ。


「もしもし、梨沙子? 今ね、すっごいキレイな景色を見てるんだよー!
見て見て!本当にキレイだよねー!! えっ?何言ってるのか分からない?
梨沙子こそ何でこの景色の素晴らしさが分からないのさ!!」

そりゃこんな朝っぱらから電話をかけてきて、いきなりそんなこと言われても何が何だかさっぱり分からないだろう。
梨沙子ちゃん、災難でしたね。
もう一度、ゆっくりとお休み下さい。


熊井ちゃんが一方的に喋っていたようだった梨沙子ちゃんとの通話が終わると、すぐにまた誰かに電話をかける。
だが、今度の相手の人はなかなか電話に出ないようだった。

「もものやつ、全然出ないし。寝てるんだろうけど、うちが電話かけてるのに出ないなんてとんでもないよねー、全く!」

プリプリとそんなことを言いながら、更に別の人に電話をかけている。


「もしもし、なかさきちゃん? 今ね、すっごいキレイな景色をry
「もしもし、まーさ? 今ね、すっごいキレイな景色をry
「もしもし、ちー?ry

電話をかけまくる熊井ちゃん。
友達全員にかけるつもりなんだろうか。


この反応、彼女には喜んでもらえたということでいいのだろうか。
だとしたら、彼女にここへ来てもらった甲斐があったよ。・・・・良かった。
熊井ちゃんが自分の気持ちを友達みんなに伝えようとしているその姿を見て、僕は本当に嬉しかった。

片っ端から電話をかけ終えた熊井ちゃん。
そのスマホで目の前の光景を撮影している。

スマホを構えながら熊井ちゃんがこんなことを言い出した。

「すごいね! まるで歩けそうだよね、あの雲の上」

彼女が言う叙情的なその言葉に、嬉しくなった僕は話しを合わせる。

「それ、楽しいだろうね! さぞかし気持ちいいだろうなあ、雲の上を歩いたりしたら!!」
「えー、何言ってんのー? 雲っていうのはね、実際は水滴の集まりなんだよ。だから、歩けるわけないじゃんーw」
「・・・・・」


そんなくまくまトークをしつつ、スマホをタップして撮影した画像をチェックしていた熊井ちゃんが僕に振り向いた。

「撮ってみたけど、やっぱり自分の目で見る迫力には全然かなわないね」


そう言って、熊井ちゃんが僕にくれた落ち着いた微笑み。
その彼女の微笑を見て、僕は思わず固まってしまう。


だって、僕は初めて見たかもしれない。


熊井ちゃんのこんな優しい笑顔。


いつも見ているのと同じ熊井ちゃんのお顔が、今は何故こんなに優しく見えるのだろう。
僕は彼女のその優しい表情に思わず心を奪われてしまった。


そして、その表情のなんと美しいことか。


僕は彼女といる時間が短いわけではないから、彼女のことは見慣れているはずなのに。
それなのに、思わず見とれて息を呑んでしまったくらい。

普段、僕は彼女に対してそれどころじゃないことが多いから忘れがちだけど、いま改めて思った。
熊井ちゃんって、本当に女優さんだと言われても不思議じゃないほどの顔立ちをしてるんだ。


この人、本当に美人だよな。


18歳になった彼女の、その優しい微笑。
僕なんかがこんな美しい表情を見ることが出来るなんて、なにかバチがあたりそうで。



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最終更新:2013年11月24日 23:21