NAN |
生年月日 |
1703年2月20日 |
出生地 |
アクース サルジュフ |
没年月日 |
1749年3月20日 |
死没地 |
ヴァルエルク クレストル |
出身校 |
アクース中央宙軍士官学校 |
通称 |
転進する人(nilfalsyt) |
称号 |
労働組合臨時宙軍総司令官 |
配偶者 |
なし |
親族 |
なし |
サイン |
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生涯
幼少期・少年期
1706年2月20日に、惑星ラクチェの地方都市であるサルジュフに生まれる。いわゆる中流階級であり、生活に不自由するほどの環境ではなかった。父親は軍人でありながら柔和で義理堅い性格であり、また強い愛国者、
アクースの支持者、右翼でもあった。そんな父親に好意を抱いていたヴァルトは、幼い頃から軍隊に入り、軍人になることを志していた。
中学校時代になると、一時は極右的思想を持ち、思想統制や外国人排斥を礼賛し、腐敗する政界を軍部独裁で矯正する旨のポスターを作成し、学校に配布したりしていたが、父親や学校が強い危機感を持ち、思想の矯正に成功している。また、この時から、軍人は思想を持たず、ただ国に奉仕する組織であるべきだという考えを確立するようになる。
宙軍士官学校・軍人
1715年、アクース中央宙軍士官学校に入学。学業は元々得意な方であったし、この学校に入ることに多大な勉強をしたため、難なく合格した。学業は、首席レベルの賢さではなかったものの、常に上位をキープし、寮生活等でも問題を起こさず、友好関係も広かった。ヴァルトの真面目さを表す逸話として、ある時、特定の生徒の処分に関して揉め事が発生し、生徒側と学校側が対立する事件となった時、彼はこの問題を解決するために、学校側に先決して仲介の場を設け、和平に持ち込んだという話がある。
1718年、学校卒業後は宙軍少尉となる。しかし、荒れる政界や治安維持に勤しむ陸軍と異なり、宙軍はこの時期かなり暇であった。そのため、素行が良く、訓練でも優秀な成績を残し、人からも好かれていたヴァルトは早く昇進し、2033年時点で中将にまで進級していた。
そんな中、中央政界は破綻をきたし、ついに内戦が始まろうとしていた。ヴァルトは秘密裏の作戦として、戦いにおいて前線になると予想されていたタニェの司令を任された。
1733年、内戦が始まった。最初の接敵は惑星タニェにおいてであった。新政府軍はゲリラとは思えないほど高度に規律化されていたことと、信号妨害のため陸軍と十分な連携が取れなかったことから、ファバスヴグとチャラナギについては鎮圧に成功したが、スティーバとフルチャーンについては占領を許すこととなった。このとき、ヴァルトは撤退時にスティーバの宇宙港を爆破するが、作業員の撤退の確認を取る前に爆破を命令したため、精神的に疲労するようになる。このとき、自分は何のために戦っているのかということについて自問し、自分が
軍人は思想を持たないという考え方に過度に固執していることに気付き、腐敗した国体よりは民の幸福のために戦わなければならない、そのためには新政府側に転向することが必要だと決心する。この時点で、士官らにこのことを話し、新政府側に寝返ることを決断していたとされる。
そんな中、12月中頃に、13月にヴァルエルク宙軍第4艦隊が惑星タニェに到着するという情報が入る。今を逃せば次はないと判断した旧政府軍総司令部は、ヴァルトに対し、攻撃を命令した。ヴァルトは自らの率いる全軍を連れ、タニェに向かった。新政府軍と旧政府軍が対峙する中、ヴァルトは自軍に向かってこう命令した:「転進せよ」。タニェの率いる軍は180度反対を向き、新政府軍に迎合するさまを見せた。敵の現場司令官がヴァルトであることを理解していた新政府軍の
ゲッツァ・チャッシャーラは、事前に連絡がなかったため驚愕したが、ヴァルトは卑怯なことをする人間ではないと理解しており、自軍に迎え入れた。ヴァルトが率いるこの軍は
離反宙軍と呼ばれ、新政府軍の宙軍の主力となる。
第二次アクース革命・宙軍総司令官
離反宙軍らの奮闘むなしく、アクース内戦は旧政府側の勝利で幕を閉じる。離反宙軍も、ヴァルエルクに亡命せざるをえなかった。しかし、この勝利は主に海外勢力の支援ありきのものであって民心を離れたものであり、民衆は怒りを抑えかねていた。しかしこれに気づかなかった旧政府は、その点に関するケアを怠った。そのために
第二次アクース革命が勃発する。大規模な戦闘はほとんど発生せず、離反宙軍の活躍する場もないまま革命はあっさり終結した。
新たに成立した
アクース連合では、チャッシャーラは軍事大臣に、ヴァルトは宙軍総司令官に就任した。チャッシャーラは陸軍畑の出身であったために、軍事省は事実上のチャッシャーラとヴァルトの二頭体制で進められることとなった。
しかし、チャッシャーラとヴァルトには大きな意見の相違があった。チャッシャーラは頑強な反権威主義者であり、軍内改革の必要を高らかに訴え、上官解任制度や軍内意見会の設置などを推し進めた。しかし、ヴァルトはそれに反対し、それらの制度を設けることは軍内の規律や秩序を乱すと考え、その勢力の中心的人物になった。チャッシャーラとヴァルトの論争は開けることなく続いたが、軍事省の顔ぶれは労働議会のゲリラを指導した人物が多くいたため、ヴァルトらは不利になっていった。そしてついに、1738年にヴァルトは自ら辞表を突きつけ、軍を退官する。
退官後
退官はしたものの、
アクース連合や産労主義に対しては希望を抱いていた彼は、自分なりに国に尽くすことを決め、各国を放浪し、英雄の語り部として活躍することを決める。各国を旅して講演会や研究会に出席し、講演料を稼いで生活する生活を送る。生活するのに余った資金はその土地やアクースに寄付するなど、清貧を最後まで貫いた。1749年3月20日、ヴァルエルクの首都・クレストルにて客死。アクース国内では既に忘れ去られた英雄であったが、国外での知名度は高く、多くの人がその死を弔った。
人物
逸話
その外国における活躍から、
フニユト・ナドルトから外務大臣に抜擢されたが、軍を抜けた後ろめたさから断った。
名言
「転進せよ」
内戦にて、思想を持たない、いわゆるお堅い軍人だと考えられていたヴァルトが寝返るのは、旧政府側はおろか、新政府側にとっても予想外の行動であった。
関連項目
最終更新:2023年08月15日 23:44