第三次舞羅内戦(だいさんじまいらないせん)は、統一歴166年に、当時のベイカー政権が実施した急進的脳化政策及び体制変更に、肉体を持つ舞羅国民が反発して起こった
舞羅帝国の内戦である。
戦地は舞羅帝国とその支配領域に限られたが、
オストロアジア連邦共同体及び
フランス連邦が中心となってベイカー政権側を支援し、それに反発する形で
セントラル自由主義条約機構が中心となって反体制側を支援したため、国際的な紛争に発展した。
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背景
第一次舞羅内戦
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統一歴90年代、当時舞羅を統治していた舞羅連合帝国(以下、旧帝国)で先代皇帝が崩御すると、当時若干9歳の安帥帝比沙子が新元首に即位し、新首相には遠山明憲議長が選出された。 遠山政権下の旧帝国中央政府は外交政策に力を入れ、大ヒトラント帝国やクラフティン共和国といった大国との友好関係構築に成功した。しかし、既得権益層に牛耳られた内政の腐敗は解消できず、マイラ・モンスタール主義国はじめとした国内の反政府勢力への対応に失敗した。その結果、泥沼の内戦により舞羅の国力は疲弊し、94年1月の南米戦争敗戦に伴う混乱で、遂に舞羅国内は無政府状態となった。だが、これをチャンスと捉えた遠山議長は、国内の混乱を抑えると同時に内政の抜本的な改革を実施すべく、敗戦責任を理由に地方の既得権益層を排除し、権限を中央政府に集中させた。しかし急進的な改革が帝政の崩壊を招くと危惧した坂下門左衛門を筆頭とする保守派(以下、正統帝国派)は安帥帝を伴って遠山政権を離脱し、遠山ら改革派(以下、正当共和国派)に反旗を翻した。 こうして一連の戦乱の発端となる第一次舞羅内戦の火ぶたが切られた。 当初、クラフティン共和国を中心とした帝政支持国家からの支援を背景として正当帝国派が優位に立ったが、新京都市攻防戦を契機に戦局が逆転し、94年10月に正統共和国派が舞羅全土を掌握すると、遠山を元首とする門州連邦共和国の成立が宣言され、内戦は終結した。 |
正統帝国派の徹底抗戦を宣言する坂下門左衛門 |
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舞蔵戦争
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内戦に勝利した正当共和国派であったが、旧帝国の権威の象徴であった安帥帝の確保に失敗したために求心力が維持できず、代替策として独裁・軍国化により国内統制の強化を図ったが、強硬姿勢を取った門州連邦の外交関係は急速に悪化した。 特に隣国クラフティン共和国とは内戦中に発生した戦争犯罪や、クラフティン側が保護した正当帝国派残党による亡命政府樹立をめぐって強硬に対することになった。 この対立は96年4月のトリントン事件、101年5月のソラティオ戦役によって舞蔵戦争に発展した。 緒戦の戦局は門州連邦優位に推移したが、トールギス沖海戦とジャブロー攻防戦に惨敗したことで攻守が逆転し、107年5月のイースター島の戦い、108年11月の本土空襲により門州連邦の敗戦は確実となった。 更に、109年7月に門州北部の構成国が連邦から離脱した後クラフティン側に降伏し、正当帝国派の亡命政府を受け入れる形で舞羅連合帝国復古王朝(以下、北舞羅)が成立したことで戦争継続自体が困難となり、111年7月にフエゴ停戦協定が調印されたことで舞蔵戦争は終結した。 |
クラフティン共和国戦艦「秩父」甲板でのフエゴ停戦協定調印式 |
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第二次舞羅内戦と南米タラニス事変
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舞蔵戦争の結果、舞羅は安帥帝を元首とする親クラフティン(親CELTO)の北舞羅と、遠山大統領を元首とする反クラフティン(反CELTO)の門州連邦共和国(以下、南舞羅)によって南北に分断された。 戦後、マックス・D・テイラー議長に率いられた北舞羅は、宗主国クラフティン共和国やスティーブ・クラフタリア同盟連邦を中心としたCELTO諸国からの経済・軍事的支援を取り付け急速に発展した。 一方、国力で劣る南舞羅は北舞羅の増長に危機感を募らせ、陸軍大将アメリア・ベイカーを中心に各種大量破壊兵器や弾道ミサイルの配備するなど、更なる軍国化を推し進めた。 南北舞羅の軍事的緊張が増大する中、120年1月に国境地帯で両国の軍事衝突が発生、これに呼応した関係各国が出兵したことで第二次舞羅内戦が勃発した。 しばしの小競り合いの後、戦線は元の国境を挟んで膠着したが、120年5月に突如出現した南米タラニスと呼ばれる未確認生命体群が、国境に集まった南北両軍への攻撃を開始、戦線は大混乱に陥った(南米タラニス事変)。 南米タラニスによる国家消滅の危機を前に、南北両軍は第二次舞羅内戦を停戦し統一舞羅戦線の名のもとに指揮系統を統一、両陣営の同盟国とともに連合軍を組織しタラニスに対抗した。 当初はタラニスに対して防戦一方だったがスィヴェールヌイ・サユーズのミサイル攻撃やシランナ民主共和国のAMU「ナガン」の特攻で開いた穴から反抗を開始、最終的にクラフタリア、クラフティン、スィヴェールヌイ、舞羅の連合艦隊が巣を撃破、ベルタティス連邦の航空攻撃による掃討をもって121年7月に南米タラニス事変は終息した。 |
南米タラニス事変に際し東扶砂漠飛行場で出撃を待つナガン |
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舞羅連邦の成立とアメリア・ベイカーの台頭
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南米タラニス事変末期の121年1月、当時の南舞羅陸軍長官アメリア・ベイカーが起こした軍事クーデターにより遠山大統領が殺害され、南舞羅はベイカー政権に移行した。 ベイカー政権下の南舞羅はタラニス事変終息後も北舞羅との融和を進め、121年9月には舞羅連邦が成立し、南北舞羅は国家連合という形で統一された。 しかし、南北舞羅の国家対立は連邦政府内の派閥争いとして継続された。 成立当初、舞羅連邦政府の要職はマックス・D・テイラーや坂下門左衛門を中心とした旧北舞羅派が独占する一方で、軍事部門はベイカー派が中核を成していた。 しかし、123年3月に坂下が起こしたFSLMの反乱をベイカー率いる陸軍が鎮圧したことで、舞羅連邦の主導権はベイカー一派の手に移った。 |
舞羅連邦憲章に署名するアメリア・ベイカーとマックス・D・テイラー |
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舞羅帝国の成立
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| 統一歴137年9月に起きた議事堂占領事件により首相のマックス・D・テイラーが失脚し、舞羅連邦はベイカー政権へと移行した。ベイカー政権下の舞羅連邦は同年11月のクラフタリア漁船撃沈事件を契機にCELTOを離脱し、隣国のスティーブ・クラフタリア同盟連邦やクラフティン共和国をはじめとした大国との対立を先鋭化させた。この暴政に危機感を抱いた旧北舞羅派は、統一歴140年1月にベイカー政権に対する反乱を起こすも、ベイカー率いる陸軍部隊はこれを制圧した。この勝利で連邦政府内のすべての政敵を排除したベイカーは、最後の障害であった安帥帝を監禁洗脳することで、自らを皇帝の代理人たる帝国宰相と名乗り、舞羅帝国の成立を宣言した。 |
議事堂占領事件でマックス・D・テイラーを”保護”するアメリア・ベイカー |
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第三次舞羅内戦開戦
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| 舞羅帝国成立後、ベイカーは頭脳主義(国民から脳を摘出し、統制AIに従順な屍「脳人」へと作り変える政治思想)を推進し、151年5月にはクラフタリアから亡命してきたシェラルド王党派残党の手を借りる形で頭脳主義を標榜するパタゴニア頭脳王国を打ち立てた。しかし、パタゴニアの建国はクラフタリア中心とするCELTO諸国との対立を決定的なものにし、更に155年に起きた膀事件を契機としてベイカーが皇帝に行った非人道的仕打ちが明るみに出ると、皇帝と個人的交友があったクラフティン・クラフタリアをはじめとする諸外国や、テイラー氏を中心とする舞羅国内の親皇帝勢力はベイカー政権への対決姿勢を鮮明にした。これに対しベイカー政権は徹底弾圧の姿勢で臨んだが、164年にメディテラネア=フランス戦争で舞羅北部と国境を接するインカ帝国がCELTOの勢力圏に落ちたことで、国境警備強化のために治安維持の兵力が不足する事態に陥った。これにより勢いを増した反体制勢力は首都でテロ紛いのゲリラ戦を繰り返したため、舞羅国内の政情は次第に不安定化していった。事態を打開するため、ベイカーは162年度OFC首脳会談での協定に基づき、神聖ラエリア帝国、トンガ帝国、カンタルシア帝国に治安部隊派遣を要請、更にパタゴニア頭脳王国のアルベール・ド・トゥナン宰相も宗主国フランスに軍事支援を要請したことで、舞羅に反CELTOの勢力が集結することになった。このような情勢下、援軍に気を良くしたベイカーは、反政府活動の神輿となっていた皇帝の処刑を宣言し、国内への引き締めの強化を図ったが、これが引き金となり国内外の反体制勢力は相次いでベイカー政権に宣戦を布告、第三次舞羅内戦が勃発した。 |
議事堂で国家の非常事態を演説するアメリア・ベイカー |
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戦闘の経過
反体制軍の舞羅領侵攻開始
戦線の膠着
反体制軍による皇帝奪還
イースター島沖海戦
反体制軍の攻勢
コピアポの戦い
サンチアゴ決戦
ベイカー政権軍の降伏
影響
舞羅帝国
パタゴニア頭脳王国
関連項目
最終更新:2024年10月12日 20:48