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イノセント19 - (2011/02/06 (日) 00:55:11) のソース
気まずかった。 話題がないわけじゃない。 話したいことなら山ほどあるし、謝りたいことも、言いたいこともたくさんあった。 だけど、今私が抱えている鞄の中にチョコレートが入っている。 そして想いと伝えたい相手――律が、すぐ横にいるのだ。 だからどうしようもなく緊張して、言葉にならなかった。 だけど、律は律だった。 「なあ、澪」 優しい声だった。 私は、その声色で少しだけ緊張が解れた気がした。 「……うん」 しかし、それしか言えない。 横を見ると、律と目が合って。 数秒見つめあった。 そこから、会話が続いた。 「正直に言うと、私、あんまり食事会乗り気じゃないんだ」 「……なんで?」 「――わからない?」 律は、不敵に笑った。 それは普段の律からは想像もつかないような、女っぽくて、そして私を嘲笑うようで。 だけど、でも細い眼差しはやっぱり優しいままの。 「まあそんなことだろうと思ったよ、澪ならさ」 「い、意味がわからないぞ律……は、はっきり言えよ」 「……ここまで言って、わかんないのか?」 私も分かんないよ。 律は、口を尖らせて何かをブツブツ言った。 そして。 律は、勢いよく立ち上がった。 「わ、私は澪が――」 その時だった。 視界に、何か白い粒のようなものが浮いているのに気付いたのだ。 「――――雪だ」 私は、立ち上がって空を見上げた。 灰色っぽい空から、確かに白いふんわりとした粒が舞い降りてきている。 私は手を開いて、それを受け止めた。 「なんつータイミングだよ……」 律が苦笑いして息を吐く。 私は手の平に落ちて、すぐに水滴に変わる雪を見つめた。 それから、それが降ってくる空を見つめようと上を向こうとした。 ここは、中庭だから、大学の建物が囲っている。 視界に、二階の窓が入った。 その窓のところに、誰かが立っているのに気付く。 ――あれは、××さんと……平沢さん? なんであんなところに立っているのだろう。 「――?」 彼女たちは、私に小さく手を振って、親指を立てた。 そして誇らしげな表情をして、その場から去っていってしまった。 窓から、見えなくなった。 どういうこと? なんで××さんと平沢さんは、あそこで私を――私たちを見ていたのだろう。 見ていたんだろうか? でも、私と目が合ったってことは見ていたということだ。 なぜ私たちを、あんな所から観察していたのだろう? それに××さんは――『理学部の子』と律の仲介役だったじゃないか。 だとしたら、待ち合わせまで三十分の時点であんなところにいるのはなんだか不思議じゃないか? それとも、何か用があって……。 二人は、私に何をしたんだろう。 手を振って、親指を立てた。 ほとんど交流もないのに、私に何かを伝えるつもりだったのかな。 何かって……? 何だろう。 二人の行動が、頭にリプレイされた。 手を振って、親指を立てる? それって。 それって。 まるで、頑張れと言っているような。 昨日もだ。 『では、明日頑張ってくださいね』――。 『理学部の子』は、そう言ったんだ。 何を頑張るのか、わかんなかったけど。 でも、私自身が知ってるんだ。 私は、私の想いを伝えることに頑張ろうとしてた。 律のことが、好きだって。 じゃあ、『理学部の子』も、××さんも平沢さんも。 それに対して、頑張れと言ってくれたのかな。 そんなの、都合良すぎるかもしれないけど。 いける、気がした。 私は唇を舐めた。 息を呑む。 雪を見上げてる律。 私は、名前を呼んだ。 「――律」 ■ 律は、空に向いていた視線を私に下ろした。 数秒の視線の交錯。 名前を呼んでおいて、黙っていたら変だ。 だけど、それからしばらく見つめあっていた。 自分でも驚くほどに落ち着いていた。 だけど、異常なほど緊張していた。 自分で自分がわからない。 とにかく、私は今、自分の心を描写することはできようとも、それが正しくできないという状態だった。 私という人間の内面を、客観的に遠くから見降ろし、それがどうであるという風に説明ができない。 できたとしても、語彙が足りない。 それぐらい、落ち着いているのに、緊張してる。 小さな矛盾だけど、律の前じゃ仕方なかった。 「……なんだよ?」 「っ――」 落ち着いてた、はずなのに。 声を聞いたら。 なんだよって、言われたら。 急に恥ずかしさが身に染みてきて、唇と瞼が震えてきた。 「えっと……その……」 ここまで来て、躊躇うなんて。 一体どこまで憶病なんだと心の中で自分を罵るしかなかった。 名前を呼ぶだけはできたのに。いざ言おうってなると、そうはいかなかった。 まるで言葉が意志を持っているかのように、出たくないよと喉で止まるのだ。 口を開いて見せはするのに、えっと、とかそんな風にくぐもった声しか出ない。 彷徨に胸がどぎまぎし始めた。 けど。 私は、怖いんだ。 律に想いを伝えれなかった、もしもの未来を考えるだけで。 そんなの、嫌だ。 私は、律と恋人同士になりたい。 散々悩んだじゃないか。 チョコレートだって作って。あんなに頭抱えて、ズキズキする胸を撫でて律のこと想い続けたじゃないか。 朝起きても、ご飯食べてても、寝る時も、ベッドの中でもさ……いつだって、律のこと好きでいたじゃないか。 歌詞も書いて。 それで時折、誰もいない部屋で、ひとりごととして囁いてたじゃないか。 その言葉を。 ふとした時、独白のように、そう口に出してたじゃないか。 その言葉を、ポツリと。 だから、言えるだろ。 私は心の中で言い聞かせた。 そして。 「――……好き」 思ったよりも、声は出た。 律は、口を小さく開けっぱなして、固まった。 だけど、構わなかった。 私は、そこからなら何でも言える気がしたんだ。 一言目が怖かっただけで。 少しでもきっかけが掴まれば、私は私の言葉を口に出すだけだったんだ。 「律のことが、好きなんだ」 言えた。 言えた! だけど、言えたことへの嬉しさはすぐには湧いてこなかった。 それどころじゃない。 すごく恥ずかしい想いの方が先行していたのだ。 だから私は律の顔を見ることはできない。 律の顔を見たら、それ以上の言葉が出ないかもしれなかった。 もう一杯一杯だ。 でも、精一杯でやるしかないんだ。 私は拳を胸の前で握り締めた。 この、張り裂けそうなほどに、爆発しそうな高鳴りを。 私の咽の震えと、訴えるまでに高らかな声に変えるしかなかった。 それは、私の精一杯、そして限界を超えるほどの叫びだった。 「好きなんだっ……――」 辛かった。苦しかった。 律を想うと、毎日息が苦しかった。 喉が渇いた。 お腹の上のあたりがグルグルした。 モヤモヤもした。 何か引っかかってるんじゃないかってくらい、調子が悪くなって。 胸が痛くて。 喉も震えて。 ぼんやりしたり、ぼーっとしたり。 だけどふとした瞬間、律を思い出して。 律の笑顔を見たくなったり。 家に帰って一人なのが、寂しかったりもした。 唐突に律に会いたくなって。 布団に入っても、明日律と一緒にいることを楽しみに思えたり。 そこでまた、胸がキューッと縮まって。 ふんわりした気持ちにもなって。 だからこそ、この気持ちが何なのかわからなくて。 もどかしくて。 それで悩んだ毎日もあった。 でも、律を意識してから。 そこにいるだけで、一緒にいるだけで楽しくて。 律がそこにいなかったり、別の誰かのところにいたらモヤモヤするのも。 好きだから。 律のこと、誰よりも好きだから。 だから、いつも胸が一杯で苦しかったんだ。 だから叫びあげた。 中庭に人がいようが構わなかった。 言いたかったんだ。 律に届けたかったんだ。 だから、力一杯、叫んだ。 今まで生きてきた中で、一番声を張り上げたかもしれない。 それぐらい、大きな声で。 「好きなんだよっ……! 律のことが、律が、大好きなんだ……! 私は下を向いた。 アスファルトの地面が広がる。 そこに、ポタポタと何かが落ちるのが見えた。 雪が降っているから、雨じゃない。 それが、涙だと悟るのに長くはかからなかった。 いろんな感情が溢れだして、グチャグチャで。 なんで涙が出たのかわからないけど。 私は大泣きして、両腕の服の袖でとにかく涙を拭った。 叫びは、私の心の壁も壊したようだった。 張り詰めていた糸がプチンと切れて、それを境にいろんな想いが溢れて。 それが、涙という形となって私の頬を濡らす。 それは頬じゃ留めきれなくなって、地面に落ちる。 「うっ……ひっく、っ……うぅ……――」 情けない自分の声が、漏れた。 服の袖で顔を撫でる度に、そこはどんどん濡れていく一方で。 拭っても拭っても、涙は止まらない。 やっと言えた。 言えた。 律に好きって、言えたんだ。 それが嬉しくて、泣いてるのかな。 わからない。 でも、わからなくてもいい。 言えただけで、もうよかった。 もう後は、どうなってもいい。 涙が流れることだけ、考えよう。 そう思ったけど、もう頭に思考の隙間はなかった。 ただ、喘いで、咳き込んで、泣くだけで。 何も考えれなかった。 その時だ。 「みーお」 優しすぎる声がした。 涙で、目も耳も、何もかもがぐちゃぐちゃでわからない私。 だけど、その憎たらしいほどに優しくて、私を痺れさせる声を、私は聞き逃すことなんてできやしなかった。 こんなにも、今の私は酷い顔をしていて、そして頭の中もかき乱れているというのに。 その声だけ――私の名前を呼んでくれる…… こいつの声だけは……しっかりと耳が捕まえたのだった。 私の両頬を、何かが包んだ。 冷たいけど、温かな手の平だってすぐにわかって。 その手の平が、ゆっくりと私の顔を持ちあげた。 視界が開ける。 目の前に、律の顔。 涙の所為で滲んで見えるけれど、とっても優しい顔をしていた。 優しい優しいって。 何でもかんでも律は優しい。 そのうっとりする様に、私を見つめてくれる瞳も優しい。 私の頬に添えられている手の平だって優しい。 私の名前を呼ぶ声も、優しい。 だけど、今の律の顔はそれだけじゃなくて。 微笑みながらも――でも、真っ赤な顔をしていたんだ。 そして、ゆっくりと。 キスをした。 私は、驚くことさえできなくて。 初めての、よくわからない感触が口元に広がるのを感じるだけだった。 意識が全部吹き飛ぶ。 ただ私の五感は、全部律へ向けられていた そんな甘い感覚だけが、私の全身を支配するだけ。 長いキスは、短かった。 律が口を離した。 私は一息吐いてから、よろけながら自分の唇を指で撫でた。 そこで初めて、状況を理解した。 ……律が、私にキスをした。 あの律が……私に。 さっきまで、十分に混乱していたけど。 ここにきて体中が熱を帯びる。防寒のための厚着が、裏目に出る。 風邪をひいたときなんかよりも、ずっとずっと。 熱い。 でもその熱さの理由は、全部全部律の所為なんだ。 「私も、澪のこと好きだ」 ――。 う、そだ。 「嘘……」 私は、口元を手で覆った。 本当に小さく、そう呟くだけだった。 「嘘じゃ、ないよ」 「そ、そんなの……う、嘘だろっ……!」 律も私が好きだなんて。 嘘だ。 私はまた泣いた。 律にキスされて、少し涙は引いてきたと思ったのに。 「嘘じゃないぜ。本当に」 私は律のことが好きだ。 でも、律も私のことが好きだなんて。 そんな奇跡。 そんなこと、あるなんて。 ありえないだろうって。 そんなこと、あるわけないんだって思ってたのに。 いっつも、私は律を追い掛けてた。 だって、私には律しかいないのだから。 でも律は、私以外にいるんだ。 友達が。私は、その律の大勢の友達の一人だと。 そう思っていたのに! 信じられない。 あっていいの、こんなこと? 私が望んでいた、律も私を好きだということ。 嘘だと、後で言わないでくれよ。 「り、律は……私のこと、特別じゃないかと思ってっ……ひっく……」 「あー泣くなよ。信じてくれないのか?」 「だってだって……律が私のこと好きだなんて、うまくいきすぎだろ……っ」 私の好きな人も、私を好きでいてくれるなんて。 そんなのありえない。 あってほしかったけど、ありえないこと。 そうだと思って、諦めていた節もあったから。 だから、嘘だとしか言えないよ。 「嘘であって欲しいのか? 澪は?」 悪戯っぽく、律はそう言った。 「ばか……ばかりつ……ぅ……」 そんなわけない。 嘘であってほしくなんかない。 私は、声を絞り出すしかなかった。 「私の、気持ち……さっき、言ったから、わかってるだろっ……」 律のことが好き。 なら、律も私を好きであってくれることを、嘘だと思いたくない。 嘘であって、ほしくなんか……。 だけど、本当に、あり得ないことだって思ってたから。 律が私を好きなはずがないって。片想いだって。 そう、思ってたのに。 律も、私と同じ言葉を返してくれた。 あまりにも嬉しくて、夢なんじゃないかと思って。 それぐらい、嬉しいから……。 「本当? 本当に……わ、私のこと、好きなのか……?」 「ああ」 律は、声を張った。 「私も、澪のこと大好きだよ!」 大好き。 律の口から、律の声で、そんな風に言ってくれるなんて。 そんな言葉が、出るだなんて……。 さっきまで、嘘って疑うことしかできなかった。 それぐらい、私にとっては夢のようなことだから。 だけど、じわじわとそれが私の体に広がった。 驚きが嬉しさに。嬉しさが胸の震えに。 胸の震えが、涙と声に。 「うう……りつぅ……」 私はさらに泣き出す。 律、律って。 律の名前ばかり呼んで。 律はそれから、私を抱きしめてくれた。 いつかの日も、私が泣きじゃくる時は律が抱きしめてくれた。 私は律の肩を涙で濡らして、律の背中に手を回す。 「りつ……りつっ……」 「澪。みーお……」 私と律は、抱きしめあったまま、しばらく名前を呼び合っていた。 [[イノセント第二話>イノセント18]]|[[TOP>イノセント]]|[[次>イノセント20]]