原文
Nice
1 sortie sur
2 nom des letres
3 aspres,
La
4 grande cappe
5 fera present non sien,
Proche de
vultry6 aux murs de vertes
7 capres
Apres
8 plombin9 le vent à bon
10 essien
11.
異文
(1) Nice : Niee 1568X, Niée 1590Ro, Nise 1605sn 1649Xa 1672Ga
(2) sortie sur : sortir sur 1650Mo, sortie fut 1668P
(3) des letres : de lettres 1603Mo 1650Mo, des Lettres 1672Ga
(4) La : la 1665Ba
(5) cappe : Cappe 1672Ga
(6)
vultry : Vultry 1627Ma 1627Di 1644Hu 1650Le 1650Ri 1653AB 1665Ba 1667Wi 1668 1672Ga 1720To 1840 1981EB
(7) de vertes : des vertes 1649Xa 1672Ga, de verres 1772Ri
(8) Apres : A pres 1611B 1653AB
(9)
plombin : plombi 1611B, plombim 1605sn 1611A 1628dR 1649Xa 1649Ca 1650Le 1981EB 1668, lombin 1653AB 1665Ba 1720To, Plombin 1672Ga
(10) à bon : a bon 1603Mo
(11) essien : essient 1590Ro, escien 1603Mo 1650Mo, escient 1672Ga
校訂
1行目の Nice は1568Xの異文に従う限りでは、Niée の誤植の可能性がある。
3行目の
vultry は Voltry の、4行目
plombin は Piombin の誤記もしくは綴りの揺れという点で多くの論者が一致している。
4行目の à bon essien は à bon escient と同じである。
日本語訳
拒否され、ざらついた文字の名前に直面させられ、
偉大なケープは彼のではないものを贈るだろう。
ヴォルトリに近い青々とした風蝶木の蕾の壁で。
ピオンビーノの後で順風に。
訳について
1行目冒頭は 1568X の異文を尊重し Niee と判断した。Nice とする場合も、「ニース(で)ざらついた文字の名前に直面させられ」というように、sortie が女性形であることから、その動作主は2行目の「偉大なケープ」だろう。なお、sortir sur は「直面する」を意味する中期フランス語の成句。
3行目
vultry、4行目
Plombin は、いずれも有力と思われる説(地名)を採った。
大乗訳1行目「おろかものがさって 痛烈な手紙で」は、中期フランス語では一般形容詞として「愚か者」の意味を持つ nice があったことに基づくのだろう。ロバーツの英訳の転訳だが、元をただせば
テオフィル・ド・ガランシエールの英訳に行き着く。
同2行目「大きな帽子が他人に与えられ」の「帽子」は、cappeを「頭巾、フード」と解釈する説もあるので、必ずしも誤りとはいえない。ただし、non sien を「他人」と訳すのは、文脈上やや強引ではないかと思える。
山根訳1行目「辛辣な文書から出たニースのあだ名」は、
エリカ・チータムの英訳をそのまま転訳したもの。「あだ名」は sur nom を surnom と理解したことによる。
同2行目「法王が何物かを贈るだろう 彼自身の物ではないが」は誤りではないが、「法王」は La grand cappe を意訳した結果で原文に沿った訳ではない。
同3行目「ヴォルテの近く 緑色の柱の壁にて」はチータム訳の直訳だが、そもそも capre (ケーパー、西洋風蝶木の蕾)を column と英訳した理由が分からない。
信奉者側の見解
テオフィル・ド・ガランシエールは、そのまま敷衍したような解釈、つまり教皇の動向と2つのイタリア都市が脅威にさらされるという漠然とした解釈しか示していなかった。
セルジュ・ユタンは、1行目はニースのフランスへの編入(1860年)に近いとする一方で、「偉大なケープ」はルイ・カペー(ルイ16世)のことではないかとした。
同時代的な視点
「偉大なケープ」がローマ教皇を指すという点ではほぼ合意ができているといってよい。
ルイ・シュロッセ(未作成)は、教皇パウルス3世が仲介したエグ・モルトの休戦(1538年)と関連付けた。
この時フランスは神聖ローマ帝国・サヴォワ公国と争っており、教皇は休戦のための会談を提案した。
当初その会談はニースで行なわれる予定で、教皇もニースに向けて出立していたが、サヴォワ公の強硬姿勢もあって事前交渉は難航し、交渉が妥結するまで教皇はヴォルトリ、ついでピオンビーノにとどまる羽目になったという。
ピーター・ラメジャラーは、
詩百篇第10巻65番と同様に
ローマ掠奪(1527年)と解釈した。
「ざらついた文字」は、
ローマ掠奪に際しドイツ兵を率いてきたゲオルク・フォン・フルンツベルク(Georg von Frundsberg)のことで、彼の名前がドイツ語独特の書体(いわゆるヒゲ文字)で書かれたことを言っているとした。
※記事へのお問い合わせ等がある場合、最上部のタブの「ツール」>「管理者に連絡」をご活用ください。
最終更新:2020年02月13日 00:32