李顯
656-710
唐第4代、第6代皇帝(在位683-84、705-710)。名は顕(一時哲と改む)。諡は大和大聖昭孝皇帝。廟号は中宗。
高宗の第7子、
武則天の子。初め英王に封ぜられ、680年章懐太子
李賢が武則天に廃されると、代わって太子となった。高宗が没して即位したが、実権は武則天にあり、皇后韋氏一族への警戒から2ヵ月で廃されて廬陵王に下げられ、房陵(湖北省房県)に流された。武則天の政治の失敗が大きくなると、人心掌握のため東都洛陽に召還されてふたたび太子となり(697)、武則天の寵臣
張易之兄弟の誅滅を機に帝位に復し、ここに武周政権は終わりをつげた。しかし代わって台頭した韋氏一派に政権をにぎられ、依然として名目上の皇帝にとどまり、ついに
韋皇后の娘
安楽公主に毒殺された。夫人に
和思趙皇后・韋皇后・
上官昭容らがあり、子の
李重潤・
李重福・
李重俊・
李重茂は、いずれも政争の犠牲となった。陵名は
定陵。
年号
嗣聖 684
神龍 705-707
景龍 707-710
后妃
皇太子
子女
宰相
本紀
参考文献
『アジア歴史事典6』(平凡社,1960年)
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最終更新:2025年08月17日 19:35