石井一久

登録日:2010/01/13(水) 19:55:13
更新日:2020/04/09 Thu 07:24:02
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特技はないですが、野球は少し得意でした。

石井一久
千葉県千葉市若葉区出身元プロ野球選手。


【経歴】
ヤクルトスワローズ(1992-2001)
ロサンゼルス・ドジャース(2002-2004)
ニューヨーク・メッツ(2005)
東京ヤクルトスワローズ(2006-2007)
埼玉西武ライオンズ(2008-2013)

1991年、「球の速い高校生が欲しい」との野村克也監督の要求でヤクルトスワローズがドラフト一位指名。
スカウトからは「球は速いがノーコン」と評価されていたが、野村監督は「ノーコンは修正出来る」と考えでゴーサインを出した、とのこと。
野村監督曰わく、ヤクルトでのドラフトでは石井と伊藤智仁を手に入れられたのが一番の当たりだったらしい。
1992年には、レギュラーシーズン未勝利の高卒新人としては前代未聞の日本シリーズ第三戦に先発。
明くる1993年の阪神戦で初勝利を挙げ、それ以降はノーコンだがMAX154km/hの豪速球とスライダー(スラーブ)とフォークでヤクルト黄金期を支える。

1997年9月2日、同年激しい優勝争いを繰り広げていた横浜ベイスターズ相手に4四球を与えながらもノーヒットノーランを達成、横浜投手コーチの権藤博は「あんなのはノーヒットノーランではない」と言ったが、一方横浜打撃陣は「(打てないから)早くメジャーに行って欲しい」と語った。 

明くる1998年には最多奪三振を獲得、奪三振率は日本新の11.047を記録。

2000年には最優秀防御率を獲得する。

2002年にはポスティングを使用し、野茂英雄の所属していたロサンゼルス・ドジャースに入団。
会見の席では妻である木佐彩子が小学二年から中学二年までロサンゼルスに住んでいたことから
「僕の妻はカリフォルニア人」と語り会場の爆笑を誘った。
開幕6連勝を記録し、自己最速となる97マイル(約156km/h)を記録。最終的に14勝を挙げるなど新人王を狙えるほど調子が良かったが、9月8日に目にゴミが…してしまい、頭蓋骨の亀裂骨折をしてしまう。
当たり所が悪かったら死んでいたらしい。
その他、野茂と共にメジャー全体での最多四球数ベスト1・2を記録してしまう。


2003年は前述のケガからマウンドに立てないのではないかと首脳陣に心配されたがローテーションを守り切り、最終的に9勝7敗と勝ち星こそ減ったものの防御率は前年の4点代と比べ3点代と、投球内容はむしろ良くなった。この頃から球速が140km/h代に下がり制球力が上がる。

2004年も13勝8敗と無難な成績を残すも、2005年にはトレードでメッツに移籍し3勝を挙げるに留まりマイナー生活を送ることになる。

古田が股間に打球を受け撃チンした際(実際はタマだったらしいが)、まるで北アメリカ大陸のようになったアレのレントゲンを見て、「ここらへんがNYか……メッツのkazは元気かな」と古田は考えていたらしい。

翌2006年にその盟友古田が選手兼監督に就任すると日本球界に復帰、ローテを守り11勝を挙げる活躍を見せる。

復帰時には前述の通り球速こそ落ちていたが、制球は昔よりは向上し、二種のカットボールにチェンジアップ、ツーシームなどを取得していた。

翌年には日本球界最速のペースで1500奪三振に到達、更に2564日ぶりに完封勝利を収めるが、
古田がチームを去ると取得していたFA権を行使し、西武に移籍。

2008年は始めこそ調子が良かったが、徐々に失速、11勝10敗防御率4点台に終わり
日本シリーズにも二度登板するが合計5失点を喫する。


2009年は被打率こそ下がったが四球が増え安定せず、規定投球回を満たせずに9勝にとどまった。
この年にはチームメイトの岸らと共にWBC(ワールドボンバーマンクラシック)に出場を果たした。
翌年のシーズンも昨年と同じ9勝に留まり、二桁勝利には届かず。

2011年にはプロ野球史上20人目となるプロ通算2000奪三振を達成した。
この記録は、あの江夏豊を超える最速での達成記録ともなった。
ところが、この輝かしい記録達成の裏では昨シーズンより成績を落とし、6勝に終わった上に防御率は4点台と苦しい結果に。
ただし、シーズン終盤からリリーフに回るがこのリリーフでの投球では活躍を見せ、CSステージでも大活躍だった。

2012年は古巣・ヤクルト戦で5年ぶりの無四球完封を達成する。
結果的には2008年以降から久々に二桁勝利に成功するも、10勝目以降は勝ち星を稼げずに終わる。

2013年にはついに7試合登板(それも全て中継ぎ)のみで仕事を終了し、防御率も6点台。
これによって石井は自分の限界を感じたのか、引退表明を行い野球人生を終えることとなった。
日米通算182勝。

引退後は解説者などで活躍をしている。
2019年からは東北楽天ゴールデンイーグルスのGMに就任することが発表された。


【プレースタイル】
メジャー挑戦前は前述の通りノーコンであった。
この頃の石井に対して古田は「ストライクゾーンに入れるか外すか」しか指示しなかった(できなかった)という。
しかし、「調子がいい時はうまい具合に散らばる」とのこと。

それでも球の威力は凄まじく、松井秀喜をのけぞらせたほど大きなスライダー(スラーブ)と速球で三振の山を築いていっていた。
しかしノーコン故に安定せず、簡単に打ち込まれてしまうことも。
見た者を魅了するその投球にあこがれる者は多く、後々チームメイトになる石井ゴリ寿(弘寿)投手などは、高校時代に左腕に転向するほど。

しかしメジャー2年目以降は磨きのかかった投球術に加えて大分安定してきた制球と変化球で抑える技巧派に。
三振の数は投球法が変わっても減ることは無く、本人曰わく「三振の取り方は知っている」とのこと。


【性格・人物】
悪戯好きでマイペース、ひょうきんで、様々なことをやらかしている。

◆以下例
  • 2001年の優勝時、石井(ゴリ)と共謀し、若松監督を胴上げの際に空中で一回転させる
  • 同年の日本一時、普通なら古田が高津に抱き付く所を何故かベンチに居た筈の自分が抱き付き、古田を放置(テレビカメラにキャッチャーフライが上がった瞬間からベンチからカニ歩きでちょこちょこと飛び出している所が映っている)
  • 結婚会見の時、夫人の得意料理を「生野菜」と発言
  • 牛タンを食べる夢を見ながら婦人の耳たぶにかじりつく
  • 人の着メロを勝手に変更。酷い時は勝手にGPS登録して行く先々に現れたり、「今家に帰りましたね、ふふふ…」とストーカー紛いの行為を。(主な被害者:古田・青木)
  • 引退試合でセグウェイに乗りスタンドを一周。(曰く「自分は他人の引退試合で見守る側だったが「グラウンドを回るのが長い」と思った」んだとか)

野村監督もその点は重々理解していたようで「常識を心得ていない」と評価している。

非常に気さくな面もあり、後輩投手の涌井や岸らに旨い店を喜んで教えているとか。
涌井曰く「歩くぐるなび」らしい

また西武の若手とボンバーマンをしたりと馴染んでいるようである

2009年に鳴り物入りで入団した大型ルーキー菊池雄星には「自分といるとろくなことにならないから近づかない方がいい」と、早速釘を刺している。


だが、周りの選手のエラーには厳しく、わかりやすく嫌な顔をすることもある。
これはチームワークを保つ為に必要だと思ってやっていることだとか。


将来的にはビジネスに興味があるらしく野球は「儲けがいいから」やっているとのこと。

メジャーリーグで登板のない日はトイレで昼寝をしている事をめちゃ2イケてるッ!の『クイズ$マジオネア』で暴露され、ダメジャーリーガーと言われた。


追記、修正等宜しくお願いします。

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