横浜ベイスターズ

登録日:2011/04/06(水) 09:26:52
更新日:2025/04/18 Fri 20:25:35
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横浜ベイスターズとは、神奈川県横浜市横浜スタジアムに本拠地を置くプロ野球チーム・横浜DeNAベイスターズの前身球団で、1993年から2011年までこの名称を名乗っていた。
テーマソングはtvk(テレビ神奈川)でよく流れる『熱き星たちよ』。
かつてはマシンガン打線を中心にセントラル・リーグ(セ・リーグ)のAクラス争いをしたが、2000年代中頃から末期までは球界屈指のネタ球団であり、
そして12球団で一番弱く、前身・後身チーム含めてでさえ、優勝経験が過小であるチームでもあった。

この球団は1929年に大洋漁業(後のマルハ)が創設した社会人野球チームが源流で、
1950年からプロ球団「大洋ホエールズ」としてセ・リーグに参戦し、『巨人の星』で左門豊作も所属していた事でも有名であった。
大洋ホエールズ時代は優勝・日本一こそ1960年の1回のみだが、守備に定評があるチームとして名を馳せ、
長嶋茂雄・王貞治と言った歴史に残る大スターを擁した絶頂期の読売ジャイアンツ(巨人)相手に渡り合えた数少ない球団であった。
球団創設地は山口県下関市だが、1952年オフに松竹ロビンスと合併*1し、1953年には「大洋松竹ロビンス」、1954年には「洋松ロビンス」として活動。また合併と同時に本拠地を大阪球場(1988年まで南海ホークスの本拠地)へ移転した。

さらに1955年には大阪から神奈川県川崎市の川崎球場(後のロッテオリオンズが本拠地を置いた「10.19」で有名な球場)に移転し、また松竹が球団経営から撤退して大洋漁業の単独経営に戻ったため、「大洋ホエールズ」の球団名が復活。DeNA時代の2025年まで本拠地としている横浜スタジアムに移転したのは同球場が完成した1978年のことだった*2
実は大阪から川崎に移転するタイミングで横浜に移転することを目論んでいたが、当時の横浜にはプロ野球開催に適した野球場がなかった*3ため、やむを得ず川崎球場を本拠地にしており、いわば川崎を「暫定本拠地」としていた時代が20年以上も続いていたことになる。

なお横浜移転初年度の1978年には大洋漁業だけでなく、堤義明氏が経営していた西武グループの国土計画(後のコクド)も横浜スタジアム建設に出資したことが縁で球団株式の約45%を取得していたが、同年10月に国土計画は福岡県福岡市にあったクラウンライターライオンズを買収、本拠地を埼玉県所沢市に移転することを発表。……そう、西武ライオンズの誕生である。
この時に大洋球団の株を持ったままライオンズを買収すると野球協約第183条(同一企業、もしくは関連会社が複数の球団を支配することを禁じる条項)に抵触するため、国土計画は当時保有していた大洋の球団株のうち、3分の2(球団全株式の3割)をニッポン放送、残り3分の1(同じく1.5割)を東京放送(TBS)に売却した。
……この時はまだ誰も予見などしていなかったであろう。2001年の売却騒動で再びこの野球協約抵触問題が再燃すること、そしてその売却騒動を経て親会社になったTBSの下でホエールズ時代を上回る超暗黒時代に突入することなど。

やがて、1993年に親会社の大洋漁業がマルハに社名変更すること、ホエールズの名前の由来となった捕鯨事業の規制が年々強化されておりこれ以上球団イメージをクジラに頼ってはいられないことを受けて球団は生まれ変わり、横浜ベイスターズが誕生した。
ベイという名前の通り本拠地横浜スタジアムから歩いて数分でがあるのが特徴。
しかし、球界でスターになったのは18年で1度だけ

なお大洋ホエールズとしての初代オーナーは大洋漁業の創業者・中部幾次郎氏の長男である中部兼市氏(1950年-1953年)で、兼市氏が在任中に急死してからは弟の中部謙吉氏(1953年-1977年)が、さらに中部新次郎氏(1977年-1990年)がオーナーを務め、1998年の優勝時は中部慶次郎氏(1990年-2001年)がオーナーを務めていた。

□歴史


◆発足から黄金期へ(1993年~1997年)

大洋時代の選手をベースに外国人のローズとブラッグスを獲得。
この頃はまだ前身時代から籍を置く選手が多数在籍しており、ベイスターズとしての生え抜きはまだいなかった。4年連続Bクラスというスタート。
1994年は借金わずか8という勝率の高さや日本一の巨人に勝ち越したことから史上最強の最下位と呼ばれ、
1995年は勝率5割でBクラスだった。
だが1996年は低迷し最下位の阪神とはわずか1ゲーム差であった。

しかし、1997年。転機が訪れた。巨人、中日の低迷もありヤクルトと優勝争いを演じ翌年の優勝候補チームになったのだ。
この時が後身である横浜DeNAベイスターズ時代含めて、ベイスターズが最も前途洋々だった時代であった。


◆優勝そして、一瞬の黄金期(1998年~2001年)


前年優勝争いを演じた勢いそのままにマシンガン打線が爆発し38年ぶりの優勝、日本一を達成。
権藤監督の放任野球が上手くハマった形である。

1(遊)石井琢
2(中)波留
3(左)鈴木尚
4(二)ローズ
5(一)駒田
6(右)佐伯or中根
7(捕)谷繁
8(三)進藤

この打線はベイファンは忘れないスタメンであろう。
投手陣は中継ぎローテーション制度。
大魔神佐々木が神懸かり的な活躍をしMVPと流行語大賞を獲得。
チームは黄金期を迎える。この年のベイスターズがベイスターズ史上最強のナインと言っても過言ではなかった。
後にも先にも、優勝経験メンバーはこの時の選手だけなのだから。
1999年は野村、佐々木の故障により3位に終わるもローズの活躍もありチーム打率は前年を上回った。

しかし、2000年。
佐々木のメジャー移籍を皮切りにVメンバーが次々と離脱。
順位こそ3位で、金城、木塚の大ブレイクもあったが、この年からベイスターズ崩壊の足音が聞こえ始めた。
オフには権藤監督、ローズ、駒田が退団。

翌年は西武黄金時代を築いた森が監督に就任。徹底したミーティングとサインプレーを重視した野球を目指すも、180度違う野球観に選手が混乱。後述する選手同士の関係の悪さも追い討ちをかけた。
ルールや移籍組の活躍に救われ3位は死守したものの波留と進藤がトレードにより退団。更にオフには球団と森に不信感を抱いた谷繁がFA宣言して中日に移籍。トドメに本業の経営悪化を受けて親会社のマルハが球団株の売却(=球団運営からの離脱)を発表。


そして、ここから長い暗黒時代が始まった…


◆TBS時代…暗黒時代(2002年~)

2001年オフ、マルハは第2株主のニッポン放送にベイスターズを売却することを決め、一度はプロ野球実行委員会で承認された。
……が、当時ニッポン放送の子会社だったフジテレビジョンヤクルトスワローズの株式を保持していたため、ナベツネこと巨人オーナーの渡邉恒雄が前述の野球協約第138条違反になると異議を申し立て、ニッポン放送がベイスターズを買いたければその前にニッポン放送がフジテレビの株を手放すか、あるいはフジテレビがヤクルトの株を手放すべきだと主張した。

この問題点が指摘されたことにより、ニッポン放送への売却は白紙に。一転して第3株主だったTBSが親会社になることに決まり、2002年1月22日の実行委員会と同月26日のオーナー会議で承認、開幕直前の3月28日にマルハの保有していた全球団株式がTBSに計140億円で譲渡された。
当時の新聞報道(読売新聞・神奈川新聞など)を総合すると、マルハは2001年夏ごろからニッポン放送とTBSにそれぞれベイスターズの売却を打診しており、
一度はTBSと合意寸前まで行ったが、第2位株主であるニッポン放送が自分たちを差し置いて第3位株主であるTBSの手に球団が渡ることを良しとせず、巻き返して自分たちに売るよう要求、一転してニッポン放送への売却が決まった……という流れである。
このゴタゴタにより、本来ならば11月末までに決着すべきはずの売却問題が2002年までずれ込む要因になった。
またこの野球協約抵触騒動にあたり、最初にニッポン放送への売却案にゴーサインを出したNPBの川島廣守コミッショナーがニッポン放送とフジテレビの資本関係を把握していなかったということも判明、このような事態の再発を防ぐため、各球団は株主構成の比率をコミッショナー事務局に提出するということも取り決められた。
一方で親会社交代に当たっては本来30億円の加盟料が必要とされたが、この時は「新規参入」ではなく「筆頭株主の交代」と解釈されたため、TBSに加盟料は科されなかった。

このように球団売却にあたってはひと悶着あったが、放送局が球団親会社になるのはNPB史上初であり、当時は強力な情報発信力を持つTBSの下でベイスターズへの注目度が一層高まることが期待されていた。
実際にベイスターズの歴史を取り上げた村瀬秀信氏の名著『4522敗の記憶 ホエールズ&ベイスターズ 涙の球団史』でも触れられているが、当時の新聞報道などを見てみても、TBSが球団を持つことを不安視する声などほとんどなく、むしろ明るい展望を描いていた報道が圧倒的多数だった。
またプロ野球ユニフォーム史に詳しい綱島理友氏の著書『日本プロ野球ユニフォーム物語(中)』でも、この身売り劇はあくまで親会社が交代しただけで、横浜スタジアムという本拠地も「横浜ベイスターズ」というチーム名もユニフォームのデザインも変わらなかったことから、「最も幸せな身売り」とまで言われていたことが語られている。
が……
黄金期はAクラス争いを続けた横浜が前身の大洋時代以上の弱小チームとなることになるとは誰が思ったのだろうか?それも急速に……

  • TBS就任後の簡単な成績
2002年…春先大型連敗をし全日程最下位+サヨナラ勝ちなし
2003年…打線爆発も投手陣炎上、春先大型連敗+90敗越え
2004年…春先首位に立つも最後は最下位
2005年…投打が噛み合い3位と久しぶりのAクラス(なお借金1)
2006年…一時期巨人と最下位争いをするも最下位に逆戻り
2007年…移籍組の活躍もあり首位に立つが夏場の失速でプレーオフと貯金フィニッシュを逃す
2008年…ダントツ最下位に逆戻り、5年振りの90敗。首位打者内川の打率がチーム勝率を上回る奇跡(?)
2009年…再びダントツ最下位+2年連続90敗+3年ぶりの最下位三冠達成
2010年…序盤は最下位脱出(創設時の楽天よりも長く最下位にいた)も交流戦で失速しダントツ最下位+3年連続90敗の怪挙達成
2011年…11年ぶりに開幕カード勝ち越しも5月以降失速でダントツの最下位

以上最下位8回、4年連続最下位、6年連続Bクラス、10年連続勝率5割未満という惨憺たる成績を残してしまった。*4

ど う し て こ う な っ た!!


…とりあえず落ち着こう。


なぜ弱体化してしまったのか?

結構この点については沢山あるのだが、大まかに挙げるとこの辺になってくる。
①世代交代に成功した時期もあったが、末期になるとドラフトで獲得した選手が活躍しない事が増えてきた(ただし、黄金期メンバーの頃は育成が成功していたので、裏方の世代交代もある)
②移籍選手の大半が35歳前後(既に全盛期を過ぎて下り坂の年齢である)。しかも、補強ではなく補充
③連れてくる助っ人外国人の大半が何故かいつもいつもダメ外人
④代々続く派閥の歴史。からの内部関係悪化
⑤そもそも親会社から見放されている


①に関しては投手陣はフォームを魔改造され劣化。
野手陣は主力選手の後釜を発掘せず移籍した際にポジション不在という事態が頻繁に起こる。
そのため横浜では一軍半の選手が移籍すると一年間二軍暮らしになることが多々ある。

またスカウト陣も世代交代に失敗したことで有力選手を獲れなくなったという側面がある。
例えば2002年シーズン途中の6月には、東海大学OBである長谷川国利スカウトが突然退団したのだが、これは長谷川氏が同年のドラフトで後の主力打者である村田修一(日本大学)とともに、大学の後輩である久保裕也(自由枠)の獲得を目指していたところ、同年5月に法政大学出身である球団上層部の圧力で久保ではなく、久保より評価が下だった*5法大の土居龍太郎を獲得することになり、長谷川氏は上層部の者から「もう久保のところには行かないでくれ」と突然告げられた。
久保は長谷川氏だけでなく、当時の森祇晶監督や黒江透修ヘッドコーチも高く評価していた逸材であり、当然これに納得できなかった長谷川氏は反発、件の球団上層部の人間は長谷川氏の同僚であるスカウトたちから「あんたはどっちが上だと思っているのか!」と聞かれ「久保」と答えたが、「自由枠は土居」という結論は変わらず、長谷川氏は東海大学に謝罪した上で同僚たちの慰留を受けながらも「横浜ではこれ以上スカウトは続けられない」と6月に退職した。
以上の出来事は長谷川氏の著書『ジャイアンツ元スカウト部長のドラフト回想録』に綴られているのだが、同書によればそれ以前から一度逆指名による入団を断られた選手を再び逆指名で獲得するなど、不可解なドラフト戦略が目立っていたという。

なお「この一件が原因で東海大学が横浜を出禁にした」という噂がまことしやかに流れており、実際に長谷川氏の退団前年の2001年ドラフトで3位指名された小田嶋正邦以降、DeNA売却後の2016年ドラフトで2位指名された水野滉也(東海大学札幌キャンパス)まで東海大学および系列校の選手はベイスターズから1人も指名されていないのだが、
実際には大学や社会人野球チームを持つ企業が「特定の球団に行くな」ということは学生や社員の進路を狭めるだけだからあり得ないのではないか?という指摘もあるので、この話は話半分くらいに受け取っておくべきだろう。
とはいえ東海大学に強い人脈を有していた長谷川氏の退団がきっかけで有力なルートを失ってしまったことは確かであり、しかも長谷川氏は翌2003年から大学の先輩である原辰徳監督からの誘いを受け、ライバル球団の巨人のスカウトに転身。巨人で長野久義や菅野智之といった後の主力選手たちの獲得に貢献しており、彼の流出はまさにベイスターズにとって大損失になったといえる。

なおそこまでして自由枠で獲得しようとしていた土居だったが、ドラフト直前にはなぜか彼ではなくある別の大学生投手を自由枠で獲得しようという話になっていた。え、その別選手もはや笑うしかないスキャンダル起こしたから指名回避しましたが何か
……が、結局は当初の予定通りなんやかんやで自由獲得枠で入団。しかし後述のように3年間でわずか1勝のみと期待外れの成績に終わり、2006年シーズン途中で千葉ロッテマリーンズへ放出、ロッテでは一軍登板できないまま翌2007年限りで引退している。

もっともこの件はTBSが親会社に交代して以降の出来事とはいえ、当時はまだマルハ時代からの球団社長以下ほとんどのスタッフが続投しており、TBSの責任とは言い難いが。
暗黒期突入の大きな要因とされる谷繁元信の退団&中日流出も2001年12月の話であり、この時点ではまだTBSへの株式譲渡はまだ合意にすら達していない(=マルハの責任である)。
そもそもこの球団はマルハ時代、もっと言えば大洋時代から計画的に強いチーム作りをしていこうという視点を欠いており*6、またマルハのベイスターズ時代は独立採算制を取っていた事情もあって巨人や中日といった古豪チーム、堤時代の西武ダイエーといった金満球団には資金力で劣っていた。
だからと言って1980年代に古葉竹識*7監督の下で黄金期を築いた広島や1990年代に野村克也監督の下で黄金時代を築いたヤクルトのように、資金力に劣るなりに「弱者なりの戦術」で強いチーム作りに成功したとも言い難く、
その結果が1950年から優勝前年の1997年までの48シーズンで優勝は1960年の1回のみ、この間にAクラスが10回の一方でBクラスが38回(うち最下位15回)という成績に表れていたといえる。
1998年に悲願のリーグ優勝を果たしたのも、1980年代後半以降のスカウティングと育成がうまくハマった賜物であり、
それ以降も大洋時代から抱えていた根本的な問題点が解消されたとは言い難く、それ以降身売りが決まる2001年までの間にチーム成績は下り坂に入っていった。
身売り前後の表面的な成績を見れば「マルハ時代は何もかも順調だったのにTBSが全て台無しにした」と思えるかもしれないが、実態はむしろ「大洋時代から抱えていた問題点の数々がTBSへの親会社交代と同時期から顕在化していった」というべきだろう。

②は即戦力しか考えないのに球団経営が赤字なためどうしてもお払い箱にされ、能力が加齢で劣化した選手を獲得せざるを得ない。
それらの選手はもう一度花開くこともなく消えて行く。
光山、山北、森笠、入来弟、野口、佐久本、大西、デニーetc...
一昔前のパワプロ経験者なら聞いたことのある名前がズラリ並んでます……。

まぁ、種田、門倉、土肥、工藤、仁志、寺原、渡辺直、中村紀洋など、ちゃんと活躍した選手もいる。

一応補足すると、各球団が全盛期を過ぎても下り坂の年齢で獲得する理由はちゃんとあり、若手の為の教科書的なポジションが多かったりする。しかし当時のベイスターズには教科書的な存在は意味が無かった。

③はローズ、ブラッグスを境に連れてくる助っ人外国人がネタだらけ
以下数々のネタ
ウドの大木ターマン
ホームランしか打てないヤング
広島相手しか打てないグラン
3億払って一軍帯同数日コックス
荒れ球のみホワイトサイド
何故か楽天が拾ったウィット
いきなり打たれたソニア
出れば打たれるヒューズ
決め球なしウィリアムス
脅威の負け運ウッド&グリン
二軍のリーダージェイジェイ
打撃が売りの投手ホセロ
コーラガブ飲みチアソン
ドーピング疑惑ビグビー
敗戦処理ブーチェック
原発と地震が恐いけど帰ってきたリーチ
でも寸前×(1勝7敗)だったリーチ

などなどネタ外人だらけ。

後に中日入りしてセ・リーグファンのトラウマとなったタイロン・ウッズや、巨人で剛球を武器に活躍し胴上げ投手となったクルーンなど大物も発掘したが、本格化する前に放出してしまった感が強い。
あとはハーパーくらいしか当たり外人を発掘できなかった。

助っ人が使えない=戦力の計算が外れる→代わりがいないの負の連鎖が発生してしまう…

……だが、このようなベイスターズの助っ人選手の質の低下はTBSが親会社になってから急速に始まったというわけでもなく、マルハ時代末期、それも優勝前年の1997年にビル・セルビーを獲得したころから始まっていた。
このセルビーを皮切りにホセ・マラべ(1998年)、アルキメデス・ポゾ(1999年)、ルー・メローニ(2000年)と、それまでローズと同時に来日したグレン・ブラッグス(1993年~1996年)に代わるポジションの助っ人たちは皆ブラッグスほどの好成績を残すことなく1年で退団しており、ローズ退団後の2001年に獲得したデーブ・ドスターも期待外れな成績に終わり、1年で退団。
このように外国人選手への目利きが低下したまま親会社がTBSに交代、TBSもそれを改善できないままズルズルと経営を続けていた結果このような惨状となった。

④はそもそも選手同士の仲が基本良くなかったのが発端。これについては波留や石井などといったマシンガン打線関係者も認めており、一方で試合の時は団結していたという状態であった。そして関係の悪さゆえに派閥が誕生し、権藤監督退任の原因や森監督の解任に繋がるレベルまでに至った。2000年代後半からは派閥状況が悪化してしまい、プロとは思えない姿勢や態度を取る選手が続出した。

⑤は親会社が経営意欲をなくしていったこと
これが横浜弱体化の最大最悪の元凶。
TBSは球団を買収した当初こそそれなりにやる気を見せていたが、マルハからそっくりそのままチームを受け継いだ初年度からいきなり最下位に低迷。
親会社交代後初のストーブリーグである2002年オフにはドラフトで村田修一、FAで若田部健一、新外国人としてスティーブ・コックス&タイロン・ウッズを獲得するなど積極的な補強を行ったが、村田とウッズはともかくそれ以外の面々は完全な期待外れで、2003年シーズンは前年以上に悲惨な成績に低迷。特に全く活躍しなかったコックスには違約金含め7億円以上を支払う羽目になった。
そんな同年途中には中日と揉めて退団したエディ・ギャラードを緊急補強、2004年の開幕前には年俸5億円で大魔神佐々木を呼び戻すなど改めて補強を行うものの、抑えにこだわりを持つギャラードは佐々木加入に反発したトレードを要求、結局は中継ぎへの配置転換を受け入れるものの故障でまともに投げられず退団。しかも高額年俸を払って呼び戻した佐々木も全盛期ほどの活躍はできずに2年で引退。
しかもこのTBS時代初期の3年間(2002年-2004年)に希望入団枠で獲得した選手たちは以下のように村田を除いて全くの期待外れに終わっており、総じてこの3年間の積極的な投資はほとんど失敗に終わったと言える。
  • 前述のように東海大学への人脈を築き上げてきた長谷川スカウトを袖にしてまで獲得するも、3年間で1勝のみに終わった土居龍太郎(2002年オフ入団)
  • 入団直後に体重100kgオーバーで「自己管理がなっていない」とコーチから怒られ、二軍暮らしが続いた末にソフトバンクに放出された吉川輝昭(2003年オフ入団)
  • 「能登のドクターK」と呼ばれ、オリックスのドラフト1位候補にも挙がっていた高校時代から囲い込むも社会人入団後に肘痛とイップスを発症、プロ入り後は二軍でもロクに投げられず3年でクビになった森大輔(2003年オフ入団)
  • 5億3000万円と法外な契約金を払って他球団との争奪戦を制するも、5年間で13勝27敗に終わった那須野巧(2004年オフ入団)
  • 関西学生リーグ史上初の完全試合を達成するなどの実績を引っ提げて入団するも、わずか2試合のみの登板で未勝利のまま引退、大洋時代最終年からDeNA売却後まで続いた「背番号19の呪い」の負の系譜に名を連ねた染田賢作(2004年オフ入団)
この5人に費やした契約金は那須野5億3000万円+土居1億5000万円+吉川・森・染田の3人が各1億円=実に9億8000万円に上ったわけだが、
そんな彼らがTBS横浜時代に挙げた勝敗数は土居1勝5敗+吉川1勝6敗*8+那須野13勝27敗=15勝38敗
1人あたり2億円近くを費やしておきながら通算3勝7.6敗という成績である。
……彼らだけの責任ではないとはいえ、これだけの大金をつぎ込んで最多勝争いをする先発投手が1年で稼ぐ勝ち星しか稼げず、そればかりかその倍以上の負けを重ねてしまったとあっては泣くに泣けない。

そして2004年オフには同年のドラフトの目玉と目されていた明治大学の投手・一場靖弘の争奪戦をめぐり、横浜や巨人、阪神、そして広島が「栄養費」と称して現金を渡していたことが発覚、「一場事件」として社会問題化。TBSへの親会社交代と同時にオーナーに就任した砂原幸雄氏がオーナー職を引責辞任する事態に。
砂原氏はかつて、オウム真理教による「坂本堤弁護士一家殺害事件」(1989年)*9の一因になったとして1996年に大きな社会問題となった「TBSビデオ問題」によって社会的信用を失墜させ、経営陣が総辞職するに至ったTBSの再建を任される形でTBSの新社長に就任したという過去を有しており、オーナー就任時にもいわばその実績を買われていた節があったが、
蓋を開けてみれば(前述のように初年度の2002年はほぼマルハの責任ではあるが)自身がオーナーに在任していた3年間はすべて最下位になった末、かつて不祥事の後始末のために要職を任された自身が不祥事で要職を引責辞任するという、これでもかというほどに就任当初の期待を裏切るような形でオーナー職を去る結果となった。
後任として若林貴世志氏が新オーナーに就任するが、それまでの相次ぐ補強の失敗などもあって球団はこれ以降、戦力補強に消極的になっていく。
またコックスや若田部らの失敗に懲りたためか、球団は2003年オフの契約更改時から「原則として複数年契約を認めない」という方針を立てていたが、この方針を理由に2年連続で本塁打王を獲得する活躍を見せたウッズからの複数年契約要求を拒否、ウッズはライバル球団の中日に流出してしまう。
もっともウッズは当時35歳で年齢的にも下り坂に差し掛かる時期であるため、フロントとしてはこれ以上の活躍は見込めないという判断もあったのだろうが、その後ウッズは横浜スタジアムより本塁打の出にくいナゴヤドームを本拠地とする中日に在籍しながら相変わらずの好成績を残し続け、当時落合博満監督の下で黄金時代にあった中日の躍進に貢献。前述の長谷川氏もそうだが、このウッズの流出もまさに大損害と化した。

チーム運営に関しては監督が2年くらいで交代するため、チームの方向性が定まらなかったという面もあり、これも長期低迷の一因といえる。
3年連続最下位の末にウッズが流出するという非常に苦しいチーム事情の中、2005年には牛島和彦氏が監督に就任。
初年度の2005年は現場の努力が実り、TBS時代4年目で初の最下位脱出&結果的に唯一のAクラスとなる3位に滑り込むが、同年オフにフロントが補強の要望を無視して牛島監督と対立、
2006年には最下位に逆戻りした末に牛島監督も2年で辞任。その後イエスマン体質の監督を起用した事で本格的な負の連鎖へ落ちてしまった。


さらに「一場事件」と同時期に起きたプロ野球再編問題の末にプロ野球の地上波放送が減り、買収当初はドル箱コンテンツとして期待されていた巨人戦放映権ビジネスが成り立たなくなってしまう。
またこのころには本業自体が相次ぐ改編失敗ビデオ問題の時の反省はどこに行ったのやら相次ぐ不祥事*10による視聴者離れが深刻になっていたため、球団の面倒を見る余裕もなくなっていった。
このような状態からTBSは2007年頃から既に身売りを検討していたとされており*11、翌2008年のリーマン・ショックをきっかけに広告収入が低迷、2009年春の番組改編失敗なども重なって赤字に転落したことが身売りの決定打となったとされている。

TBSが親会社になってから期待されていたプロモーションに関しても、聴取率が取れず1年でラジオの中継を終了した末、テレビの野球中継は実質ドラマの番宣枠(番宣の方が多い)という宝の持ち腐れも同然の状態と化していた。
また以下のようにファンの期待を裏切るようなタイアップなども見られた。
  • H2の実写版で無理矢理メインキャラをベイスターズに入団させる
  • リンカーンで横浜対阪神戦の始球式を行なうも阪神と巨人ネタしかやらない
  • 親会社なのに巨人と野村克也監督時代の楽天ばかりプッシュする
こうして、TBSは親会社時代に選手やファンの反感を買う様な行為ばかりやらかし、ファンからはTBSの所在地にかけ「赤坂の悪魔」とまで呼ばれる様になった。


この暗黒期は敢えて言えば「4強1弱1論外」時代であった。勿論、広島を「弱」、横浜を「論外」と定め、残りを「強」と位置付けるのが適切である*12
2010年オフはフロントの対応や負け癖のついたチームに関して選手から契約更改で批判された。

そして売却へ

そして2010年オフ、ついに身売り騒動が起きた
TBSへのファンからの信頼はもはや地に落ちていたため、このニュースにファンも大喜びした。

結果は…





交渉失敗しました

結局2011年も親会社はTBSになった。とはいえこの交渉決裂の原因は横浜に球団を残すことを求めるTBSと、静岡や新潟への本拠地移転を視野に買収交渉のテーブルに就いていた住生活グループとで意見が合わなかったためであり、結果的に住生活に売らなかったTBSの選択は英断ではあったといえる。

同年オフにはそれまでの低迷に業を煮やした内川聖一が球団を徹底批判してFAで福岡ソフトバンクホークスへ移籍。いわゆる「横浜を出る喜び」発言や「チック」ネタが生まれた瞬間である。
更には地元財界の有力人物である横浜スタジアムの社長・鶴岡博や、スタジアム会長で「ハマのドン」と呼ばれている地元港湾事業者社長の藤木幸夫が激怒し、

横浜から出て行け!!

と発言。

ベイスターズの未来はどうなるのか?


……かと思われたが2011年オフ、モバゲータウンの運営会社のDeNAが親会社に。TBSは買収時には140億円を投じてマルハから球団株を買収した一方、DeNAがTBSから球団株を買収した際の金額は約65億円+新規参入時に負担した加盟料30億円を合わせても95億円。この10年間で約45億円も資産価値が下落したことになる。

かくして、2002年の売却成立当時は「最も幸せな身売り」と言われたマルハからTBSへの球団売却は、蓋を開けてみれば2011年のDeNAへの身売りまでファンも選手も親会社も誰も幸せになれなかった「最も不幸な身売り」という形になってしまった。

なおDeNAはチーム名を横浜モバゲーベイスターズにしようとしてたが、ナベツネ「将軍様」が「モガベーは野球協約に違反する」と言ったため、最終的に横浜DeNAベイスターズに落ち着いた。

…落ち着いた?まあ今は落ち着いてるからいいか。

この後は後身である横浜DeNAベイスターズを参照。


以下数々のネタ
ここでは2002年以降のネタの数々を紹介
「古木、あーっと!」に始まる古木克明の数々の伝説
種田のガニ股打法にあやかりタネダンスなる応援の存在
スペランカー多村仁志
マシンガン継投
いつしか生まれたやる大矢のスレ
シーズン途中にいなくなった大矢
監督が秋季キャンプ中に決まった
獲得した外人が来日前にドーピング疑惑発生
ドラフトで一場に裏金が発覚
数年後ドラフトで那須野に裏金5億円が発覚
直後に那須野とくまきりあさみの交際発覚
水差し野郎高宮
グラウンドで練習しないでサッカーしてる
遊び>>>(越えられない壁)>>>試合と練習
故障が癒えたランドルフを再契約→すぐに再発し解雇
尚典と琢朗と佐伯の退団方法がお粗末
ファン感謝デーでいきものがかりのライブ
バット投げの名手早川が在籍(でも使えなかった)
中山エミリの妹と交際してから劣化した吉村
牛田の入場曲がパチスロエヴァ
スタメン表の記入ミスにより翌日先発予定だった投手が急遽先発
フロント批判により弥太郎を1年で放出
代わりに総帥大沼を獲得→炎上
尾花監督試合中に居眠り疑惑
2011年5月1日探偵オペラ ミルキィホームズとコラボ
実力、人気共に最下位レベル(地元人気がない)
引退試合でホームランを放つメモリアルクラッシャー村田(被害者:佐々岡・矢野)
ブラックホッシーの存在
シーズン中に合コンのセッティング
1試合9併殺を記録
TBS身売りから2011年までの通算で借金600越え
総帥大沼の不倫発覚
西武二軍とほぼ一軍ベストメンバーで練習試合をして、5-13でボロ負け
二軍が社会人野球チームと練習試合をして、0-8でボロ負け


93年から2011年までの歴史を作った選手達

◇創世記から黄金期に入るまで

〇佐々木主浩
ご存じハマの大魔神。落差のあるフォークで幾多の記録を作った最強の守護神。
米のマリナーズを経て2004年に復帰したが、この頃には度重なる怪我と自身の加齢で、前半こそは活躍したものの体力が続かず失速。2005年引退。国内250セーブを達成して去っていった。
だが、絶頂期の活躍は紛れも無く最強の守護神であり、この当時を知るの人々が横浜ベイスターズのピッチャーは?と聞かれると、
まず最初に名が上がるのは間違いなく彼である。
なにせ、「登板すれば横浜の勝ちパターン」「横浜戦は8回までが勝負」などと、他球団ファンを絶望に追い込んでいたのである。
現在はニッポン放送・TBSの野球解説者。野球と離れたところでは、馬主としても有名で、ヴィクトリアマイル2連覇を達成したヴィルシーナやジャパンカップ勝ち馬シュヴァルグラン、秋華賞とドバイターフを制したヴィブロスなどの名馬を所有していた。

〇ロバート・ローズ
元々は守備が出来る二塁手として取ったが蓋を開けてみれば打つ方も凄かった最強助っ人。
8年で打率3割を7回記録。99年153打点はチーム記録にして歴代2位の記録。チャンス時の打率が安定して高く、対戦チームの悩みになっていた。
その打棒には他球団も戦々恐々としており、特に巨人は投手陣の査定条件を「ローズに打たれても単打ならプラス査定」にしていたとまで伝わる。
2003年ロッテに入団したが、キャンプの最中に退団してしまった。
なお、55本に並んだタフィ・ローズと区別するため「白ローズ」「白薔薇」とも呼ばれる。

〇石井琢朗
元は投手で登録名も「石井忠徳」だったが、大洋最終年に三塁手へと野手転向し験担ぎで「琢朗」に登録名を変えると創設1年目に盗塁王を獲得。
さらに遊撃手への転向を経て、その後は不動の1番打者としてチーム歴代1位の安打数を記録したが2008年に引退勧告、からの自由契約となり広島に拾われる。
2012年引退。何の縁か最後の試合はハマスタでのDeNA戦だった。引退試合で両ファンが見せた応援歌の大合唱は語り種となっている。
その後広島の打撃コーチとなり、2016年の広島25年ぶりの優勝の影の立役者となった。後にヤクルト、巨人のコーチを務めた後2022年にDeNAに復帰。
野手転向時に猛練習を行った話は有名だが、前述した派閥の中心人物としても有名。

〇谷繁元信
創設初年度は守備の不安から控えに回ったが元捕手・大矢の鬼指導を経て不動の捕手になった。
2001年オフ球団や森監督との関係が悪化し、FAで中日へ。2014年からは選手兼任監督となり、2015年に引退した後も2016年途中まで監督を務めた。引退まで27年間主力であり続け、通算出場試合数は3021試合で歴代1位。2006年WBC日本代表。
DeNAのコーチとして呼ばれるという記事も出たが、身内のトラブルによりお流れになったとか。

三浦大輔
スローカーブを武器に初年度から暗黒時代終焉まで主力として活躍し続けたハマの番長。背番号18を背負って18年目になる2016年初のCS進出決定を見届けて引退。2004年アテネ五輪日本代表。
背番号18は「横浜ナンバー」とされ、引退後は解説者兼馬主を務めた後、2019年からは「横浜ナンバー」を背負いコーチに。
その後2021年からは数字をひっくり返した「81」を背負い監督を務めている。

〇グレン・ブラッグス
初年度にやってきたメジャーリーガー。引退までの4年間不動の4番を務めた長打力に加えて外野守備も優秀。ものすごく短気。

〇鈴木尚典
張本勲を彷彿とさせる天才的な打撃から「ハマの安打製造機」の異名をとった名打者。
95年からレギュラーとして活躍し球界を代表する打撃力で首位打者を2回獲得。
しかし守備の面ではこれまたハリーを彷彿とさせるほど難があり、優秀だった横浜守備陣の唯一の穴となっていた。
98年シーズンには首位打者を獲得し優勝の原動力に、日本シリーズでは打率.480と大暴れしシリーズMVPを受賞する大活躍で日本一に貢献した。最終回で照明が目に入ってやらかしたのは秘密。
2004年から成績が落ち込み2008年自由契約。石井・佐伯と異なりそのまま引退し球団職員になった。

〇進藤達哉
当時の日本人最高レベルの守備に加え意外性の打撃の持ち主として大洋末期から黄金期まで主力だったが、故障で半分離脱した2000年オフにオリックスに移籍、福本豊以来空き番の7を引き継いだ。2003年引退。
その後コーチとして帰ってきて現在はDeNAのフロント。

〇盛田幸希
シュートを武器に佐々木と共にダブルストッパーを形成。しかし、先発転向を境に不振となり97年オフ近鉄へ移籍。
その後脳腫瘍から復活という伝説を残した。
2002年を最後に引退。その後も脳腫瘍の再発に悩まされ続け、2015年に45歳という若さで死去。

〇屋敷要
大洋時代のスーパーカートリオの一人にして当時の球界屈指の好守の持ち主。
晩年のため控えとして活躍したが93年オフに駒田獲得の資金確保のため解雇されるも、長嶋茂雄に拾われて巨人で2年間活躍。
現在は大学野球のコーチをしながらSLの撮り鉄をしている。

〇高木豊
屋敷同様スーパーカートリオの一人。
衰えとローズの加入から二塁から一塁転向で結果を残したが屋敷と同じ理由で解雇。日本ハムに拾われるも翌年引退。
現在はタレント兼解説者で、近年は「野球解説YouTuber」の先駆け的存在にもなったことでも知られている。
また3人の息子が全員Jリーガーになったことからサッカーにも関わりがある。

〇山崎賢一
こけしバットで人気を博したベテラン。これまた駒田獲得のため初年度終了後に解雇。

〇畠山準
「はたけやま」ではなく「はたやま」。
元々は池田高校やまびこ打線のエースで、鳴り物入りで南海に入団した。
その後打者転向と移籍を経て横浜で大活躍した。
波留・鈴木・佐伯の台頭から控えに回り代打要員で優勝に貢献。

〇野村弘樹
PL時代は立浪和義・宮本慎也・片岡篤史・橋本清らと共に甲子園春夏連覇を果たした、制球力抜群の初代エース投手。
優勝翌年から故障で劣化し、33歳の若さで引退。
なお、投手にしては打撃力もあり、高校時代には立浪や片岡を押しのけて4番に座り、黄金期には「マシンガン打線の9人目」などと呼ばれ、応援歌はDeNAになった後左腕先発テーマとして流用された。

〇斎藤隆
96年初の二桁勝利をあげ覚醒するも故障で1年の離脱。
その後は復帰し黄金期はエース、暗黒期初期は守護神として活躍。先発再転向後は衰えから劣化し、複数年契約に見合わなくなった結果ファンからは「アレ」と呼ばれる程のヘイトを集めるに至ってしまう。
その後アメリカ挑戦を表明、ファンからは思い出作りとみられていたがリリーバーとして大復活。特に2011年にプレーオフであの最強打者・プホルスと2度対戦して2度共抑えたという活躍は当時41歳という事もあり強烈な印象に残った人も多いだろう。
2013年、故郷杜の都にて日本球界に復帰、楽天を日本一に導いて2015年に引退した。

〇駒田徳広
94年巨人からFAでやって来た元祖満塁男。
勝負強い打撃と守備を武器にキャプテンとして優勝に貢献。2000安打達成後、短気な性格が災いし球団や監督と揉めた。現役続行を希望し自由契約となったが結局引退。引退会見の物寂しさは伝説的。
馬面で野次られることの多い選手とネタにも事欠かなかった。アニメ版CLANNADで岡崎汐が彼の打撃フォームを物真似したため話題になり、AAまで作られた。

〇佐伯貴弘
初年度ルーキー。勝負強い打撃とお笑い芸人に匹敵する話術で愛された。
暗黒期は3番4番として活躍したが2010年に自由契約。中日に拾われて翌年引退。後に中日の二軍監督やコーチを勤めるが、谷繁の解任と共に佐伯も解任となる。

〇斉藤明夫
大洋後期のエース。衰えからベイスターズ元年の93年は特に活躍することはなく引退・コーチ転向。
現役時代から怒らせると怖く、96年のVS巨人戦での乱闘劇は有名。

〇秋元宏作
谷繁の控えとしてチームを支えた捕手。
谷繁がイマイチだった時は主に佐々木専用捕手として使われていたが、その谷繁の守備が改善されて以降は出場が減り、さらに2000年に相川と鶴岡が台頭したことにより引退。

〇波留敏夫
石井琢朗と超攻撃的1・2番を、また佐伯とお笑いキャラ同士タッグを組み愛された走攻守そろったムードメーカー。
2001年シーズン途中不振と干され気味だったことで中日にトレード移籍し会見でを流した。
その後さらにロッテに移籍するも2004年に引退。その後は横浜含めコーチを歴任、根性論的な言動や上層部とのトラブルもあるが選手の成績向上の実績も持つなど評価が割れている。

〇五十嵐英樹
初年度ルーキーの一人。ヒゲ魔神の愛称で親しまれた中継ぎ投手。
後に彼の背番号13は着用した選手が軒並み活躍出来なかった…どころか多くの選手が野球と関係ないところで散々な目に遭った事で19番共々「呪われた背番号」扱いされる事になる。

〇島田直也
打たせて取るピッチングでチームを支えた中継ぎエース。
引退後は紆余曲折を経て母校である常総学院高校の野球部監督に。

〇小桧山雅仁
バルセロナ五輪代表の初年度ドラフト1位。1年目はフル回転したが酷使が祟りその後は低迷。彼の背番号19は先代の中山裕章が大洋時代の1991年オフに起こした女児への連続強制わいせつ事件も相まって、DeNA売却後に山﨑康晃が不動の守護神として活躍するまで「呪われた背番号」扱いされていた。

〇永池恭男
石井と共に将来の担う内野手として期待されたが万永とタイプが被ったことにより97年オフ巨人に移籍。

〇デニー友利
ドラフト1位入団と甘いマスクということで毎年期待されていたが結果を残せず97年に西武へ移籍し覚醒。
2003年横浜復帰するも活躍できずアメリカ挑戦を経て中日優勝に貢献した後引退。熱い男で近年ではデニキというニックネームでも呼ばれる一方母子家庭の苦しみを知る事から西武時代は西武ドームのシーズンシートを購入して母子家庭を招待していた。
その後横浜と中日で投手コーチを務めた。

〇有働克也
初年度から2年連続で開幕投手を務めた先発ローテの一員。96年シーズン途中に登録名を「有働勝次」に変更したが同年限りで戦力外、中日に移籍。

〇宮里太
初代選手会長で主に左の代打として活躍。黄金期初年度の97年に引退。

〇万永貴志
内野のスーパーサブとして2005年まで長きにわたってチームを支えた。応援歌がイメージと合わないことで有名。

井上純
左の代打兼代走要員でチームを支えた外野手。黄金期は代打の切り札を務めた。ロッテの2005年の日本一にも貢献。

◇黄金期

〇川村丈夫
1年目から二桁勝利をあげ黄金期はエースとして活躍、優勝翌年の99年にはリーグ3位の17勝を記録。一時期の低迷を経て、暗黒期前半はクアトロKの一員として中継ぎエースを務めた。
被弾が多く、ルーキーイヤーとその翌年はリーグ最多の被本塁打数を記録してしまっている。

〇金城龍彦
黄金期最終年の2000年野手転向2年で首位打者と新人王を獲得。その後2年は低迷するが2003年から3年連続三割二桁本塁打を記録し復活。
その後は安定した打撃や強肩を武器にミスターベイスターズとして活躍。2006年WBC日本代表。2014年オフ、引退勧告を蹴る形でFAし巨人へ移籍するも、翌2015年は怪我が祟って二軍暮らしを強いられ引退。
現在は巨人コーチ。

多村仁志
怪我を乗り越え2000年に1軍定着。
2003年中盤から覚醒し、チームの顔として2006年WBCで活躍するが故障が原因で同年オフにソフトバンクへトレード。しかし、2013年古巣へ帰還し、スーパーサブとして活躍。2016年に中日に育成契約で移籍するも引退。
故障の多さや内容からスペランカーとも呼ばれるが、故障してない時はトップクラスの成績を残しているのもまた事実。

〇中根仁
98年脱税で出場停止を食らった波留の穴埋めとして、盛田とのトレードで近鉄から移籍。
勝負強い打撃で右の代打兼左投手先発時のスタメンとして活躍したチームの兄貴。2003年多村が一人前になるという願いが叶い引退。

〇阿波野秀幸
投壊近鉄でエースとしてフル回転し優勝を支えた左腕。巨人で低迷していたところをかつての恩師権藤に拾われ98年に移籍。2年間中継ぎとして優勝に貢献した。

〇西清孝
万年二軍暮らし⇒打撃投手を経て開花した苦労人。97年から2年間中継ぎとして活躍。

〇木塚敦志
現役での登板機会が全てリリーフという鉄腕。1年間から活躍し長きにわたり活躍した闘志むきだしのサイドハンド。クアトロKの一人。
引退後投手コーチになり、DeNAになって以降の投手陣底上げに貢献した。

〇戸叶尚
ノーコンながら97年には二桁勝利を記録するなど次期エースとして期待されたが、99年に呪いの背番号19を着用してから低迷し、2000年オフトレードでオリックスへ移籍。球団合併分配で行った楽天で引退。

福盛和男
97年から先発中継ぎ抑えと便利屋として活躍するが2003年オフトレードで近鉄へ。
移籍後は近鉄最後の守護神と楽天最初の守護神としても活躍。戸叶と共にイケメンとして人気もあった。

〇川端一彰
97年は少ない打席で打率三割を記録し、98年は複数ポジションの守備固めで優勝に貢献したユーティリティ選手。

〇荒井幸雄
ヤクルト黄金期を支えた大ベテラン。移籍初年度の98年から2年間左の代打として活躍。

〇小宮山悟
2000年FAを恐れたロッテから自由契約で移籍してきたベテラン右腕。
移籍2年目は三浦とのダブルエースで活躍したがオフにFAでアメリカ挑戦。その後1年の浪人を経てロッテに復帰すると、井上同様優勝に貢献した。

〇森中聖雄
99年から4年間中継ぎとして活躍した左腕。ゴジラ松井の大好物。

〇河原隆一
地元出身94年ドラフト1位左腕。97年から左のワンポイントとして活躍し、優勝にも貢献。CDに収録された応援歌は応援歌ファンの間では名曲…とされるがいかんせん演奏機会がなかった*13

〇横山道哉
98年ハマの中魔神として1軍に定着。その後は伸び悩んだが日ハムへ移籍後、北の大魔神として復活。2007年自由契約で復帰し中継ぎとして活躍。
長くスコアラーを務めていたため、ベンチに座る彼の姿を見かける機会も多かった。

〇石井義人
2000年に代打兼右投手先発時のスタメンとして1軍定着。打撃はチーム屈指のレベルだったが守備のまずさが原因で2003年西武へ移籍。
才能が本格的に開花した西武ではスタメン、巨人では代打の切り札として優勝に貢献。

〇相川亮二
2000年に秋元から2番手捕手を奪い、2004年から正捕手を務めたが2008年オフチームに不信感を抱きFAでヤクルトに、2014年に巨人に移籍し2017年に引退。選手時代はリーグ優勝や日本一に縁がなかった。
弟はテニミュ亜久津仁、所謂「白菜」だったりする。
2004年アテネ五輪、2006年・2013年WBC日本代表。

〇田中一徳
98年に2年生ながら甲子園でPL学園高の一員として活躍し、2000年高卒ルーキー開幕1軍の快挙を成し遂げた俊足の外野手。
極端なクラウチング打法や代打の切り札としてファンから愛されたが盗塁技術の無さが響き、2006年解雇。

◇暗黒期前半

〇村田修一
ルーキーイヤーの2003年から主軸をはった主砲。2006年中盤から4番を務め本塁打王を獲得。
2008年北京五輪ではミスを連発したが2009年WBCでは故障離脱まで大活躍。しかし、最終年に不信感を抱きFAで巨人へ移籍。通称男村田及びケデブ*14
悪くない成績かつ2000本安打目前であったが2017年に巨人を戦力外に。どこか獲るだろうと思われたがどこも獲らず、BC栃木へ。
なんやかんや注目された末に2018年引退。独立リーグでの引退試合後、改めてその年の巨人対DeNAの最終戦(巨人主催)で引退セレモニーを開いてもらえた。
さらにコーチとして巨人に戻ってきた後、2023年からはロッテでコーチを務める。
良くも悪くも「お山の大将」意識が最後まで抜けきらず、巨人在籍時には村田のプロとしての意識の低さを嘆いた駒田による暴露記事が出てしまった有名。

〇内川聖一
高卒2年目から1軍に定着。守備に不安はあるが打撃力はチーム屈指で、2004年に覚醒......かと思われたがレギュラーに定着しきれずしばらくは控え。
2008年に一塁コンバートしたことで首位打者獲得と覚醒。しかし、上記でも触れたように肝心のチームはというと、勝率が内川の打率を下回っているという有り様だった。
その事もあってか、2010年チームと完全に決別しFAでソフトバンクへ移籍。2020年に球団に頼み、自由契約となる。そしてヤクルトに移籍、チームのリーグ二連覇を見届ける形で2022年に退団。2023年は地元大分の独立リーグのチームでプレーを続けつつ、野球解説者としても活動していたが、その年限りで選手として現役引退した。
上記のFA移籍の際の言動や本人の歯に衣着せぬ性格もあり一時期はベイスターズファンから目の敵にされていた。
だが、近年では親会社の交代や、暗黒時代におけるチーム状況のあまりの酷さを物語るエピソードが他選手の口から語られる機会も増えたことから「内川がこれだけ言うのも当然」とファン側での理解が進んだこともあり雪解け。球団史を振り返る公式映像でインタビューに答えFA移籍についても触れるなど、関係は改善している。
右打者としての最高打率を更新し、6年連続打率3割を達成した球界最高打者の一人。チームリーダーとしても大きく貢献していた。通称チック。2009年、2013年、2017年WBC日本代表。
内川コピペはあまりにも有名。

〇種田仁
2001年シーズン途中に波留とのトレードで中日から移籍。ガニマタ打法といぶし銀の打撃で2年連続打率三割を記録するなどファンから愛された選手。

〇タイロン・ウッズ
2003年から2年間4番を務めた怪物。年俸で揉めたため中日に移籍し、2008年まで活躍した。
コックスのオマケで取ったはずなのだが…

〇小池正晃
98年横浜高校の1番打者で2005年にリーグ最多犠打+20本塁打を放つなど活躍したがその後は伸び悩み2008年シーズン途中に中日移籍。
優勝に貢献した後FAでDeNA初年度に復帰。引退試合で2ホーマーという伝説を残した。

〇古木克明
日本一に輝いた98年オフにドラフト1位(松坂大輔のハズレ)指名を受け入団。2002年僅か1ヶ月半で9本塁打を記録するなど将来を期待されたが、2003年には打率.208・22本塁打・38打点とある意味凄まじい成績を残す。
チャンスに弱いうえに守備が当時の日本球界最低レベルだった(実は極度のドライアイだった事が引退後に判明したので、それが原因だと考えられる)こともあり、出番を失い2008年トレードでオリックスに移籍するが結果を残せず解雇。

一時期格闘家転向⇒野球再開と現在に至るまでネタが絶えないある意味伝説の男。
小学校時代には卒業文集で「(当時低迷していた)大洋とロッテ(オリオンズ)だけは絶対に行きたくない」と書いていたが*15、よりによってその大洋の後身であるベイスターズにドラ1で入団することに。当時は日本一になったばかりだからね、仕方ないね。なお入団後。

〇マーク・クルーン
2005年不振の佐々木に代わり3年間守護神を務めたクアトロKの一員であり日本球界最速男。
制球難で劇場型ではあったがファンサービスを欠かさない性格で人気も高かった。
07オフに巨人に移籍しそちらでも守護神になるが巨人3年目に炎上が目立ったため解雇された。

〇加藤武治
1年目からリリーフとして活躍した右のサイドハンドでクアトロKの一人。先発転向が失敗し、日ハム移籍後も復活ならず解雇。

〇ドミンゴ・グスマン
2002年から先発ローテを務めた助っ人右腕。中日移籍後は二桁勝利を記録。
ネットで使われる〇〇ンゴの由来はこの人の楽天時代の炎上活躍から。

〇若田部健一
地元神奈川(鎌倉市)生まれで、幼少期は横浜の全身である大洋ホエールズのファンクラブ(友の会)に入っていた。ダイエーを暗黒時代の黎明期から支え続け、99年・2000年の連覇に貢献した元エース。
02年オフにFAで幼少期からの憧れだったベイスターズに移籍。ファンからも先発ローテの救世主として期待されたが、2年間でわずか1勝のみに終わり、一軍登板なしに終わった05年オフに解雇され引退。同時期に高額複数年契約を結びながら思わしい成績を残せていなかった佐々木・斎藤隆・鈴木尚とともに不良債権カルテットを形成してしまった。

○エディ・ギャラード
中日で剛腕守護神として活躍していたが、2003年に起用法で首脳陣と揉めて自由契約になったところを拾われて加入した*16右腕。
しかし2004年は佐々木の復帰でまた同じく起用法で首脳陣と揉める事になり、シーズン途中で退団となった。ちなみに同年は呪いの背番号19を着用していた…

〇門倉健
2004年福盛とのトレードで近鉄から移籍。
佐々木の代役を務めた翌年の2005年に最多奪三振を獲得し復活したが、
翌年オフ球団から「10勝しても10敗する投手はいらない」という伝説の発言を言い放たれたことでFAで巨人に移籍するも活躍できず。

〇土肥義弘
西武で左の中継ぎエースとして活躍したが先発転向の要望を叶えるため2004年シーズン途中に移籍。
横浜では希望通り先発を務め無類の巨人キラーとして活躍したが2008年に解雇。

〇セドリック・バワーズ
2004年から2年間先発として活躍した左腕だったがノーコンがたたり解雇。
06年は楽天に移籍するも(本当に)何もしないまま退団した。

〇吉見祐治
2002年二桁勝利をあげて次期エースとして期待されたがその後は便利屋となる一方伸び悩み、2010年シーズン途中ロッテに移籍。
2014年のみ阪神でプレーし、オフに引退。翌2015年からは打撃投手としてチームに復帰。
打撃力が異常に良く、「打てる投手」を通り越して「投げれる野手」と言われたことも。
ロッテへの移籍時も「打席が見られなくなる」というズレた嘆きの声が多数上がったほど。

〇中村武志
2002年谷繁と入れ替わりで中日から移籍。
出場機会を求めて移籍したものの体の衰えは隠しきれず、2004年には第2捕手という立場すら奪われる。後に創設初年度の楽天に移籍し後に引退。

〇鶴岡一成
2004年相川の五輪離脱期間中に打ちまくり、中村から第2捕手を奪い一軍定着。しかし、2008年シーズン途中相川のFA移籍が確実なのにトレードで巨人へ移籍。
DeNA初年度の2012年FAで復帰し正捕手として活躍したが、久保の人的補償で2013年オフに阪神へ移籍し3年後引退。
移籍先では併用あるいは第2捕手として非常に重宝され、巨人ではリーグ優勝と日本一、阪神では投手育成とプレーオフに大きく貢献した。

〇竹下慎太郎
2001年から2年間活躍した左腕。入団時30歳というオールドルーキーだった。

〇野中信吾
高卒3年目で横山とのトレードで日ハムから移籍。チーム1の俊足で2005年から代走要員として活躍。2011年トレードでオリックス移籍。

〇中野渡進
2001年中継ぎでフル回転した長身右腕。性格の悪さが原因となりわずか4年で引退。
その後はもつ鍋屋に転身し、歯に衣着せぬ言動が評判を呼びコラムニストとしても活動。
現在は飲食業からは身を引き工場経営を行う。

〇木村昇吾
2003年村田と共に新人で開幕1軍入り、便利屋として1軍に帯同していたが出番がなく2008年に広島移籍、2016年にはFAしても獲得先がなかった中拾われるような形で西武に移籍。移籍した先々でスーパーサブとして活躍するも、西武移籍後に故障し戦力外、クリケット選手に転身。

〇那須野巧
2005年ドラフト1位。
大学No.1左腕という評価をひっさげて入団するが、1年間中継ぎでフル回転しただけで終わり、2009年オフ、ロッテに移籍するが出番なく解雇。
向上心、闘争心がなく、とにかく練習嫌いだった事でも知られる。また2007年に入団前5億の裏金を貰っていたことが発覚。
アニヲタ的には「てーきゅう」の登場人物・高宮なすのの由来としてお馴染み。

◇暗黒期後半

〇吉村裕基
2006年に覚醒した長距離砲。
村田との東福岡高校コンビで本塁打を量産していたが2010年から成績が低迷*17
GW前後だけ絶好調(解凍)される成績を繰り返し、2013年多村らのトレードで地元福岡へ帰還した。2014年は復活し優勝に貢献するも、2018年に戦力外。

石川雄洋
地元横浜高校から入団、2007年から台頭した遊撃手。
若返りの一環で石井からレギュラーを奪い守備に難はあるものの2010年は盗塁王争いを演じるなど暗黒期末期の希望の星の一人だった。
暗黒期を脱した後は二塁手に移ったが、若手の台頭で出番が減っていき2020年に引退。その後はアメフト選手に転向した。

〇藤田一也
コンスタントに3割前後を記録するバットコントロールと堅実な守備が売りの二塁手。
一時は同期入団の石川と共に将来の二遊間と期待されたが、球団が嫌がらせかの如く二塁手の補強を繰り返したため代打守備要員が大半だった。
2012年DeNA初年度の夏に楽天へ移籍。移籍後はパリーグ屈指の二塁手になった後、2021年に戦力外を受け、ベイスターズに復帰した。2023年に惜しまれながら現役引退。

〇寺原隼人
2002年超高校級右腕として鳴り物入りでダイエーに入団するも3年目から故障で伸び悩み2007年多村とのトレードで移籍。
1年目は自身初の二桁勝利、2年目はチームの弱さから登板機会が少なくヒ魔神と揶揄されながらも代理守護神で20Sと活躍。
だが2009年から故障などで不振となったことやダイエー時代から続く尾花監督との確執から2011年トレードでオリックスへ…
オリックスでも二桁勝利をあげたが2014年FAで地元九州のソフトバンクへ帰還。

〇工藤公康
2007年門倉の人的補償で巨人から移籍した歴史に残る左腕投手。
ハマのおじさんの愛称で1年目は先発として活躍したが2年目は故障でリタイア、3年目は中継ぎで1軍に復帰したが衰えは隠せず4年目に解雇。
その後2015年から7年間ソフトバンクの監督として元チームメイトの内川、寺原、吉村を指揮。3度のリーグ制覇と5度の日本一(2回CS突破しているため)を達成した。

〇仁志敏久
長きにわたり巨人を支えた二塁手だったが小坂誠の加入と原辰徳監督との確執からトレードで2007年移籍。
1年目は石井とのベテラン12番二遊間コンビで活躍。しかし、3年目極度の不振に陥り解雇され、翌年アメリカに渡り引退。
現在は二軍監督を務めている。
ダウンタウンの浜ちゃんが仁志の移籍で巨人ファンをやめてしまったという話も有名。

〇高宮和也
2006年ドラフト1位左腕。炎上を繰り返して某毒舌実況アナからは「水差し野郎」とボロクソに言われたのは有名。
しかし、後にトレードでオリックスへ移籍したオリックスでは貴重な中継ぎ左腕として1年活躍し、FAの人的補償で移籍した阪神でもプレーオフ制覇に貢献。2017年に戦力外。
那須野同様、「てーきゅう」の高宮なすのの名前の由来として知られる。

〇石井裕也
生まれながらに難聴のハンデを持ち、サイレントKという異名をとる地元芹が谷出身の左腕。
2009年シーズン中盤に同じく地元松原商店街出身の小池とのトレードで中日から移籍、
1年目は中継ぎ抑えで活躍したが2年目は開幕から炎上、春先に江尻とのトレードで日ハムに移籍。
それ以降は長きにわたりリリーフとして活躍、2018年まで現役を続けた。

〇山口俊
愛称はどすこい。2006年高校ドラフト1位右腕。高校時代から150キロを投げる剛腕として将来を期待されると2008年シーズン後半から覚醒。
2009年から4年間守護神を任され最年少100セーブを達成するなど暗黒期末期希望の星の一人だった。
2014年中盤から先発にコンバートされ復活。初の二桁勝利を挙げた2016年オフにFA、巨人に移籍。
移籍初年度こそ怪我と不祥事でシーズンを棒に振るも、翌年以降は先発の柱として見事な活躍を見せメジャー挑戦。しかしそれ以降はさっぱりとなり、2021年途中に巨人に復帰した後翌年戦力外に。

〇牛田成樹
2006年中盤から先発で台頭するも病気や故障で数年低迷。2010年に中継ぎで1軍に戻るとフォークだけで三振を量産し山口に繋ぐ中継ぎエースに成長。
しかし、極度の故障癖が原因でDeNAになってからは低迷し2013年引退。

〇真田裕貴
2002年高卒1年目で巨人の優勝に貢献したドラ1投手。
鶴岡とのトレードで2008年シーズン中盤に移籍すると中継ぎでフル回転した。しかし、調子にのってアメリカ移籍を表明し横浜最終年終了後退団。
当然オファーはなくその後は古巣巨人で炎上し解雇→台湾で無双→ヤクルトで炎上し解雇。

〇下園辰哉
2009年中盤からレギュラーを掴んだイケメン外野手。
走攻守全てで中途半端だったりネタの宝庫だったが暗黒期末期は彼の選球眼だけが楽しみとファンは口を揃えて語っていた。
チームが強くなってからは代打要員として活躍、選手会長も務めた。守備もさすがにかつてよりかは成長していた
しかし、2016年後半から急激に成績が低迷、2017年引退。

〇松本啓二朗
ハンカチ王子ら早稲田大学黄金期メンバーの一員として2009年大学ナンバーワン外野手の評価を引っ提げて入団した逸材…だったが、
打撃面で期待外れとなりドラフト1位ながらも伸び悩み続け、2017年戦力外。

〇細山田武史
松本と同じく早稲田大学から入団した捕手。主食は牛丼。
1年目からスタメンとして名を連ねたが打撃と肩が2軍レベルだったため2011年の黒羽根の台頭から年々出番が減少し2013年解雇。
拾われたソフトバンクで3軍正捕手を務めたあと、社会人野球のトヨタ自動車に入社、扇の要として都市対抗優勝に貢献した。

〇スティーブン・ランドルフ
2009年中盤から加入した日本生まれのベテラン左腕助っ人。
1年目は救世主となり翌年は開幕投手となるが故障で大不振に陥り解雇。2011年震災にビビったリーチの穴埋めで復帰したが故障が再発し1ヶ月で解雇。

〇ダン・ジョンソン
2009年移籍、現役メジャーリーガーとして期待された長距離砲。選球眼にも定評があった。
20本塁打はクリアしたが外野手で獲ったのに外野が出来ない、打率が2割前半、チャンスに弱い、年俸が高いという理由で解雇。

〇ライアン・グリン
2009年前年のムエンゴが理由で日ハムから移籍した先発右腕。
しかし、横浜では炎上とムエンゴが重なり防御率5点台の15敗と散々で解雇。

〇ホセ・カスティーヨ
2010年加入した二塁手の助っ人。彼の加入で藤田はベンチに…
打力はまずまず、肩は良かったが守備に不安がありレギュラーだったのに解雇されロッテへ。

〇ターメル・スレッジ
2010年日ハムから移籍した長距離砲。
調子にムラはあったが日ハム時代を含めて3年連続20本塁打(しかも最終年は違反球)と活躍したが年俸の高さと守備面の弱さもあり2年で退団し日ハムへ復帰。

〇ブレット・ハーパー
2010年シーズン中盤に仁志のアメリカ土産で来た長距離砲。
クルーンから逆転サヨナラグランドスラムを放つなど3ヶ月で19本塁打と驚異的なペースで打ち続けたが翌年は違反球に苦しみ中盤からは中村紀洋と併用となり解雇、楽天で1年プレーした。
フェンス直撃シングルヒットなど驚異的な鈍足としても知られた。

〇江尻慎太郎
故障で1年離脱した結果2010年開幕直後に石井裕也とのトレードで日ハムから移籍。
中継ぎ配置が滅茶苦茶だった暗黒期末期の横浜では経験豊富な中継ぎとしてフル回転しオールスターにも選ばれた。
2013年多村復帰のトレードでソフトバンクへ移籍し2014年引退。

〇小林太志
2008年ドラフト1位右腕として1年目は先発ローテに名を連ねたが、それ以降は低迷と復活目前を繰り返した結果2014年に解雇。

〇小関竜也
西武を長きにわたり支えた外野守備の名手。巨人を解雇され2008年に移籍すると開幕直後は絶好調となりスタメンに名を連ねた。しかし、その後不振を極め解雇。

〇大西宏明
2008年に同い年で仲の良い古木とのトレードでオリックスから移籍した左キラー。
最初の2年は期待に応えたが、2010年尾花監督に干されるとブログで首脳陣を批判したことが原因で解雇。

〇内藤雄太
少年時代試合中にした約束を佐伯が果たして以来佐伯に憧れた外野手。
2011年開幕戦でサヨナラタイムリーを放ったり、地元出身で駒田の応援歌が流用されるなど左の代打として人気はあったが、DeNAになってからは出番を失い2013年不可解な形で解雇され引退。
内川「お、ナイトゥー!」

〇新沼慎二
鶴岡と相川の移籍で30手前から1軍に定着を果たした捕手。
イケメンであり選手会長を任されるなど人望はあったが武山、黒羽根、細山田の捕手争いに敗れ2012年DeNA初年度に引退し現在はコーチ。
中畑「新沼慎二、大した選手じゃありません!!!」(引退セレモニーでの言葉)

〇加賀繁
暗黒末期の希望の星の一人だった右のサイドハンドリリーフ。
1年目は先発を務めるも3勝12敗と驚異のムエンゴっぷりを披露。
2年目からは中継ぎに戻りヤクルトの主砲・バレンティンの天敵として立ちはだかったことで知られた。
だが2017年にとうとう攻略されてしまったことあり翌年引退。引退試合で流れた映像ではそのバレンティンもメッセージを寄せた。

〇高崎健太郎
暗黒期末期のエース投手。2008年に中継ぎでフル回転した後に先発に戻り、2011年は防御率3点台ながら5勝15敗とムエンゴではあったが孤軍奮闘。
よく高めに抜けた球を痛打される事が多く、その名前そのものから「高さ危険太郎」とも。
一時の低迷を経て復調気味だったが、痛風になったのが原因からかまたも低迷、2017年に引退。

〇山本省吾
通称山省。2011年に寺原とのトレードでオリックスから移籍。
横浜最終年は消去法で開幕投手を務めたが、2勝11敗防御率5点台と何もできず。2013年に多村復帰の生贄で吉村、江尻共々ソフトバンクへトレードされ、その後引退。

〇清水直行
2010年まさかの移籍でやってきた元日本代表でロッテのエース投手。通称ジミ様。
1年目は二桁勝利をあげ期待に応えたが2年目から劣化を隠せず2012年解雇された。

〇橋本将
ジミ様と共にやってきた捕手。
指名打者でも起用できる強打が売りで、ロッテでは里崎智也とのツープラトン体制で日本一に貢献した。
が、劣化と怪我であまり結果を残せず2011年解雇された。

〇黒羽根利規
少年時代、地元上大岡で行われたイベントにて三浦といつかバッテリーを組む約束をし、プロ入りしたことでその願いを叶えたというエピソードをもつ捕手。
横浜最終年から強肩と右打ちを武器に1軍定着。
だが、DeNAになってからは若手捕手陣に押され気味で二軍暮らしが続き、2017年にトレードで日ハムへ。

〇武山真吾
暗黒期末期の消去法正捕手。肩は悪くなかったがリード、キャッチングの雑さに加え投手レベルの打率が原因で最終年後半からベンチへ…
その後、移籍した西武では捕手失格と言われたが捕手不足の中日に移籍するとまたしても消去法で1軍の捕手に。

〇篠原貴行
かつてはダイエー黄金期の中継ぎエースだったが故障と年齢から大幅劣化し解雇されたところを恩師の尾花監督に拾われ2010年移籍。
1年目は防御率11点台で1軍帯同という暗黒期の象徴と言われたが2011年は連続試合無失点記録を果たすなど復活。
人望があったことから2013年引退後コーチに就任。この人もまたDeNAになった後の投手陣再建に辣腕を振るう。

〇渡辺直人
カスティーヨに変わる二塁手として2011年松井稼頭央の移籍の煽りをうけ楽天から移籍。
守備の上手さもさることながらその人望の厚さから在籍した球団全てで関係者とファンから愛された人格者。
ベイスターズ退団後は西武で内野のバックアッパーになった後楽天に復帰し2020年引退。

〇森本稀哲
2011年FAで日ハムから移籍したムードメーカーにしてラーメンマン
守備と足は一級品だったが故障で不本意な成績に終わり、暗黒期の終焉の中解雇された。その後は西武で外野のバックアッパーになったが引退。
在籍球団全てで生え抜き扱いされた程の人格者で、引退試合では守備のみの起用の予定であったにもかかわらず、1番打者から始まる最後の攻撃でチームメイトが粘りを見せて7番打者である彼まで打席を回した...というエピソードは特に有名。

筒香嘉智
2010年地元横浜高校の4番という超高校級の評価を引っ提げて入団。横浜最終年の後半戦から違反球にも関わらず8本塁打を放つなど最後の希望となった。
その後、一時期の低迷を経て2014年覚醒し4番打者に成長、チームリーダーの立場となり侍ジャパンの4番も務めた。
その実績を引っさげ2019年オフ長年の夢だったメジャーに挑戦したが…。

〇国吉祐樹
最終年の後半戦に先発ローテ入りを果たした育成出身のイケメンハーフ。
一時期の低迷を経て昨季から中継ぎで成長するかと思いきや伸び悩み、横須賀四天王になってしまう。
2019年に覚醒し中継ぎとして定着したが2021年途中にロッテにトレード。

〇中村紀洋
ノリの愛称で近鉄最後の4番としてかつては日本人屈指のスラッガーだったベテラン。行く先々でパワハラや内部批判を起こし退団を繰り返した問題児。
最終年にTBSのツテで入団するも期待ハズレに終わる。DeNAになってからは復活したが2014年また内部批判で解雇。

〇大沼幸二
ネタの宝庫と呼ばれた西武中継ぎ陣、通称俺達の初代総帥としてネタを提供し続けたノーコン速球派のドラ1右腕。
2011年、首脳陣批判で1年で解雇された坂元とのトレードで移籍してきたが、故障明けに加えて開幕から炎上、三浦の勝ちを消した際の反省の気配0な笑顔など相変わらずネタを提供。
その後は2軍で幽閉、翌年に不倫が発覚したことに加え故障が重なりDeNA初年度の初夏に引退*18
西武時代から素行不良だったらしく、OBに協力的な西武においてスタッフになれないことが全てを表していると言われた。引退後は消息不明となったのも素行が問題だと噂されている。

〇坂元弥太郎
高卒2年目から便利屋としてヤクルト・日ハムで活躍した右腕。
2010年投壊状態のチームにおいて貴重な防御率3点台の投手だったが、首脳陣批判が怒りを買い1年で大沼とのトレードで西武へ。

〇荒波翔
2011年26歳で入団を果たした遅咲きの外野手。
最終年の終盤からスタメンに名を連ね、DeNA初年度からゴールデングラブを獲得するなど主力選手に成長。
だが急激に衰え2018年に戦力外通告を受ける。

〇井手正太郎
尾花監督がダイエー時代から起用したがっていたという意向もあり、2010年春に吉川とのトレードでソフトバンクから移籍。
横浜時代は成績の割に優遇されていると非難するファンもいたが、DeNAになってからは時にクリーンナップも打つ外野のバックアッパーとして一軍定着。
2016年に戦力外となり引退。

〇須田幸太
早稲田期待の星。ドラフトで大石達也を外したためハズレ1位で入団。
早速先発起用されるがイニングがあまり食えない上に飛翔癖などの問題が露呈したためほとんど勝てず。ヤクルトに9点差を追いつかれた伝説の試合の先発も彼。
その後は先発で6勝した年もあったが中継ぎに転向し、2016年にはセットアッパーとして定着した。しかしシーズン終盤での故障離脱からCSでの無理な復帰が祟って翌年以降は活躍できず2018年に戦力外に。
2019年は出身元のJFE東日本に復帰。故障を癒やした結果同年の都市対抗では全5試合に救援登板し防御率0.64で4勝とフル回転。チームの初優勝に貢献し、プロ野球経験者としては初となる橋戸賞を受賞した。
2021年シーズンを最後に現役を引退。現在はJFE物流社員として働く傍ら横浜商科大の非常勤コーチや解説者としても活動している。
やけにバッティングとフィールディングが上手く、投手として伸び悩んでいた時期は毎年のように「野手に転向した方がいい」と言われていた。

余談

大洋時代の1989年からTBSへの身売り2年目である2003年まで、球団歌や選手別応援歌などを収録したCDアルバムが毎年発売されていた*19
野手はもちろんのこと、ほとんど打席に立つ機会のないリリーフ投手にも一軍クラスならばそれぞれ応援歌が製作されていた。
特にベイスターズ初期の曲はプロの作詞・作曲家に制作を依頼していたこともあって、制作から30年近くが経過した2025年時点でもファンから名曲として親しまれている曲も多い。
……のだが、2000年代に入ってから球場での演奏に向かないような曲も増え始め*20、金城龍彦・村田修一・内川聖一らの打席で演奏されていた応援歌はCD版とは全く違い、OBの応援歌の流用*21という形になっていた。
また2001年に在籍したデーブ・ドスターの応援歌もCD版ではなく、「ニューヒーローの呪い」としてファンからトラウマ扱いされているビル・セルビー(1997年在籍)の応援歌の流用という形になっていたが、
こちらの応援歌は後に歌詞を変更した上でターメル・スレッジ(2010年-2011年)の応援歌として日の目を見た後、DeNA時代にはタイラー・オースティン(2020年-)の応援歌として流用されている。

またこの前後の時期にはセ・リーグ他球団も応援歌CDを出しており*22、1999年にはセ・リーグ6球団すべてが応援歌CDを発売するというある意味記念すべき(?)年になった。


追記・修正は、横浜を出る喜びを味わった上でお願いします。

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最終更新:2025年04月18日 20:25

*1 戦前の大東京軍時代から続いた古豪でセ・リーグの初代王者…だったのだが、親会社の経営難で戦力を維持できず、球団数の整理のために当時のお荷物球団だった広島カープをターゲットにしていたはずの「勝率3割未満の球団は罰則を受けてもらう」というルールに引っかかってしまった。これにより大洋との対等合併と言う名の事実上の身売りをすることになり、球団の歴史は途絶えてしまった…。

*2 ちなみに横浜移転を受けて球団名も「横浜大洋ホエールズ」になっている。

*3 現在の横浜スタジアム所在地には1929年に完成した「横浜公園平和野球場」(通称「平和球場」)があったが、この球場は観客収容数が15000人程度しかなく、プロ野球チームの本拠地としては不適当な球場だった。

*4 DeNA時代を含めると連続最下位は5年連続まで、連続Bクラスは10年連続まで伸び、勝率に至っては2018年までの17年間5割超過(貯金がある状態)になることはなかった。

*5 ただし土居も長谷川氏曰く「東京六大学を代表する素晴らしいピッチャー」だった。

*6 黎明期から球団オーナーを務めていた中部謙吉氏の「クジラ一頭、余分に獲れれば選手の給料は賄える」という発言からも、良くも悪くも行き当たりばったりだった球団経営の姿勢が窺える。

*7 古葉氏は何の因果か後に大洋の監督に就任(1987年-1989年)、在任時代は結果を残せなかったものの後に1998年の優勝に貢献する主力たちを複数人獲得した。

*8 ソフトバンクへのトレード前のみの成績。DeNA復帰後の2013年に挙げた2勝2敗はこの数字には含めていない。

*9 このようにTBSが球団の親会社だった時期とは異なるためこの件はもはやアンチのこじつけの域と言わざるを得ないが、この坂本弁護士事件の舞台が横浜だったことからこの件を引き合いにTBSが槍玉に挙げられることすらある。

*10 『筋肉番付』収録中に頸椎損傷の重傷者を出すなど、番組収録中の負傷事故が多発した件、『サンデーモーニング』で石原慎太郎東京都知事の韓国併合に関する発言を捏造したテロップを付けて放送した件、公式スポーツサイトに掲載されていたコラムで編成制作本部スポーツ局担当部長が各新聞社から記事を盗用した上、フリーライターがやったように偽装した件、格闘技番組に関連して掲示板の書き込みを捏造した件など。

*11 実は2005年オフにも楽天がTBSの株式を取得し、野球協約に抵触するのではと騒動になったが、この時点ではTBSはまだベイスターズを手放す気はなく、楽天もTBS買収を断念した。

*12 当時の広島もドラフトの逆指名制度導入による有望選手不足や旧時代的な選手指導・起用、FA制度導入による主力の放出などにより1970年代中期から1990年代前半にかけての黄金時代から転落。しかしダメ虎軍団やTBSベイスなど下にもっとひどい球団がいるせいで最下位にだけはなかなかならずに15年連続でBクラスという、ある意味前者の2球団よりも質が悪い暗黒期に陥っていた。

*13 投手で個人応援歌が演奏されたのは先発の斎藤隆・野村弘樹(ともに99年まで)と三浦大輔(2003年以降)、グリン(2009年)のみ。

*14 後者の由来は高校の後輩の吉村とパワプロで遊んでいた時に、吉村が酷い守備をしたゲームの村田にキレて思わず「動け、デブ!」と叫んだ事(隣にいた村田本人はもちろんヘコんだ)。

*15 古木の小学校卒業は1992年度で、大洋が「ベイスターズ」に改称したのは1992年11月であるため、その前に書かれたものと思われる。ちなみに「行きたい球団」には中日・ヤクルト・西武・ダイエーを挙げていた。地元(古木は三重県松阪市出身)に近い中日や、当時強かったヤクルト・西武はともかく、大洋やロッテのように低迷していたダイエーは良いのか…?と思うかもしれないが、恩師と仰ぐ人が元ダイエーの選手だったからなのだという。

*16 シーズン中の補強期限を過ぎた後でも、ウェーバー告示となった選手は一週間以内に必要な手続きを取れば他球団が獲得する事が出来るというルールがあり、ギャラードはこれに該当する(ちなみに2003年当時のシーズン中の補強期限は6月30日だったが、2008年に7月31日に延長された)。

*17 この原因となったのは視力回復のためのレーシック手術を行ったことだという説が一時期ファンの間にてまことしやかに囁かれており、「レーシック」という言葉がトラウマとなったという者も。

*18 表向きは故障が理由だったが、中途半端な時期の発表だったため「素行などが原因で支配下登録枠を空けるために引退させられた」との説が囁かれた。

*19 大洋時代は日本コロムビア、ベイスターズ元年の1993年以降はポニーキャニオンから発売。

*20 2000年版の小宮山悟など。

*21 金城は市川和正、村田は大洋時代の谷繁、内川はベイスターズ時の高木豊……など。村田の応援歌は後に牧秀悟に受け継がれている。

*22 巨人は1985年~2025年現在、阪神は1992年~2003年、ヤクルトは1992年~1996年・1998年・1999年・2002年、広島は1999年~2004年、中日は1999年・2008年・2012年、2015年~2022年。