大谷吉継(戦国武将)

登録日:2009/11/29 Sun 10:35:39
更新日:2025/10/08 Wed 11:39:44
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太閤が100万の軍を与えて見たい、そう言った男の最大の活躍の場は史上最も無謀な戦だった。






大谷(おおたに)吉継(よしつぐ)(1559頃?~1600)は戦国時代の武将、大名であり、豊臣秀吉に仕えた。幼名紀ノ介(桂松、平馬とも)、別名吉隆。

前半生は不明であり、近江出身説、美濃出身説、果ては大友家臣の息子、豊臣秀吉の息子*1といった説もある。
羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の長浜時代以降の文献に名前が散見され、石田三成や藤堂高虎等同様、この頃に仕官したのであろう。しばしば豊臣家家臣団は、秀吉が尾張在住時に召し抱えた尾張派と近江長浜時代に召し抱えた近江派とに大別して考えられるが、吉継は近江派に属する。

吉継は、内政も武勇もこなす、織田家家臣で言えば丹羽長秀の様な存在だった。尾張派は根っからの武闘派な為、近江派は内政に回されがちであった。
吉継は、尾張派との仲も良好であったが、近江・尾張の軋轢に結構苦労していた様である。

そして30代の彼を襲った悲劇こそ、奇病である。現在は「ハンセン氏病」と呼ばれている不治の病に罹ったのである。
(書物には(らい)とのみ書かれており、もちろんこれでもハンセン病を意味するが、梅毒等、他の病気であった可能性もある)
その為、彼は若い内から隠居に近い生活を余儀なくされてしまう。
秀吉も激しく失望し、「紀ノ介に、100万の軍を与えて指揮させたかった」とまで言わしめた。

更には京洛では「吉継1000人切り」という説まで流れた。
1000人の生き血を啜れば、病が治るという俗説を信じた吉継が辻斬りを繰り返したというもので、当時の人々の癩病に対する差別意識の表れと、なかなか辻斬りの実行犯が捕まらないことへの恐怖心の表れである。
しかし、吉継を誰よりもかばい、いわれのない差別に憤ったのがもう一人の吉継の理解者であった主君・秀吉であった。
秀吉は「それは吉継を妬む者が流した嘘に違いない。即刻犯人を捕らえよ」と命じ、結果として「根も葉もないうわさを流し、治安を乱した」という罪状で2人が逮捕され、斬首となった。
吉継は、秀吉が自身をよく理解し、いわれのない差別からかばってくれたことに感謝し、より一層の忠誠心を高めたのであった。


病で戦場に立つことが出来なくなった失意の彼の知己とも言えるのが石田三成である。彼は吉継の事を気にかけ、何度と無く訪ねていたようである。
また真田信繁に娘を嫁がせたともされる(関係性などは諸説あるが)。


しかし1600年、事態は大きく転換する。
徳川家康の上杉征伐に参加すべく若狭より南下した吉継は三成の佐和山城に立ち寄る。そこで三成の挙兵計画を打ち明けられた。

必死の説得にも応じない三成に、吉継は決意する。



三成を、


助けよう。


以後、彼は勝てない戦と分かりつつも三成に助言を加え、関ヶ原本戦では内応の可能性高い小早川秀秋隊の隣に布陣、食い止める決意を示した。
合戦当日。大谷隊は東軍・藤堂高虎隊と激突。眼も満足に見えない吉継だったが、輿にのり、声も枯れよと下知。一丸となった大谷隊に藤堂隊、押されっ放し。

昼過ぎ、小早川隊、進軍開始。その矛先、西軍・大谷隊。数、一万数千。
吉継、すぐさま待機させていた数百の部隊に応戦させ、そのまま小早川隊を山腹へ押し戻す。「裏切り者を許すな」との凄まじい下知に震え上がる小早川隊。

しかし、この時吉継の想像を越える事態が生じる。脇坂隊以下4隊、寝返り。
ここに及んで、吉継は死を決意する。馬回りに残った者の名を聞き、側近・湯浅五助に命じて首を落とさせた*2


死後、その墓は武勇を称えた藤堂高虎によって建てられた。

関ヶ原山中に静かに佇む墓は、下界の喧騒から隔絶し、一人の友義に生きた武将の菩提を弔っている。




辞世


契り有らば


六つの巷に


待てしばし


遅れ先立つ


ことは有りとも






彼を扱った作品

〇小説
司馬遼太郎「関ヶ原」
吉川英治「大谷刑部」

漫画
深谷陽「大関ヶ原」
みなもと太郎『風雲児たち』・『風雲戦国伝』(「大谷吉継の謎」)

ゲーム
信長の野望
太閤立志伝
采配のゆくえ
決戦

無印の頃は時系列の都合で登場せず。戦国無双2よりモブとして初参戦。モブ時代の見た目は普通のおっさんで、戦場ではいたって普通に動く。
石田三成は2時点で無双武将となっていたのだが、彼との掛け合いは全く無し。関ヶ原の戦いで小早川秀秋が東軍へ寝返っても、これといった反応はなく自ら止めようと動く事もなかったため見せ場無し。
続く3でも彼はモブのまま(見た目は少しだけ若くなった)であり、2同様の扱いがなされたので影が薄かった。

しかし戦国無双4にて念願の無双武将化。CV:日野聡
病についてはセンシティブなものである事から特に触れられていないが、顔は目元以外を隠す形で覆っている。
武器は采配だが持ち手には刃が仕込まれており、采配を振り回しつつ仕込み刃による斬撃も交えて敵を討つ。ビームも撃てるぞ!
最初は藤堂高虎と共に浅井家に仕えているが、その浅井家が滅亡したのをきっかけに互いに別々の道を行く事に。
ようやく三成との掛け合いが実現し、ストーリー上では三成を気にかけるシーンが多々見られる。清正や正則ともちょくちょく絡む。

戦国4の関ヶ原の戦いではプレイヤーが吉継を操作キャラに選ぶか選ばないかで彼の展開が変わる。
吉継操作でプレイすると関ヶ原を単身で縦横無尽に駆けつつ、劣勢下の西軍を立て直す事になるが東軍の物量戦法には敵わず、徐々に追い詰められていく事に…
逆に吉継を選ばなかった場合は小早川秀秋の動きを静観しており、いざ奴が裏切ると自身の率いる軍勢でそれらを食い止めようとする。
……が、健闘虚しく秀秋軍に圧される形で吉継軍は史実通り壊滅。吉継も討死してしまう。

戦国5では残念ながらリストラ。時系列的にしょうがないだろう。

OROCHIシリーズでは無印から2までモブ武将のまま。三成とは無印の時点で共に行動しているらしく彼がいる戦場によく現れる。
なんなら戦場によっては三成の代理武将としても登場する。だが三成とモブ吉継の掛け合いはOROCHI世界でも用意されなかった。
OROCHI3でようやく無双武将として参戦。それ以前のOROCHI作品ではモブだったので、どのような掛け合いが展開されるのかと思いきや、
無双武将達(というより三國・戦国の英雄達)は前作からの話の都合上、以前までのOROCHI作品の記憶を失ってしまっていたため、彼のモブ時代を思い起こさせるセリフは全く無かった。



〇ゆるキャラ
おおたににゃんぶ(滋賀県)



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最終更新:2025年10月08日 11:39

*1 尤も、これは「秀吉」と「継ぐ」というダジャレにかけた、こじつけ感の強い説であるといえよう

*2 この後、湯浅五助も主君の後を追うかのように戦死