登録日:2012/09/17(月) 03:28:51
更新日:2022/06/04 Sat 20:18:25
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堀之内軌道とは、かつて
静岡県を走っていた鉄道路線である。
◎概要
東海道本線の堀之内駅から分岐し、池新田までを結んだ路線で、線路の幅は762mmのいわゆる「軽便鉄道」である。路線の大半が道路の上を走っており、正確に言うと鉄道では無く路面電車と同様の「軌道」である。
堀之内駅ってどこぞやと思われる方のために、現在の駅名を付記しておくと堀之内駅とは現在の菊川駅のこと。
明治32年(1899年)に馬車鉄道として開業後、近代化を図る上で
蒸気機関車の投入が検討されたが、石炭が高いし、町の中で煙を吐かれるとたまらないと言う事で却下。電化して「路面電車」になろうとも考えられたのだが、建設費用が高額のためこちらも断念した。蒸気も無理、電気も無理、そうなれば残るは一つ、「内燃動力(ディーゼル)」の投入である。
◎車両
大正12年(1923年)に延長した路線は、馬車の代わりに新たな動力源を利用する事となった。それが、ドイツから輸入されたディーゼル
機関車である。これ以前から
北海道の鉱山でも同様の
機関車が投入されていたり、九州などでいわゆる「駒吉
機関車」が運用されていたりしたが、現在のディーゼル機関車に繋がる存在としては草分け的存在と言われている。DD51やDF200のルーツを遡れば、静岡のこの路線に行きつくのだ。
車体は客車と比べて小さいうえにかなり細く、丸い窓が特徴であった。
製造元のオットー・ドイッツ社から地元では「オット
機関車」と呼ばれており、客車や貨車を受け継いで牽引していたと言う。大正14年(1925年)には馬車の運用は廃止となり、全区間の直通運用が始まった。
◎廃止
ところが、そんな堀之内軌道に
ライバルが現れた。昭和初期に勢力を広げた
バスやトラックである。当時は
日本各地でこれらを運営する中小企業が乱立、各地で運行していた鉄道と競争を繰り広げるようになった。当然道路の上を走っていたこの軌道も例外ではなく、旅客・貨物ともども客を奪われるようになる。
そして、堀之内軌道にはもう一つの
ライバルがいた。それは…
…である。
そもそもこのオット
機関車、エンジンの騒音がかなりやかましい割には出力はかなり低く、扱いに慣れていない事もあって故障も絶えず、スピードも非常に遅かった。当然ながらダイヤも頻繁に乱れていたと言う。そんな中で世界を巻き込んだ不況、いわゆる「世界恐慌」が起こってしまい、運賃を惜しんだ客が
自転車、もしくは徒歩に移行してしまったのである。まあ同じ道路を走っているのに本気でも
自転車と互角の速度しか出せなかったのだから仕方ないのかもしれないが。末期にはラッシュ時以外は運転していなかったという。
結局堀之内軌道は
自動車輸送にシフトする事になり、昭和10年(1935年)にこの軌道線は廃止になってしまった。
現在はトンネルと一部の線路跡が残っているのみだが、この鉄道から本格的な歴史が始まったディーゼル機関車は戦前戦後の紆余曲折を経て大いに発展、
蒸気機関車に代わる非電化区間のエースとして活躍しているのはご存じの通り。
様々な要因で悩まされたという事実もあるが、この路線の先見性はもっと評価されても良いのではないだろうか。
現在はしずてつジャストラインの路線バス菊川浜岡線がほぼ同じ区間を走っている。
追記・修正はオット
機関車を修理してからお願いします。
最終更新:2022年06月04日 20:18