登録日:2010/03/13 Sat 21:53:56
更新日:2025/10/21 Tue 11:22:14
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赤壁の戦いとは、西暦208年に現在の湖北省赤壁において
曹操軍と
孫権・
劉備連合軍との間に起こった戦いで、
官渡の戦いを超える
三国志史上最も有名な戦い。
『三国演義』ではかなりの文章量がここに割かれており、劇などでも定番の題材とされる。
経緯
事の発端は7月の
曹操軍の南征から始まる。目標は荊州を治めていた
劉表及びその庇護下の
劉備であった。
しかし、二十年近く荊州に君臨してきた
劉表は曹操の到達前に病死、彼の息子・
劉琮と荊州の実力者・
蔡瑁と蒯越らはすぐさま降伏し、荊州はほぼ無傷で曹操の支配下に収まった。
ただ劉備は曹操には降伏せず、
東南に逃走する。曹操は軽騎兵隊を発してこれを追撃、
長坂にて大いに打ち破った。
もっとも、劉備と主要幹部はなんとかこの窮地を脱し、劉備に恩義のある
劉琦、先発して劉琦の元に向かっていた
関羽と合流。夏口に布陣する。
さらに、
孫権から様子見に使わされていた
魯粛と会見した。
孫権陣営は当初帰順しようという意見が多数であったが、
周瑜と魯粛が説き伏せ、孫権の決断の後、
劉備の使者である
諸葛亮との間に同盟を結ぶ。
曹操軍もおよそ十五万とされる兵と荊州で得た水軍を合流させて、長江を下ってゆく。
戦闘
12月ごろ、曹操軍と周瑜・劉備の連合軍が赤壁の水域にて激突、緒戦は曹操軍が敗北する。曹操軍は後退し烏林に布陣。
両軍は長江を挟んでの睨み合い・長期戦となる。
そうなると、孫権軍より多勢の曹操軍に多くの問題が出てきた。
まず、荊州を併合したとは言え、本国から長駆しての遠征が続き、兵站が伸びきり食糧不足に陥っていた。大軍を率いていれば食料の消耗もまた激しい。
荊州からの補給に頼ろうにも、もともと荊州は今回のような大軍を動員することは想定していない。荊州軍は七万ほどとされ、その荊州兵を加えて二十万近くに増えた南征軍を賄う補給能力はなかっただろう。
さらに、中原・河北出身者が大勢を占める曹操軍将兵のあいだに南方特有の疫病が蔓延。
曹操軍はここに来るまでに劉備軍と長坂などで戦いを続けており、その消耗もあった。
この「連戦による疲弊」は劉備軍も同じだったが、彼のもとに劉琦の軍勢・一万人の将兵が合流しており、こちらは戦意が高かった。彼らは荊州出身の兵士であり、地理に明るいことも好条件だった。
そんな中、孫権軍の宿老・黄蓋が、曹操軍の船と船が密着していることに気づいた。
彼は偽降の計を用い、自らが降伏するように見せかけて曹軍の水営に接近し、その間隙をついて火を放ち、散々に打ち破ることに成功する。
折しも南西から西北へと強風が吹いていたこともあって、火は曹操軍陣営まで届き、大量の人や馬が焼死及び溺死する。
その混乱と炎を見た周瑜と劉備もそれぞれの兵を率いて曹操軍を追撃。大打撃を与える。
また、敵軍に利用させるのを防ぐため、曹操軍が自軍の船を焼き払ったとする資料もある。
(もっとも、長江は東に流れ、曹操軍は西北に逃げている、という状況下では、船での追撃は困難であり、鹵獲されることを嫌う意味はないと思われるが。ついでに言うと、周瑜軍が長江を挟んで対岸にある曹軍陣地に渡って船を鹵獲できたというなら、既に孫軍には渡河に十分な船があると言うことであり、「敵軍に利用されることを防ぐため」という意味では効果がない。仮に鹵獲されて孫軍の所有艦船が増えたところで、それを動かす兵の数が増えるわけでもなく、効果的に扱えないはずでもあるし)
孫権も合肥を伺うが、こちらは合肥を救援に向かった蒋済の計により、孫権は包囲を解いて本拠に戻る。
それでも周瑜・劉備の追撃の手は南郡まで及び、江陵を守備する曹仁と周瑜、劉備の軍は対峙。
夷陵を甘寧が数百で奪取したり、曹仁がそれに五千近くの兵を送ったり、周瑜が自ら甘寧を救援したりして、夷陵を支配下に置く。
その後周瑜は曹仁の副将の牛金を包囲するが、曹仁がなんと数十名でこの包囲網を撃破し牛金を救出、
更に周瑜に矢傷を負わせるが、ついに包囲されてしまい、補給路の北道も関羽に封鎖されてしまう。
必死に堅守する曹仁だったが既に戦闘開始から一年が経過していた故に疲弊・困窮してしまった。
が、北道に展開していた関羽の封鎖網を李通・満寵らの救援軍が突破、曹仁はなんとか江陵から脱出できた。
そのまま周瑜は南郡を、劉備は荊州南部四郡を平定することに成功。
これで赤壁から起こった一連の戦は一応の決着を見る。
なお、『三国演義』ではトリックスターとして大活躍をする諸葛亮ではあるが、正史にて明らかになっている彼の動向は「劉備と孫権の同盟を取り付けた」ぐらいであり、史書の彼の伝では赤壁について「曹操は赤壁にて敗北し、兵を引いた」としか書かれていない。
もっとも、孫権軍には実兄の諸葛瑾がおり、彼と接触して外交交渉をしていた可能性はかなり高い。というか、それがないのは劉備・孫権の立場から考えても不自然だろう。
劉備は言わずもがな、孫権にしても劉備の軍勢や曹操軍と戦った経験、諸葛亮個人が十年間の荊州暮らしで知っている荊州兵の内情など、諸葛亮から聞きたいことは山ほどあるはずだからである。
また、荊州南部四郡の平定後は零陵・桂陽・長沙三郡の内政に手腕を発揮したとあり、以後彼は劉備勢力で重きをなしていく。
考察
もともと「赤壁の戦い」は分かりにくい戦と言われている。
最大の要因としては、曹操・劉備・孫権が一堂に会した孫権は周瑜を代打にしたような形だが戦いであるだけに、後年の魏・呉・蜀漢三国のそれぞれの立場がそれぞれの史書に反映され、三者三様に都合のよい情報が記録されてしまったためである。
歴史書に、一つの場面で矛盾する描写が多々あるというのはいつものことだが、この赤壁の戦いはそれが特に多いことで知られている。
曹操は江陵を落として荊州を平定し、劉備を追い払った。
曹操が当初計画していた南征は
これで達成されたわけである。劉備や孫権を討伐することは最初から計画に入っていたとは考えがたい。それを、わざわざ大軍を率いて長江を下り、一気呵成に孫権討伐をする理由がわからない。詔勅なども必要だったはずである。
孫権の従兄で、孫堅戦死後・
孫策年少の時期には一族の代表者であった
孫賁・孫輔の兄弟が曹操に帰順する動きを見せており、曹操は彼らの内応を頼みにしたのかもしれない。
良く言われるのは、戦の発端が曹操の脅迫文であったこと。
しかしこの出典は孫呉を賛美する『江表伝』であり、内容が明らかにおかしい為に正史に採用されていないのだが、
他に曹操の侵攻を説明する目処が無いのである。
孫権の項でも触れられているが、ここにも文を載せようと思う。
『近く勅命を奉じ罪人を討つべくして南に軍旗を向けたが、
荊州は抵抗することもなく降伏をした
これより水軍八十万を率いてゆく
呉の地にて孫将軍と共に狩りをしようではないか』
この文章の突っ込み所は四つ。
まず八十万というのは各地の曹操軍全てをかき集めた兵数であり、先ず現実的では無い
そもそも荊州攻めには皇帝の勅命を奉じている訳で無いし、当時の孫権の所在地は会稽郡であり、呉郡ではない。
更にこの文が発され受け取った時から両軍が進発しても、長江赤壁にて衝突しない筈なのである。
が、他に理由とできるものも見つからず、演義を始めとした創作物はこれを脚色し、様々な赤壁像を作り上げている。
そもそも「赤壁の場所」自体が正確に判明しておらず、近年では史実上の存在を疑問視する歴学者もいる始末。
曹操軍の兵力については『三国志・諸葛恪伝』では「曹操軍三十万」としているほか、先の『江表伝』でも周瑜の分析で「十五、六万を超えることはないだろう。加わった旧劉表軍も七、八万は超えまいし、荊州兵は突然曹操指揮下に組み込まれたわけだから、困惑しているはず」として、曹操軍を22~24万ほどと見積もっている。
また、かつての
袁紹は全盛期に
十万の大軍を動員している。曹操は赤壁当時、これまでの中原四州に故袁紹の領土を支配下に置いていたので、
「曹操本隊が15~16万」というのは妥当性が高い数値と推測されている。
対する孫権軍であるが、『三国志・周瑜伝』では周瑜麾下の主力軍は三万だったとしている。別の記述では「周瑜と程普を左右の都督として、それぞれに一万人を率いさせた」とあるので、この場合は二万となる。
これに、劉備の勢力が加わる。諸葛亮は『三国志・諸葛亮伝』にて「関羽の水軍一万と劉琦の兵力一万」と発言しているが、諸葛亮の発言には誇張があり、劉備・関羽と劉琦の両軍を併せて一万ほどというのが定説の模様。
いずれにせよ、周瑜・劉備・劉琦の連合軍を最大限に見積もっても五万、曹操軍をいくら少なく見積もっても二十万前後、という規模の戦いなので、それを逆転した(少なくとも南征を頓挫させた)のは大きな成果と言える。
戦の結果
赤壁の戦いの意義として、大きくは3つ。
孫呉は豪族の寄り合い勢力であり、彼らがバラバラであればどうしようも無い。実際、赤壁の戦い直前には多くの部下たちが「曹操への降伏」を説いた。
しかしこの赤壁での勝利により曹操を倒すということが現実的なものとなり、孫権の権威も向上。呉郡豪族が一丸となるきっかけを生み出した。
(一方、開戦前は豪族たちに危うく身売りされそうになったことは孫権の鬱屈となり、20年後にこの件を持ち出して張昭をあげつらったことがある)
曹操の勢いが完全に止まったスキに、劉備は徐州以来であった領土をついに得た。そこが隣接する益州・巴蜀の地を盗る足掛かりとなっていく。
破竹の勢いにて中原と河北を統一し、残すのは僅かと思われた曹操が赤壁で喫した敗北は痛恨の極みであった。
この後も、勢いづいた孫権、劉備の両陣営には濡須口や漢中にて苦しめられることになり、ついに曹操一代では天下に手が届かなくなってしまった。
上記三点から、三国志の帰趨を大きく分けた戦いであるのは間違い無い、と思われる。
追記、修正宜しくお願いします。
- 実際の所正史で何が起こったのかよく分からない 曹操軍側が疫病の被害が大きくて、最終的に退いたのは本当ぽいがそれ以外がな -- 名無しさん (2014-09-13 23:47:56)
- カクは「江陵で徳を垂れていれば相手は自然と下ってくるでしょう」と東呉の自滅を促すよう献策したのに、曹操は江陵に大軍を駐屯させ相手を威圧するより南下を選んだ。これによってバラバラだった東呉は逆に一枚岩になってしまい曹操は敗れる。江陵では蜀の使者張松を軽んじて劉備のところに行かせてしまっているし、曹操もこのときはヤキが回っていたと見ていいだろう。 -- 名無しさん (2014-09-29 07:51:56)
- 蒼天航路の解釈はおもしろかったわ -- 名無し (2014-11-06 22:14:38)
- ↑2当時曹操は既に53歳と(当時としては)高齢の域に達していた。 自分が生きている内に乱世を集結させたいという焦りがあったんじゃないかな。 -- 名無しさん (2016-04-03 13:40:52)
- 乱世を終結させたいなんて考えてたかなぁ…中国は勝ったときに成果を水増し、負けた時に相手を強大に書いて「負けてもしょうがなかったんです!」とやる悪癖があるから80万は大嘘だろうと思うけどぶっちゃけ呉なんか獲ってもうまみが少ないし統治のごたごた抱えた状態で代替わりするよりは内政を充実させるんじゃないかな。まぁただの妄想だけどね -- 名無しさん (2016-10-04 10:14:32)
- 実兵力は本文にもあるように十数万だろうと言われてる。後方部隊や荊州駐屯軍など合わせても30万を超えたかは疑問。向こうは「号して百万」みたいに、威圧なんかの目的で実数の数倍くらいは平気でふかすが、それでも十万超えは確かだろう。 -- 名無しさん (2016-10-04 10:21:15)
- 三国無双のせいか前半のターニングポイントっていうイメージが自分の中でできてしまった。後半のターニングポイントは樊城…どっちも中国の真ん中ら辺の戦いのような気がした -- 名無しさん (2016-10-04 10:44:18)
- 確かに表立って楯突いたのはこの戦いに際してだけど、孫家は歴然とした独立勢力としての力を持ってたんだから武力にせよ外交による臣従にせよ一度はっきりとした形で屈服させないと天下統一とは言えないだろう。時期がもう少し前後する可能性はあったが、お互いどのみち避けられなかった戦いだと思う -- 名無しさん (2017-04-05 16:03:35)
- ちょっと修正したよ -- 名無しさん (2017-11-28 13:29:58)
- 「世界史における」って大げさやろ。三国志、せめて中国史にしときなさいよ -- 名無しさん (2017-11-28 14:02:59)
- これ「筆者の考え」がモロに書かれてるけど、こういうのってアニヲタwikiで許されてたっけ -- 名無しさん (2017-11-28 16:59:34)
- 三國無双では龐統先生や諸葛亮先生の小細工(前者は曹操軍の船を固定、後者は言わずもがな、東南の風)も勝利に貢献していたけど…… -- 名無しさん (2018-05-15 19:18:50)
- 最近妖怪ウォッチのゲームCM見て今更ながらに気づいたんだが敵から矢を得る計略って火矢を撃たれたら破綻するよな。演技はやっぱり戦争素人が書いたファンタジーだったんだな -- 名無しさん (2018-07-01 18:59:32)
- 河北省じゃなくて湖北省だろ? -- 名無しさん (2018-07-01 19:01:15)
- 孔明 -- 名無しさん (2019-06-22 02:25:33)
- どこぞの漫画といい、ここといい、さらに言えば演義すら周瑜のしゅの字すらない武帝紀において赤壁で主体的に戦ったとされる劉備の動きを軽視してるんだよね… -- 名無しさん (2019-06-22 02:29:45)
- 勝手な妄想だけどここでの大敗がなかったなら曹操1代での中華統一はギリギリ間に合ったんじゃないかなと思う -- 名無しさん (2021-09-12 09:07:16)
- これが曹操の若い頃だったら仮にあんな大敗をやらかしても何とか天下統一には間に合ったかもしれないな。中年になってからの戦いだったから天下統一の前に自分の寿命が来ちゃったって感じ -- 名無しさん (2022-12-18 18:07:39)
- 正直戦があったかすら怪しいけど、曹操の南征を頓挫させる軍事的大失敗自体は多分確実にあったぽいのがややこしいところ -- 名無しさん (2023-01-12 19:18:15)
- 官渡と夷陵の時はそれぞれ敗れた袁紹と劉備が2人とも敗戦のショックで病死しちゃったけど赤壁では曹操はこれだけの大敗を喫したのに生き延びた事から彼の「天下統一するまでは決して死なぬぞ」といった凄まじい執念を感じる -- 名無しさん (2023-01-14 11:08:43)
- もし赤壁の戦いをモチーフとした作品が大ブームを引き起こして「今、赤壁が熱い!」とか紹介されたら「曹操軍兄貴成仏してクレメンス」とかネタにされるんだろうか……。 -- 名無しさん (2023-01-22 17:45:09)
- ↑↑コメでも触れられているけど、長江を挟んで曹操軍が攻めあぐねているうちに疫病が流行りだしたので撤退(その間火攻めも含めた孫権軍による嫌がらせ程度の攻撃はあった模様)…という流れが定説みたい。 -- 名無しさん (2025-01-29 11:47:40)
- 関中+漢中+蜀の秦と荊州+呉の北半分の楚の総兵力が100万で、戦国時代で言えば燕+斉+三晋+関中の曹魏の総兵力が80万(しかも戦国時代より人口増)ってことは、三国志の時代は兵力の誇張が相当減ってるってことか -- 名無しさん (2025-06-03 18:51:13)
- 赤壁で負けてるせいで司馬懿一族に乗っ取られて滅びてるし曹操は過大評価 -- 名無しさん (2025-09-15 14:10:09)
- 赤壁で敗れても曹操軍の主要な武将はほとんど戦死していない(官渡や夷陵の敗戦とは大きな違い)し、曹操領土への逆侵攻もない。新規獲得の荊州は三分されたが、曹操の視線からすると「この南征で荊州北部は得た」ぐらいに落ち着いている。そうして見ると、赤壁の敗戦は曹操の政権や魏という国にとっては別に致命傷でもなんでもなくて、むしろ魏の国力では荊州より先の南征ができないと悟ったんじゃなかろうか。西の涼州も韓遂・馬超を倒したはいいが実効支配は難航したらしいし、仮に赤壁で周瑜・劉備を撃破できても、曹操は建業まで行かずに軍を撤退させた気がする。 -- 名無しさん (2025-09-15 14:25:02)
- 「誰かが封鎖していた筈の北道から李通の救援軍が包囲網を破ったため」ってのもなんか嫌味な表現よな。普通に「関羽が封鎖していた北道から李通の救援軍が包囲網を破ったため」で良かろうに -- 名無しさん (2025-09-15 18:05:03)
- 蜀書諸葛亮伝には「諸葛亮は孫権を説いて開戦を決意させた。劉備達と力を合わせ曹操を防いだ。戦後零陵・桂陽・長沙の三郡を監督して内政した」と書かれてるから詳細がわからないだけで活動はわかってるし、同盟締結の外交官、開戦決意させた(周瑜と魯粛の功績があるにせよ)のは十分な活躍だろうに。 -- 名無しさん (2025-09-15 18:47:06)
最終更新:2025年10月21日 11:22